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草稿帳290-271 自分の読みたいものは、ひとに期待せず、自分で書けばいいのだ。by「ライオンと魔女」あとがき

290

「では、お二人は永遠の愛を誓いますか?」
「誓います」
「…………」
「…? …誓いますか?」
「…正志?」
「誓え…ません…」

 ザワザワ

「な! 何言ってるのよこんな時に! 冗談はやめて!」
「すまん…」
「正志…あなた…まさか…」
「実は…俺…美智子のことが…」
「…やっぱり…ね。…あんな女のどこがいいの?」
「…お前には判らんよ」
「ええ判る筈もないわ。判りたくもない。それより、皆集まったのに、台無しにしちゃって…どう償ってくれるつもり?」
「…いいのか?」
「何がよ?」
「台無しにしたことは謝ればすむ。…でも、お前は」
「それ以上は言わなくてもいいわ。…実はね。薄々、気がついていたの」
「え…?」
「普段の貴方の台詞、態度…私以外の、誰か別の人に傾いていること」
「……すまん。お前には謝って済む問題ではないかもしれないが…」
「いいのよ。そんな顔しないで。ただ、一つだけお願いがあるの。聞いてくれる?」
「ああ。できることなら」
「今までどおり、下の名前で…呼んでほしいの。それだけ…」
「…………」
「正志?」
「…ああ。わかった。わかったよ」
「…そう。ありがとう。これからも…会う機会は減っちゃうでしょうけど、よろしくね、正志」
「こちらこそ、俊彦」


289

 今、ここにあるものは多分、世界で一人だけ生き延びてしまった私の最後の希望だ。そう、それはとても儚い希望ではあるけれども。それでもかすかな希望が、まだ残っている。冬の前に最後の温かい風が木々をそよがすように。音楽の最後の余韻が消え残るように。まやかしの花束が完全にしぼみ、黒いビロードのカーテンの前で死が頭を垂れてひざまずくまでは、かすかながら希望は残っているのだ。
 ここは国の科学研究所内の生物兵器に関する研究室らしい。そしてここの研究室から覗ける実験室―。  そこに、七つのカプセルがある。そのうち五つにはENEMYと記されており、一つにはFIENDと、そして最後のカプセルにはDOOMSDAYと記されている。
 どれも、何も知らずに開けるのは躊躇せざるをえない文字ばかりだ。だが、この一人きりの世界で狂い死にするくらいなら、何を壊したところで誰にも迷惑がかからない世界なら、開けてみてもいいだろう。
 もし文字通り五つのカプセルが人間に敵対する何かなら、それと戦ってみたっていい。その最中で死ぬならそれでもいい。さらに悪魔だか魔王だかなんだか知らないが、誘惑と取引があるなら乗ってみてもいい。そして最後の―審判の日。この状況になってまだ、それは意味を持つ言葉なのだろうか。とっくに終末すら過ぎたこの世界で、さらに何を審判するというのだろう?

 ENEMYと記されたカプセルを一つ開いた。無駄かもしれないが、向こうからは死角になるような位置に一応隠れてみる。
 だが補助液と共に流れ出たそれは、一定の形を留めていなかった。 ―未完成だったのだ。
 まさか。まさか、ここは完成したものは一つもないのか? 少なからず私を孤独から救ってくれるはずの何かは…居ない?
 本当に、全部未完成なのか―?
 私はカプセルを一つ一つ上部についている小さな窓から覗き込む。ENEMYのカプセルのうち三つは形を成しておらず、最後の一つはちゃんと形をとってこそいたものの様子がおかしかった。
 私は必死に考える。動いている気配がないのは何故だ? 死んでいる―或いは形はあれども未完成だったのか…?
 そして気づいた。今は電源の供給が断たれている。即ち、生まれた生命を維持するだけの補助液の供給も行われていないのだ。
 次の瞬間には床に膝をついていた。駄目だった。どんなに恐ろしい生物であろうとも、胎内で栄養を与えなければ生き延びることはない。ふらふらと立ち上がり、次のカプセルの元へ近寄る。FIENDも当然のように駄目で。
 そして最後に流れるようにDOOMSDAYのカプセルを覗く。駄目なのは判っている。これは絶望を確認する作業であること。希望を潰す行動であることも―。

 だが、DOOMSDAYのカプセルの奥で、紅くギラついた目が私を見た。思わず息を呑む。

 馬鹿な。希望と期待と驚愕と恐怖が一瞬のうちに四肢の隅々にまで行き渡る。私の思考は何度も中断された。DOOMSDAYカプセルの中の目が私に冷静でいることを許してはくれない。中で、蠢いている。生きている。私の。私の最後の希望が。


288

「やぁ懐かしい顔が来てやがるな」
 何回も無視していた同窓会の知らせに、暇だったので参加してみたら学生のときに仲がよかったやつが早速声をかけてきた。
「おう、お久しぶり―」
 はっとしてそこで口を止める。
(なんだ?)
(今…)
(お久しブリーフって言いかけたぞ)
(おかしい)
(ありえない)
 やつは全く気づかなかったようで、ニコニコしながら俺の肩に手をかけてくる。
「何年ぶりだろうなあ! お前何回サボったら気が済むんだよ!」
「ははは…すまんすまん。まさか自分でも十年以上も来てないとは思わなくてさ。でも意外と皆変わってないな?」
「変わってる奴も居るぜ…。えー…ほら、たとえばあの二人」
「中島と小安だろ? すぐわかるぜ。相変わらず中島は美人だが…小安は太いなあ」
「実はな、あれ逆なんだ。太いのが中島」
「え…本当…に?」
 じっと目を凝らしてみると確かに…あの美人に中島の面影はない…。
「そしてアイツ。山崎だぜ」
「…いや、あいつは何も変わってないじゃないか」
「え、そうか? 俺はわかんなかったんだがなあ。雰囲気とか色々変わってたからさ。よくわかったな」
「当たり前だ…ろ。結構判るぜ。意外と面影くらいは残ってるもんだ」
(まただ)
(今度は当たり前田のクラッカーって言いかけた)
(どうなっちまったんだ)
(まさか)
(これがオヤジ化か?)
(そんな)
「ふむ…お? あのテーブルの隅で携帯鳴ってやがる」
「本当だ」
「誰も電話にでんわ、なんてな。ハハハ」
(駄目だ)
(コイツはもう手遅れだ)
(くそ)
(染まりそうだ)
(これはもう助からねぇ)


