思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳233-201 欲しがるものは、費やすものの半分の価値も無い。

233

 恋は人を変えるというがぼくの姉ほどそれが顕著な人は居ないんじゃないかと思う。
 普段はどちらかというと内向的で、優しい振る舞いをするいい人なのだが、一度誰かに恋をすればベクトルが全てその人に向くので、他が一切どうでもよくなるらしい。
 中学生の頃姉は苛められていたということを友人の兄に聞いた。
 しかし姉が恋をした瞬間、凄かったららしい。
 普段は大人しくいじめっ子の仕打ちに耐えていた姉が、その日を境に完全に変わり、前日までと同じように姉を苛めようとしたいじめっ子は、姉にぶん殴られ、蹴られた挙句に思い出すのもおぞましいほどの罵声を浴びせかけられたという。
 俄かには信じ難かった。その二日後くらいに何がどうなったのかは知らないがどうもこっぴどい振られ方をしたらしく、ぼくが見慣れた内向的で優しい姉に戻った。だがいじめっ子はすっかりビビって姉に手を出さなくなったらしい。
 その極端さのせいか、姉が高校に進学してからも三度ばかり恋をして、失恋したのを見てきた。三回とも、一週間と持たない恋だった。どうも積極性に突出した姉は忍耐がなくなるらしい。人が変わったような姉が一週間ほどで元に戻るのはほっとするような、残念なような気がした。
 一度だけ、高校で二度目の失恋をしていつもの姉に戻った後、姉はぼくの部屋でぐすぐすと泣きながら愚痴をこぼした。毎回のように「君にはついていけないよ」という旨のことを言われるが、わけが判らない、自分は慎ましく生きてきたつもりなのになんでこうなるんだろう? と。どうも恋をした自分の姿が人の目にどう写るかは気づいていないらしかった。
 姉は恋をしてどんなに攻撃的になったとしても、ぼくにだけは優しかった。全く別人と接しているような気分ではあったけれど。ぼくの面倒を昔から見てくれたお陰で、姉は確実に人生の何割かは損をしていると思う。
 姉が幸せになってくれればいいと思った。ただ、そう思った。


232

 ピアノを囲うように階段が両脇から、弧を描くように伸びている。
 そして中央に、その空間の主であるかのように君臨するグランドピアノは所々音程が外れてはいるが、おおむね綺麗に音を奏でていた。
 奏者は少女。白いドレスを血に染めながらも淡々と弾き続けている。
 首の横一文字の傷口からだらだら流れ続ける血はドレスを腰の辺りまで染めている。よく見れば、椅子の下にも血溜まりが出来始めていた。
 笑みを象る口からは血が溢れ、顎から落ちる血が鍵盤を染める。
 少女はいつまでもいつまでも黒く流れる綺麗な長髪を静かに揺らしながら弾き続ける。
 最後の命の灯火が紡がれる音に乗せられて散っていった。


231

 街の裏手にある山には悪魔が住んでいました。額から二本の恐ろしい角が生えていたのです。
 街の人は露骨に嫌悪し、その悪魔が山から下りて来て買い物をしようとしても、悪魔が店に近寄るたびに慌てて店仕舞いをしてしまいました。昔から悪魔は疫病と腐敗と荒廃、果てに絶望をもたらすと強く信じられていたからです。
 私は家の二階の窓からその悪魔がとぼとぼと無人になった街路を歩くのを見ていました。
 その悪魔は額の角を除けば気が弱く、人のよさそうな男に見えました。確かにどうしても角があまりにもインパクトがあってそちらに目が向いてしまうのですが、その外に目を向けると服の破れた部分を他の布で埋め合わせていたり、髪を植物の蔦で括っていたりと、どこか親近感の湧く様な部分もありました。
 悪魔はふと顔を上げて、二階から見下ろす私に気づきました。私はママから「悪魔と目があうと魂がとられる」と言われていたので慌てて引っ込もうとしましたが、悪魔は私の魂なんて興味が無いかのように、弱々しい、遠慮がちな笑顔で小さく私に手を振りました。
 私は困った挙句、悪魔に負けず劣らず他人行儀な笑顔で手を小さく振り返しました。
 私と悪魔が唯一接点を持つとしたらその時くらいのものでした。
 だけど、街の人たちが悪魔の住む家を燃やしたと聞いたときは何だかとても悲しかったのです。きっとあの悪魔とは友達になれたような、そんな気がして、街の人たちが嬉しそうに悪魔が居なくなったと話すのを横で聞きながら、私の脳裏には人気の無くなった路地を一人寂しく歩く悪魔が妙に印象に残っているのでした。


230

「先生、僕は…」
「ん?」
「正直に言ってください。僕はあとどれくらい生きられるんですか」
「どれくらいって…。あと何十年も生きるさ」
「嘘。だって、もう先日ので七回目の手術じゃないですか。体だって…もうそんなに」
「だから何度も言っているけどね、君のは…」
「気休めはいいんです。どうせ治らないんでしょう?それならそうといってくれたほうが覚悟も出来るんです」
「うーん…困ったね。君の病気は珍しいんだよ。だから君がそう捨て鉢になると…」
「だって、いくらとってもすぐに出来る腫瘍なんて、どう考えたっていいわけないじゃないですか。薬だって投与されていないし、死ぬのを待っているようにしか思えない」
「…今の医学では君の病気の治療法がわからないんだよ」
「なら、初めからそう言ってくれればいいのに」
「君は毎回手術で取り除く自分の腫瘍を見た事があったかな?」
「いいえ。ないです」
「そうか…。じゃあ、見せておいたほうがいいね」
「え?別にそんな腫瘍なんて…」
「いや、君は見ておくべきだ。確か写真がこの辺に…お、あったあった。これだよ」
「ですから腫瘍の写真なんて別に見たくな……何です、これ?卵?」
「うん…卵、だね。これが君の腫瘍なんだ」
「そんな」
「これが孵化するものなのかもわからないし、一体何がどうなってこれが腫瘍となって出来るのかもわからない」
「……それって、僕が人間じゃないかもしれないってことですか?」
「いいや。君は人間だよ。これも…病気…の一種なのかな。医学が人間の隅から隅までを知り尽くしているわけではないからね。とにかく、君のは悪性とかそういうのとは全く違うものだ。だからせめて悲観的にだけはならないように」

