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思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳150-126 「いま君は何か思っている。その思いついたところから書き出すとよい」 byヘンリー・ミラー

150


「わあ・・・」
 私はその目に映る光景に思わず感嘆の声を上げた。荒野の真ん中にぽつんとある円形のそれはネオンなどでエメラルド色が強く輝き、まるでオアシスか幻想郷のようだった。
 と、云うのも単なる夜景ではあるのだが、その美しさは半端ではない。まだ此処からは遠き荒野の真ん中に聳え立つ王都グランドシェール。
 かつての大陸全土を巻き込んだ騒乱で枯渇した大河の跡に出来た巨大都市。当初は無論危険の声も多かったが、それから百五十年経った今では大陸を代表する都市の一つとなっている。
 私とダラネスはまだ大河跡に水が流れていた頃、川辺であった部分に立っている。信じられないかもしれないが、ほんっとうに広いのである。此処からは下り坂の上、障害物が何もないのでかつての向こう岸も見えるが、歩きで行けばゆうに一週間は潰れること確実だ。此処からグランドシェールまででも、数日は掛かるだろう。
「此処は私の始まりの地だった」
 唐突に、ダラネスは云った。
「え・・・?でも確か生まれは・・・」
「いや、そうではない。ある意味での・・・旅の始まり。そして旅の終わり」
「えぇ?どういうことよぅ・・・全然わかんないわよ」
 するとダラネスは首から、私も見たことのない紋章がついたネックレスを外した。
「それは・・・」
 私は思わず息を飲んだ。そのネックレスはダラネスに会ってから今日まで一度も私に触らせてくれなかったものなのだ。
「受け取れ」
「いや、でも・・・」
 私は、それがダラネスにとってどのようなものかは知らないが、半端でなく大切なものであるということは判る。
「次はお前がこれを導く番だ」
「あのねぇ、さっきから何を・・・」
「云ったろう。私の旅は終わったのだ。そして私の旅の後任にお前を選んだ」
「後任だかなんだか知らないけど、一緒に旅をしているのに後任も何も・・・」
 そう云いつつも、そのネックレスには前々から大いに興味があった私は其れを受け取った。
 するとダラネスは口の端だけで僅かに笑い、
「お別れだ」
 崩れ去った。
「ダっ・・・!?」
 嘘でも誇張でもない。文字通り、積み上げた砂の山に風が吹き付けてきたときのように、サァっと跡形もなく崩れ去った。カラン、とダラネスの剣が地に落ちる。
「ちょっ・・・何!?嘘でしょ!?こんな、こんな・・・」
 ダラネスの剣を拾い、居ないと判っていても辺りをキョロキョロと見渡す。砂をかき集めようとも思ったが、既に掻き集める事が出来るほど残っていなかった。何が起こったのか、さっぱりワケが判らなかった。
「こんな・・・ことならこんなネックレス、要らないわよ・・・」
 私は涙が滲んで来た目で、ダラネスに渡されたネックレスを睨みつける。
「ダラネスー・・・」
 グランドシェールの夜景を前にした荒野に向けて私は呟くように云う。
 答えはない。


149

「好きであることと、嫌いじゃないことは同意義ではない。その僅かな軋みの断裂から広がる感傷が、私がキミを振る理由」

 彼女は云った。臆面もなく、躊躇いもせず、恐ろしいほど晴れ晴れとしたあの笑顔で云った。
「それが・・・本当に理由なの、かい・・・?」
 僕が自分の傷を広げると判って聞いた質問だったが、
「まぁ幾ばくかの理由付けは否めないけど」
「じゃあほ、本当の理由は・・・」
「答え次第では・・・キミは自分がもっと傷つくのは判って・・・いや、まぁいいけど。まあ本当の理由なんてぶっちゃけたいしたことなくてね。年齢差」
「・・・は?」
 僕は目が点になった。
「年齢差だってば」
 僕は23で、彼女は・・・見たところ20代前半あたりだ。
「まー控え目に見積もっても数百年?」
「な。え・・・?」
「いやぁー昔私の恋人に・・・理系のやつで不老不死とかに凝っててねー」
「不老不死?」
「そ。それで巧く完成させたらしい・・・というか完成させたんだけど、その時「私はキミと永き時を生きるために造った。まだ一人分しか出来てないから君が飲め」ってね。で、その後自分の分を造り終える前に、当然といっちゃあ当然なんだけど、研究仲間と幕府の・・・や、政府のお偉いさんに目を付けられちゃって殺されちゃったのよね」
「な、何でそんな・・・いや、その前に不老不死なんか・・・」
「信じられないって?いちおー私が生きた証拠なんだけどね」
 僕は言葉を接ぐ事が出来なかった。
「そのお陰で今は逆に死ぬ方法を探してるわけよ。別に自殺志願とはまた違うんだけど」
 彼女は其れを変わらぬ笑みで云い放った。