287

 僕は生まれたときから境界が曖昧だった。
 純正な人間でもない。かといって妖怪でもない。両親は共に人間なのに、一体どういうことなのだろう。でも、そんなことを誰かに聞くわけには行かない。妖怪かもしれないなんて申告しようものなら迫害されるのは目に見えているからだ。
 両親は純粋な村人で、妖怪は災いをもたらす者としか考えていない人らであったために、僕の体にたびたび起こる人間にはあらざる異常を見て無意識に距離を置いていた。愛情と言うものは精一杯注いでくれているのはわかっていたが、それはどこか遠い、川越しのような感じだった。唯一僕を繋ぎとめてくれていたのは、そんな異常を気にもせず対等に向き合ってくれる姉の存在だけだった。
 そして夢を見ればうなされる。
 妖怪が。暗く重い夜の闇の向こうから妖怪がおいでおいでと手招きをする。その誘惑は妙な強制力を持っており、毎晩精神を持っていかれそうになる。僕は日に日に消耗していった。見るからにげっそりとして死への片道をたどり始めたかという頃。
 僕の家の隣に、一人の妙なおじさんが越してきた。
 おじさんは畑を持つでもなく、何か商売をしている風でもなく、日々鍛錬をしているだけだった。ただ時折ふらっと数日だけ姿を消す。そのおじさんは僕を見ると優しい目で微笑うのだ。
 そしてある日、僕はいよいよふらつき、両親が気味悪がっているのを感じて逃げるようにして外へ出た。扉の前に立ち尽くして空を見上げる。太陽の光が僕を治してくれるような気がしたから。
 木戸が酷い音を立てて開くのを耳が捉え、僕はその方向を向く。おじさんがいつもの優しい顔で手招きをしていた。
 僕はふらふらと歩み寄る。
「君は、人間だ」
 久しぶりに聞くおじさんの声はなんだか重くて、一言一言が心の奥底へ響くようだった。僕はおじさんの言っている事がいまいちよく判らずに頷く。
「ただ」とおじさんは急に顔を少しだけ歪めた。「極めて妖怪にも近い面を持っている」
 僕はぎょっとしておじさんを見る。今まで、そのことは誰にも話したことがない。一番信頼している姉にさえも。
「このままだと、冬は越せまい…」
 おじさんは呟くように言う。僕もそれは薄々感じていたことだったので、素直に頷く。それからおじさんは思案するような表情で僕の顔をじっと見た。
「数年ほど…」おじさんは言いかけて言葉を止め、辺りに人が居ないのを確認した。「私と一緒に来てみないか」
 数年。今年の冬だって越せそうにないのに、どうやって着いていけというのだろう。もしかしたら、この衰弱から逃れる手立てを持っているのか―。いや、おそらく何か知っているのだろう。僕はさほど迷わずに頷いた。
 そしておじさんも、僕の判断が間違っていなかったと言わんばかりに優しい表情で頷き返すのだった。


286

 俺は悪魔からの使いのようなその足音は黙って聞いていた。
 その足音はやたらと音が響く廊下を歩いて俺の部屋の前で足を止める。
「こんにちは」
 俺は重い足取りでドアを開け、立っていた男に「どうも」と返す。
 男は苦笑気味で「気が重いですか」と言う。俺が正直に頷くと、
「普通は皆さんそうなりますよ…なんてったって、いくら嫌でも過去との決別なわけですから。えぇとそれで貴方は…おや。随分広範ですね」
「どうせろくなことがなかったからな」
 そう、俺は自分の人生を否定した。いや、することにした。
 友達なんかろくに居ない人生を送っていた俺にも、一人、姉のように色々と世話をしてくれる女が居た。血縁はない完全な他人ではあったが、俺は家族よりも信頼していた。ずっと一緒に居るから恋仲と間違われたことも一度や二度ではない。だが決してそういう関係になりかけたことすらない。己の姉に度を越した恋慕や劣情を持つだろうか?
 だがある日、些細な口論が切っ掛けとなってあの女は遠くへ行った。多分、帰ってこないだろう。
 それからは俺に人間不信、人間嫌いといった久しく忘れていた負の感情が蘇ってきた。家に引きこもってぱらぱらと真新しいタウンページを捲っていたらこれを見つけたのだ。幸い、金ならあった。趣味も人付き合いもない人間が金を消費するはずもない。気づいたらすぐに電話していた。
「どうします? 今ならまだ止められますが」
「…いい。早いとこ、やってくれ」
「では、契約書にサインを」
 男が差し出してきた契約書に目を通す。書いてある事はおおよそ電話で聞いた内容ばかりだ。記憶の復元は不可能であること、意図しない結果になっても文句を言わないこと…。
 俺はさっさとそれにサインをしてつき返す。
「どうも。一応、こちらも記憶消去後も暫くはケアさせていただきます」
「…何? それは聞いていないぞ」
「ええ。もし貴方が記憶消去後に自己喪失による何らかの危険を被るようでしたら、こちらで用意した偽の身分を差し出して危険の回避をお手伝いします」
「…?」
「つまりですね、貴方に仮の自分を与えるということです」
「ああ…なるほど」
「では、始めましょう」
「ああ、頼む」
「目を閉じて…」という男の声にしたがって俺は目を閉じる。やがてだんだんと眠くなってゆき、意識が泥沼の中に沈んでいくのを感じていた。そして意識が沈みきる直前に、あの女なら遠くへ旅行へ行って突然全て嫌な事は忘れたかのような顔で帰ってくるかもしれないな、と思ったが全ては手遅れだった。