「おじさん、咳、大丈夫?」
「あ、ああ…すまんね、ちえちゃん」
「そうだな、君に話しておくことがある」
「何?」
「私が滅多に無い病気を持っている、ということは知っているだろう?」
「う、うん。卵みたいなできものが体の中に出来ちゃうんでしょ?」
「そう。そのせいで私は大体寿命が三十年くらいなんだ。だから三十過ぎた今、じきに…死ぬだろう。体の器官もだんだん弱ってきてるからね」
「おじさん…」
「でもね、この卵を君に預けようと思う」
「…これって」
「そう、私の腫瘍…卵だ。私が死んだら、これを医者のところにもっていってほしい」
「どうなるの?」
「この中には胎児が入っているみたいでね。これを病院にある特別なカプセルで孵化させて一気に時を進めるんだよ。多分、君と同じくらいの年齢まで時間を進めるだろうね。ある程度まで成長させないと肉体が維持できないから」
「つまり、おじさんの子供?」
「うーん…まぁ、そういうものかな…。とにかく、その子と、友達になってあげてくれるかい?」
「うんっ!」
「…有難う。きっと、その子も喜ぶよ」


229

「パンを咥えるってのとパンツ咥えるって似てるから紛らわしいよな。この前、」
「間違えねぇよ」


228

「本当に、ありがとうございました」
「大したことではありませんよ」
 夫婦は修理が終わった車にのって砂漠を走り出し、ある程度まで行った所で車を止め、ふと振り返る。 「でも、いいのかしら、あの人」
「うーん、いいんじゃないのか?」
 修理を手伝ってくれた男がゆっくりとした足取りで、夫婦とは反対方向へ向かって歩いてゆく。少し強めの風が吹いており、その風に煽られた砂が男をなぶる。
「何でこんな砂漠を独りで旅しているのかしら」
 夫はそれに答えられるだけの口を持たず、ただ孤独な旅人が砂だらけの風に吹かれながら歩き続けるのを見送った。


227

(欠番)


226

「もしもし、柚原さん?」
「ええ、そうですけど?」
「お前の娘を預かった」
「ええっ!?そんな!」
「返して欲しかったら旧札で三万七千用意しろ。七千は五千円と千円二枚だ」
「…三万、七千ですか?」
「そうだ。旧札だぞ」
「判りました。何とか用意しましょう。しかし、娘は無事なのですか。そもそも本当に居るのですかそちらに」
「何だと。疑うのか。ならば声を聞かせてやる。ちょっと待て」
「お母さんっ!」
「サヨ!無事!?無事なのね!」
「あ、あぁお母さん、助け…ひでぶっ」
「これで証拠は十分だろう。とりあえず金を用意しろ」
「ちょっ、ちょっと待って、最後に変な悲鳴が聞こえたんだけど娘は無事なの!?変なことしてないでしょうね!」
「何だと。疑うのか。ならば声を聞かせてやる。ちょっと待て」
「お母さんっ!」
「サヨ!無事!?無事なのね!さっきの悲鳴は何なの!?」
「そ、それがお母さん!秘孔の達人が居るみたいで、さっき…あっ!」
「これで証拠は十分だろう。とりあえず金を用意しろ」
「ちょっ、ちょっと待って、何の秘孔をついたの!?」
「ふふふ、ちょっと腹の、な…」
「腹の?」
「健康の秘孔さ…」


「多分あの時の誘拐犯のお陰で、本日私もこうして百十歳を無事に迎えることができました。こうしてボケることもなく、あの時の誘拐犯にはいくら感謝してもしたりません」
「サヨさん、実は本日そんなアナタにゲストが」
「えっ!そんな…まさか!?」
 会場に現れる中年男。
「彼は…その時あなたを誘拐した犯人の孫です」
「あ、あぁ…まさか…こうして縁者の方にお礼が言える日が来るなんて…」

 割れんばかりの拍手。この後は誘拐犯の孫による健康の秘孔講座などが行われる予定です。

 


225


 小学生の頃に、授業の課題でリレー小説を作ろうなどと言う未だに覚えている面白すぎる授業がありました。
 確かそれに僕は大きな空飛ぶクジラを書いていた気がします。
 何処へ行くでもない。何処へ住むでもない。気ままに雲と共に空を往く旅。北の軍事国家の上空をのんびりと横断して西の村々を通過し、南の…
 そんな調子で旅をして、一度旅をすると暫くは海に留まります。どこか大きな町の港の傍でほんわか暮らしているのですが、そんなときにその町のお偉いさんから、
「あなた方にしかできないことをお願いに来ました」
 と使者がきて、事態は一変するのですがその辺りまでしか覚えていません。