148

 菊沢は目を空けた。
 とある海外の安ホテルの一室であるが、内戦中であるためにその一室は酷く薄汚い。菊沢は少なくとも清潔ではなさそうなシーツの上に、コートを着たまま寝転んでいた。
 目をあけると、逆さに二つ男の顔が見えた。
「おいおい・・・寝起きのレディの部屋に入るのは失礼じゃねェのか」
「お前が菊沢だな?」
 男の一人が早口に英語で云った。
「そうだよ」
 と、菊沢が答えた瞬間に男の片方が手にしていた棍棒が振り下ろされた。
 菊沢は一瞬早くベッドから転がり落ちる。
「ちっ・・・最近はいいことないなくそっ」
 ベッドに振り下ろされた棍棒を掴んで、男の方へと突き出す。
 腹を突かれて思わず男は棍棒を取り落とした。菊沢はその棍棒でもう一人の頭を横から殴りつけ、その男が倒れると棍棒をまだ腹を押さえている男に投げつけた。
 棍棒が男の顔面に命中して引っくり返るのを尻目に、菊沢は纏めてある荷物とその上に置いてある帽子を掴んで窓から逃げ出す。
「まだ此処来て何もたいしたことしてないんだけどな・・・」
 菊沢は通りを見渡して何処かへと駆けて行った。


147

 少年は走っている。少年は自分のすべき事を知り、走っている。
 少年は知っていたはずだった。
 セピアになった記憶が蘇る。
「友達に・・・なってくれる?」
 正確な歳は判らないが、当時十二歳だった自分より一つ二つ下の少女が、数年前に此処に来て、ずっと虐められて、それでも自分に救いの光を見たのだろう。何日も何日も何日も何日も考えて、何度か云おうとしてしかし云えず終いに終わり、その日やっと云えた言葉だったはずだった。
 少年は判っていたのかどうか。少女にとってその言葉を発したという事は、少年が最後の砦であり、パンドラの箱の奥底に残るちっぽけな光だったことを。
 それは決して直接にそう云われる事の気恥ずかしさから、突き放すように「やだよ」と云ってはならなかった。
 すぐ後「あ・・・」と云った少女の表情から、冗談では済まないことを察しなければならなかった。
 少女が少年に見た救いの光はなんてことはない、ほんの些細なことでしかなかった。
 自分の前を歩いていた少女が、道で落としたものを拾ってあげた。その時のことは今でも克明に覚えている。少女はとても驚いたように少年を見て、躊躇いがちに一言「あ、有難う・・・」と云った。
 ほんの何気ない事なのに、凄く嬉しそうだった。少年は自分が少女に対して何をすべきかを瞬間的に理解した。はずだった。
 それなのに。

 少年は走っている。少年にとって神への冒涜よりも重い罪を贖罪するために。


146

 弥吉は硬直した。
「な・・・あ・・・」
 弥吉は、布団に包まり寝ている父に剣を突きつけ、今にも刺そうとしているところだった。
 その少し離れたところで、父と同じように布団で包まって寝る母の枕元に一人の少女が立っていた。
 おそらく、人間ではない。身の丈五十センチ前後ほどで典型的なおかっぱ髪、紅い着物を着て拳銃を弥吉のほうへ向けている。
 ただ、無言。
 長い長い一瞬だった。
「くそっ」
 弥吉は剣を一転、少女の方へ一閃させた。
 少女はひらりと浮かび上がるようにしてかわし、

 バン。


145

「貴方・・・どうしたの!?」
 ツェリカは云った。
 あと数日で取り壊される廃ビルの中に人が居る事さえ驚くべき事だった。
 壁際で蹲る少年はツェリカの方を睨むように・・・否、苦痛に耐えるような目つきで一瞥した。
「きちゃいけない・・・帰るんだ・・・」
「でも君ね・・・」
 ツェリカは少年のただ事ではない調子に前へ踏み出そうとした。
「来るんじゃな・・・」
 少年の声がかき消される。横合いから三メートル近い高さの何かが飛び出してきた。
「何っ!?」
 ツェリカが顔を上げると、それはライオンに似た、でもよく見ると細かい部分が違う巨大な獣だった。
「逃げろっ!!」
 少年がその巨大な獣の頭上を飛び越えてツェリカの前に立ち塞がった。
 少年の片手は異様な形になっている。何故か牛蒡のように痩せ細り、色まで茶に変色し、その節々から毛が生えて小刻みに震えていた。
「あなたその手・・・」
「僕のことはいいから逃げろっ!」
 少年は云いながら、虚空から剣を引きずり出して掴んだ。同時に、少年の体が躍動して震えが一層深まり、体の変質も一気に進んだ。
 それでもなんとかまだ普通の状態に留まっている手で、剣を構えた。
「・・・・・・」
 ツェリカは少年の状態を見た後、一つ軽い溜息をついて甲に奇妙な文様が描かれている手袋を嵌めた。
 そして。静かに獣を見据えた。


144

 少女は池の上に突き出た太い枝の上に腰を下ろし、足で水を蹴っている。ただそうしているだけなのに心なしか楽しそうだ。
 少女は現代の感覚で云えばビキニに近い黒い水着を着ている。それは白髪のような色をした少女の髪とあっていた。
 その少し後ろで、一人の男が密集した木々の間を縫うようにして見回している。男は少女と対照的で、髪の色こそ殆んど同じだが、兜以外の甲冑を着て抜き身の剣を引っさげていた。男の顔には何の感情も浮かんでいないように見える。ただ、時々ひどく優しげな目で少女の方を見つめた。
「あの・・・」
 少女が自分の後ろで棒立ちしている男に声をかけた。
「はっ」
 男は少女の方に向き直り、軽く目礼をする。
「コッシェさんも一緒に休憩なされては如何ですか?」
 少女は優しく男に微笑みかけながら云う。
「・・・いえ、私まで休憩しますと見張りをする者が居りませぬ。姫、私のことはお構いなく」
「そうですか・・・」
 少女は少し寂しそうに再び水面を蹴った。


