思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳125-101 「いま君は何か思っている。その思いついたところから書き出すとよい」 byヘンリー・ミラー

125


「兄さん」
 加古が家の中を歩いている。途中途中通る部屋を覗いて、兄が居ないのを確認して周っている。
「兄さん?・・・出掛けたのかしら」
 云って、一階通路を途中まで来て、靴を確認しようと引き返しかける。
 ガラリ。と風呂場がある所のドアが急に開いた。
 加古が探してた当の兄が居た。真っ裸だった。
「きゃあぁぁぁぁ!!」
 物凄い勢いでドアが閉まる。後には僅かに後ずさって口をパクパクさせている加古が残る。
「ひ、悲鳴をあげたいのは私の方よ・・・」
 悲鳴をあげたのは兄だった。


124

 青年は割とこのバイトが好きだった。それ以外の時間は窮屈だった。そのことを考えると顔つきも暗いものになる。しかし青年のやっているバイトは、遊園地のマスコットの着ぐるみに身を埋めて風船を配るものだからどんな表情であろうと腑抜けたような顔の犬の顔が全てを覆い隠してくれる。ただ蒸し暑いのは難であるが。
 青年は思う。
 じゃれ付いてくる子供らは皆楽しげである。風船をあげれば嬉しそうに笑う。一緒に写真をとれば幸せそうな顔をする。なんだか、そう云う顔を見ていると自分も幸せな人間であるかのように思える。だから、このバイトをしているときはできる限りの人を楽しくさせてあげたいと思う。嬉しくさせてあげたいと思う。幸せにさせてあげたいと思う。
 やがて手持ちの風船もみなあげて、手ぶらになって一度風船を取りに帰ろうと思い、時折小さな子供らと写真に写りながら歩いていたところ、二人組みの中高生くらいの少女が走り寄ってきた。
「おい、見ろよ、すっげぇ気が抜けた顔の犬だ!」
 短髪の少女が僅かな距離を置いて云う。
「まだ写真とるの・・・?」
 付き添いのような、長髪で眼鏡を掛けた質素な感じの少女が疲れたように云う。
「いいじゃんよー。あたし好きなんだよこういうの。な、一緒に写真とろうぜ?」
 短髪の少女が云ったので、青年は頷く。
 するとその少女は他の子供らと同じように、寧ろそれ以上に、堪らなく嬉しそうな顔で笑った。
 なんとなく、着ぐるみの中で青年も微笑んだ。
 ただ、みんな幸せであればいいと思う。
 それが一番幸せだと思う。


123

 荒く息をついている。
 一家屋の風呂場でシャワーを出しっぱなしにして、湯気立ち込める風呂場で、黒の長髪黒目の少女は荒く息をついている。
 ちょうどシャワーの対面にある鏡に映った少女の背のやや左よりのところから、血が流れていた。
 位置的にも風呂場で怪我するのは先ずないであろう位置である。普通の怪我にしてもその出血量はただごとではない。理由はよくよくその少女の背を注視してみれば判る。やや右より、血が流れていない部分から何か生えている。
 翼だった。
 しかしそれは本物とは思えないほど、光のような薄さで、注視せねば判らない。少女はその翼を自らもいでいる様だった。
 既にもがれたのであろう左翼は幾ら注視した所で、その風呂場には見当たらない。
 少女はただ、荒く息をつきながら空を自由に駆ける為の翼を自ら失っている。


122

 家の縁際の座敷に布団を敷いている。医者に見せる金もなく、碌な物を食わせる事のできる金もない。今は何処もそんな感じだ。俺らの意志とは関係なく始まった大東亜戦争は、胃を締め上げるような物不足をもたらした。
「ねぇお兄ちゃん・・・」
 寝ていたと思っていた由香里が、急に声をかけてきた。俺は驚いて顔を上げる。
「由香里、お前元気に・・・」
 否、なっていない。相変わらず握る手が異様な熱を持っている。
「空、綺麗だね・・・」
 由香里は虚ろな目を外に向けながら云った。
 俺も目を向けてみれば事実、今日は綺麗だった。ただ夕焼けが広がる空。雲も少なく、米軍の戦闘機も見えない空。
「あぁ、綺麗だ」
 何か食わせることができればと思う。しかし家にあるのは他所から盗んできた渋柿くらいなもので、碌なものじゃない。実際飢えた犬だって吐き出すくらいの不味さだったのだから。
「お前、具合いいのか」
「うん・・・。今はちょっとだけ」
「そうか・・・」
 無理に笑う由香里が怖い。見るのが怖い。以前の面影は消え失せ、痩せ細って骸骨に皮の張り付いたようにまでなってしまった由香里を見るのが怖い。そして何よりも、そんなになってまでも俺を第一に考える由香里が怖い。
 何故何もねだらないのか。何故弱音を吐かないのか。何故俺のことばかり心配するのか。何故・・・。
「ねぇお兄ちゃん、もし・・・もし、戦争が無かったら、私は助かったのかなぁ・・・?」
「・・・当たり前だろ。戦争はもうすぐ終わるさ。大丈夫、もう少ししたら助かるさ。それまで耐えろよ、由香里」
「うん、そうだね。私頑張っちゃうよ」
 そう云って拳を握ったその手は、震え、白く、儚かった。


