思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳100-76

100


 菊沢佳恵宅には、その筋の人が見たら垂涎モノの物品の数々が眠っている。
 その中の一つに玄関の靴箱の上にある、小さな、部屋の模型のようなものがある。
 それは一見婦人の寝室に見える。下一面に赤い絨毯が敷き詰められていて、右端にはベッド、左端には衣装棚、そして真ん中には化粧台がある。
 その化粧台は鏡付きなのだが、妙なのはそれだった。
 造った時からそうなのか、歳月を経てそうなったのか、鏡は曇り硝子のように覗き込んだところではっきりと映りはしない。標本のようにプラスチックケースで覆われているために、恐らく人が触ってどうこう、という可能性は排除してよいだろう。
 しかし、その鏡は見る角度によって、まるで鋭いナイフのように光を見せる。
 菊沢宅にある小さな世界の小さな鏡は、知る人のうちでは魂喰いの鏡と呼ばれているものの破片が使われている。
 そしてそれにはほんの小さな一部分にも関わらず、恐らくそれには百人単位の怨念が詰まっている。
 常人はそれを見える範囲に置く事すらおぞましがる。そんな代物を平然と日常のインテリアとして玄関に置く菊沢佳恵に、或る人は「モノに対する敬虔な気持ちを持たぬ無神経な奴だ」と云い、或る人は「さすがは菊沢先生だ」と云う。
 菊沢佳恵。彼女に対する評価は賛否両論あれど、怪傑である。


99

「駄目だな、兄ちゃん。魔法っつーのはそんなにリキんじゃいけねぇ」
 薄暗闇の中、ソファーに足を組んで踏ん反り返った少女が声を投げる。
「まぁ見てみろ。あたしがこんな姿勢でも、魔法は出せる」
 そう云った瞬間、不意に少女の周りが明るくなる。指先に小さな、しかし強い光が灯っていた。
「おいおい、そんな悔しそうな顔しなさんなや。あたしが云いたいのは、無駄にリキんだって出ないってことだよ」
 暫し、沈黙。
「うーん・・・。そうだな、じゃあちょっと其処に座ってみ。楽に。脱力して・・・。で、やってみ?」
 少女は指を縦に振って明かりを消した。再び薄暗闇が訪れる。
 が、
「おぉっ!出来たじゃねぇか!な?兄ちゃんわかったか?」
 少女と別のところを支点として再び明かりが灯った。
「じゃー今日は此処までにしとこうぜ。・・・ん?駄目駄目。体力はあっても精神は削られるからな。また明日やろう」
 少女は部屋を後にする。もう一人分の足音が後に続く。
 再び、暗闇。
 再び、静寂。


98

 その屋敷の主は、まだ幼い。十に届くか届かないかといったところであろう。
 世話役のメイドがおよそ二十人近く居て、何一つ不自由はない生活を送っている。
 ように見える。
 だが、その主はある意味ではとても孤独だった。
 自分で何一つ出来ない窮屈、屋敷から自由に出れない閉塞、心通じる者が居らぬ孤独。
 擦れ違う。
 廊下でメイドと擦れ違っても、何の温かみも感じられぬ。送られる笑顔ですらも義務的に生み出された冷たさしか持たない。
 ただ、孤独。
 不自由なく裕福であることが、必ずしも幸せとは云えぬという事をこの主は若くして知っていた。


97

 日曜の早朝。
 三橋塔子は物音に目覚めた。
「んー・・・?」
 台所の方であった。まだ眠っていたかったが、女の独り暮らしの身、不審を放って置くわけにもいかないと思い、眠い眼を擦って台所へ向かった。
 台所へ続くドアを開ける。
 閉じる。
「・・・えっと・・・?」
 なんか不審人物が見えた気がした。
 再びドアを開ける。
 一人の少年か少女か判らぬが、短髪で、膝ほどまであるコートを着、裸足の不審者が、まだ薄暗い台所内で陰湿に光る、何の感情も篭っていない赤い宝珠のような目で塔子を見ていた。
「・・・・・・・・・」
 塔子に見つかっているにもかかわらず、慌てる様子はない。
「・・・誰?」
 塔子は「どんな状況か」をはっきりと認識せずに、声をかけた。
 その性別が曖昧な外見の人物は、無言で握っていた一万円札を二枚差し出した。
「・・・何?くれるの?」
 その人物は頷き、冷蔵庫を指差した。
「何か欲しいの・・・?」
 再び、頷く。
「はぁ・・・。まぁ、いいけど・・・。二万円あるならコンビニ行けばいいのに・・・」
 塔子は未だにその異常事態を認識せやぬ頭で、そのまま冷蔵庫から昨日かった肉や果物などを差し出してみた。
 その不審者は素早く塔子から奪い取ると、肉を生のまま齧り始めた。


96

「ひゃあっ!?ちょっ、止めて下さいっ!」
 道寺は居候である雁梨に、飛び蹴りを放った。
 この雁梨という二十を少しすぎた女性は、ちょっと特殊な体であり、衝撃に弱い。
 蹴るとどうなるか。
「あはははははっ!雁梨のねーちゃん首もげたー!!」
 こうなる。
 飛んでゆきそうになった頭を雁梨は両手でわたわたと覚束ない手つきで取ろうとする。頭は頭で、そうやって揺さぶられるのが辛いのか、半泣きである。
「なんでこんなことするん・・・ぅぁ・・・?」
 頭を回しすぎたのか、ぐらりと大きく傾ぎ、そのまま倒れた。
「おあ、大丈夫か?」
 道寺はさすがにやりすぎたと思ったか、顔を上から覗き込んで云う。
「ふえ・・・」
 雁梨は完全に目を回していた。頭が混乱した所為で、体のほうへの指示も絶たれた結果らしい。
「雁梨のねーちゃんは虚弱体質だなあ。継ぎ接ぎだらけだし・・・」
 道寺が慣れた手つきで、雁梨の頭を首にくっ付けながら云う。
「虚弱・・・とはちょっと違うんですけど・・・」
 この状況でいってもあまり効果はなかった。