143

「ごめんね・・・」
 少女は見ていて気の毒になるくらい、申し訳なさそうにしながらその人の首筋を噛んだ。
 突如体中の力が抜け落ちるような感覚に陥る。もし立っていたら崩れ落ちていただろう。
 だがその人が血と共に体力まで奪われている時、噛み付いている少女の宝石のように煌めく緑の瞳は爛と輝き始めた。
 そのまま一分近い時間が経ち、少女が離れる。荒く息をつくその人を見て、少女は泣きそうな顔で再び云った。
「ごめん・・・本当に、ごめん・・・」


142

「それでその物語はどうなったの?」
 少年が訊いた。
 世界。夏の空。遥か遠く広大な海。ちっぽけな自分。ボロボロの絵本。宇宙。地球。繰り返される夕空。去る年月。経る年月。生まれ壊され生まれる文明。在る事実。全てを巻き込み、強制的に進む物語。
 未だそれは進む事を辞さず、一直線に進んでいる。寧ろ周りの方が転変著しい。
 老人は答えない。ただ、代わりにじっと水平線の彼方を見つめている。
 少年も、見た。
 水平線の境に陽光が反射して、とても綺麗だった。ゆるやかな波が水平線を陽炎の如く揺らしているように見える。
 少年は悟ったのだろうか。その物語は、物語と云う範疇において完結しているわけではなく、この壮大な世界を辿る地球の生きた軌跡であることを。
 物語は続いてゆく。ただ強制的に。周りを顧みず。今も。そしてこれからも。


141

「強くなったと思います。・・・ちょっとだけ」
 鎧に身を包んだ少年は、闘技場では場違いな笑みを浮かべて云った。
 少年は片手に円形の盾を持ち、既に抜き身の剣を引っさげている。
「ちょっと?」
 グランド・コッペルも同じく場違いながら苦笑気味に返す。
「もうこのような戻れない所まで来ているのだから・・・ちょっとはないだろう。嘘でもいいから凄く腕が上がったというもんだ」
「駄目ですよ。だってただこうやって対峙しているだけなのに、師匠に勝てる気がしません」
 少年は少し俯いて云った。
「・・・私だって、お前とは殺りあいたくはなかった・・・」
 コッペルが呟くようにして云ったその声は、闘技場の戦闘開始の号砲に無情にも打ち消された。
「いざ!」
 少年が剣を構えなおして、吶喊する。
 しかしてコッペルは、防御と同時に重荷にもなるはずの鎧を着けているにもかかわらず蝶のようにひらりと動いて、自由の為に自分の弟子をまた一人殺すのだった。


140

 以前、ある中年男性が私に向かって話してくれた中で一つ衝撃的な出来事を紹介しよう。
 某国が発端に起こった第三次世界大戦は、ご存知の通り国連に袋だだきにされてさほどの大事にはならずにすんだ。しかし発端の国では云うまでもなく酷い被害が出ていた。その中年男性は当時本土決戦で借り出された学徒兵の一人だったと云う。今から録音した音声を流すのでじっくり聞いて欲しい。

 基地周りの斥候として見回りをしていた私は、学徒兵の九割がそうであったように、戦争に反対であった。そのためああやって軽武装させられ、銃を持たされても平和ボケしている我々は殆んど「戦争をしている」という実感がなかった。当時の学徒兵の写真はお持ちかね?・・・いや、別に持ってきてなくても構わない。見たことは?
 そう、君が見た我々学徒兵の写真には緊迫感の類は見てとれなかったろう?軍服、軍帽に当時流行っていた漫画やアニメのマスコットのピンバッジをつけた兵なぞ、碌なもんであるはずがない。根っからの軍人らに見つかるとこっ酷く殴られたりもしたもんだが、あれは我々の中で単なる低俗な文化の象徴でも異国賛美でもなく、平和の渇望と愚かな戦争への抵抗だった。・・・もっとも、当時本当にそんな意識があったときかれれば・・・答えづらいな。
 話が少し逸れたな。戻そう。えぇと・・・そう、見回りをしていた私は、その基地に空からの襲撃はあれど、歩兵などの陸兵が攻めてきたことはなかったから殆んど散歩の感覚だった。だからあれは吃驚した。普通に銃を持って・・・これは後で気付いたのだが、平和ボケしすぎて銃に弾を込めるのすら忘れていたのだが・・・兎に角銃を持って歩いていると、突如地面が砂埃と共に舞い上がって気付いたら眼前に銃を突きつけられていた。敵はもう我々の喉元まで来ていたんだ。
 あれは本当に殺されると思ったな。何時の間にか応戦用の石塁の内側にまで潜り込まれていたのだから。敵は何も云わなかった。私はとにかく震える手で銃を捨て、両手を上げた。全身震えていたと思う。
 その時敵は一言だけ発した。異国語なのでよく判らなかったが、多分「お前も好きか?」とか云う意味だったんじゃないかと思う。しかしあの時はただ死にたくない一心で「死にたくない、助けてくれ」と繰り返し呟いていた。敵は私の言葉を理解していたかは知らんがね。
 敵は銃を突きつけて短く何事か叫び、頭から軍帽を盗った。代わりに、軍服の胸ポケットに何か突っ込んで、その後に軍帽を頭の上に乗せて、居なくなった。私は丸五分近く怖くて動けなかったが。
 結局、私を助けてくれたのはお偉さん方が莫迦らしい莫迦らしいと云っていた低俗な文化の賜物だったよ。私の胸ポケットに入っていたのは、私が軍帽につけていたのと同じ漫画のキャラクターのピンバッジで、私の軍帽からはつけていたピンバッジが消えていた。たったそれだけのことだが、私は助かった。戦争には大敗を喫したが、私は助かった。
 多分・・・敵は国を越えて自分と同じものを愛する私に・・・情が湧いたのかもしれない。