121

 一面見渡す限り空である。校舎の屋上だった。フェンスも無く、座るにちょうど善い程度の段差があるくらいで、楽に向こう側へ行けた。限りなくゼロ距離に近い死への扉。今それは開かれている。普段なら厳重に閉ざされている筈の、校内と屋上とを繋ぐ堅固な扉は異様な力がかかって、無残にもひしゃげていた。
 其処に二人の少年が居る。一人は学校の制服を着ている宮本和志、一人は通気性の良さそうな黒ズボンにパーカーと云うランニングでもしてそうな格好の少年だった。
「では、僕は君の為に連祷をしよう。さぁ自殺するがいい。君のその魂を僕が貰い受ける」
 戸惑う様子の和志を前に、爽やかな表情の少年は改めて口を開いて、地の底から響くような声で告げ始めた。
「憤怒、憎悪、束縛、苦痛、激昂、盲目、退屈、抑圧、隷属、嫌忌、狂乱、緊張、恐怖、獰猛、狂気、悪意、悲嘆、圧力、重責、辛辣、嫌悪、激憤、敵意、遺恨、粗野、怨恨、怨毒、痛恨、狼狽、畏怖、暴力、死・・・」
「何、何を・・・」
 和志は澱んだような空気の変質が恐ろしくなったのか、一歩下がりながら云う。
「汝の意味を指す。汝の成すべきこと。汝が敵を選び、汝が憎しみに克て。愛は法。意志の下は愛。汝が意志に従うがよい」
 少年の中身までもが変化しているように見える。薄っすらと開かれた目からは赤黒い眼光が覗き、相変わらず一言一句心髄まで響くような、空気が震撼する声で続ける。
「意、意志・・・?」
「すなわち。殺害、深傷、火傷、破壊、裂傷、抹殺、虐殺、瘢痕、溺死、絞殺、窒息、殺戮、絞首、埋葬、拷問、終局、耳聾、火膨、汚辱、剥脱、嫌悪、毒殺、腐敗、堕落、犠牲、根絶、略奪、焼痍、圧殺、忘却、害意、串刺」
「止めろ!頭が割れ・・・」
 和志は頭を抱えた。連祷が脳にしみわたる。残虐な光景が浮かび上がる。世界が辿った陰惨な歴史のみを見せられている感覚。絶望などの言葉は生ぬるい、暗闇の中に暗闇を見る、光など見たら目が潰れるような深く不快な闇の底。憤激し、嘆き、血が沸き立つ感覚。自身が陰惨な歴史に塗り替えられてゆく。
 和志は無意識に、この目の前の少年から逃げようと後ろに下がり始める。後ろに。傍にある、唯一この状況から逃げる事のできる解放された扉の開けた後ろに。
「残酷、誤謬、無心、平易、邪悪、暴虐、変態、陰険、強制、愚劣、皮相、沈黙、臆病、羨望、陰鬱、淫乱、腐敗、安直、軽率、病的、復讐、野蛮、殴殺、下卑、不快、無用、嫉妬、無言、浅薄、低級、模倣、粗悪・・・」
 少年は云い終えると目を開いた。赤黒い光は消え、元の目に戻っている。
 和志は居ない。何歩か進んで、縁から見下ろす。
 花壇間のコンクリートの部分に血溜まりがあって、その中心に肉塊があった。


120

「わたしと仕事と、どっちが大事なのっ!?」
「仕事かなー」


119

 延々と列を成さずに散見できる十字架、墓石。空は暗雲立ち込め、その雲間を縫って深夜の空に発光放つ月が燦然と輝く。
 連日のように各所に出没する墓暴きが来ていた。黒衣に身を包んで死神さながらの様相である。墓暴きは職業柄の勘で目ぼしい墓を見つけ、掘り返し、棺桶を開いて死体と共にある物品を取り出し、よくよく確認だにせずに携帯してきた大布に放り込んでゆく。
 そうして幾つかの墓を回っていたときであった。
 一瞬月明かりが途絶え、再び射す。
 あまりに瞬間的なことだったので、墓暴きは怪訝に思い顔を上げた。
 其処には全身襤褸切れを身に纏い、細い巨大鎌を片手に持ち、もう片手は胸の前で輝きを放つ奇妙な砂時計を持っている人物が居た。
 墓暴きは同業かと思い、何か声をかけようとして、気付いた。頭部まで覆う襤褸切れの奥にあるは生者の顔ではないことに。その人物の持つ砂時計の輝きは月と全く同じ燦然たるものであることに。
 その人物は滑るように近づいてくると、物も云わず墓暴きの首に鎌を振り下ろした。