 しかしよくよく考えれば地下に潜って地底都市を見つける話を書いていたような気もするので、誰かのと確実に混ざっているのだとは思うのですがその授業は面白かった。


224

 幼馴染の手首の傷がまた増えた。
 俺がそれを知ったのは由美の母親が直接俺の元を訪れたからだった。
「省吾君、あの子を助けてあげてくれないかしら」
 由美の母親は泣きながら俺にそう訴えた。
 中学卒業以来高校が別になり、由美とは疎遠になった。あれから五年も経って由美の抱える悩みなど俺は欠片も察することが出来ない。
 だが由美の母親は俺が最後の砦だから、とでも言わんばかりに懇願した。
「あの子のことを良く知っているのはあなたしか居ないの」
 と、高校に入ってから殆ど会っていないのを知っているはずなのに、そうも言った。
「努力はしてみます」
 そう答えて俺はまず由美に会うことにした。
 由美は退院して、今は家に居るらしい。由美の母親は心配で一時間以上娘の姿を確認せずには居られず、ノイローゼのようになっていた。
 由美の母親の全面の信頼を受け、俺は久しく見ることのなかった由美の部屋の扉を叩いた。
 返事はない。
 構わずに入った。
 由美は暗い部屋の中、ベッドの上で体育座りをして、顔を埋めていた。俺はとりあえず電気をつける。
「由美、俺だ。省吾」
 無反応かと思ったが、由美はゆるゆると顔を上げてぞっとするくらい暗い目で俺を見てきた。
「久しぶりだな」
 俺は由美に笑いかけたが、由美は絶望の淵に立っているかのように表情筋一つ動かすことはない。
 そこで俺はわざわざ持ってきた小学校のアルバムに挟んであったある紙切れを、由美の眼前に持っていった。
「これ、覚えているか?」
 それは由美が俺の十歳の誕生日の際にくれた「なんでもゆうことをきいてあげるけん」だった。使用期限はあと八十九年残っている。
 由美は暫くそれを見つめた後で、ほんの少しだけ首を動かして頷いた。覚えていた、というよりも思い出した、と言った方がいいのかもしれない。だが、何にせよ覚えているなら話は進められる。俺は再び話を続ける。
「今、使いたいんだけど、いいか?」
 由美はそこで初めて戸惑ったような表情を見せた。無理もないと思う。
「…陳腐なドラマみたいなコトを言いに来たの?」
 由美の声は老婆のように、下手したらそこらの老婆よりもしわがれていた。内心腰を抜かすくらいにびびったが、それを極力表に出さないようにして答える。
「なんだ、喋れるんじゃないか。…ドラマみたいなことが駄目ってんなら、死ぬ前に本当にそれでいいのか五十年くらい考えろ、なんてのも駄目か?」
「……帰って」
 俺の少し茶化したような口調が気に入らなかったのか、由美はそれだけを言うと再び顔を埋めた。
 この調子だとまず間違いなくそう遠くないうちに傷を増やしそうだ。小学校の頃の朗らかに笑い、俺を子分のように何処へでも連れていた姿とあまりにも対照的で、思わず少しだけ涙が滲む。
「うーん、じゃあひとまず今日は帰るけどさ。とりあえず俺が来る間は色々話したいこともあるし、変な考えを起こすなよ」
 由美は返事をしなかったが、俺は言葉を続ける。
「十年前の約束は守れよ」
 だが、この言葉は聞こえていたか判らない。俺はその言葉を呟くように言うと、手元の「なんでもゆうことをきいてあげるけん」を指先で軽く弾いた。もし由美が小学校の頃の自分をも否定したいのでなければ、きっと守ってくれるはずだ。
 ふと部屋を出る前に由美を見ると、由美は再び顔を上げて何か言おうとしたのか、口を開いていた。
 俺は思わず足を止めて由美の口から紡がれる言葉を待つ。
 しかし五分ほど待っても言葉は紡がれず、由美は口を閉じてしまった。
「次来るときは何か作ってくるから、一緒に食おうぜ」
 俺はそう言って、由美を見た。由美は返事をしなかったが、その目はしっかりと俺を見ていた。
「…俺のメシはまずいから、頼むから二人分も俺一人で食わせないでくれよ」
 懲りずに軽口を叩くと、由美の口元にほんの少し笑みが浮かんだ気がした。


223

 RPGを作ってみた、と言われてソフトを渡されたので早速始めてみたのだが、主人公の家を出ると外が核兵器で滅んでいたとかで主人公まで放射能汚染で死ぬので全く面白くない。


222

 ウチの庭の桜が花を咲かせなくなってから七年になります。
 私は桜が花を咲かせなくなって以来、毎年他の桜が散らした花びらを拾い集めてはウチの桜の根元に埋めています。
 きっといつかウチの桜が花を咲かせるときはとても綺麗に違いありません。今は七年前に死体を根元に埋めたことを怒っているだけだと思うので、桜の気が変わるまでは私も花びらを埋め続けようと思うのです。
 そら、お前はこれいつらより綺麗な花を咲かせることが出来るに違いないんだ。早く花を咲かせておくれ。


221

 祖父のものだったこの古い小さなスピーカは完全に錆付いてしまっており、廃棄する以外の選択肢がなかったが、装飾が綺麗で私が置物にしたいといって譲り受けたものだ。
 本来は対になっているはずなのだが、もう片方は祖母が亡くなった際、一緒に棺に入れたらしい。
 私は部屋に入って、誰も近くに居ないことを確認すると、その手よりも少し大きなスピーカのスイッチを入れる。バリバリ、と小さなノイズの後にがやがやという人の喧騒を連想させる音が聞こえ、
『こんにちは、元気ですか?おばあちゃんは変わりありません』
 いつも同じそんな挨拶から、異界同士での音声による交換日記が始まる。


220

 偶然友人の家で隠し扉を見つけてしまって以来、変な連中に付け狙われている。


219

「子供みたいな事、しないのよ」
 僕の憧憬の彼方に居た彼女に遠い母親の姿を投影する。
 いつも同い年なのに自然体で優しく諭すように言い聞かせる彼女を僕はきっと好きだった。
 夕日の向こうへ消える彼女はただの一度も振り返らなかったが、それでも僕は彼女の姿が消えるまでその背を見つめていた。