139

「あなた方は今、お幸せですか?」
 突如、旅行用の大荷物を持って歩いていたカップルの、その前を歩いていた少女が振り返って云った。カップルは二人が二人とも一瞬驚いたようで、その後に少女を薄気味悪そうな目で見た。
「なんだコイツ・・・」
 カップルの男がおぞましいものでも見たように云う。
「ほっとこ。どうせ近くの精神病院から抜け出してきたんでしょ。それより早くしないと飛行機遅れちゃう」
 カップルの女がヒソヒソと、それでも充分回りには聴こえる声量で男に囁く。
 男は軽く頷いて、見ないフリをして少女の横を通り抜けた。少女がそのカップルの背に向かって云う。
「私は、幸せな人間は大嫌いです」
 カップルはその声を不気味に思いつつも、無視した。
「大嫌いです」
 少女は再び、それだけを云った。

 その日、飛行機の墜落事故があった。


138

「なんだこりゃあ・・・」
 海底に沈んだ遺跡引き上げを主な目的とする大型サルベージ船の甲板の上で、太った毛むくじゃらの船長が唖然としている。咥えていた煙草が落ちた。
 甲板に七つあるクレーンの一つが、ミシミシと今にも壊れそうな音を上げている。そのクレーンの先には半壊した建物のようなものが引っかかっていた。上半分なのだろう。半円で、半分以上が苔に覆われている。そしてクレーンが引っ掛けているのはちょうど窓に当たる部分のようだった。クレーンが悲鳴をあげる傍ら、その建物の方もクレーンの引っかかった窓を中心に亀裂が入っている。老化していたのだろう。秒ごとに亀裂が広がってゆく。クレーンは悲鳴をあげながらも慎重に動き、建物を甲板の上に乗せる。船全体が揺れた。
「船長・・・。こりゃあ・・・大物ですぜ」
 甲板を動き回っている水夫の一人が、船長の元へ駆け寄ってきて云った。
「あぁ判ってる。しかしこれは・・・」
「水没した都市・・・」
 船長の後ろから声が掛かる。副長の女性だった。
「水没?何時この地帯が陸だったてぇんだ」
 船長は後ろを振り向こうともせず答えた。
「では、海底都市でしょうか」
 女性は目を細めて愉しげに云う。
「どうかな・・・。・・・おい!誰か潜る準備をしろ!」
 船長は慌しく人が動き回る甲板へ向かって、誰にでもなく声を張り上げた。
「準備できています!」
 何処からともなく船長の声に、誰かの声が答える。
「カメラも持っていけ!」
 船長は更に付け加えると後ろを振り向き、愉しくてしょうがないといった顔つきで云う。
「念願かなったり、かもな」
「ええ・・・いよいよ」
 副長は引き上げられたそれを見ながら答えた。


137

 一人の旅人が居た。
 一度の時行(注:時間移動)の危険度ですら相当なものだと云うのに、彼女はそれを何度もやってのけている。先天的な素質の賜物なのかもしれない。
 何が旅の目的かは判らない。生粋の旅人なのかもしれない。泡沫の世界を覗き歩くそれを主とした。
 時空警察は上層部に予防拘禁制を適用させる事を無理矢理認可させ、事が起こる前にその女性の旅人を捕まえようとしている。それから二年近くが経つが、未だそれは適っていない。時行のプロでさえ存在自体が泡沫のような彼女を追うのは至難の技であった。
 もしかしたら、彼女は自分が追われていることなど知りもしないかもしれない。ただ茫洋とした無限に等しい時間軸を移動している。
 人は彼女を称して云う。「時渡り」と。