118

 不思議な、夢を見た。
 其処は一面の海で、繰り返し繰り返し緩やかに細波があったのを覚えている。曇りだったのか水面に反射する陽光は無く、海はとても落ち着いた様相になっていた。
 僕は唯その海を見つめていたように思う。すると視界の左端から舞台に人が入るかの如く、一人の女の子が現れた。肩まで髪を伸ばし、黒のカーディガンを羽織った極普通の女の子だ。
 女の子は何故か裸足で、海面をまるで家の中を移動するような自然な足取りで進んでゆく。
 僕はその不意に現れた登場人物に暫し目を取られていて気付かなかったが、海面には女の子の足どりがくっきりと、雪原を歩いた後のように残っていた。いくら波が立っても消える事無く、海の上に何か別の層がある様に思えるほどだった。
 女の子は僕の視界内にある海面をひとしきり歩くと、こちらを向いた。まるで付け忘れたかのように、あるべきものが、目、鼻、口が、全て無かった。
 だがその女の子は僕の方をじっと見て、笑ったように思えた。


117

 それは芸術の域であったが、場所が場所であったが故に「巧い落書き」程度の評価しか下されなかった。もし、それが紙の上で描かれたものならば、少しは名を知られる存在ともなったであろう。
 その落書きは場所を選ばず、神出鬼没で何処にでもあった。個室に入り、壁四面に中央に白馬の駆ける壮大な自然風景が描かれていたり、時に一面に妖艶な女性の裸が描かれていたりした。その技術の巧みさは他の拙く、愚にもつかない落書きを寄せ付けない。それまでは必ず見られた、いい加減な自己満足の領域を出ない絵や、其の場所ではちっとも似合わない哲学的な格言、嫌がらせか宣伝か、卑猥な言葉と共に書かれた電話番号。今ではあったとしても、利用者がその一個の美を極めた芸術の他にある落書きに憤激して、その絵以外のものを完全に消した。
 恐ろしいほどの芸術。悪魔的な誘惑。神がかり的な緻密さ。
 時に雑ながらも見るものを圧倒するものであり、時に緻密さ所以に見とれるものだった。ほんのちっぽけな薄汚いキャンバスに描かれた芸術。
 今、公衆トイレが震撼する。


116

 前田風紀委員と云えば、当時の悪ガキだった在校生は今でもその名を訊いただけで鳥肌が立つと云う。
 事実、自らの正義理念に基づいて行動する人物だったようで、人望があった。同時に、恐れられてもいた。ほっそりした体格で、髪はオールバックで後ろを二股の三つ編みにしていて、黒縁眼鏡を掛けていたという。外見的には極普通の、寧ろ地味なくらいの女の子だったらしい。
 真面目そう、と云うのが大半の理由で風紀委員に選出され(其処には悪ガキらの「あいつなら別に怖くない」という意思もあったらしいが)、それ以来風紀委員の義務である竹刀を持つことになった。いまだ其の学校で伝承のように語り継がれる竹刀である。鍔元に黒い、馬の尾のような房がついていた。
 その地味な一女学生だったはずの前田は、風紀委員の称号と竹刀を持つと同時に大化けした。といっても、日常は相変わらず寡黙であったし、格好だって微塵も変化していない。女生徒委員が目印の腕章代わりに穿く黒ストッキングは除くが。
 過去の体育の成績を見ても、さほど突出していたわけではない。だが、戦闘技能に始まる格闘云々については、専門分野で全国大会出場経験のある教師でも敗北を喫したほどと云うから、わざと抑えていたのではないかと思えるくらいである。兎に角、学生離れした身体能力は風紀委員の称号と共に開放された。校舎の裏で生徒が煙草でも吸っていようものなら、入院は免れない。
 一度、悪ガキらが徒党を組んで前田風紀委員を陥しいれようとしたことがあったらしい。一見追い詰め、成功したかに思えたが、徒党を組んだものが皆出揃うと同時に攻勢に移った。
 それはもう恐ろしいものであったらしい。竹刀、腕、脚がしなり、残像を残し、悪ガキらが一撃で沈む様は今でも夢に見る者さえあると云う。
 ちゃんといいところもあったようで、勉学の教えを請う者があれば判るまで教えて、帰るのはすっかり夜になってしまい、しっかりその者を家まで送り届けたりもしていたようだ。
 古い、話である。