285

 周りの人が皆結婚していく中、私は常に一人きりだった。
 社会人になってもう三年は経つ。
 周りの皆が惚気てくるのを私はいつもニコニコして聞いている。
 そして終いには必ずこういうのだ。
「あんたも彼氏作ったら?」
 女子高から大学に進学した当時、私は何が何でも彼氏を作ろうと意気込んでいた。
 実際、それで全部駄目だったなんてことはない。普通に仲良くなって、普通に付き合って。振られて散々飲み明かして、そのとき最後まで付き合ってくれた男友達と寝たりもした。
 やがて大学生活も三年目になり就職活動をぼちぼち初めて、そのとき付き合ってた彼氏とも多忙から疎遠になって自然消滅して。実質最後になった電話で私は思ったのだ。あれ? なにか距離がある、と。そして徐々に私は考え始めた。
 私はこんな恋愛がしたかったのだろうか? 付き合っている間は確かに幸せだったし、別れた後はやっぱり悲しかった。でも、これは違うのではないか?

 あの中学生の頃の恋に恋していた時のような、一番純粋な恋はもう出来ない。理想の恋、なんてものはもう思い描くことすら出来ない。
 それを自覚すると私は長年傍に居ることが自然だった伴侶に先立たれたような感覚になって、失恋したときと同じ感覚に加えて、ぞっとするくらいの喪失感が沸くのだった。


284

 ネロ先生は東洋を転々と十三年も滞在してキコウという医学を学んだらしい。
 先生のキコウというものは凄いのだがえらく怪しいので、心の中で謝りながらも独自に調べてみたことがある。中国発祥のキというものを体内に巡らせて体の鍛錬を図る―というのがキコウらしい。それならば先生のも正統なものなのか。しかし、それでもいまいち納得できない。
 値段は一回五万ドル。だが急に時価! とか言い出して急に値上げしたり値下げをしたりする時もある。全うな医師ではないので色々適当なのだ。
 先生はまず診療台に患者さんを寝かせて、背中を十回くらいさする。それでおおよそのことがわかるらしい。もはやその時点で胡散臭いのだが、先生が「ガタがきているね」というと患者さんはすぐに同調して調子の悪い部分を話し始める。元々、治療を望んできているのだからガタがきていて当たり前なのに。
 そして一通り雑談交じりで話すと、先生は真面目な顔になって背中から数センチのところで両手を重ね、唸りながら力み始める。患者さんは何か伝わってくるらしく、先生を信じきってリラックスしている。
 別に先生は詐欺をしているわけではない。確かにキコウ治療をしているのだ。先生が力み始めて一分も経つと手のひらと患者さんの背の隙間に何か青白い光が生まれ始める。先生曰く「これが気功なんだよ」とのことだが、東洋人…否、中国人の医者は皆こんなものを出せるのか、と疑ってしまう。
 そしてその光がその場でぐるぐる回り始めると先生は患者さんに、
「今から気を送るからね。何か吐き出したくなると思うから、我慢せずに洗面器に吐き出しちゃってね。それが悪いものの固まりだから」
 と言ってその光を患者さんに打ち込む。
 僕があわてて洗面器を持って患者さんの前に回りこむ。患者さんは殆ど例外なく一度軽く上体をのけぞらせて野球ボールくらいの血の塊のようなものを吐く。最初はそれを見て心配そうな顔つきをする患者さんも、次の瞬間自分の体が完全に中から洗浄されたような感覚になっていることに気づき、すぐに驚きの声を上げる。
 そして満足そうな顔で帰っていく患者さんを見ながらも、やっぱり怪しいんだよなあと思わずには居られないのだった。


283

 一人の行く先には闇が永久に広がる世界を。
 一人の行く先には光が満ちて衰えぬ世界を。
 そうしてかつて一人だった魔王は分裂した。

 今にして思えばそれは神のほんの実験的ないたずら心に過ぎないに違いない。
 闇の魔王はよりどす黒く、重く、叫び声さえも潰れてしまいそうな沈黙の王となり、光の魔王は浄化され、やがて一点の闇さえも嫌う天使然とした勇猛たる王へと変化を遂げた。
 そして世界の調和。
 二人の魔王が互いの世界で統治するべき土地を持ち、互いのやり方でそれを平定して暫くが経ったころ。
 ぽつんと世界の隅っこで二つの世界を繋ぐ穴ができた。その穴は徐々に肥大化していった。
 僻地ゆえに長らく人の目には留まらなかったが、誰かがそれに気づくころにはドラゴンでさえも通り抜けられるほどになっていた。
 二人の魔王は笑う。
 光の世界があると聞き。闇の世界があると聞き。
 一人はともすれば押しつぶされそうになる闇から逃げるためか。一人は高尚な理念を塗りたくった、己でさえも忘れ去った本能のためか。
 武器を向ける相手が己であるとは微塵も思わず。
 二人の王は玉座から剣を持って立ち上がる。