136

 珍しく、菊沢先生本人にお会いした。
 何処にでも居て、いざ探すと絶対見つからないような神出鬼没の典型のような方である。それにその筋では有り得ないほど有名なので、世界中何処に行っても必ず知り合いが居るほどだ。
「よぉー!久しぶり。なんだお前ちっと老けたな。数年ぶりだったか?まだ二十代だったろう、その年でそんな老けたら三十には禿げるぞ。そういやこないだの下水生物の研究は終わったのか。お前の論文を此処数ヶ月見ていないのだが」
 菊沢先生は相変わらず、会った瞬間に息をつく間もなく捲くし立てた。
「あ、はいご無沙汰してます。二年ぶりくらいでしたね。二年も経てば人間少しは老けますよ。それより菊沢先生私が学生の頃から変わらなさすぎぅぉっ」
 容赦ないボディブローが入った。菊沢先生は護身にも長けているが故に、攻撃の類は本気で辛い。
「天誅じゃ!永遠の若さを持つとそこは解釈せい。年上の女性に対して外見の話題を出すとは何事だ莫迦者め腑抜けのうんこ垂れめ」
「いや一応褒めているつもり・・・」
 確認したわけではないので定かではないが、菊沢先生は三十路に届くかの所だと思う。なのに外見は未だに大学を歩けば新入生に見間違われるほど若々しい。童顔も一役買っているのかもしれない。その上この性格なので当時から異性同性無関係に人気があった。外面も異様に善い方なので、それも世渡りに一役買っているだろう。間違いなく。
「まぁその話題は続ければ続けるほど心に突き刺さるから止めにしよう。年齢に反して外見が若くありつづけると云うのも中々困るのだよ。それより研究はどうなんだ。論文はどうした」
「あ、はい。研究は終わってそれについての論文も半年ほど前に書いて提出したんですが・・・。どうも忘れられましたかね」
「何、出来てるのにか。誰だ、握りつぶした奴誰だ。あたしはまだ一度足りとも目を通していないのに握りつぶした奴誰だ。いっぺんヤキいれてやるか」
 菊沢先生は云いながら腕を回し始める。
「せ、先生、松川老先生なのでヤキ入れたら・・・」
「ちぇっ松川老か・・・。ヤキ入れたらそのまま帰ってこなくなりそうだな・・・。まぁ後で直に訪ねてみるか」
 菊沢先生は、相手がヤキを入れられない人物である事を残念そうにしながら云った。話のノリとは云え、一度決めた事を曲げるのは容易ではない人なのだ本当に。一度云ったら後には引けぬ、という言葉の典型の人でもある。
「そういや・・・じゃあお前今何の研究してるんだ?」
「今は特に何も・・・面白そうなテーマがないもので」
 私が軽く肩を竦めると、菊沢先生は少し黙った後、笑みを浮かべた。
「あるぜー?面白そうなの。カカトアルキのやつ。あたしは時間的に・・・取り掛かれるのは何十年後になるのかわかりゃしないからな」
「カカトアルキ?何ですかそれ?」
 私が初めて訊く名前だった。しかし菊沢先生は意外そうな顔をして、
「カカトアルキ・・・知らないのか?まぁ二千二年発見の新顔だからお前のようなしょんべんちびりが知らなくても仕方ないな。じゃあ教えてやろう。カカトアルキはだな、カマキリみたいな全長二センチ程の灰色の虫でな、そのネーミングセンスゼロの名前どおり六足の踵のみで歩行する南アフリカに居るお洒落さんだ」
「昆虫ですか・・・。百年ぶりじゃないですか!」
「莫迦め八十八年だ」
 菊沢先生が光速の勢いで突っ込みを入れる。
「すいません、でもそれは面白そうですね」
「だろう?あれだ、敵から逃げる時とかジャンプするんだぜ。窮地に現れるヒーローが高いところから飛び降りるアレを思い出すよなぁー」
 菊沢先生は実際に思い出しているのだろう、虚空を見つめてニヤニヤと笑う。
「よし、じゃああたしは今から松川老に殴り込みするからな。今度はちゃんとやれよ。あたしが論文読めるようにやれよ」
「あ、はい。ではまた」
 菊沢先生は軽い足どりで松川老先生の居る大学方面へと歩き始めた。菊沢先生ならやりかねないが、二つ隣の県まで歩いていく気なのだろうか。


135

「辛くなったら僕のところへ帰ってくるといい」
 青年は、旅支度をした少女に云った。
 少女は無言で頷く。云われなくても、と思っていた。少女は知っている。どうせこの自分より五歳も上の青年は、何があろうと自分を庇う気であろうことを。
「葉書、送るから」
 少女は云った。青年はその言葉に少し考え込み、
「そうだね、折角だから絵葉書でお願いするよ」
「贅沢だなあ・・・。私の文字と込められた土地の空気じゃ満足できない?」
 青年はまぁどっちでもいいやと云うふうに肩を竦めた。
「・・・じゃああれば送ってあげる」
 子供をあやすような口調の少女の答えを訊いて、青年は満面の笑みを浮かべた。
「じゃあもう時間だから」
 少女は青年の傍から一歩離れた。
「いってらっしゃい」
「いってきます」