115

 俺は研究室で一区切りついたところで、今日は終いにしてさっさと帰る準備を始めた。時刻はもうみんな普通ならとっくに帰っている時間になっており、案の定俺は一人熱中していたようで、他は誰も居ない。
 鍵を閉めて教授の机の上に置いて、そのまま校舎を出る。キャンパス内のあちこちにすっかり冬準備に入って葉が散りきった木が見られる。
 そのまま木から木へと視線を移してゆくと、一本のまだ葉が残る木の下に研究室の後輩が居た。一応は女だが、今はコートを着てるからあまり関係ないものの、普段の服装も割合地味で露出が少なく、顔も元々中性的な顔立ちのくせにショートカットになんぞしているから、ますます一見した所で判別し辛い。今は研究室に居る時と同じように下半円の赤いフレームの眼鏡を掛け、茶色いコートに朽葉色のマフラーを巻いている。
「おーい釧樹!何してんだ?」
 俺は鞄を持って近づいてゆくと、釧樹は顔を上げた。広げた右手に一枚落葉が乗っていた。
「先輩、お帰りですか?」
「一区切りついたからな・・・。お前は?誰か待ってんのか?」
「いえ、そういうわけではないんですけど・・・」
「ふーん・・・?ぼぅっとしてるのもいいが日が暮れるぞ」
 そこで初めて気がついたように、釧樹は空を見上げた。
「そうですね・・・。じゃあ私も帰ります」
「じゃあ途中まで一緒に帰るか」
「ええ。御一緒します。しかし・・・」
 釧樹は再び空を見上げる。今度は俺も見上げた。夕焼けのコントラストが一面に広がっている空を。
「ん?」
「もう、冬ですね」
 カサ、と音がしたので視線を落としてみると、釧樹が掌にあった枯葉を握った音だった。
「冬だな・・・」
 俺は云いながら再び視線を上げかけ、ちょうど木から離れた落葉を見つけて目で追う。それはひらひらと音もなく舞い降りて、釧樹の髪に引っかかって止まった。


114

 消失。


113

 其の神社の巫女は一応成人しようかという歳である。
 だが、そうは見えない。
 身長が百四十台ということで納得できるだろうか。巫女という以上は勿論初詣にはしっかと仕事をするが、毎年毎年「可愛い」と云われる。正直、身長が大きなコンプレックスな身としては其の評価は受け難い。更に難は、仕事の都合上あははと笑って適当に受け流さなければいけないのである。
 生来の性格は、相当口が悪く、短気である。この時期には寧ろ普段の彼女を知る者の方がビクビクするという有様だ。
 今年も、仕事に出ている。
 不幸にも成長期はとうに終えてしまったのか、相変わらず十年くらい前に作った巫女装束がぴったりである。まだ日も明けない内に、自分の身長ほどもある竹箒を持って境内に出る。「あたしは寒さには弱い!」と公言するだけあってマフラーを巻いている。しかしそれでも辛いらしく、頬は寒さに薄紅に染まっている。
 年明けとだけあって、何時もなら誰も姿を見せぬ境内にちらほらと人影が見てとれる。少し早めに初詣に出てきた人のようだ。
「かーっ!寒い、寒いなー。稼ぎ時とはいえこんな寒いのにわざわざ来る連中の気が知れんわ。あたしだったら何が何でも炬燵から出ぇへんのに・・・」
 案の定その巫女も例年どおり竹箒を投げやりに掃きながらぶつくさと呟いている。
「ちっくしょぉ、あのカップル幸せそうな顔しやって・・・。そのダッフルコート賽銭箱に投げ込んでいけってんだ馬鹿やろ・・・ヘェクシ!」
 「うー」と云いながら鼻を擦っている巫女を見て、「かわえー巫女さん居んで、ほら」などの声が方々から聞こえたりして、当の本人は誰彼構わずに怒鳴り散らしたい気分であった。
「やっ」
 横合いから声がかかる。ちっさい巫女が睨みつけるようにして声の主を見ると、同じ学部の同級生が居た。
「あぁなんや井上かいな・・・」
「寒そうやねぇ」
 その井上と云う巫女の同級生は分厚いコートにマフラー、手袋完備と寧ろ暑そうな出で立ちであった。
「あほぅ、巫女かて人間やねんぞ?なんでこんな宵っぱりから薄着で外に居なあかんねん!身も心も寒いっちゅーねん。それに比べてお前はコートにマフラーに手袋に・・・」
「いやぁほら僕は参拝客やし」
「うっさいわあほ!ちっくしょう皆が皆ちびこいちびこい云いおるしやな・・・。そないめんこい云われたって嬉しゅうないんじゃ!ん・・・?あ!あのカップルこっち見て鼻で笑ったで!?天誅じゃ!身包み剥いで階段から突き落とし・・・うわ、なんややめい、放せ井上!」
 本当に駆け出しそうになった巫女を井上は慌てて抑える。
「まって仕事仕事!んなことしたら誰も来てくれんくなるって!」
「喧しぃわ!あんなカップルもご・・・」
 声量も徐々にあがっていったので、井上が分厚い手袋で口元を覆う。
「まぁまぁ・・・。似合ってるよ。うん、すっごく似合うなあ」
 そう云って、巫女が井上の方に怒りを向けかけた瞬間、井上がコートのポケットからカイロを取り出して、巫女の背中に落とした。
「うひゃあ!?何すん・・・あぁ・・・あったか・・・」
 蕩けそうなくらいほんわかした表情になる巫女。
「まぁほら、それあげるから頑張って」
「んむ・・・ま、まぁそういうことなら許したらんでもないかな・・・」
 井上が苦笑しながら往こうとした瞬間、
「あぁちょぉ待ちぃ」
 呼び止めた。
「ん?何?」
「明けましておめでとうやでー!」
「あぁ・・・おめでとう。今年も宜しゅうなー」
 井上は口元から白い息を吐きながら、はにかんだように笑っていった。
「そっかー・・・カイロって手があったんかぁー。あったか・・・」
 巫女は背中から出したカイロを頬に当てて、嬉しそうにしていた。