218

「ね、一緒に帰ろう?」
 小学生だった当時、俺が好きだった女の子にそう誘われた。
「あれ?お前、俺の家と方向逆だろ?」
「あー、いや、ちょっと用事があってね。同じ方向だから」
「そうなんだ。うん、じゃあ帰ろう」
 道中は他愛もない雑談をしていた。でもその時はそれがとても楽しくて嬉しくて永遠に続けばいいと思った。いつも考えている、ゲームのどうしても越せないステージの攻略法やムカつく教師への報復なんかを四六時中考えている俺とはまた違った、完全に違う世界の宇宙人と話しているような気分だった。お菓子の作り方を考え、少女漫画の中で生きる遠いあの星から来た住人と話すのは、なんだかむず痒くて、照れくさい気もした。
 だがその幸せなときは家が見える距離に入ったことで終焉を迎える。
 家が見えると、互いに何故か黙り込んでしまったのだ。
「ねぇ」
 と、その子はあと少しの距離で探るように切り出した。
「ん?何?」
「好きな人って、いる?」
 俺はとてもパニクった。小学生の俺という、卵を綺麗に割る方法というお題で丸一日脳の容量を割いているような単細胞な人間には「お前だよ」と率直に言うような度胸も割り切りも持っちゃ居なかった。
 ただ照れくささと、その場の勢いで告白などしようものなら明日から当時の同じくらい単細胞な友人とどう顔をあわせていけばいいのか、など完全に一度に処理できる容量を超えた物事が脳内で踊り、俺は素っ気無い嘘をついた。
「いねーよ」
 するとその子は一瞬俯き、すぐに顔を上げて笑顔で、
「そうよねっ!アンタなんかにいるわけないよね!じゃあ今日はここで!じゃあねっ!」
 その言葉を最後に俺は家に帰り、その子は走って道をまっすぐに走っていった。
 俺はその後自分の部屋で悶々と強まる後悔の念に襲われながら、ぼんやりと突如凄い勢いで降り出した夕立の雨糸を眺めていた。
 やがてちっとも勢いの弱まらない夕立の中を、さっき別れたあの子が泣きながら来た道を走って帰っていった。


217

「この学校には幽霊が出るぜ」
 と聞いたときも、何処の学校にもあるありがちな話だと思っていた。
 入学後、一年近く経つある雪の日、校庭はうっすらと雪の層が出来ていた。
 とっくに冬休みに突入しているのだから、人が居る筈もない。だったが、校庭には人影があった。腰まで届くほどの黒い綺麗なロングヘアーで、六年前に変更になったはずの真っ黒なセーラー服を着て雪面に座り込んでいる。そしてそれとは対照的に生まれてから一度も日の光を浴びたことがないかのような白い肌。少女であるのだろうが、大人びた雰囲気を併せ持っている。
 何より目を引いたのはその人影を囲うように雪面に広がる血の跡だった。
 僕が近づいてゆくと、更にその人影の脇に長い刃渡りの日本刀があることに気づいた。全体に血がべっとりとついている。思わずぎょっとして足を止めるが、その少女は無表情に右膝を押さえている。怪我をしているようだった。しかし、少女の周りの血の量から見ても怪我はそこだけではないのかもしれないと僕は思う。
 僕が更に近寄ると、少女は返り血を浴びたその白い顔を僕に向けた。
 あまりの無表情に僕は思わず足を止め、近寄ったことを後悔した。その顔に怪我を苦痛に感じているかのような色は微塵もなく、己の意識で動いていることを感じさせるような瞳の色さえも殆どない。
 一瞬、逃げ出そうかとも思った。このまま居れば僕までもが斬られる気もした。
 だが、少女は僕を安心させるかのように、ふと微笑んで見せた。


216

 トイレの前に兄が携帯している手帳が落ちていた。
 届けてあげようと思って、拾い上げると、手帳から何枚かの写真が落ちた。拾い上げるついでに見るとそれは全て僕の写真で、しかも全て盗み撮りだった。
 どうしようか迷ったが、結局手帳に挟みなおして、トイレの前に戻しておいた。正直、困った。


215

 いつも一緒に帰る子が、分かれ道のところで何故かいつもより長く手を振っていた。
 僕は不思議に思いながら手を振り返し、その子が道の向こうの夕暮れへと消えゆくのを見送った。
 いつも一緒にいたのに、急に居なくなったんだ。
 きっとあの子は誰も教えてはくれないところへと歩いてゆく。
 引越しなんていう子供の悪意を知らずに、あの子の無言の優しさを知らずに、僕はただ行合いの空の寂寞に抱かれて泣くばかり。


214

独白:
「パパは家では私のことを『お人形さんのようだ』と言います。ママも言います。外では大人たちがパパとママに『お人形のようなお子さんですね』と言います。お人形は悪いことをしません。だから私はお人形でいるために感情を殺して、兵隊さんのように己を殺して、ただ自分の役割を演じ続けています。パパとママに人形を与えられて、私は人形のようだといわれて。教えてください。私はいつか人間になれますか?いつまでこの人形の家に居ればいいのですか?それとも…私は本当にお人形なのですか?」


213

「こんにちはっ」
 ん、と公園のベンチに座っている耕治が顔を上げると、近所に住んでいるのであろう、普段通勤の往復時に自宅近くでよく見る中学か高校生くらいの少女が居た。
「偉いですねっ」
「えーと、…何が?」
 耕治は困ったような笑顔を浮かべて問う。
「犬です」
 そう言うと少女はしゃがみこみ、犬と同じ視線で頭を撫でた。まだ随分と若い耕治の犬は嫌がる様子も見せずに、少女にじゃれつく。
 耕治は少し考えてから、
「いや、そんなに偉くないよ。庭狭いから家の中に入れてるんだけど、トイレもまだ覚えないし」
 少女は耕治の顔をまじまじと見つめてから、噴き出す。
「やだっ、この子が偉いって言ったんじゃないですよ!」
「そ、そうなの?」
 耕治は記憶を省みるも、少女は確かに「偉いのは犬」と言っていた気がする。どこかで意味を取り違えたのだろうか。
「いえ、ちゃんと世話してるんだなーって」
 耕治はどう返せばいいかわからず、曖昧な笑顔で答えた。
「最近ゲームみたいな犬、飼ってるヒト多いじゃないですか」
「ゲームみたいな犬?何それ?」
 耕治の趣味がそういったところからかけ離れていたために少女の言うところが判らず、首を捻る。
「電子ペット…みたいな奴ですよ」
 耕治はアイボくらいしか思い浮かばない。しかしアイボはそんなに安かっただろうか。耕治の中でアイボはウン百万の値札をつけて、テレビの中でのみ動いている。
「ウチの親…犬とか猫とか好きなんですけど、実際に飼うのは世話が面倒くさいって…私が世話するって言ってるのにですよ?それで結局ニンテンドッグスとかそっちに…」
 少女は僅かに口を尖らせて言う。耕治はニンテンドッグスというのはよくわからなかったが、ドッグとつくくらいなのだからそれが電子ペットなのだろう、と理解して話を聞く。
「君は…電子ペットが嫌いなんだね」
「…はい。だって…いくら可愛い反応したって…私はそれを愛したいとは思いません」
 実際にはその電子ペットを愛せるヒトだっているだろう。今くらいに技術が進歩したら面倒な世話をしないで済む分だけ、完璧主義者が愛すにはもってこいなのかもしれない。耕治は自分の犬を見ながら思う。
「それでですね」
 少女は顔を上げてココからが本題だ、とでもいう風に話を切り出した。
「お兄さん、朝と夜、いつも散歩してるじゃないですか」
 耕治は言われて少々驚く。確かに、朝と夜、犬の散歩をしている。しかし朝は新聞配達くらいしか居ないような早朝だし、夜は警察くらいしか居ない時間帯だ。もっとも、住宅地だから十時ごろにもなると既に警察くらいしか居なくなるのだが。
 考えている間に少女は言葉を続ける。
「私も一緒にお付き合いさせてもらってもいいですか?」
「え…でも」
 少女はそのあとに続く拒絶の言葉を予見してか、笑みが何か堪えるような、ぎこちないものになった。
「朝は早いし、夜は遅いんだよ?」
 耕治の言葉が拒絶ではなかったためか少女は再び自然な笑みを浮かべ、
「知ってますよー。お兄さん、いつも私の家の前通ってますから、早いのも遅いのも知ってます」
 ふぅん、と耕治は頷くと、
「じゃあいいよ。いつも大体同じ時間だから…その君の家?どこか知らないけど、僕を見かけたらおいでよ」
 耕治が言うと、少女は満面の笑顔で「はいっ」と答えた。