134

 話によると、小学校が同じだったらしい。僕の父親は小学校を出た後、中学校、高校、大学を出て小さな証券会社に勤めた後、自分で会社を興し大成功して、相当な贅沢をしても容易には尽きない財を稼ぎ出した。そしてその財は日進月歩で規模を拡大しつづけている。
 その一人息子であった僕は、裕福な環境に溺れ、相当我儘な性格に育った。放蕩の度合いも酷くなってきた頃、久しぶりに帰宅して僕の現状を知った父親は、僕を自分の幼馴染の所に預けた。一人で農家をやっている芳重さんと云う人の所だった。それが五ヶ月ほど前の話だ。
 芳重さんは最初、不平たらたらで相変わらずの我儘振りを発揮していた僕には殆んど目もくれなかった。代わりに、飯は恐ろしく質素なものだった。何度逃げようかと思ったか判らない。実践しかけるが、失敗し、道に迷い、泣きかけている所に芳重さんが来た事も数知れずあった。
 それ以来食事が質素なのは何もしない代償だと思い、手伝いを申し出て、一緒に一日農作業に明け暮れた。しかし何日経っても飯の量も質素さも変わらず、さすがに抗議しようと思い始めた。が。しかし其処で初めて気付いたのだ。芳重さんも僕と全く同じ量しか食べていないことに。
 それを知って僕は改めて自分を恥じ、大人しく農作業に従事していたが、不思議と徐々に飯が美味く感じるようになった。家で豪勢な食事を食べている時の何倍も味が判るような気がした。

「飯だ」
 欠けたお椀に盛られた白飯が差し出された。僕は静かに「いただきます」と呟いて口の中に掻き込み、丁寧に噛む。美味い。おかずも何もないのにそれは酷く美味い。
 おかずなどは時たま納豆とか沢庵とか梅干とかがあればいいほうで、何時もは精々数杯のご飯しかない。時々芳重さんは魚を釣ってきて塩焼きにするが、またそれが美味い。
 そしてそんな生活ももう長かった。以前の僕からじゃ考えられなかった食生活、環境にもいい加減慣れていた。以前とは違う証拠に、体が日に焼け、幾分か力もついて頑丈になっている。
「美味いか」
 普段飯中は一切口を聞かない芳重さんが、珍しく僕にそう問い掛けてきた。
「あ、はい。美味しいです」
 以前の僕なら「足りない」だの「味がない」だのと抜かしている所だったろう。その僕の返答を訊いて芳重さんは満足そうに微笑い、
「そうか。じゃあもういいな」
 と云った。
「もういい?」
「お前がどういった理由で俺の家へ預けられたかは知らんが、お前の親父は俺の家の飯を美味いと云うようになるまで預かってくれと云っていた。だから、もういいだろう」
「え・・・」
 どうやら、もう家に帰れるらしい。来たばかりの頃は狂喜せんばかりだったろうその言葉だが、今の僕はまるでそのことを他人事のように訊いていた。
「明日、送る」
「明日・・・ですか」
 心の準備も何も出来ていない。荷物は殆んど無いから準備など三分あれば終わる。しかし五ヶ月間馴染んだ綿がはみ出たぼろい布団や、二月ほど前に買ってもらった僕専用の鍬とかが、何だか哀愁を携えて僕の脳裏をよぎった。
「・・・暇になったら、また来い」
 芳重さんは云った。矢張り五ヶ月も僕と一緒にいて、明日からまた独りだと寂しいのかもしれない。僕は生意気にもそんなことを考えた。しかし実際の所、寂しいのは僕のほうなんだと気付くにはもう少し時間が必要だった。
「体が鈍ったらまた来ますよ」
 僕は笑顔で言葉を返した。それを訊いて芳重さんは、皺は多いものの充分健康的な色黒の顔で微笑うのだった。


133

 俺もあの時だけはさすがに焦った。確かに失言だったが、まさかあんな反応取られるとは微塵も思っていなかった。
 事は俺が年下の瓜二つの従姉妹の双子に向かって云った一言が元だった。
「あー・・・えっと・・・んー?どっちが梨香だ?似すぎててよく判らん」
 すると梨香と玲は、二人同時に妖艶なくらいの薄い笑みを浮かべながら俺の方に迫り、
『色々違う所もあるのよ?』
「サラウンドは辞めろっ」
 さすがに声は違うのでどっちがどっちかは判ったが、外見だけで見れば矢張りわからない。玲のほうは目が悪く、眼鏡を掛けているがそれもたまになので判り難い事この上ない。
「秀司君・・・。違う所、教えてあげようか?」
「梨香だな?いやもぅ判った!判ったから!悪かったよ!」
 梨香は何を考えているのか止まらずに、俺を押し倒して胸の上に乗ってくる。
「知りたくない?違う所」
 梨香はいよいよ近づいて逃避不可能な状態の俺の眼前に迫る。
「いやもぅ判ったから本当勘弁してくれ!悪かったってば!」
 すると梨香は急にごろんと横に転がって起き上がり、少しばかりふくれながら云った。
「冗談なのにそんな嫌がることないじゃないの」
「笑えるものにしろ!」
 梨香は無言で横を指差した。俺が見ると玲が腹を抱えて震えながら笑いを堪えていた。俺はもうぐぅの音もでなかった。