95

 ソーペチカは白い薄絹の大きな衣装を一枚、羽織っているだけであった。本当にそれしか羽織っておらず、衣装が覆わない部分は肌が露出している。下着すらもつけていない。ただ、静かに正座をして両側に大火を灯した祭壇の上に居る。
 その顔からはとっくに生きていた証しである温かみは消え去り、ただ朽ちてゆく準備段階のような白い蝋のような色がある。しかしソーペチカの顔にはまだ感情が見てとれる。全てを赦すかのような慈悲深い・・・全ての罪を一まとめに抱擁するような、人が偶像に求める情けが其処には浮かんでいた。
 その大火の灯る祭壇には大量の花輪が敷き詰められている。ソーペチカの頭にも一輪、膝にも一輪あった。そしてその場所にうっすらと水が満ち、花が湿り気を帯びている。水はその正方形の祭壇の間の四方から出ていた。
 かつて恋人であった、云い様によれば今でも、これからも恋人であるトラツフが暗い顔でその傍に立っている。
 トラツフの格好はその場にあまりにも相応しくないものだった。膝ほどまである茶のダッフルコートに、使い古しの色が濃いジーンズだった。その格好でソーペチカの後ろで立っている。
「ソーペチカ、君は、何故、認めたんだ?いや、そんなことはどうでもいい、何故、逃げなかった?逃げようと思えば逃げれたろう?」
 トラツフはそう云った後暫く何も云わずに黙った。まるで返事を待っているかのようであった。
「君は昔から僕が居ないと何も出来なかった・・・何もだ!それが理由というわけではないのだろう?何故こんな不条理な役目を請け負ったんだ?判らない。何かこの役目に君の意識を引くものがあったとでもいうのかい?」
 トラツフは目を瞑り、上を仰いで、ソーペチカがこの死ななければ務まらない任を受けることを報告したとき、酷く、悲しそうな表情をしていたのを思い出した。
「鍵、鍵とか云っていたな?鍵があったからどうと・・・。そんなもの!そんなものが何故死ななければならない理由になると云うんだ!伝承に対する信仰か?神への信仰か?今更!今更そんなものは信じない、信じないぞ!」
 そう云っている間に、水は徐々に祭壇の間に広がり、トラツフの足首のあたりまで満たされている。トラツフは意に介した様子もなく、二歩三歩進んでソーペチカのすぐ傍までくると懐から拳銃を取り出した。
「こんな儀式で水神の怒りが収まるとか、そんなものは迷信だ!水神などいやしない!死の世界で身を差し出して怒りを収めようなんぞ、単なる自分勝手な迷言だ!生き埋めにすれば恐怖から逃げ出すからそんなことを云っているだけなんだ!なぜ君はそんなもの信じたんだ!そんな居る筈のないものを!だが君は現実に詰め腹を切らされるかのごとく死んだ!そんなものは居ない、居ないんだ・・・。・・・僕も一緒に見てやろう!ソーペチカ、君も居ないということが判れば無駄死にだと云う事がわかるだろう!その際君はどうする?適当なでっちあげで、無駄なしきたりの儀式のために殺された事を知ったら?復讐、復讐をするか?怨念となって呪うか?若しそう云うことならば、僕は喜んで君の受けた不条理に対する仕返しを手伝おうじゃないか!さぁ、ソーペチカ、僕も見てやるぞ!君は一人じゃない!決して!」
 大声で誰にも聞こえぬ演説めいた独り言を呟きながら、トラツフは拳銃を右のこめかみにあてた。
 そして、
「君はこの水の檻で何を思うんだ?聖火という相反するものを見て何を思うんだ?生憎僕は奴等の意図が見え透いて仕方がないんだがね!」
 トラツフは引鉄を引いた。