282

 ジジジ、という電磁音が不思議なことに洞窟のあちこちから聴こえてくる。
 そこに一人の男がやってきて、インカムに向かって言った。
「SEO、明かりを」
 すると電球の類もないのに、洞窟内が淡い陽光に近い明かりに満たされる。
 男の格好はこの場所から見れば酷く場違いである。照準とサイレンサーのある銃を持ち、短刀と呼んでも差し支えないほどの大きさのナイフを腰に下げている。格好も軍の斥候兵として通用しそうなものだ。
 しかしここはそんな軍隊がいるような場所ではない。今や最大級の娯楽を提供してくれるサイバースペース内に構築されたファンタジーアースと呼ばれる地である。SEOと呼ばれるのはサイバースペースを構築するマザーの、アースごとの端末の名である。そして各アースを管理する人間がSEOと共にその世界の秩序を保つ。些細なエラーならSEOが排除するなり修復するなりするのだが、内部の人間トラブルなど対処しきれぬ部分のために管理の人間がおかれる。このファンタジーアース内においては他に比べて管理の人間は多い。それはこのアースの特徴である空想生物の存在による。
 空想生物はファンタジーにつきもののモンスターやら使い魔やら聖獣やらを指す。既存の生物をベースに、入力された情報に沿ってSEOが情報を組み替え、または追加して造り出してゆく。そしてその生物に仮想人格とも言えるものを与えてゆくのだが、それのせいで予期せぬエラーや対処できぬエラーが後を絶たない。このアースのSEOには他のアースのSEOに比べて負荷がかかりっぱなしであった。
 男が光の中で洞窟を見ると所々洞窟を構築する情報が崩れ、無骨な岩壁の合間に虹色の乱雑な砂嵐が顔を覗かせている。数秒後にはSEOがエラーとして修復するのだが、この洞窟内はいくら修復しても綻びが出るようだった。

 ふむ、と男はしかめっ面でしばらくその様を見ていたが、やがて奥に向けて歩き出す。この洞窟は自然洞窟として構築されているので酷く足場も環境も悪い。こういった未開地然とした場所を好むのはアンシエントアースを始めとしたそういうのが好きな人間くらいのもので、ファンタジーアースの住人は普通こういったところには来ない。なのでアース生成以来放置されているような場所も少なくはない。
 ポケットライト形のミニレーザーで完全に道をふさいでいる岩を破砕したり、エラーすれすれのところまで暴走した仮想人格を持つ土着のモンスターをなぎ倒しながら暫く行くと、洞窟のビジョンは安定してきた。男はエラーは入り口だけで止まっているのか、と考えながら進む。
 そしてある一点で岩をレーザーで破砕し、ふと顔を上げると急に動きを止める。
「これは…」
 男は半ば呆然としたように立ち尽くした。
 数メートルを隔てて洞窟が断絶していた。縦に色彩豊かな砂嵐が薄壁を作っている。時折薄れ、奥を映し出すが砂嵐の壁が完全に消え去ることはない。
「SEO、今の私の現在位置のエラー状況は?」
『エラーは、ありません』
「…何だって? もう一度チェックしてくれ」
 男は目の前で揺らめく砂嵐の薄壁を見ながら言う。
『現在位置、再確認。エラーは、ありません』
「……」
 どうなってるんだ? と首をかしげる。男は足元にあった拳大の石を拾い上げるとその壁に向かって投げつけた。壁の部分で消失。男は少し考え、再び似たような石を拾い上げる。
「SEO、今私が手に持っている石を監視していてくれ」
『…、…、信号を確認。SEOは信号を監視します』
 男は石を壁に向けて投げた。消失。
「どうなった?」
『対象は不明エラーにより、信号を消失しました』
 男はうつむき、何かを思案し始める。長丁場になると考えたのか、横の岩壁に身を預けた。

 最近人がサイバースペース内で忽然と消えるという事件が続いている。個体識別信号の消失というシステム上ありえない形で。そしてサイバースペース内で消失したものだから現実にも意識が戻らない、という状態になっている。これは各アース住人に大きな波紋を投げかけることになった。飛び交う噂、推測。その数はさほどにあがらないとは言えど、放置しておける問題ではない。しかし規制をかけて人を追い出してから調査しようにも大きくなりすぎていた。世界の経済市場にもその存在は大きく組み込まれており、例えば三十分程度であろうとも無理に無人状態にしようものなら損失はいくらになるか計り知れない。
 故に各アース全管理人に個人の仕事とは別で調査指令も下されていた。

 男は改めて砂嵐の薄壁を見る。
「SEO、他の管理人に私の現在位置と今からの信号の動きを送信してくれ」
『了解。SEOは情報を送信します。メッセージはありますか?』
「うーむ…そうだな。じゃあ今から言うことを添えてくれ。『推測に過ぎないが、信号消失の原因はアースのほつれからマザースペースに落ちたせいかもしれない。私も今からその壁となっているかもしれない砂嵐に潜ってみる』」
『了解。SEOは情報を送信しました。信号情報を送信継続しています』
「…よし」
 男は岩壁から離れると一度大きく深呼吸して、その砂嵐に飛び込んだ。
 男の姿が掻き消える。
 そして『信号を消失しました。SEOは信号情報の送信を中断します』とSEOは男に言ったが、もはや聞くものはいなかった。


281

 眠るとすぅっと浮かび上がる感じがして、目を開くといつも自分の家の屋根を上空から見下ろしている。大体、自分の家を中心にぼくは毎日旅をする。移動は車や電車よりはるかに早い。多分、夜が明けるまでに世界一周だって出来るに違いない。まだ自分の国を出るのが怖くてそれより外へ出たことがないけれど。
 最初は前から行きたかった観光地などに行っていた。夜だったけど、それでも十分に価値のあるところばかりだった。
 最近は観光地めぐりも飽き、ただあてもなくふらふらと飛んでいる。それだけでも結構楽しいのだ。
 今日、ふと誰かに呼ばれた気がして止まり、その呼ばれたと思われるほうを向くとそこには病院があった。知り合いなんて居たかな、と思いつつぼくは病院へ向かう。
 そして病室のひとつに潜り込むと、ぼくよりも年下の女の子が目をまん丸にしてこちらを見ていた。まさか。視えるはずがない。そう思ってそのまま廊下へ出ようとする。
「ちょっ、ちょっと待ってよ!」
 今度はぼくがぎょっとする番だった。
「み、視えるの?」
 すると女の子はきょとんとして、
「私が呼んだから来てくれたんじゃないの?」
「君が…?」
「お兄ちゃん、この前も飛んでたでしょ」
 どうだったか。もしかしたら飛んでいたのかもしれない。
「さぁ…。どうだったかな」
「それで今日も飛んでたから頑張って呼んでみたの」
「どうやって?」
「え…こっち来てー! って。頭の中で」
 うーん、とぼくは考え込む。この女の子がどれくらい入院しているのかは知らないが、肉体的にあまり動けなければ霊感的なほうが多少強まるのかもしれない。
「まぁ…それはいいけど。何の用?」
「お兄ちゃんは何をしてたの?」
「何を…? 別に目的もないかなあ」
「じゃあ、じゃあさっ」女の子は目を輝かせて言う。「お話しようっ!」