132

 僕がいつも学校の帰り道に見る、屋敷の二階に立つ女の子の首には血の滲んだ包帯が巻かれている。
 日本人とは思えぬくらい雪のように色白で。血よりも濃い真紅の着物を着て。絵に描いたような儚さでいつも窓辺に佇んでいる。
 日本人形のような白さと、目が眩むような着物の紅さと、髪の毛の黒の調和。その完璧ともいえる関係に、包帯が巻かれている。それは女の子の人間らしさなのだろうか。包帯を巻くことによって、女の子の肌が更に際立っている。包帯より白いのだ。実はもう死んでいて、剥製となっているんじゃないかというくらい、蝋のように白い。
 女の子はいつも下を通る度に呆けた顔で自分を見つめる僕をどう思っているのか、僕がいることに気付くと一文字に結ばれた小さな口の端を僅かに持ち上げて微笑う。
 僕は何時もその時、女の子が持つ不思議な魅力に気付くのだ。あの白い肌を一面の血で染めてやりたいと。あの白魚より綺麗な白磁の如き手を切り落として大事に持って帰りたいと。あの女の子からありとあらゆる感情を引きずり出してやりたいと。首にある包帯についた血の痕は折檻の痕なのか、それとも自分でつけたものなのか。僕もあのように女の子の調和を乱してみたいと。


131

 私の家には奇妙な写真が飾ってある。
 お婆ちゃんの家の庭で撮ったものらしい。髪をツインテールにしている十代後半から二十代前半の綺麗な女性の全身写真で、全長が女性の全身と同じくらいある大剣を抱きかかえ、口元でニコリと笑っている。
 そして格好が私にはとても出来そうに無いくらい凄いものだった。まず全身、素肌に焦茶色の網タイツのようなものを着用し、肩からぶら下げた先の方に剣と同じ模様のある白袖に腕を通し、それと繋がっているのかは正面写真では判らないけれど、その袖と同じ材質のビキニのような胸当てをしている。下半身は腰の部分に銀の細い鉄輪を着け、そこから吊り下げられた裾に足を通している。股間の部分には黒い股当てを宛がっていた。
 お婆ちゃんも闘うところを見たわけではないので、その実力の程は知らないらしい。でも私は随分凛とした顔などから、なんとなく強いんじゃないかと思う。希望も少しは入っているけれど。
 あとお婆ちゃんの話だと、友達の家に対になるはずの肖像画があるらしい。この写真に写っている女性が所持していたもので、大事なものだから、と預けたらしい。機会があれば、一度でいいから見てみたいと思う。


130

「何だこりゃ・・・」
 見るからに学校帰りの女子高生のようで、本当に単なる学校帰りの女子高生である佐倉麻貴は、その廃ビルの惨状に少しばかり驚いていた。
 外観は薄汚れた廃ビルだったが、中身は震災後のような有様を呈していた。ビル内部の地面という地面がひび割れ、盛り上がり、地層ズレを起こしている。上の通路に上る為の階段は、手すりが殆んど全部歪んだ状態で落下しているが、それは対した問題ではない。何故なら上の通路も途中から折れ曲がっていたりして歩ける状態ではないからだ。
 そして何本か完全に復旧不可能な状態で転がっている柱に視線を辿っていった所で、麻貴は気付いた。
「バスだ」
 何故かバスの後ろ半分のみが、内壁に衝突した状態で在った。
 麻貴は暫しその位置から動かずにバスを眺めていたが、不気味に思えてきたのか、回れ右をして外に出た。
「・・・ん?え?」
 つい数分前まで自分が見ていた筈の外観は一転し、外までもが震災後のように荒廃した光景と成り代わっていた。


129

 少年王エドガード七世。別名義足王。
 当時で十に届くか否かの年齢であったらしい。宮廷執事によるとその時既に義足であったとある。右足が付け根から失われ、代わりに右足として在るのは王としてはあまりにもみすぼらしい木の義足だった。当時の技術力を考慮しても、もう少し上等なものが作れたはずである。
 しかしこれは近年菊沢佳恵の調査により判明した事実であるが、エドガード七世は当時年齢故かなりの元気が有り余っており、城を抜け出して近所の子供らと遊び回る事も度々あったそうだ。
 その際に工場へ忍び込んだ時、中の機械を誤って動かし、一人の少女が左肩から腕を抉り取られ、エドガード七世は右足を付け根から持っていかれた。
 そして少女の父親が(これについては名前すら残っておらず、職業もわからなかったが、恐らく義肢職人の類ではないだろう。木の加工などの職業だったのではないかと思われる)木造の義足を作って献上し、自決した。その後、王からの沙汰を待たずして片腕を失った少女とその母も家をそのままに消えたらしい。
 その少し後でもっと善い義足が用意されたらしいが、エドガード七世はそれを拒み、みすぼらしい木の義足を付けるに至ったということだ。
 だが資料を解読した菊沢曰く、
「王権強調の為に多少大げさに書いてあるだろうから鵜呑みには出来ないけれど」
 とのコメントを残している。


128

 僕の家には奇妙な肖像画が飾ってある。
 足の先までは描かれていないものの、全身像である。十代後半から二十代前半らしき女性で、金髪を後ろで束ねている。体に密着した肩の露出している黒衣を着て、腰からは全体に十字が見れるスカートを穿いている。
 そして一番目を引くのが左手に持つ盾だった。角張った楕円形のような形で、全体に女性のスカートにあるような十字が象られている。
 別に勇士というわけではないだろう。そもそも女性だし、武器を持っていないし、ほわっとした印象を受ける顔を見る限りでは戦いなどできるとは思えない。
 祖母に訊いた話では、もう一対剣を持ったヒトの写真があるらしい。
 別に、どうということもない家の光景ではあるが、ただなんとなくこの絵を見ているともう一対の写真を横に揃えてあげたいと思うのだ。