94

「豚面の自警どもなんぞお呼びじゃねぇ!さっさと要求したブツを持って来いつってんだよ!」
 男は、寄宿舎を改装して作った学舎の一室に立てこもっていた。猟銃を持って一人の少女に突きつけ、窓に集まる自警団相手に怒鳴り散らしている。
「おい、お嬢ちゃんからも云ってやってくれや、早くブツを持ってこねェとこの頭が吹っ飛んじまいますってな。ハハハハハ!」
 少女は怯えて碌に返事も出来ない様相であった。
「まずはお互いを知らないとなあ?俺はクラウンだ、お嬢ちゃんの名前はなんつーんだ?え?」
「セ、セウシュカ・・・」
 その人質にとられた少女、セウシュカが恐る恐る名乗ると、クラウンは下種な笑みを浮かべて言葉を続ける。
「じゃあセウシュカ嬢ちゃん。あの豚面の自警どもに云うんだ。早くしてくれないと下の口が掘られて血反吐を吐きますって」
 セウシュカは口をパクパクさせるだけで言葉が出ない。恐ろしさのあまり涙も浮かんでいる。
 外からは、自警団の投降の呼びかけがひっきりなしに続いていたが、不意に、止んだ。
「ん・・・?急に黙りやがっ」
 刹那。クラウンの頭上半分が飛んだ。
 室内に血を撒き散らしながら転がる。
「え?え?」
 セウシュカは飛んで来た血を浴びながら、引きつった顔で現状を把握しようと努めた。
 窓の縁を越えて室内に侵入してきたのは自警ではない。しかし、見覚えがある。
「セ、・・・セイベロン・・・さ、ん?」
 百五十年前に人の手によって生み出され、死んでいったと教科書には記載される狂戦士。
 首をとられ、死んだ勇士の無念を晴らすと云う名目でただ殺すために生み出された狂人が、其処に、教科書通りの姿で居た。元の身体に包帯を巻き、目らしきもの以外の一切がない、ラグビーボールのような頭。その先端部にある二つの小さな丸い円が赤く灯っている。剣で裂かれ、矢で穴をあけられた巨大なマントを翻して、両腕の義手に内蔵された剣を出している。今は左腕からだけだったが、右腕からも似たような細身の剣が出るはずである。その剣の真ん中の辺りに生々しい血が付着していた。
 セイベロンは、剣を収めるとセウシュカに向かって手を差し伸べた。
「え、あ、あの・・・」
 セイベロンはその姿勢で微動だにしない。
 セウシュカが萎縮気味にセイベロンの手に触れると、セイベロンは一気にセウシュカを立たせた。
 そのまま何事もなかったかのように、窓とは反対側に歩いてゆき、教室の扉から出ていった。同時に、外から倍以上のざわめきが沸き起こった。


93

 ギィ、と忍ぶような音を立てて、死角にある扉が開いた。
 其処は地下室である。虜囚の姫君が黙って伏せていた顔を上げた。なぜなら降りてくる足音が番兵のモノではない気がしたからである。百五十六日の牢屋生活は、そのくらいの足音は聞き分けられるようになっていた。
 以前はその髪は流れるような茶色の長髪に凄艶な細目の持ち主であったが、今はその面影は残っていない。髪は短く切られ、色は恐怖に白となり、その目の眼光は増したが、暗く、顔が粗雑な食事の所為でやつれていた。
「誰・・・?」
 姫君は呟くように問う。その声量は決して大きなものとは云えないが、狭く、暗い地下では充分に響き渡った。
 階段を僅かな音で一段一段慎重に降っていた足が止まる。
 そのまま降りるか、引き返すか、迷っているような間。姫君は言葉を続ける。
「わたしは、クトゥアシュルツ王国の人間です。貴方は、番兵ではありませんね?」
 確信を持って云った。姫君の言葉に足を止めたのがその印だった。
 足音は、再び降り始めた。
 暗かったが、ずっとその場所に居た姫君はその男の顔が見えた。
(虎みたい・・・)
 思う。髪は全て後ろに撫で付け、髭が輪郭を覆い、隙の無い目が闇の中を徘徊している。今にも襲い掛かりそうなその雰囲気はまさに虎そのものの気がした。
「貴方は、どなたです」
 姫君は、云った。
 男の目が、真っ直ぐに牢の中に居る人影へと向く。
「卑しい盗人さ」
 男はくすりとも笑わずに答えた。
「どうやって此処へ・・・?」
「秘密だ」
 男は暗闇になれた目で辺りを見渡すと、
「何もねェな」
 帰ろうとした。
「待ってください。私を、助けていただけないでしょうか」
「何・・・?」
 男は再び振り向いた。
「国まででいいのです。どうか、・・・お願いします」
「面倒だな・・・途中でお前さんを売り飛ばすかもしれないぜ?」
 姫君は、ぐっと詰まったように黙った。
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
 沈黙の中に、上でドタドタと忙しげに駆け回る足音が響く。
「・・・ちっ、判ったよ。代償に、無事に送り届けたらお前さんの国の蔵にある宝を一つ二つ貰うぜ」
「どうぞ」
 姫君は即答した。
「ふん、どんな身分の人間かは知らないが、そんな安請け合いしていいのか?自国で首を切られないようにしろよ」
 男は近寄って牢屋の鍵を手にした。腰から山刀に近い形状のナイフを取り出した。そのナイフを勢いよく振り下ろして鍵を事も無げに破壊する。
「どんな身分?私は、王の娘です」
 牢の扉を開けたところで、男は目を丸くした。
「こりゃあ・・・驚いた。詐称罪で捕まってたのか?大したもんだぜ。そもそも、髪の色からして違う。見え透いた嘘は無駄だぞ」
「・・・まぁ、どう解釈していただいても構いません」
 姫君はこれ以上の論議をしている時間は無いと見たか、譲歩した。
「さぁ、歩けるだろう。此処まで来い」
 男が扉のところで声をかける。
「はい・・・あっ・・・」
 姫君は歩き出しかけ、急に止まった。腕を口元に持っていったりしている。
「何だ?」
「その、・・・」
 姫君は躊躇いがちに近づいた。
「?」
 男は怪訝そうな顔をしながら姫君を担いだ。
「きゃっ・・・」
「何かあるなら云え。もう往くぞ」
「いえ、暫く身体を洗ってないので・・・」
「どうでもいい。往くぞ」
 男は姫君の懸念事を一言で斬り捨てると、早足で階段を駆け上がって行った。