112

 流れる風は何処までも冷たい。
 諸国の名産物などを積んだ行商馬車が街道を進む。御者は一見まだ若い。二十歳前後の少年であった。紺のマントを着込み、シルクハットらしき帽子を被ってはいるが、ざんばらな茶髪は下から溢れている。
 暫し馬蹄の音と車輪の音のみが聴こえていた。
 やがて何処からともなく、少なくとも少年のものではない「んーーー!」という伸びをしているような声が聴こえ、少年の被るシルクハットの上が持ち上げられるようにして開いた。
「おっ。もうすぐ新しい街に着きそうじゃん。今度のは・・・ほほぅ、中々大きそうですな?」
 持ち上げられた部分の僅かな隙間から、一匹の妖精が顔を覗かせた。
「着くまで寝てれば良かったのに・・・」
 少年が眉を顰めて呟く。
 すぐさまその妖精は反応した。
「おやおや?随分なお言葉ですね?何、独りで感傷に浸ってたいから黙ってろとか云うの?ん?云っちゃう?」
 妖精は楽しげに見を乗り出して、シルクハットの縁を少年の指ほどの拳で叩いた。
「いや、お前が出てくると厄介な事になるからさ・・・。大きな街だから特にそういうのは困るんだよ。ほら、まだ寝てていいよ」
 少年は白手袋をつけた手で、僅かにずれた帽子を直した。
「ははーん?ま、そういうことならあたしは自由行動させてもらっちゃおうかな。そういうことならいいでしょ?宿だけ訊いとくわ」
「まぁ・・・いいけど行動には責任持ってくれよ。僕に文句云われても困るからね。宿はまだ取ってないけど・・・山月亭っていうところか、川獺亭っていうところになると思うよ。そんなに離れてないから適当に探してくれ」
「了解了解。そんじゃまた夜にねー」
 妖精は快活な返事をするとシルクハットから踊り出て薄光を纏いながら、小さな羽を羽ばたかせて馬車の数倍の速度で飛んで行った。
 少年は溜息を一つつくと、手綱を握りなおした。


111

 袋小路の石畳に、血が広がってゆく。
 その中心に男が仰向けに倒れている。まだ若い。腕捲りをした粗野な作業服に、絵具のついたエプロンをつけた格好であった。絵描きのようである。
 その倒れている絵描きの頭の脇に、一見性別がよくわからない人物が居た。黒いパーカーを着て、夜も深いのにサングラスをかけてしゃがみ込んでいる。
 そして。よくよく見ると両足の間に挟むようにしてダランと下げた手に、小さな掌サイズの拳銃が見える。その意味を裏付けるかのように倒れている絵描きの額に風穴が開き、血が湧き出ている。
 しゃがみ込んだ人物は真っ直ぐに死んだ絵描きの顔を見下ろしていた。
 ただ、無言。
 その人物はまるで自分のしたことに、自分のしたことによって生まれた結末を、死んだ絵描きの顔を覗く事によって吟味しているかの如くであった。
 血がブーツの周りに広がるのも眼中にないようで、じっと絵描きを見下ろしている。
 こんなことを云われた所で、仮にこの場に居合わせた人が居たとしても信じはしないだろう。寧ろ一般的な解釈としては自分で殺した獲物を見て悦に入っている、とかの解釈の方が殺人者に貼るレッテルとしてはしっくりくる。だがその人物は、ありとあらゆる葛藤を持って、その場に留まっていた。
 殺し屋として、此処まで自分が殺した人物に拘泥するのも稀だろう。腕が悪ければ単なる「未熟」の一言で殺されている所である。殺す瞬間は冷徹でなんの躊躇もないのに、殺した瞬間から堰き止めていた感情が流れてくるようであった。時にはその場で泣き出す事すらある。
 心中では何度謝罪をしているか知れない。一見冷徹で、心身ともに完全なる殺し屋であるかのようで居て、その実心の方はそれだけで生きてきて、それしか知らぬが故に生傷を増やしていくような生き方しか知らないのである。