 そうしてぼくは女の子と夜が明けてぼくが目覚めるころになるまで他愛もないお話をした。
「また来てくれる?」
「あぁ…うん。来るよ」
 女の子は明らかに嬉しそうな表情になる。
「でもさ」と女の子は首を傾げて言う。「何でお兄ちゃんそんな寝るだけで幽体離脱みたいなことができるの?」
「さぁ…気づいたらこうなっていたんだよね…何でだろ」
 女の子は控えめにふふっ、と微笑い、
「お兄ちゃんの方こそ、病人みたいだね」
「…そうだね」
 そうなのかもしれない。それでもいいかもしれないと思った。寝たきりの女の子もいるって言うのに、ぼくは起きれば健康体、寝れば移動自在な霊体があるのだ。なんとも、妙な話じゃないか?

 


280

 東雲禅幸名誉教授は菊沢佳恵の恩師である。
 だからこの場合も親しかった菊沢やその他数名しか現状に違和感を感じることをできなかっただろう。
 ゴツい、と以外表現の仕様がない外見。白髪が七割を占める髪はオールバックで後ろがはね、明治期の日本人のような豪快な顎鬚を蓄えている。眼光鋭く鼻は角ばり、口元は自然な状態でも威圧感を与える。
 そして現在、彼は学会に出席していた。ゲストとしてである。
 喧々諤々な場で、彼は腕を組み、黙考に徹していた。学会のメンバーは彼が何か意見を言えば場の空気が動くと思っていたので、意見を投げあいながらも彼の動向を気にしていた。
 しかし彼はそれよりも大事な問題が胸のうちを占めていた。
 ――うんこに行きたい。
 ここ数日便秘気味だったので妻が便秘に聞く料理を色々試したのが効いたらしい、と東雲は思う。
 だが世間的なイメージのためにトイレで中座はできない。東雲はどうでもいいことでは凄く頑なになる。
 菊沢など身近な者は十分すぎるほどに知っていたが、東雲は子供以上に意地っ張りであった。だから議題の終結を待つ心積もりでいたが、まったく終わりそうにない。それどころか混沌となって話の焦点すらぼやけている感じがする。
 くそ、馬鹿めそんなことどうでもいいだろうが! などと心中思うも一切口にすら出さない。もし注意深く彼を観察していたら眉が一瞬だけはねあがったのを見れただろう。
 やがてますます限界が近づいていた東雲は一言だけ投げた。それは議題の核心を突くものを、少し婉曲な言葉で言ったものだった。
 だが本題からそれていたこの場ではまったく無関係な言葉にも聞こえる。事実、メンバーの一人が非難するように言った。
「それは関係ないでしょう」
 すると東雲は内心やった! 引っかかった! と思いながら、
「ならばこれ以上の議論は無駄なようですな」
 そう言って東雲は立ち上がると、さっさと退出した。そしてその後姿を見た学会のメンバーから、ここまでばっさりと場の空気を斬れるとはさすがは東雲名誉教授、と真実を知られぬままある種畏敬の念を得るのだった。


279

 入院してからもう三年になります。
 体力はすっかり衰え、寝てばかりいるせいか色々な夢を見ます。でも大体、現実にはなりません。
 病気がすっかり治る夢を見ました。でも一向にその気配はありません。友達が見舞いに来る夢を見ました。入院して半年以上経った頃から、おおよそ誰も来ません。美味しいものを食べる夢を見ました。病院の食事はあまり美味しくありません。元気に走り回る夢を見ました。歩くのでさえ一杯一杯です。男の子が病室に遊びに来て、仲良くなる夢を見ました。でも親とお医者さんと看護士さん以外は来ません。
 最初は綺麗だと思った景色も今ではすっかり見飽きてしまいました。最近は体の調子もあまりよくありません。
 寂しいけれど、とても寂しいけれど、一人で居ることにも慣れました。
 何だか眩しかったのでふと外を見ると、夕日と雲のバランスがとても綺麗でした。
 ふと下を見ると、車から降りた、私よりいくつか下の男の子がこっちを見ていました。
 私がそっと手を振ると、男の子は目を逸らしてしまいました。それから一緒に降りた母親と共に病院の入り口へ歩き始めます。
 男の子は入り口の手前で急に振り返ると、少し躊躇った後、小さく手を振り返してくれました。


278

「ビックリ箱を作ってみたんだ」
 そう言って渡されたものを開けてみると、妙に重いと思えば中は水で、箱の中に波で歪んだ自分が映っていました。水面の自分と目が合います。蓋を開けた時の微かな振動で水面がゆらゆらと揺れています。
 そのまま蓋を閉じると、世界が閉じられたかのように急に真っ暗になりました。


277

 俺は人間でなくなるのではないかというほどの努力をして、国の科学研究室の室長になった。
 これでひとまずは安心だ。怖がりだった俺の懸念が一つ減った。
 もし絶対に回避不能な隕石が来ることがわかったら、到達するより先に核のスイッチを押せる。ああ、隕石で滅ぶなんて怖いったらありゃしない。