212

 外には雨が降り注ぐ。
 散らばった買い物カゴや缶詰にスーパーの面影を残すその廃墟は、外壁でさえもが大半失われており、天井を支える柱も傾いており、そう長くないことを知らしめる。
 その瓦礫の山に正座を崩した姿勢で少女が座り込んでいた。胸元に小さな、ぬいぐるみのような生物のような、イマイチよくわからないものをとても大事そうに抱えている。
 ショートカットのために外気に晒されているその横顔には、哀惜の色が強い。
 胸元の生物がもぞもぞと小さく動き、さらに空気に混ざってすぐに霧散してしまいそうな細い声で、甘えるように鳴く。
 少女はその声が聞こえているだろうが、身じろぎ一つしない。
 降り続く雨は今しばらく止む様子がない。


211

 少女の呼び声が草原に響き渡る。遠き山向こうから続く夕暮れのグラデーションが少女の悲壮さを増している。銀髪に褐色の肌、民族服にその身を包んで静かに目を瞑り、そっと歌声に乗せて帰らぬ人を想う。
 ゆっくりと、時間の流れに沿うように、雲が山向こうの夕暮れへ向けて流れてゆく。


210

 それはやつらの間ではインフラサウンドと呼ばれる。
 その超低周波不可聴音は元来海の先住民が使っていたものだ。
 ここに仲間がいるかと思って、声帯を一時的に変態させて呼びかけてみたが、反応はない。
「ここもなし、か…」
 手元の紙にチェックを入れる。改めてみれば上から五十近い数の地名がごろごろ並んでいるが、それの半分近くが埋まり、どれにも希望的な印はない。ただ自分でつけた無慈悲なチェックのみがソコにある。
「もう、居ないのかな…」
 すると、私は世界でたった一人きりの種族となる。希望と失望。あとの半分のチェックポイントにて一つでも希望はあるのだろうか。私の真の孤独は杞憂に終わるのだろうか。


209

 霧の夜に現れる。
 湖の真ん中に小さな小島。
 無数の木が霧の奥で蜃気楼のように揺らめく。
 湖は波紋を生む。
 波紋の中心にはエルフの女が。
 エルフの女は何かを言う。
 口を動かしていても、声がこちらに届くことはない。
 意図が伝わっていないことをすると、エルフの女は黙ってしまう。
 ただ、悲しそうにこちらを見つめる。
 辿り着けることのない不思議な小島を従えて。


208

 その女はリーダーだったが、威厳というものに著しく欠けており、古い観念を持っている私にはそのパーティの関係は最初まったく理解できないものであった。
 そもそも、その女、リーダーの癖に剣の扱いがまったくなっちゃいないのである。
「てぇぇぇいっ!!!」
「ぉうわっ!?テメェ裏から斬りかかってくんじゃねぇ蹴り殺すぞっ!」
「ごごごごめんねっ!」
 パーティはその女を入れて四人構成、リーダーの女以外は夜盗のような雰囲気すら見られるがさつな男どもで、各々の武器の腕は熟練といっていい腕だった。
「じゃあこっちを…」
 仲間に斬りかかって怒られ、縮こまったように周りに仲間がいない敵へと斬りかかってゆく。
 しかし、
「ひゃあ」
 情けない声一つあげて剣をはね飛ばされた。
 このままでは危険だったので私がフォローに入る。
「あ、有難うございます…」
 女は恐縮したように言う。とにかく、始終そんな調子で何故気の荒そうな男どもがこの女の下に集まっているのか皆目わからなかった。

 と、ある街に入ったときのことだった。
 一緒に行動していたパーティの男が揉め事を起こしたらしいと聞いて、現場に走る。
 しかし私が着いたときには事態は収束していた。
 リーダーの女が苦笑気味に頭を下げており、揉めていた相手が苦い顔でうなずき立ち去る。
「何があったのですか?」
 私が野次馬の一人に問うと、
「なんかあの男の人が子供を脅したとかで、親御さんが出てきたようですよ」
 そう答えを受けた。そして、少しあとで女に事情を聞いてみるも、概ね同じ答えであった。
「いやー、あの通りこっわい顔してますから子供すぐ泣いちゃうんですよ。それであの通りこっわい顔してますからすぐこっちが悪いことした、って話になるんです」
「なるほ…あ、いえ、そうでしたか…」
 何のためらいもなくあの男が怖い顔だということに同意している自分に気づいて、慌てて訂正するも女は微笑っている。
「落ち込むことないよー?」
 女はそういって、男の頭を腕いっぱい伸ばして撫でた。
「落ち込んでないからさわんじゃねぇ」
 男は鬱陶しそうにその手を払った。