110

 四本足で蜘蛛のように動く耐寒自動巡回機は、果たして人間の感情があろうものなら困ったように立ち往生していた。正面にあるちっぽけなサーチアイが点滅を繰り返し、三方にある排熱ファンが白い息を吐いている。
 灰色の機体が薄っすらと吹雪で凍りついている。遭難者(生きている確率は極めて低いとはいえ)など命在るものを助けるよう造られているが為に、数十メートルにわたってペンギンの群に足元でうろうろされると、その性質上動く事は不可能となってしまうのであった。
 吹雪で少し先の視界も利かぬ雪原で、無感情の機械は困ったように立ち往生している。感情ある動物は機械などお構い無しに群れている。
 とある雪原の一角で起こった出来事であった。


109

 とある大衆食堂の木扉が開いた。
「母さん、店の傍で行き倒れが居たんだけど・・・」
 雪梨という大衆食堂の女将の子供が、一人の巫女装束のような服を着込んだ少女を背負って店に入る。
 厨房の奥から顔も出さずに女将が答える。
「どうせ酔っ払いか何かでしょうが!ウチじゃなくて警察に持っていきな!」
「いや、でも女の子だよ?」
「はぁ?」
 女将が顔を覗かせた。雪梨の背に居る少女を見て目を丸くする。
「なんか・・・変な格好してる娘だねぇ・・・。まぁ女の子なら仕方ないね・・・。二階にでも連れて行きなさい」
「はぁーい」
 雪梨が扉を閉めようとしめかけると、一匹の小鳥が飛び込んできた。
「あ・・・」
 雪梨が反応する間もなく、一番奥のテーブルまで飛んでいって、テーブルの上に留まる。
 雪梨は小鳥と扉を交互に見て、そのまま扉を閉めずに二階へあがっていった。小鳥も外には出ずにその後をついていったが、雪梨は気付かなかった。


108

 僕は、空を飛んだ。自らの羽で、飛んだ。
 しかし、夢であった。
 皆に話しても嘲笑と失笑しか得られなかった。当然である。人間に羽なんて生えていないのだから。
 でも、僕は空を飛んだ。風を切って、飛んだのだ。

 僕は、学校のグランドの真ん中にいた。何故か僕を中心として巨大な円形に土にヒビが入り、僅かに陥没している。そして、気付いたらその時には羽があった。
 ふっ・・・と力を抜いてジャンプする。しかし僕の身体は地上から数十センチ離れたのではなく、数十メートルは離れていた。学校の校舎が見下ろせた。
 なんだかとても気持ちがよかった。力を抜いて、完全に脱力して風に身を任せているような感覚になっている。其処でふと時計を見ると、既に授業時間 に入っていた。僕は「あぁ、授業に出なきゃ」と思い、滞空状態から殆んど無意識に校舎の方へと方向転換をして、触ったらふわふわの感触であろう純白の羽をゆっくりとおおきく動かして、飛んだ。
 一度羽ばたいて、あとはその行為によって生まれる風の流れに自ら乗る。早すぎず、遅すぎない滑るような空中滑降は心地よい風の中を泳いでいるようであった。僕はこのまま教室に入るのが勿体無い気がして、校舎の上で何度か旋回した後、何故か見られるのは良くないような気がして、慎重に中庭へ降り立った。

 そうして、教室へ向かって歩き始めた所で夢は覚めている。
 戯言にすぎないが、僕はひょっとしたら、ひょっとしたら羽が生えるのではないかと、正夢になりはしないだろうか、と期待を抱いているのだ。