92

 その王子の目の前に飛び出してきた男があった。
「クライブシュタイン!俺を覚えているか!」
 手に懐剣を持ち、高らかに云った。
 王子は目を細めて、懐かしそうな表情をした後、顔を引き締めて答える。
「ロールトイ・・・久しいね」
「我が父を逆賊に仕立て上げて三年・・・貴様は悠々と生きてきた。ここで朽ちてもらうぞ!」
 すぐさま衛兵がロールトイを包囲して徐々にその輪を縮めつつあったが、王子が無言のまま手で制した。
「話を・・・話を聞いて欲しい、ロールトイ・・・」
「最早聞く耳持たん!過ぎ去りし六度の夏冬を今更泡に帰そうとは思わぬ」
 ロールトイは手の懐剣を隠そうともせず、堂々と王子を殺すと宣言しておきながら、ゆっくりと歩み寄る。衛兵は王子に制されて迷っている様子であった。
「でも僕は君に会う・・・この歳月を待ちつづけた」
 王子も怯むことなく堂々と歩み寄る。さすがに衛兵が慌てて前に出ようとするが、それも制する。
 手を伸ばせば交差するほどの距離まで来た瞬間、ロールトイは一瞬の逡巡も無く王子を懐剣で刺した。
「ぐぅっ・・・」
「クライブシュタイン様!」
 堪らず僅かにくの字に折れ曲がった王子は、なおも衛兵を制する。
 懐剣は、急所には刺さっていない。
 王子は何も云おうとしなければ、何もしようとしない。ロールトイが何か行動を起こすのを待っているようであった。
「・・・な」
 抵抗すらもしようとしない王子のその様に、ロールトイは戸惑ったようだった。
「君も、本当は、気付いてたんじゃないのかい・・・?」
 少しばかりしんどそうに王子が云う。
「何を・・・」
「君の父上は・・・」
「煩いっ!貴様は最初から最後まで・・・!!」
 ロールトイは勢いよく懐剣を引き抜き、石畳に叩きつけた。と、同時にクライブシュタインも崩れ落ちる。
「っぐ・・・あ・・・」
 王子が崩れ落ちた一瞬後、七本もの槍がロールトイの身体を貫いた。
 ロールトイはそれっきり絶命して崩れ落ちる。慌てて兵長が駆け寄って王子を抱え起こした。
「すいません、逆賊をみすみすと・・・」
 王子が衛兵を制していた所為なのだが、そんなことは言い訳にならない。
 王子は手を振り、
「いいんだ・・・。彼は、別に逆賊なんかじゃないのさ・・・」
「は?いえ、しかし・・・」
「彼は父を三年前、金を横領した者の罪を被らされ、殺されたと思っていた」
「は・・・」
 兵長は王子を医務室へ運ぼうとしたが、ロールトイを見て話し始めたために止むを得ず留まる。
「実際は、金を横領していたのは彼の父自身だった・・・」
「では逆恨みもいい所では・・・」
「全体を見ればそうかもしれない。でも、彼は今まで・・・いや、少なくとも三年前はその事実を知らず、復讐の誓紙を残して消えた・・・」
「・・・・・・」
「僕の中では逆賊ではなく唯一の友達以外の何者でもなかったんだ」
 王子は、悲しそうに目を伏せ、ゆっくりと兵長の肩を借りながら歩き出した。
「兵長、その懐剣はあとで僕のところに持ってきてくれないか。折角の再会なのに形見になってしまったようだ。・・・僕は、あの時、話をしに行っただけだった。それで改心してくれればいいと・・・。でも急に武器を取るから衛兵に・・・」
 王子は、空を仰いだ。空だけは、変わらず蒼さと広大さを保って其処にあった。


91

 少女は、王立図書館の棚の脇にある一人用座椅子に座って、分厚い専門書を広げていた。
 周りを気にする様子はない。事実、その少年が近寄っても反応する気配すら見せなかった。そもそも、誰も自分に用があるなんて欠片ほども考えちゃいないのだろう。
「あの」
 少年が躊躇いがちに声をかけても、少女は依然として目をあげない。
「あの、トローシュカ」
「え?」
 今度は、さすがに反応した。
 何か珍しいものを見るような目つきで少年を見る。
「・・・何か?」
 少年はトローシュカの排他的な口調に、一瞬戸惑う。
「えぇと・・・レリオ?誰かが呼んでいたのかな?」
 トローシュカはレリオの反応を見て、一応云い直した。
 レリオはトローシュカが自分の名前を覚えていたと云うことに喜色を浮かべながら、慌てて否定した。
「いや、そうじゃなくて僕が・・・」
「キミが?別に私は今日日直でもなかったと思うんだけどね」
 トローシュカは考え事をする時の癖で、眼鏡の位置を直した。
「違うんだ、個人的な用事で・・・」
 レリオは傍目に見ても判るくらい汗をダラダラかいていた。
「キミの?うーん・・・判らないな。キミに面倒をかけた記憶はないんだけど・・・って大丈夫かい?凄い汗だよ?」
 レリオは云われて初めて気が付いたかのように袖で額の汗を拭い、
「その、勉強教えてもらえないかな?」
 胸のうちに大きくわだかまっていたものを吐き出すかのように云った。
「・・・・・・・・・私?」
 トローシュカも完全に虚を突かれたような反応だった。学校でも浮いている自分に、そんなことを云いにくる人間が居るとは心から思っていなかったような顔つきである。
「だ、駄目かな・・・?」
「構わないけど・・・」
 トローシュカも相当に動揺したらしく、眼鏡を直して、本を閉じ、また眼鏡を直した。
 ちなみにレリオがトローシュカの読んでいた本の表紙を見ると、飛空挺の動力炉について書かれた、まさに専門書だった。
「じゃ、ちょっと本直してくるから待ってて貰えるかい」
「わかった」
 レリオはトローシュカが本を直しに行くのを、妙に新鮮な気持ちで眺めていた。