276

 婆さんに先立たれてからというもの、昔の夢ばかり見る。
 感傷的になっているのは否めない。
 昔の、まだ婆さんが女学生だった頃の、とびきり古い夢だ。
 それもこれも一人になって同居を始めた息子夫婦の子、つまり私にとっての孫が、あまりにも似ていたからだろう。一度だけ嫌がるかもしれないと思ったが、言ってみた。お前は婆さんの若い頃に似ているなあ、と。孫は嫌がる様子はなく、それどころか悪戯っぽい笑顔で、ならお婆ちゃんは絶世の美女だったのね、と返してきた。冗談好きなところも、よく似ている。
 ただいま、と今日も孫の元気な声を聞いて、私はかつての連れ合いに想いを寄せる。孫を通して、半世紀以上前の記憶で、もう一度だけ恋をする。

 


275


 翠嵐の中に居るような感覚に私は大きく息を吸い込んだ。しかし本当はこんな感じになるのは不謹慎もいいところだ。目を開ければ翠嵐とは似ても似つかぬ光景があるのだから。
 ここは築かれた文明が崩壊して、自然と融合し始めている場所。廃墟と化した都市だ。かつての形を保っている建物は一つもない。どれも倒壊や爆破の後が見られ、街道だろうと遠慮なしに散った瓦礫に蔦が這っている。
 かつてそこにあった、写真に載っていた美麗な建築物は累々と横たわる瓦礫となり、その美しさは失われた。 ―だが、かつて存在するだけで芸術だったその街並みは、また別種の教訓を持った美しさでそこに残っている。
 その瓦礫通りの向こうに、屈強な体躯の老人を見つけた。私はその姿に強く心を揺さぶられて思わず近寄り声をかける。
「ミスタ…クリスマス?」
「イエス?」
 その老人、クリスマス氏は私の問いに返事をしてから慌てたようだった。すぐに身を隠そうとする。
「待ってください!」
 と言った所で止まるようならば良かったが、十分近く追いかけっこをする羽目になった。スカートではなくて良かったが、私は走りながらクリスマス氏が止まるまで、自分が別に何ら変な因縁を持った人物でないことを説明しなければならなかった。

「な…んでっ、逃げるんですか…」
「…君は誰かね。何故私をその名で呼ぶ…?」
 クリスマス氏は慣れに加えて往年の頑強さも手伝ってか、殆ど疲れた様子も見せなかった。汗はかいているものの私ほど息を切らしてはいない。…私は大声を出しながら走っていたので疲れきるのは当然だが。
「あぁ…確か今の名前はウィルソンさんでしたか」
 クリスマス氏はじっと私の顔を見つめた。
「君は随分…若いようだが」
 一体自分の古い名前にどういう関わりなのか、とクリスマス氏は私に尋ねた。
「私はクリスマスさん…じゃなかった、ウィルソンさんの俳優時代のファンなんですよ」
 クリスマス氏は怪訝な顔でもう一度私を見る。
「俳優…と言うと変身ヒーローをやっていたころの? あれはもう半世紀近く前だ…。君は多分生まれていなかったと思うが…」
「街の古い資料館にディスクが残っていたんです。初めて観たときは…」私はブンブンと頭を振って「とても、表現できません」
 クリスマス氏はと真っ白な口ひげを震わせて笑った。
「そりゃあ今に比べれば質は悪いだろうがね」
「いえ、そうじゃなくて…感動…どころか、人生が変わりました」
 そして私は鞄から手帳を出す。紙製の、随分時代遅れな代物だ。
「…また古いものを持っているね」
「ええ」と私は頷いてから表紙を開いて中を見せた。そこにはドルイドの名で呼ばれた変身ヒーローの写真が挟まっている。
「これは…」
 クリスマス氏がさすがに戸惑ったような声を上げる。そして困惑した表情になった。無理もないだろう。ドルイドはクリスマス氏の人生を良くも悪くも変えたものなのだから。
「しかし…それならその後のことは…」
 クリスマス氏が丸っこい愛嬌のある目で私を不安そうに見た。
「大丈夫、知ってますよ」
 クリスマス氏はかつてあまり真っ当でない世界にいたらしい。だが体つきがいいという理由から学生時代の友人が企画した変身ヒーローものの主役を張ることになった。その友人はクリスマス氏が当時何をしていたかまでは知らなかったらしい。
 兎に角クリスマス氏はそのあまり有名にはならなかった。どちらかというとマイナーなドルイドを九ヶ月続けた。話の作りが異様に巧く、クリスマス氏の本当に強そうな、というより実際強いのだが、その体躯で繰り広げられる殺陣は視聴者を熱狂させた。その熱狂振りは長らく後を引き、番組終了後も要望にこたえて何度かショーのようなものを行ったらしい。さすがにそれはディスクがなかったので文献のみの資料だったが。
 そうやっているうちに純粋なファンとの繋がりは深くなり、クリスマス氏はその頃のファンの名前を殆ど言えた。とはいえ、番組が終わって一年くらいが経っていたので交流あるのは五十人ほどだったらしいが。そのままの流れでクリスマス氏は真っ当な仕事に就き、ファンたちとも芸能人とそのファン、ではなく良い友人のようになっていった。
 だがそれから七年経ち、かつて自分のファンであり、やがて友人になった人らも一周りも二周りも大きくなった。それぞれの人生が、本人なりの苦しみや喜びを抱えて歩いて造られてきたものであることは想像に難くない。
 そして一人が麻薬関連の抗争に巻き込まれた。クリスマス氏はその子の友人から相談を受け、助けるべきか苦しんだ。返事を置き、個人的に色々調べてみたところ、かつて自分がいた組織が肥大化したものだということが判った。裏社会での八年。それは重鎮と呼ばれるに値する相応しい年数であり、まだ留まることを知らずに膨張を続けているということも知った。そして今回の抗争はその一端が反発したために広がったものだったらしい。
 クリスマス氏は、自分にその子を助けるための理由を作り続けた。かつてのファンじゃないか。数年来の気の置けない友人なんだぞ? 台詞とはいえあんな綺麗事を言っておいて見てみぬフリをするのか? 今の自分はどうだ、会社では難しい仕事が出来ないために顎で使われ、馬鹿にされる。辞めるにはいいきっかけだろう。
 だがきっかけは向こうから来た。会社の方から解雇を言い渡された。理由は何かそれらしいことを書いて濁されたらしい。クリスマス氏は、表世界から一度完全に消えた。
 半月後、クリスマス氏は堂々と帰還した。新聞にも載った。三面の小見出しだった。だがそれはヒーローの帰還といったものではなく、抗争で人を殺したために連行されるところを警察を殴って逃げ出したという不名誉極まりないものだった。
 以来、警察と組織に追われている。というところで元変身ヒーロー「ドルイド」の主役だったクリスマス氏についての話は終わっている。