107

 山腹の木に、長袖の黒シャツに黒いハーフパンツと云う出で立ちの少女が腰掛けている。雲に覆われた朝焼けの灰空に、陰気そうな顔と、大半が露出している白い脚が映えている。
 少女は、空を仰ぎ、二股に分かれた腰まで伸びる白黒入り混じる髪を大きく揺らしながら陰気に唄っていた。
「わったしっは鬼の子、わったしっは鬼の子・・・」
 その黄色がかった瞳は真っ直ぐに雲を見つめている。唄う声に抑揚の類は一切なく、ただ覚えたフレーズをぼんやり繰り返しているようである。
「わったしっ・・・」
 ふと、辞めた。人の気配を感じ取った。
 草が生い茂る中を掻き分けて一人の少女が出てきた。不安そうに、四方を見渡し、上を見る。視界に陰気そうな顔の少女が目に入ると、安堵したような表情になった。
 陰気そう、とは云うがその少女とて陽気そうなわけではない。ふわふわのウェーブがかかった髪の下にある、眼鏡をかけた小さな顔は人の機嫌伺でもするかのように弱弱しく笑っている。途中で付いたのであろう小枝や草が白の長袖ジャージに付着している。
「・・・何?」
 木の上から少女は云う。まるで愛想というものがなかったが、眼鏡の少女も気にする様子はなく用件を告げる。
「お、お弁当作ったんだけど、どうかな?」
「・・・・・・貰う・・・」
 少女は答えると、五メートルくらいはあろう高さの木の枝からひょいと飛び降りた。
 眼鏡の少女は嬉しそうに弁当の包みを取り出した。


106

 其の白髪の少年は、隻眼できっと見据えた。
 まるで常なる人がするように照れ隠しにと頭に手を当てているが、その傷シミ一つない小麦色の肌に整う小さな口は弧を描くかのごとく笑ってはいない。ただ幾重にも巻かれた包帯の束縛にかかってはいない右目が、真っ直ぐに見据えている。
 まるで彫像のように、真っ直ぐ、真っ直ぐ見据えている。


105

 誰にも歌えない、優しい歌を歌おう。
 君のために、君にしか聴こえない、優しい歌を歌おう。

 報われなかった尊公へ、追悼の意を込めて歌おう。
 辛酸を舐めた尊公へ、日の標となるべく歌おう。

 優しい歌を歌おう。
 誰よりも優しく、誰よりも温かい歌を歌おう。
 一人一人の背を押せる、強く、優しい歌を。


104

 結界で覆われた部屋の真ん中にある、天蓋つきのベッドに一人の幼女が眠っていた。ひらひらの白いドレスを着せられている。耳は先が尖り、額に花柄のような文様が刻まれ、背からは薄い虹色の羽が四枚生えている。
「こいつが・・・インセクターの?」
 部屋に入ってきた二人のスーツ姿の男が、驚いたような表情で話し込んでいる。
「ええ。珍しいでしょう。羽根も天然モノですよ」
「この薄緑の髪もか?」
「ええ」
 幼女は二人の闖入者にも気付いていないのか、相変わらず小さな寝息を立てて眠っている。
「幾らだ?」
「6500ゼインです」
「6500・・・」
「希少種ですからね」
「足元みやがるな・・・。まぁいい。それで手を打とう」
「そりゃどうも。では早速手続きを・・・」
 二人の闖入者は再び部屋を後にした。幼女は相変わらず眠りつづけている。


103

「ねぇ・・・やめようよ、ムルトー。君、病気なんだよ?」
 ポンチョにも似た焦げ茶色の大布を着て、腰のところで赤帯で縛り、下は青い作業服にも似たズボンを穿いて、裸足で土の地面に立っている少年と少女。
 ムルトーと呼ばれた方の少女は、病気といわれたが、表情からその様子は伺えない。ただ、肩まで伸びた髪を揺らして、鋭い目つきをして少年を見ている。
「ごちゃごちゃ云わずに来なさい、アシュト」
 アシュトと呼ばれた少年は、ムルトーとは対照的に構えることもせずに狼狽の色を露にしている。
「で、でも・・・」
「来ないならこちらから!」
 云うと同時にムルトーの跳躍。その勢いで上段の回し蹴り。
「ちょっ・・・、わ、判ったよ・・・!」
 アシュトは慌てて頭を下げて蹴りをやり過ごすと、決意したように地を蹴って先ほどまでムルトーが居た場所に出る。同時に再び地を蹴って下から突き上げるように、顎に向かって拳。
 ムルトーはそれを左の掌底で軌道を逸らし、右の掌底で額を狙う。
 アシュトはムルトーの鉄板をも打ち抜きそうな掌底を受けて、堪らず引っくり返る。すかさずムルトーの指がアシュトの目を突こうとして寸前まで迫り、停止する。
 ムルトーはアシュトから離れ、溜息をついて背を向ける。
「もっと・・・せめて私には勝てるくらいには・・・なって欲しいんだけどね・・・」
「無茶だよ・・・何で急に・・・」
 アシュトは悔しさと安堵がない交ぜになったような息を一つつく。
「・・・・・・・・・」
 無言でムルトーは歩み去った。
 そしてアシュトから見えない辺りまで歩いたところで、ムルトーは口に手を当てて、苦しそうな咳を何度かした。
「私も長くないからね・・・」
 ポツリと呟く。手には血が広がっていた。