 宿の一階で、件の男と椅子を並べて呑んでいた。他二人とリーダーの女は早々に寝入ったようだ。
「…あの、一つ聞いても?」
「ん?あぁ、なんだい」
「何故あの人がリーダーなのですか?見ていましたが、強いわけでもない。指揮も殆ど出せていない…」
 男は「戦闘における行動が全てじゃないのさ」と呟くと話し出した。
「まぁ見て大方予想はつくと思うが俺は盗賊上がりでね。足を洗ったはいいものの、このナリで仕事もなくて困ってたときにあの女が現れた」
「それで一緒に来てくれ、と?」
「え?いや、…なんだ、その、金持ってそうだったんで脅したんだ」
 男は私の「うわ」という表情を見て、慌てたように話を続ける。
「そしたらよ、『ちょっと王都に行くからそこまで護衛してくれるなら、あげる』とか言いやがって、でもどうせ暇だったから了承したんだ。んで問題なく王都について、悪くねぇ額の金もらっておサラバしたんだけどな、二日位してあいつが王都を出てくとこをたまたま見たんだ。どうせ暇だったから、また仕事でももらえないかと思って、ちょっと後をつけたらあの女の弱いこと弱いこと…」
「まぁ、否定はしませんけど」
「そんで助けてるうちにこーゆーことになっちまって」
 男は「そういうことさ」と肩をすくめたが、私にはまだ他にも何かあるような気がしてならなかった。
「それだけですか?」
「そうだよ」
「本当に?」
「…あー、判ったよ。まだあるよ。あいつは俺より年下だから言いにくいんだけどよ、あいつ異様に世話焼きで。俺は顔も見たことなかったが母親ってのはあんな感じかなぁと思って、な」
 男は言い終えると、私から顔をそらして酒を一気にあおった。
「他の人も、そのような感じなのでしょうか」
「…少なかれ、理由の中にはあると思うが。…ンなこと聞けねぇさ」
「そうですね」
 私も一気に酒の残りをあおった。お世辞にも美味いとはいえないような酒なのだが、なかなか美味く感じられた。


207

「ねぇねぇねぇねぇ柳井君」
「なんだ篠崎気持ち悪い笑みを浮かべながら近づくな。…馬鹿が移る」
「まぁその件については後日要相談ということにして。…わたし聞いたんだけど」
「そうか…。いや、残念だったな。しかしお前が熱を上げたあの競馬漫画が打ち切られる事実はいまさら変えようもない」
「えええっ!?終わるのアレっ!?」
「え?その話じゃないのか」
「違うよっ!柳井君のお母さんが今日来るんでしょ?」
「ほう。情報通だな。いかにもその通り」
「どうせあることないこと言いまくってたんでしょ?わたしにお願いすることないの?」
「お願い?んー、そうだな、昼飯奢ってくれ」
「ヤだよ。それより柳井家震撼の一大事に欠かせないもの、ない?」
「なんだそれ?」
「物分りが悪いなぁっ!だから、お母さんに僕は成績優秀で皆に頼られバイト先では皆の兄貴分です、とか言ってるんでしょ?口裏合わせる相手がほしいんじゃない?」
「事実じゃないか」
「ひっくり返せばでしょ」
「ばっ…!このばか崎!この歩く貴族とまで呼ばれた俺が成績優秀、スポーツ万能、校長にまで頼られる兄貴でないはずがないだろうがっ!全ては順風満帆、校長を従えて学校は俺の帝国なんだぞ!」
「…ふぅん」
「になることを夢見ております」
「でしょ?でもまぁ、たわごとはともかくとして、僕には不釣合いなくらい素敵な彼女がいますというあたりはわたしがフォローしてもいいんだよ?」
「ん?」
「何、その曖昧な笑顔」
「いや、別に…。…あの、篠崎、お前のほうこそ何でそんなニヤけてんの?」
「え?ニヤけてないよ?」
「後で鏡という文明の結晶を教えてやるから、貴様の横柄な面とそれが気味悪く緩んだ様をごらんになるがいい」
「あっ、そういうこというんだ?じゃーいいよ別に助けてあげないから。…宿題とかも」
「んなっ!?てめぇ、あ、いや、篠崎さん、貴方の野原一面に咲き誇る鼻畑のような笑顔の女性を彼女役にお願いしたいのですが!あと宿題のほうも…」
「…ふむ。くるしゅーない。…ねぇ、でも今、わたしの可憐な笑顔の表現が微妙におかしくなかった?」
「いいえ。そのようなことは」
「…ま、いいか。で、どんな服着てったほうがいい?柳井君髪型どんなの好き?何か香水つけようかなぁ?」
「この影の裏番長との疑似デートに盛り上がる気持ちもいいが、頼む、自然体で居てくれ」
「影で裏…?じゃあわたしの競馬知識で培った知識で疑似デートに挑むよー」
「おいっ!競馬知識は持ち込むな!馬の被り物とかはゴメンだ…っておい!人の話聞けよっ!待てってば!おい!」