90

「汝が如き雑兵が我を愚弄するか・・・」
 それは鬼の二本角を象った額当てを付けた女であった。鬼の二本角が何かを知らなかったのがこの雑兵の運の尽きだった。何かを知らぬ雑兵にしてみれば、単なる酔狂に見えたのだろう。
 それにしても、その女の格好を見て何事かを悟れなかったのは手落ちとしかいうほかない。女は動き重視のためか軽装ながらも甲冑を着けている。甲冑の肩当の所にある鬼断の印を見ればほうぼうの態で逃げる所だったろう。
「おいおい姉ちゃん、別に女が無理に参戦する必要は無いんだぜ?」
 その雑兵はヘラヘラした面で云った。
「蛆にも満たぬ雑魚は大人しく土地を耕しておれ」
 女は冷徹に云い放った。さすがに雑兵の顔色が変わる。
「んだと・・・」
 槍を持つ手を利き手に変え、今にも斬りかかりそうな姿勢をとるが、僅かの間女の身体をじろじろと見回して、
「此処だと死体の後始末が面倒だ・・・そっちの草が深いところに行こうぜ。アンタが怖くなけりゃの話だがな」
 雑兵は余裕の表情で女に背を向けると、山道脇の草むらへと自ら歩いた。女は一瞬呆れ返ったような表情をしたが、困ったような溜息をついて後に続く。
 雑兵は草むら程深き所までくると振り返り、
「よぉーし、この辺でいいだろ。さぁ、こいよ」
 下卑た笑みを浮かべ、槍を下段に構えた。
「心構えすら碌に学ばなんだか・・・」
 女は哀れむような色を一瞬浮かべ、
「破っ!」
 次の瞬間には槍を踏み台に大きく跳躍した。
 女が着地すると同時に、雑兵の首は下卑た笑みを浮かべたまま落下した。
「・・・少し時間を喰ったか」
 女は振り返りもせず歩み去った。


89

 私は弁当を半分ほど平らげると、再び元に戻し、風呂敷で包んだ弁当箱を持って立ち上がった。
「あれ?あかり、何処行くの?」
 一緒に机を囲んでいた涼子が不思議そうな顔で見上げる。
「んーちょっとねー」
「外は雨だよ?」
「知ってるよー」
 涼子の声を背に私は早足で教室を出る。
 そのまま昇降口へ。靴を変え、傘をとり、三限目半ばから降り出した強めの雨の中を小走りで駆け出す。ホントは放課後までは学校から出ちゃいけないんだけど・・・まぁいいか。
 弁当箱を片手に私は通学路を逆走する。いや、帰りにはこれが正規のルートとなるのだから逆走という表現はおかしいのかも。
 私はそんなことを考えながら通学路途中の目的地まであと・・・。
「ひぁっ!?」
 奇妙な悲鳴が口から出た。
 角で人とぶつかりそうになった。
「!」
 更に驚いたのは、その人は学校の制服を着ており、私と同じクラスの男子であり、傘も差さずにずぶ濡れだったことだ。
 一瞬濡れた髪がべったりとなっててお化けかと思ったなんてことは決してない。ないですってば。
「冬季君・・・?」
 私は何か様子が妙だったので恐る恐る声をかけた。すると私と同じく驚いて立ち止まっていた冬季君の方も顔を上げ、
「おぉ、木南か」
 幾らか驚いたように云った。彼にとっても私との邂逅は意外であったらしい。いや、狙ってたのならとても怖いけど。
「何、ずぶ濡れじゃない。どうしたの?」
「ちょっと飯をな・・・」
 そう云って一瞬顔を逸らし、思いついたように、
「傘貸してくんねぇ?」
「お断りします」
 すると冬季君はいひひ、と笑って、「冗談冗談。サボリじゃないならちゃんと五限までに帰ってこいよー」と云いながら駆け足で学校への道を辿っていった。
 とりあえず私も道を急ぐ事にして、再び早足で駆ける。
 袋小路を、曲がった。
「あ・・・」
 その袋小路には二匹の捨て犬が居る。
 私がわざわざ弁当を半分ほど残してきたのはこの犬ちゃん達にあげるためだった・・・んだけども。
 私が見たその光景は、到底予想していたものとは違っていた。
 ぐっしょりとしめった段ボールの上には黒い傘が置かれ、中に居る二匹の犬ちゃんは三つほどある菓子パンと、紙皿に入った牛乳を取り合うようにして食していた。
 誰が・・・と思いかけたところで、たった今思いっきり該当しそうな人物にあっていたことに気付く。でも冬季君は昼飯を食べに行ってたんじゃ・・・?
 否。よくよく思い返せば「飯を・・・」としか云っていない。飯を食べに行ってたなんて一言も云っていない。言葉のマジック。木南あかり、種明かしできました!
 しかし私が後少し早ければ、若しくは冬季君が後少し遅ければ、私の傘に入れてあげてもよかったのに。などと思いながら私なんかでは到底及ばない用意の周到さに感心する。弁当を持ってきたはいいけど、まさか犬ちゃん達が食べ終わるまでずっと待っているわけにもいかない。かといって雨の中で食わせるなんてことは優しい木南さんビジョンから見れば酷な部類に入る。
 だからといって傘を置いて自分が濡れて帰るなんて思考は、選択肢にすらなかった。
 感心しながら、ふと携帯電話を取り出して時刻を見る。
 ・・・やべぇ昼休み後十五分だよっ!!
 私は慌てて踵を返す。帰りにまだ雨が降ってるようなら冬季君を送って行ってもいいかな、というくらいの広い志で慌てて学校へと戻った。