102

 空間が、歪んだような気がした。砂埃が煙幕のように地を這い、今立っているはずの地面が揺らぐ感覚。
「なん、だ・・・これは・・・!?」
 ビルが、草が、家が、電柱が、壁が、急激な成長をしたかのように巨大なものになる。いや、もしかしたら僕自身が小さくなったのかもしれない。
 その様を、犬が見ていた。陰気な目で、その場をうろうろとして、少し距離を置いて僕を見ている。涎を垂らし、目は虚ろで、狂ったかのような様相であった。
 成長が止まった。
 巨人の世界に来たのか、と思えるほどの錯覚。電柱でさえも天を突く高さに見える。
 犬が動く。
 ゆっくりと、一歩一歩覚束なくも確たる足どりで僕の方へ歩む。
「ちっくしょ・・・!」
 僕は慌てて隠れられそうな所を探した。草むら。草の一本が五、六メートルはありそうな繁みへと飛び込む。しかし、こんな事は気休め程度にもならないだろう。僕はそのことを重々承知しているので、兎に角逃げ始めた。
 犬は遊ぶようにゆっくり近づいてくる。
 犬の一歩は僕の十歩分くらいになる。草むらで進むのも自由にならない所為もあって、あっという間に追いつかれた。犬の巨大な鼻面が僕を上からぬっと覗き込んだ。しまりのない口から垂れる涎がほんの数歩横に落ちる。薄気味悪い溶液のようだった。
 犬が大口を開けた瞬間、
「!?」
 再び、空間の揺らぎ。強風が吹いて草が大きく揺れる。巨大な草が揺れる様は、まるで台風でも起こっているかのようだった。僕のところには草のお陰で直接は吹き付けてこないが、矢張り砂嵐も起こっているようで、犬が砂嵐を避けようと余所見をした。
 その間に今まで巨大化していたものが縮んで、全てが、元通りになってゆく。僕はふと砂埃の発生源の方へ、袖で目元を覆いながら一瞬だけ視線を投げると、其処には見知った人物が居た。自らを王と名乗り、山を粉砕させた妖術を使った奇怪な少女だった。以前見舞えた時も着込んでいた、大きな紺の外套が砂埃と一緒に宙にはためいていた。外套の下には何処かの学校のものであろう制服が見える。
 やがて砂埃も、空間の揺れも静まる。僕はその場にへたり込んでいた。ふと気付いて辺りを見渡すと、犬は何時の間にか消えていた。
「君は・・・」
 僕が云い掛けた所で少女が立ち上がる。
「数日振りだ」
 以前会った時と変わらぬ、素っ気無い口調で云う。
「こ、これは君がやったのか!?」
「まさか。無関係・・・とも云い切れないが、私ではない」
「じゃあ一体何が起こって・・・」
「それはおいおい説明しよう。さぁ、来て貰うぞ。それともあの狗に喰われたいか」
 選択の余地はないようだった。少女は無表情で僕に向かって手を出す。
「くそっ・・・何がどうなってるんだ・・・!」
 僕は、半ば自棄になって少女の手を取った。消えかけの灯火のような温かさしかない。何だか、酷く、儚い気がした。


101

「やぁお嬢ちゃん」
 夜。街灯もない、完全なる闇の帳が下りた夜。
 行き倒れてるかのように、殆んど視界の聞かない道の端に、一人の少女が倒れていた。それを何処からともなく歩いてきた、夏も近いというのに黒いコートを黒帽子を被った薄気味悪い男が見下ろしていた。目元まで下ろした帽子の奥にある暗闇に混じって二筋の碧色の眼光が覗いている。
 少女は、男に呼ばれてゆるゆると視線だけを向けた。首を動かすのも苦である様だった。
「前はもっと北で会った気がするが、偶然だね」
 男は少女が返事を返さないのも大して気にした様子もなく、一人云う。
「私が確約したわけでもないのに同じ人間と会うなんて全く珍しい事だ。これも極東の小さな島国所以かな」
 男は少女を肩に担ぎ上げた。
「仕事以外の面倒事はご免被りたいから無視したいところだが、生憎仕事も先日終えてしまったところだ。金も入ったことだし、家出娘に飯くらいは恵んでやるとしよう」
 少女は気力もほとんどないのか、何か云おうとした所で「あぁ」とか「うぅ」だのの呻き声しか出てこない。
 まるで人攫いにしか見えないようなその男は、まるで散歩するような足取りで平然と歩み去った。