206

 奴隷市で二人の少女は出会った。
 一人は獰猛な眼をしていて、その長く伸びた髪の合間から除く眼光で相手を射殺せてしまいそうな雰囲気を持っていた。
 一人は丸く、くりっとした目をしていて、自分が奴隷であるという自覚なんか持っていないかのように、能天気な顔をしている。
 夜、明日の市を控えて二人の少女は暗い石畳の通路を挟んで座っていた。
 片や背を猫のように丸め、顎が立てた両膝とくっつきそうになっており、片や胡坐をかいて腰に手を当て、むき出しの成長盛りの胸をはって堂々としている。
 やがて少女は元気よく立ち上がり、暗がりで両手で剣を握っているかのような動作で素振りを始める。
「…何をしているの」
 丸まって座っている少女が不愉快そうに通路の真ん中で素振りを始めた少女に問う。
「えへへっ、あたし剣闘士になりたいの」
 話しかけられ、少女は待ってましたとばかりに満面の笑みで反応する。
「何故?」
「ゆーしょーすればねっ、なんと…」
「願いが叶う、ってんでしょ。…馬鹿馬鹿しい」
 言葉を取られ、少し膨れた少女が馬鹿馬鹿しいという言葉に反応して再び口を開く。
「いいのっ!馬鹿馬鹿しくても!優勝したら自由になって、パパとママに会いに行くのっ」
 少女の言葉は奴隷、という立場からするとあまりにも夢と希望に満ちていた。
「…ふんっ。どーせどっかの豚みたいなの相手に飽きられるまで犯されるだけよ」
 吐き捨てるように言う少女の肩には、娼館出身の証である蝶の刺青が施されていた。
 その言葉を受けて少女はしばし黙っていたが、やがて大きく息をつくと言った。
「もうっ!じゃあ私が優勝したらあなたもつれてったげる。…お名前は?」
「……、…ナトーシャ」
 社会の底辺を歩む少女は、夢を持つ少女の言葉をどこまで信じたろう。


205 (夢十夜より)

 歌葬が行われている。
 教会の大聖堂の真ん中に台が置かれていて、その上に一人の女の子が裸で横たわっている。
 教会の中には僕とその女の子しか居ないのに、何処かから子供の合唱団のような歌声が流れ込み、教会の中を満たす。
 その歌声は決して日本語ではない。何処か神秘的で、単調のようで幾重にも重なる旋律が舞う。死と生を運んで来るように柔らかく残酷な、静かな鎮魂歌。
 僕が女の子の顔を見ると女の子も僕を見つめていた。
 今にも眠りそうな瞼が微動することなく、無機質なものであるかのように僕を見つめている。
 揺りかごの中にでも居るような感覚で歌声を聞いていると、女の子の身体から軋むような音が聞こえた。
「ねぇ」
 女の子が僕に言う。この状況では儚さを強調せんばかりの澄んだ声。
「何?」
 僕は胸の動悸を悟られないようにと、素っ気無い返事をする。
「手を握ってくれる?」
「手?」
 僕が聞き返すと女の子がゆっくりと僕の方に手を伸ばす。
 僕も掴もうと手を伸ばすと、突如伸ばした女の子の腕の肘から先が石像が崩れるかのように崩れ落ちた。
「あ・・・」
 女の子が残念そうに呟いた。痛いとかの感覚はないようだった。
 崩れた面から除く断面は既に人のそれではなくなっていた。
 断面は血管も骨も肉も無い。肌色の石のようになっており、落ちた腕は砕けて石片を散らしていた。
 「大丈夫?」とは聞けなかった。死にゆくものにそんな言葉は失礼であろう。
「ねぇ」
 再び女の子が僕に言う。
「わたしのこと、好き?」
 女の子は僕が返事をするよりも早く言葉を続けた。
「え?」
「わたしのこと、好き?」
 僕はなんと返せばよいのかわからず、困ったように女の子の顔を見た。
 相変わらず今にも閉じてしまいそうな半眼が真っ直ぐに僕を見つめている。一転の曇りも疑いも持った事は無いような、それはそれは澄んだ色。この眼も石になるんだろうか。この眼は宝石になるのではないだろうか。そう思うほどに、澄んだ色。
「ふふっ・・・わかってる。好きでも何でもなければここに居ないもの」
 女の子は僕の視線を違う意味で、でも彼女には良いようにとったようだった。
 口元が僅かに上がる。
 とても、
「わたしも・・・」
 とても、
「好きよ」
 淫靡に笑った。
 僕の意識が飲まれそうになる。
 台に横たわった女の子の身体が、裸で横たわる女の子の身体が、肘から先が無くなった腕が、淫靡に笑う口元が、
「う・・・」
 意識が、何故、何に、
「どうしたの?」
 女の子はその淫靡な笑みを絶やすことなく言った。
「ああぁぁぁぁぁぁっ!!」
 何が何だかわからず、女の子の二次成長もろくに迎えちゃいないような小振りな胸を掴もうとする。
 しかし僕の手が女の子の体に触れた瞬間、その辺りが陥没、そう、まさに陥没して崩れ去った。
「あ・・・」
 急に自制心と正常な意識が浮上してくる。
 僕は今、何をしようとしていたのか。幻術にでもかかったような感覚だった。
「どうしたの?」
 女の子は先ほどと全く同等の調子で言う。その表情にも変化は見られない。半眼にその淫靡な笑みは寝起きの幼娼婦を彷彿とさせた。
「・・・痛く、ない?」
 僕は何とか声を捻り出すようにしていった。
 女の子は首半ばまで石になり、崩れた断面を覗かせている。
「綺麗な歌声ね」
 女の子は僕の問いが聞こえなかったのか無視したのか、全く別の話題へと移った。
 先ほどから聞こえる子供の合唱団のような歌声は絶えることなく続いている。
 ふと思った。
「僕は何で此処にいるんだろう・・・」
 すると女の子は少しだけ目を開いて意外そうな表情をして、
「わからないの?」
 と問いかけた。
「・・・わからない」
 僕は答える。
「そう・・・。おばさんのカボチャパイは美味しかったわね」
「え・・・?」
「釣堀に行った時はわたしの方が三匹多く釣ったわ」
 何の、
「遊園地でジェットコースターには怖くて乗れなかった」
 何の話を、
「結局絵本はあなたにあげたわね」
 何の話を、しているのか。
「・・・・・・」
 僕は何も答える事が出来ない。
「わからない?」
 再び女の子が問い掛けてくる。
「わからない」
「覚えていない?」
 覚えているも何も、
「何の話かわからない」
 すると女の子は諦観したような表情になった。
「そう」
「それは一体、いや、どういう」
「・・・それはね」
 女の子は僕の言葉を切って答える。
「あなたは取るに足りなかったのよ」
「・・・何が」
 何故か息が詰まるような、これ以上深く聞いてはいけないような感覚になる。
 全てを何もかもを無かった事にされるような、
 それは恐怖。
 これ以上聞いてはいけないのだ。
 聞いたら僕は―。
「やっぱり言わなくて、」
「酷く、詰まらない人生だったのよ」
 ガン、と頭を殴られたような衝撃が走り、目の前が暗転する。底のない奈落に落ち続けて行くような。
 どこまでも落ちていくような。
 もう、それ以上は、
「取るに足らない、価値の無い、何の価値も無い人生だったのよ」
 止めろ。
 止めてくれ。
「可哀想にあなたは―」
 それ以上僕を否定しないでくれ。
 これ以上言われたら、
「生きていた意味が無かったのね」
 死を告げられるより重い何かが胸にどすんと落ちた。
「でも」
 女の子が打ちひしがれ、死にそうな表情の僕を見て再び笑う。
「わたしは、好きよ」
 僕は迷わなかった。
 再び腕を振り上げて、今度は胸ではなく、その顔に振り下ろそうと、
 腕が崩れた。
 肩から、僕の腕が崩れた。
 床に落ちて大聖堂に石片を散らす。
「あなたも」
 女の子が死神に見えた。
 僕を道連れにする―。
「歌葬されてい」
 女の子の顔が不自然に崩れた。物言わぬ石塊となった。
 僕は後ろに下がろうとした。
 教会から出なくては、
 動かそうとした足が崩れた。
 そのまま重心を失った石化しつつある体が、頭が、一直線に床へ、