88

 王立図書館司書のグレアムは、その任について数年経つ今でも相変わらず司書と云う言葉が似合わない男であった。
 理由はその容貌にある。禿頭に手で握れるほどの顎鬚、色黒で目つきは鋭いときている。つまり、到底真っ当な仕事についているようには思えない容貌をしていた。しかし案外気さくな性格ゆえに、子供達には懐かれる。
 まだグレアムが任についたばかりの頃の話である。
 閉館のための見回りをしている時であった。棚間の通路に、元はファイリングされていたのであろう紙が散らばっている。
「あーもー誰だよ・・・」
 現場まで行って覗き込むと、居たのははたして子供であった。さらにその子供の周りには足の踏み場もないほどに紙が散っている。子供は棚の前に座り込み、本を膝の上に置いて中途半端に開いた状態で、
「寝ていやがる・・・」
 寝ていた。
 グレアムは、とりあえずその子供を起こすために足元の紙を拾いながら近づいてゆく。
 最初の接触であった。


87

 飛行中の戦艦内に、悲しい、叙情的な細い旋律が何処からとも無く流れていた。
 今僕が居る食堂内を見渡しても皆、辺りをキョロキョロして「どっからだ?」「いや、そもそも誰が・・・」などと会話をしている。
 確かに気になる所だ。僕は今この戦艦内にこれほど細い音が紡げる人が居る事を意外に思う。この戦艦内の人物は職務上知悉しているが、皆そんな繊細さを持っている所は単に想像し難い人ばかりだ。
 僕は食器を戻して、音のする方向を勘で辿ってゆく。
 僕の勘は昔から善く当たったものだが・・・、辿り着いた。およそ六、七人が一部屋の前に大挙して固まっている。おそらくあの部屋だろう。でも、あの部屋は確か・・・。
 僕も大挙する面々に失礼して首を突っ込んだ。三分の一ほどが開いている扉から覗いた室内の光景は、今まで過ごした中でも一二を争う珍しいものであった。
「フルート・・・を副長、が」
 女だてらに、冷血だの機械人形だのの噂をされるほど仕事しか見ていない副長が、傍らにある古びた箱から取り出したのだろうフルートを吹いていた。瞠目せずにはいられないほど、見事な音色で、珍しい光景だった。
 副長は、いつもなら既に気付いているであろう僕らにも気付いていないのか、一心に音を奏で続ける。その目尻には涙が浮かんでいた。


86

 巫女装束に似た戦闘装束を着込んだ幼い少女は石段に座り込み、右手の指先に留まった小鳥と向きあっている。
「アンタさっさと当面の宿くらい探しなさいよ。街中でンな格好してると目立ってしょうがないじゃないの」
 小鳥が少女に向かって喚き散らす。少女は半眼の、ぽけっとした表情でその言葉を聞いている。
「でもォ、お母さん、私お金無いですよー?」
 少女がその表情にぴったりなのんびり口調で云うと、小鳥は怒ったように小さく飛び跳ね、
「だぁーかぁーらぁー!食と住付きのバイト探しなさいって云ってるでしょうが!個人経営の飯屋あたりをあたって見なさいって!」
「はぁー・・・。もう私疲れちゃったんだけどなぁ・・・」
「安眠したかったらさっさと探す!ほら!何時までそんな寝ぼけた面してんのよっ!」
 少女は小鳥の勢いに押されるようにして立ち上がる。
「この顔は生まれつきですよぉ・・・」
 やれやれといった感じで首を振りながら、少女は石段を下り始めた。


85

 壁面を湿り気のある苔が覆う井戸の底へ、強い陽光が注いでくる。
 その井戸の底には一人の黒スーツを着た女が居た。確かに見たそれはスーツ姿だが、袖が無い。まるで何か争いがあった後のように諸所が汚れ、破れている。
 異常なのはその女が、無心に降り注ぐ陽光を見つめているところであった。何時の間にか黒かった瞳が真紅に染まっている。徐々に井戸の底に霧のようなものが立ち込め、その生まれた霧から幾多もの線状になった白と灰の手が何本も伸びて女の周りを渦巻き始める。
 暫し繰り返し繰り返しその手が生まれては消えていったが、稀に紅い手が混じるようになってきた。紅い手が生まれると、女の手も反応するようにその形態を変え始めた。赤黒い色が表面に出始め、編んだ糸が解けるように変異し始める。
 女は、ただ空を、一心に見つづけている。


84

「あのねぇ・・・。キミ、少しは考える気あるかい?」
 トローシュカは呆れたように眼鏡の位置を調整しながら云った。
「は、はい・・・」
 レリオは縮こまって返答する。
 今、その巨大な王立図書館内部には利用者はその二人しかいない。一応閉館時間はすぎている。司書はと云えば、開いた本を顔の上に載せ、ついでに足もデスクの上に乗せ、豪快に眠っていた。
 暗がりの図書館の一隅でランプが灯り、一人の少女が少年に勉強を教えている。少女は足を組み、割と判り易く教えているが、少年の方は基礎すらも理解できていないのかその手に持つ羽ペンは殆んど動かない。
 トローシュカは大きく溜息をつく。
「じゃあいいかい?もう一度云うから、少しは自分で考えるんだよ?」
「判った・・・」
 レリオは不安そうながらも頑張るという意気込みだけは見せて、トローシュカの説明に再び聞き入るのだった。