「あの事件以来、私は転々としている」
 クリスマス氏が生まれた沈黙を破るように言った。
「…ええ。知っています。私もまさかこんなところでお目にかかるとは」
「警察の方はとうに時効になっているだろうし、シンジケートの連中も一新されて私のことを直接覚えているような奴らは殆ど居なくなっているだろう」
 クリスマス氏は知らないのだ。警察が手配を取り消したことも、組織があの事件から半年後に壊滅したことも。言うべきでは、ない…のだろうか?
「…会社から解雇されたというのは本当だったんですか? 巧く…」話が出来すぎているような、と言いかけて私は思わず口を噤む。これも聞いていいことではない。―だが、遅すぎた。
 ああ! と唸りをあげてクリスマス氏は頭を両手で抱える。
「あの会社はシンジケートの連中と繋がっていたんだよ…。話が出来すぎている気もするが…。金の横流しの罪を一人に被せて死んでもらう必要があったんだ。それで会社の名簿を見たシンジケートの顔なじみが私を覚えていて、指名したのだろう」
「そんな…」
「そしてそれを止めようとして、私の大事な友人が抗争に巻き込まれた。あれは事故だったんだ…。もし抗争が起きて、無駄な金が必要にならなければ会社の金が流れることもなかっただろうし、…いや、もう、過去のことだ」
 クリスマス氏は小さく頭を振る。もう何度同じ思考と中断を繰り返してきたのだろうか。過去のことだ過去のことだと言い聞かせながらも、クリスマス氏はその泥沼から出ること出来ていないようだった。もしかしたら、あまりにそうしている期間が長すぎて、今いる場所が泥沼であることにさえ気づいていないのかもしれない。
 もう、その姿にかつてのヒーローは居ないことを感じる。
 だが、本当に居なくなってしまったのだろうか? かつて真っ当でない世界からドルイドに変身したクリスマス氏が、徐々に失速して更に一段落ちてしまった。でもまだクリスマス氏の中でドルイドは目覚めを待っていたりはしないのだろうか? 例え台詞でもドルイドの言葉は一語一語が重く、強く、優しかった。
「―例えば」と、私はゆっくり言う。「今、もう一度ドルイドをやってみませんか、と言われたら…どうします?」
 クリスマス氏は怪訝な表情をすることもなく、それどころか柔和な笑顔すら浮かべて口を開く。
「…できると、思うかい?」
 クリスマス氏は老人だ。あの頃に比べて体力も落ちているのは明らかだろう。でも。
「もちろん」
「……有難う。でも、何故そんなことを?」
「何故なんでしょうね」
 私は苦笑と共に答える。実は、本気で判らなかった。クリスマス氏の中のドルイドに希望を持ちはしたものの、別に本当にやろうと思ったわけでもない。大体、今更そんな変身ヒーローなんて誰が見るのだろうか? テレビなんて、誰が見るのだろうか?
「弱者の味方、か―」
 クリスマス氏は何気なしに地面の砂を掴み、掌を上にして開く。さらさらと砂が風に乗って流されていった。

 


274

「ねぇお父様?」
「どうした我が娘よ」
「ここはとても暗いわ。ランプもないようだし、窓もないのよ。お日様にご挨拶したいわ」
「いいや、もうその必要はないのだよ」
「必要がないですって! 酷いわお父様。私、お父様の言うとおり、お父様に従って住居を点々としてきたわ。お日様を浴びるくらいは許されるのではなくて?」
「困ったな。何で今更そんなことを言い出すんだい?」
「だってもう長いことお日様を見ていないのですもの。お父様のお顔も見えないわ」
「側に居るんだから見えなくたっていいじゃないか?」
「いやよ! お顔が見えなければ頬におはようやおやすみのキスもできないのよ?」
「今までしないできたんだから、今更気に病むことでもないだろう?」
「…何故お日様にご挨拶できないのかしら?」
「…影に生きなければならないのだよ」
「私は何も悪いことしていないわ!」
「ああ、そうか。お前はまだ幼いから気がついていないのだね」
「何にかしら? お日様がなくなったなんて煙に巻かれたりはしないわよ?」
「お日様はなくならないよ。今もきっとあるはずさ。そうではなくて、もう既に私もお前も死んでいるのだよ」

 


273

「おい」
「何だアンタは」
「その男は私が先に目をつけていたんだ。その男は輪廻の輪に組み込まれることになっている」
「何だと? こっちが連れて行ってる最中だ。この人には閻魔様の裁きを受けてもらうことになっている」
「別の人間にしろ。とにかくその男はもうリストに載ってるんだ」
「馬鹿いうな! アンタに引き渡したら閻魔様に怒られるだろうが! アンタこそ別の人間にしろ!」
「お前の事情なんか知るか。兎に角こっちも仕事なんだよ。大体その男だっていちいちまどろっこしい裁きなんか受けるより転生したほうが楽に決まってるだろう」
「閻魔様を馬鹿にする気か? 猫も杓子もほいほい転生させやがって。どうせ手抜き仕事なんだから蟻の魂でも放り込んでろよ」
「あの、どっちでもいいんで早くしてもらえませんか、ここ寒すぎて」
「煩いな、寒いとかはどうでもいいだろう。それより手抜きとは何だ! お前のところなんか閻魔の裁きがちんたらしてるからいつまでたっても列が減らないんだろう」
「そういうのは手が込んでるって言うんだよ! 列が出来なきゃ良いってもんじゃないだろ」
「どうせその男も列に並ぶんだからこっちに寄越したって良いだろうが!」