127

 気味の悪いくらいに白で統一された廊下を、一人のメイドが歩いていた。
 一見少年の女装にも見えるメイドは色白で、ショートの金髪にカチューシャをつけ、眼鏡を掛けた碧眼、その手に一丁の拳銃を持ち、廊下の壁に密着して歩いている。その碧眼は絶えず周りを警戒していた。
 やがて豪華絢爛な模様の施された白い扉の前に来ると、中の気配を窺う。
 幾つかの物音を確認。
 即座に、目を瞑っても勝手がわかるほど知り尽くした部屋の図を頭に浮かべ、物音の位置、大きさ、音の動きから敵の位置を推測し、続く物音でそれを確信に変える。
 攻撃してはいけない対象と攻撃するべき対象を念頭において数秒のシミュレイト。それから殴りこむタイミングを待ち始める。
 一分・・・二分・・・と呼吸も最小限に抑えて、扉に密着している。
 物音が扉に寄る。するとメイドは直線上に距離を置いた。やがて、何の警戒の意志も無く扉が開いた。
 同時に。扉の方へと駆けたメイドが、跳躍と同時に飛び越えざま、扉を開けた男の頭に向けて目もくれずに銃弾を叩き込む。
「!?くそっ・・・敵かっ!」
 中に居た二人の男が同時に胸元から銃を取り出す。
 一人は銃を取り出した瞬間に、飛来してきた銃弾が右目を貫いて血を散らしながら倒れる。もう一人の男は、銃口を咄嗟に中央のベッドに縛られたまま横たわる少年ではなくメイドに向けた。
 男の撃った銃弾がメイドの左肩に被弾する。が、メイドがその反動で回転しながら撃った銃弾が男の額を貫いた。
 男が後ろに仰け反りながら倒れると同時に、メイドも回転しながら床に落ちた。
「ぐぅっ・・・!」
 メイドが苦痛に満ちた表情で左肩を抑える。それでもなお銃は手放さない。よろめきながら立ち上がるとベッドの所へ行き、少年の拘束を太股の所に隠していたナイフで解いていく。その表情からは苦痛そうな色は消えていたが、無理矢理消しているのがありありとわかり、脂汗が浮かんでいる。
「若様、大丈夫ですか?」
「それより・・・!」
「私は平気です」
 拘束を解くなり少年は何かを云おうとしたが、メイドに遮られる。
「さぁ、早く。恐らく今の戦闘もバレています」
「でもその肩が・・・!」
「大丈夫です。まだ持ちます」
「え?」
 メイドは早く部屋を出ることと、敵への警戒へ意識が集中していたために気付かなかったが、少年は酷く何かを恐れているような表情をしていた。
「ご安心下さい。私が駄目になる前に別の者が来ます」
 少年の顔に、恐れが現実になったような、軽い絶望にも似たものが走る。
「き、君は・・・?」
「今しばらく若様の護衛を」
「その後は?」
「連中の足止めを。この傷なら暫くは持つでしょう。殺られるまえに逃げるに充分な時間を稼げると良いのですが・・・」
 相変わらず痩せ我慢がありありとわかる表情で飄々と告げるメイドを見て、少年の顔に決意の色が浮かぶ。
「駄目だ」
「はい?」
「先のことは僕が決める」
 メイドは困り顔になる。
「しかし・・・」
 少年は、煮えきらぬメイドの負傷した肩を軽く叩いた。
「くっ!?な・・・にを・・・」
「そんな傷でまともな判断ができるはず無いじゃないか。だから、この先は僕が決める」
「・・・・・・」
「いいね?」
「・・・判りました」
 メイドは納得していない表情だったが、部屋を出て移動が先決と考えとりあえず同意したようであった。
 それにまだこの時は、いざというときになれば大人しくなってくれるだろうと思っていた。


126

 以前銭を貸した無愛想な御家人が初老の借上の店に現れた時、その親爺は少し厭そうな顔をした。
「これはこれは・・・」
 親爺はしかし厭そうな顔をしたすぐ後には、頭を下げて愛想笑いをする。だが心の中は理不尽に対する怒りで煮えくり返っており、銭はなんとしても貸すまいと思っていた。
 御家人は親爺の愛想笑いに素っ気無い微笑を返すと、袂から小さな包みを出し、親爺の前に置いた。
「これは・・・?」
 親爺は今度は素で怪訝そうな表情をした。
 その反応を受けて御家人の方も怪訝そうな顔をし、
「いや、借りていた銭であるが・・・」
「・・・・・・」
 親爺は虚を突かれたような表情になった。
 御家人が言葉を続ける。
「何、徳政令のことは知っているが、それほどまでに窮していたわけではござらんのでな」
「ははぁ・・・しかし宜しいので?」
 親爺はまだ信じきっていないように問いながらも、この御家人に対する評価が反転していた。北条貞時が永仁の徳政令を出した以上は、別に銭を返さずとも善いのである。
「まぁ・・・また困ったときには宜しく頼む」
 そう云うと、御家人は少しばかり寒そうにしながら店を出て行った。

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