83

 菊沢先生の記述によると、西蔵(チベット)守護職は未だ細々と続いているらしい。菊沢先生は西蔵守護職が現地人から日本人へと移り変わった事について、幾つかの考察を残しておられた。幾つかの考察があるという以上は、どれも推察にすぎぬのだろう。だが、その中の一つに私が持っている情報と照らし合わせても矛盾のない説がある。
 歴史の古さから見て、遣唐使、亦は遣隋使として渡海した者の誰かがその任についたのではないか、というものだ。しかしこれについては資料が碌に無いために定かではない。しかしチョモランマの社の神器に日本の武具のようなものが見られるという報告からして、菊沢先生の一説、欧米戦争以降のものというものは否定できるだろう。
 以下菊沢先生の記述からの引用であるが、
 現代の(欄外に十七、八代目と記しておられた)西蔵守護職はまだ成人さえしておらぬ学生であり、その実力はまだ熟していないと思われる。しかし毎年三月と十月に行われる現地監査では驚嘆せざるをえない腕前を披露したらしい。
 とのように記しておられたが、私はその「現代の西蔵守護職」すら未確認だ。矢張り菊沢先生は私の数歩先を行っておられた様子。今後の調査指針としては「現代の西蔵守護職」に接触を試みる事とする。


82

 私は、判っていた。この機体に乗り込んだ時点で、その作戦内容を訊いた時点で。
 学校から急行したがために未だ制服のままのこの格好で乗り込んでしまったが、最早そんなことは関係なくなるだろう。何も、関係なくなるだろう。間もなく・・・間もなく、私が遣り残した事、ドラマの最終回を見ることも、友達と遊びに行く予定だった事も、・・・告白しようとしたことも、関係なくなるだろう。
 しかし私は未だ判りきっている結果に関わらず、一抹の希望を捨てきれず、無骨な岩の塊を撃ち落す。
 私が居るのは宇宙だ。無論、生身で居るわけではない。矢鱈長ったらしい英語の正式名称なんて覚えては居ないが、まぁ所謂巨大ロボットだ。私はそれの搭乗者の一人。今回の―おそらく最後になる―任務は隕石の破壊。ただそれだけ。
 その一事を訊くとなんてことはないように思えるかもしれない。現に今も私はその隕石を一つ、二つ、と撃ち落している。銃はエネルギー充填式のために、弾切れと云う概念は無いと思ってもいい。銃本体に内蔵しているエネルギーが切れても、この機体にあるエネルギー貯蔵庫は殆んど無尽蔵だからだ。最新の自動生産式のモノなので、銃身が持つ限り半永久的に撃ち続けることができる。隕石が指折りで数える程度の数なら、まだよかった。それなら全世界にある宇宙空間耐用の機体が総出になることなんか無かった筈なのだ。
 隕石の数は、現在判明しているだけで三百をゆうに越える。その上、七つくらい洒落になっていない大きさのものまでがある。
 現在この作戦に参加している面々は皆判っているのだろう。
 もう戻れない。
 地球は滅びる。
 滅びずとも、恐竜が一度死滅した時のように、ゼロに戻る事には違いない。
 悲しかった。とても悲しかった。
 銃を酷使して次々と隕石を砕いてゆく。地上からはこの光景は見えているのだろうか。どう見えているのだろうか。花火のように見えているのだろうか。そうであって欲しい。最後まで何も知らずに、幸せな顔で。全部知ることが幸せに繋がるわけではないと、私は身を持って知ってしまったから。
 気付いたら私は泣いていた。泣きながら、徐々に撃ち落しきれなくなりつつある隕石を粉砕する。
 この蒼い、美しい星は、全ての文化、人々の想い、何よりも偉大な大地を巻き込んで、今私が破壊する隕石のように、粉砕される。
 だが、私は撃ち続ける。来てみろ隕石。私を殺してみろ。さもなければ私がお前たちを鏖殺してやるぞ。


81

 少女はそのビルの屋上で天高く空を見上げている。
 下界を見渡せば海。見渡す限り、海。ヒトの文化の残滓が僅かに残り、海。
 両極の氷解は予想以上のダメージを齎した。水位が一気に跳ね上がり、幾多ものヒトが海に飲まれた。少女が居る五階建てのビルでさえも、三階から下は海の中である。
 海面から覗くクレーンの先端。点在する高層ビル。死した歴史の中でなおも生き続ける人たちの小船。
「drifter...」
 ぽつねんと少女は呟いた。その声も大海に、若しくは大空に飲まれる。
 今、歴史は漂流している。
 少女と共に。世界と共に。


80

 いつもと、同じ感覚だったのだろう。
 自称宇宙人でミネラと名乗ったあいつは、いくらか俺らの世界に馴染んできたとはいえ、まだまだ判っていない事が多すぎた。それは俺もだが。寧ろ俺側の方が多い。あいつの星のこと、生活習慣、食事に趣味に・・・。
 その日、色々ありまして、俺は最高に不機嫌だった。電柱が視界に入れば殴りかかりたいほどむかついたし、信号無視した車なんて見ると車ごと道路ひっくり返したろか、と思うくらい心が狭くなっていた。
 そんな中、部屋で悶々とイライラのやり場に困っていたときにミネラはきた。
「遊ぼうぜー」
 ひらりと何処からともなく降りてきて、二階の俺の部屋の窓辺に腰掛けた。相変わらずの白いカッターシャツに黒い半ズボンという不可解な服装だった。いつもなら馬鹿にするくらいの余裕はある俺も、今日はただ不愉快な対象にすぎない。
「・・・今日は駄目だ」
 無意味に。理由無く無意味に荒れ狂うイライラをなんとか抑えて、云った。
 頼む。頼むから今は俺の心境を察してくれ。何も云わずに去ってくれ。今日はいけない。お前は何もしていないのに俺は今、お前を罵倒したい。無茶苦茶にしてやりたい。そんなのは駄目だ。こんな感情など偽物だ。
 ミネラは俺の心中を全く読まずに、不満そうな顔をした。
「えぇー?いいじゃん遊んでくれよー」
 単なる駄々だろう。覚えたての。
 その時の俺はそれすらも冷酷に弾いた。
「煩いな、今日は駄目だ」
 ミネラは窓辺から僅かに浮き上がり、くるくるとその場で横回転をしていたが、
「むぅ・・・。じゃあまたにするから今度はたくさん遊んでもらうぞっ」
 そう云うと俺の返事を待たずして、すっと虚空に掻き消えるようにして、去った。
 再び生まれる完全ではない静寂。
 善かった。今日の所はこれで善かった。謝るのは後でいい。何事も起こらなかっただけ感謝感激雨あられだ。俺はそして何時もするように、頭を抱えていつまでもウジウジと冷め遣らぬ何に対してかは判らぬ怒りを押し殺していた。