 するする

「順序が決まってるからそんな適当なことは出来ないんだよ! それくらい判れ!」

 するする

「どうせ何年もかかる列なんだから一人分くらいどうにかしろよ」
「お前みたいなのがいるから…っておい、魂がどっかいったぞ」
「何、いつの間に…あ、あそこだ!」
「あぁ、くそ、一体誰だ! 糸なんか垂らしやがったのは!」


272

 ばしゅ、と圧縮空気が抜ける音がして、先頭車両しかない汽車が沼を横断中に停まり、走行をやめたせいでその巨大な車体が僅かに沈む。その汽車の足元にレールはない。こうして停まってみればまだ動くこと自体が不思議に思えてくる。露出した鉄の部分は錆が浮き、車体に塗られたブリキを連想させる黄色は所々剥げてきている。廃棄されていてもおかしくない。
 そして運転室から出てきたのは旧帝国時代に居た制服を着た運転手ではなく、金髪で白のワンピースを着た少女だった。
 少女は汽車が急に停まったことが不思議そうに、わざわざ先頭部まで歩いて優しく汽車に話しかける。
「たー君、どうかしたの?」
 当然ながら汽車は答えない。少女は困ったなあ、とばかりに辺りを見渡す。沼と、それを囲む森林。特に何かありそうには思えない。今までいくつもの海や湖を越えてきたので、足を取られたということはありえない。
 少女の頭に葉っぱが落ちてきた。少女はそれを取り除きながら見上げると、上に黄色い果物がなっていた。
「わあ!」
 少女は汽車の梯子を使って車体の上に登り、その果物をもぎ取る。そのまま齧りつくと、少女は満面の笑みを浮かべた。
「美味しい!」
 それから数時間ほどかけて暫くは持ちそうな量の果物を確保した。そして更にお腹一杯になるまで食べると、
「たー君、ご馳走様」
 汽車に声をかけて運転室に戻る。それから一分も経たないうちに最初はゆっくりと、徐々に力強く汽車は走行を再開した。


271

 僕は巡覧航空機の中から雲で出来たそれをじっと見つめた。
 名は『嘆きの罪人』。
 おそらくクラウズアート名鑑に新たに乗ることは確実であろうそれは、日照を以って完成していた。苦悶らしき表情、助けを求めるように伸ばされた腕。そこに午後一時の日光が当たることによって、光に焼かれている罪人が出来上がる。考えたものだな、と僕は思う。日照を含めて一つの作品となすのはおそらく歴代のクラウズアートでも初めてであろう。
 クラウズアートが出来たのはおよそ七十年前に遡る。ある気象庁員崩れの科学者が雲を吐く機械を造り上げたことに始まる。最初は旱魃地帯などへの雨雲作成などを行っていたが、その科学者がお遊びで、人工的に像を作ったのだ。それは名鑑の一番最初にある、メシアという名のクラウズアートがそれにあたる。現在の職人たちが作り上げるようなものに比べれば出来としては酷いものだが、全ての原点が集約されていると思えば中々立派に見える。ゴッホがその名前があるのとないのとでは絵の売れ方に天と地の差があるようなものだ。
 そしてソレを見た科学者の同僚が友人の絵描きを連れてきてクラウズアート(もっとも、当時はそんな名称はなかったが)を作らせてみた結果、数度の失敗の末に"アート"として認知されることになる作品ビッグマンズパーク、邦名『巨人の雲遊び』が生まれた。
 それ以来各国の気象庁に製造機が量産されて配られた。当時から気象庁以外のいかなる個人や団体にも提供されないというのは変わっていない。天候に影響を与えすぎるからだ。だが気象庁限定でもその後何人かの悪戯から国際摂理法が生まれて「アートとしての人工雲海の作成禁止」や「メーター3以上の凝固剤の使用禁止」などの制約もついた。
 だが未だにクラウズアートは健在で、歴代の名作を収めているクラウズアート名鑑も173までその数を刻んだ。そして今日174番目の項目が出来上がるだろう。

 クラウズアートというのは真っ当な芸術としてはもっとも短命だ。その存在が、ではなく勿論個々の作品が。メーター7という狂気じみた数値の凝固剤を使用した、摂理法で禁じられる前の幾つかを除けばそれは風に流されて半日から一日、長くても二日三日しか作品としての形を保つことは出来ない。
 だが反面、利点としてとっつきやすさもある。立体データをカードに組み込んで気象庁に持っていくだけだから、誰にでも出来る。そこらの園児が適当に打ち込んだデータが意外とよく出来て、名鑑に加えられた例もあるくらいだ。料金は日本円だと七百円。東南アジアだと円換算で五十円もしないから相当高い。しかしヨーロッパだと千三百円くらいだと聞いたから、平均くらいなのだろうか。
 そして天候に影響を与えない範囲で、その組み込まれたデータは拡大投影されて空に吐き出される。その結果が―
 僕は大分後方になった嘆きの罪人をもう一度見た。まるであの中に閉じ込められた本当の罪人の意志を反映しているんじゃないかと思うほどに精密だ。恐らく作者は拡大投影分まで考慮して超精密画を描いたのだろう。それこそ米粒に綺麗な絵を描くかのように。
 それからふと漂うクラウズアートの間をぬって眼下の海を見た。何の感慨を持つわけでもなかったが、ただ綺麗だと思った。