 そんな夢を見た。


204

 ぼくがバイト帰りの夜道をつらつらと歩いていると、後ろから妙にふらついている自転車にぶつかられかけた。
 慌てて避けると、その自転車の人ー女の子ーは謝りもせず、そのまま先に進んでいった。その女の子は自分で気付いているのかいないのか、ふらふらと道路の真ん中へと出る。車こそないものの危ないなあと思ったが、あえて何も言わなかった。
 そして女の子を乗せた自転車がT字路に差しかかり、ぼくが曲がれるのかなと思いながら見ていると、いきなり横合いから来ていたらしい車に跳ね飛ばされた。自転車は車の車輪に巻き込まれていたのが見えたので、恐らくもう使いものにならないだろう。一方、女の子は文字通り宙に弧を描いてアスファルトの地面に叩きつけられた。それきりピクリとも動かない。あまりの急なことに、ぼくは動く間もなかった。
 車は止まり、中からでっぷりとした体格のおっさんが転がり出る。暗がりの中、車のライトに照らしだされたおっさんの顔は酷く暑苦しかった。丸々としたニキビだらけの顔の上に、髪にはポマードだか油だか判断の付きかねるてかりが映え、怯えの色を隠れ蓑にした小さな目には、相手の油断を隙なく伺うような印象を伴う。
 おっさんは女の子の傍にしゃがみこみ、「君、大丈夫か!」などと声を掛けていたが、全く反応が得られないようだった。おっさんは困ったように一旦顔をあげ、そのまま辺りを見渡してぼくの姿を見つけた。おっさんはぎょっとしたようだった。何か言い訳でも考えているのか、目があらぬ方向にきょろきょろと動き回る。
 おっさんの言い訳を聞くのも少しは面白いだろうが、女の子を思って「救急車を、呼びましょうか?」と言うと、おっさんは即座に「いえ、私が直接連れて行きます」と断り、その女の子を自分のいかにも高級そうな黒いベンツに乗せると、そのまま夜の闇へと溶け込んで行った。


203

「うーん・・・ちょっと塩が多かったかな・・・」
 少女は鍋になみなみとある味噌汁を味見して呟く。
 学校で行った調理実習の復習をしている。復習とはいえど結構楽しんでいるのは明らかで、時折味噌汁の匂いに鼻歌が混じって聞こえてくる。
 髪を後ろに押しやる三角巾と、同色のエプロンを着用して台所に立つその様は家庭的な主婦そのものであり、気の利いた者なら「お前良い嫁さんになれるぞ」くらいは言いそうな光景であった。
 その少女の背後に、不意に影が差す。
 少女が振り向くと、そこにはヤな感じの中年が居た。髪はぼうぼうで、不精髭が顔の下半分を覆い、正気とは思えぬ覇気のないツラで立っている。微笑ましい昼下がりの光景を一瞬にしてサスペンスに変えてしまっていた。
「あ、おはようお父さん」
 少女が言った言葉は、来日したての日本のスラングに詳しい外人なら別の解釈をしかねないほどの印象を伴う。しかし言う方も言われる方も自然であり、少女はにっこりと笑って、
「これね、このまえ学校で習ったの。ご飯も炊いてるから、もう少し待ってね」
 男は「おお」と「ああ」の微妙な音で返事をして、すぐにまた奥へ戻る。
 少女の楽しそうな鼻歌が再開される。


202

 それは、人がかつて持っていたもの。
 静かに進む時の中でその存在は大きくなっていった。
 しかしその宝石は求められるあまり、自ずと失せてしまった。脆いが故に美しく、美しいが故に求められ、求められるが故に存在が脆い。
 絵画にすら描くことの出来なかった、姿形色見栄えも知られぬ宝石。その名だけが世界の落とした秘宝として知れ渡る。
 夢の卵の孵るような、もはや取り戻せぬぬくもりの果てに、盗めない宝石はあったのに。


201

 深海の孤独。母なる海を治めし神は居ない。
 下界の憂鬱。治むる神なき大地は乱れている。
 神界の会議。神無き月の神はここにあり。
 深海の人魚。神無月の孤独を享受せしめんと海の奈落で待ちつづける。

 身を締め付けられるほどの孤独が、神無月の人魚を生んだ。

 砂上の楼閣。求めるものは砂漠の上にあったのか。
 紅月の夜空。ただ突き進むものを月は見守る。
 神々の欺瞞。偽りの神に、裁きをくだした。
 人魚の旅路。破壊と、再生。

 神無月の人魚は、紅月の浮かぶ砂漠に立ち尽くす。

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