79

「あー!こんな所に居・・・た・・・」
 少女は縁の下を上から覗き込んだ。髪の毛が重力に従って逆さになり、服が捲れあがる。
 少女はいい歳ながらかくれんぼなんぞをしていた。親戚の子供が来ているためになし崩しにやる羽目になった。気性もあってか、一旦やり始めるとがむしゃらになったが、休憩をはさんで再開してみると急に見つからなくなった。三十分近く延々探し回っただろう。漸く見つけたところであった。
 少女の努力の末に見つけた親戚の子供は、猫のように縁の下で丸くなってすやすやと寝ていた。食後という所為もあったろう。少女は声を張り上げかけ、徐々に尻すぼみになって、黙った。
 逆さ状態でその子の寝顔を眺めていたが、やがて元に戻ると縁の上に座り、ニヤけた面を隠すように大きく息をついた。


78

 少女の母親が壁に手を翳すと、其処を支点として氷塊が生成された。
「この子は、渡せないわ」
 母親は無表情の中に鉄の意志を秘めて、云った。
 対面にいる男は鼻で笑う。
「ほう、命を張って守ろうというのか。浅ましくも一端の親気取りか?立派なものだ」
 生成された氷塊が男と母親との間に壁を造ると、母親は震えてしがみつく少女の頭を撫でた。
「さあ、逃げなさい。・・・今のうちに」
「お母さんは・・・?」
「後で・・・すぐ行くわ」
 少女は潤んできた目をしっかと母親に向け、力強く頷いた。
「わかった。お母さん、絶対に・・・」
 母親が頷き返すと同時に、少女は全力で逃げ出した。
「・・・無事だったら、行くからね・・・」
 母親がぽそりと呟く。
 次の瞬間、男の持っていた剣で氷塊が両断された。
 男は母親にしがみついていた少女が逃げたのを知ると、
「ふん、無駄なことながらも・・・一応の敬意は表するとしよう」
 最初からそうする気だったかのように、剣を肩から水平に構えた。
「本気でゆくぞ」
 刹那、男のいる場所に無骨な氷の円錐が生まれる。しかしその直前に男は地を蹴って、一直線に母親の元へと突進していた。


77

 夕日にフェンスが反射して映えている。
「茫洋としすぎている・・・気がしないかい?」
 少女はフェンスに腰掛けながら、ちょうど少女に背を向けるようにフェンスに身を預ける少年に云う。
「何が?」
「色々、さ・・・。ぼくはこの薄紅い夕空を見ていると自分を見失いそうになるよ」
「・・・ふん?」
「詰まるところ、・・・怖いのさ」
「・・・・・・」
「何もできやしない。この一生で・・・。そんな人間が何人も居る。ただ無為に日々を過ごし埋没してゆく。それがぼくには何とも虚しいものに思えるんだ。・・・いっそ死んでしまいたいよ」
「別に何かする必要もないだろ?」
「じゃあ何で生きているのかな?ぼくらは」
「そんなことは俺じゃなくて哲学者に訊けよ・・・。いいじゃないか。問題は、楽しいか、楽しくないかだ」
「・・・時々君の楽観主義とも云えるそれが羨ましくなるよ」
「だろ?大いに見習えよ」
 少女は笑った。少年も笑った。
 秋の唄が旋律を描いて、空に消えていった。


76

 ずっと独りぼっちだった魔物は、何年経っても矢張りヒトなる存在が好きであった。いくら嫌われ、裏切られ、嫌悪され、追われようとたった一片の温かみによってそれは溶解してゆくようであった。
 魔物はドール廃棄場へと来ていた。造られたものの何らかの欠陥を持って打ち捨てられた等身大人形の素体から、不必要になった素体まで様々な物がある。現在はアンドロイドなどの普及によって、まだ充分に耐久性のある素体も数多く捨てられていた。
 魔物は、その中から一月あまりを費やして、素体の部品を厳選して集めた。
 幸いにも素体は基本的に中身はがらんどうのため、魔物は上手くその中に入り込むことが出来た。胴体の中に魔物自身が入り込み、内側から手足をつけ、顔をつけた。顔は素体の中に埋没するようにして、大きめのリボンをつけた金髪のフランス人形のような顔があったのでそれを使用した。胴体も女のものだったのでちょうどよかったのである。
 擬似的な人間の身体を得た魔物は、上手く地上に下り立ち、数時間かけてその身体に馴染むため奇怪な動きをしていた。やがて一挙一動が様になるようになると、魔物は捨てられた素体の着ていた服を脱がして着、いよいよ人里へと降りることにした。