思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳315-301

1 幸せ 2 怒り 3 寂しい 4 元気 5 冷酷 6 痛み 7 恐怖 8 意地 9 号泣 10 強がり

11 虚無 12 絶望 13 悩む 14 悦 15 驚き 16 複雑 17 期待 18 がっかり 19 企み 20 軽蔑
21 嘲笑 22 感動 23 どうして 24 意地悪 25 我慢 26 照れ 27 憎しみ 28 微笑み 29 まいったな 30 嫌悪
31 危険 32 知らなかった 33 眠い 34 疲労 35 焦燥 36 勇気 37 違う 38 ショック 39 苦しい 40 拗ねる
41 不安 42 自信 43 睨む 44 不満 45 きょとん 46 告白 47 照れ隠し 48 呆れ 49 見つかった! 50 チャンス


315 ―15 驚き(193

 扉を開けると同時に、菊沢先生は到底老人に向けるものではない言葉を言った。
「よーぅ、婆さん生きてるかー?」
「はいはい。まだまだ生きてますよ」
 そう言いながら菊沢先生言うところの"婆さん"は顔を出した。先ほどの話から考えてもここの孤児院の院長さんに違いない。
 確かに見た感じからして高齢だが、杖も付いていないし、足取りもかくしゃくとしている。私はここで挨拶するべきか、と思うが長いこと人と接していなかったので巧く言葉が出なかった。
「おや、その人は?」
 私が黙っているので院長さんが先に気が付いた。
「跡取り候補だよ」菊沢先生がさらりと答える。
 院長さんはまぁ、と言うと子供のように目を輝かせた。
「宗家の? それはまぁよかったわねぇ 子供の出産予定とかは? 式はいつあげるの?」
「ちょ…ちょっと待て!」院長さんの言葉に私も慌てたが、菊沢先生はそれ以上に慌てたようで、「違うぞ! 宗家の方は孝弘に任せてあるって言っただろうが! 私は学問に人生捧げてるから結婚とかはしないの!」
「…そうなの?」院長さんは小さく首を傾げて問う。
「そうだよ! …ったく、ボケると早とちりが多いからまいるな。こっちの…院の方だよ」
「まぁ!」院長さんは先ほど以上に目を輝かせて、私を見た。
「あらあら、本当に? 助かるわ! 佳恵ちゃんは全然考えてくれてないみたいだったし…」
「か、考えてないってことはないだろ…」
「お名前を聞かせてもらえるかしら?」院長さんは私に優しく微笑みながら問う。
「高辻、雪野です」
「雪野さん? 綺麗なお名前ね。素敵だわ」院長さんは花のように笑って言った。「本当にお手伝いをしてもらえるのかしら?」
「ええ…。ですが…」
 院長さんは首を傾げる。その顔を見ていると、どんな理由であれ拒絶に類する言葉を口にするのが躊躇われる。
「私は顔が…少し」
 昔の火傷で半分がただれてしまった顔は、とてもカタギの人間には見えないのだ。私は自分の信念に沿ってそれを隠すことは一切していない。だからこそ…こういう場では信念を曲げる気はないものの、少し気まずさを覚える。
「そんなこと」と院長さんは言った。顔に関する話題でそんなこと、と言われたのは初めてだ。「全然気にしませんよ」
「そらみろ」と菊沢先生も得意気に笑う。
 私も馴染まない皮膚を引きつらせて微笑おうとした時、
「菊沢のお姉さ…」と、子供らが奥の部屋から何人か出てきて、菊沢先生の下へ駆け寄りかけ、私に気づいた。
 子供は悲しいくらいに正直だった。
「うわぁっ」と悲鳴を上げてたちまち奥へと駆け戻る。…どうも、幸先は重いようだ。いや、無理かもしれない。
 院長さんは追いかけていったのか、子供らと一緒に奥の部屋へ入ってしまった。
 しかもよく見たら酷いことに、一人気を失って倒れていた。…まぁ、インパクトのある顔であるから、ある程度の反応は覚悟していたが…これはさすがに…苦笑するほかなかった。
 ふと菊沢先生はこれにどんな反応をしているのか、と思って見てみると、…大爆笑寸前だった。
「き…気絶してやがる…ククク…どんだけビビりなんだコイツ…クッ…は、腹が…」
 そのまま菊沢先生はスマンと言い残すと外へ出た。門柱に倒れ掛かるようにして小刻みに震えている。相当ツボにハマったらしい。菊沢先生は相変わらず憎めない人だった。私はそんな先生を見ながら自分のただれた方のざらついた、嫌な感触の皮膚を撫でる。
 ギッ、と扉が軋む音がしたので院長さんが戻ってこられたのかと見ると、扉が微かに開いているだけで誰も居なかった。
 そのまま目を逸らすと、再び扉が軋む音が聞こえた。
 もう一度見る。よく見ると、扉の隙間に子供の影が見えた。どうやら茶か何かを持っているようだ。盆が扉の隙間から見える。
 しかし扉の向こうから子供が出てくる様子はない。
 仕方なしに私が受け取りに行こうと足を踏み出すと、子供はビクリと扉の向こうで身を一歩引いたようだった。どうやらこちらから動くことも叶わないらしい。
 少々うんざりしてため息をつくと、扉の向こうで声が…それも何か揉めるような声が聞こえた。
 そして声が止んだかと思うと今度は扉がゆっくりと大きく開き、片目に眼帯をした少女が固い足取りでこちらに歩いてくる。
 私が黙って見守っていると少女は私の元まで来て、勢いよく盆を差し出した。
 盆に載っていた二つのコップのうち、一つがその勢いで倒れる。
「…………」
「………どうぞ」
 少女は何も見なかったかのように、倒れなかったほうを私にとるように言う。
 クスッと笑いながら私は受け取り、極力優しく聞こえるようにありがとうと言った。
 片目の少女は目を真ん丸にして私を見た後、にっこりと笑いで応えた。


314 ―14 悦

「おーい帰ってこーい」
 その声にアカリは正気に戻る。そして智子に詰め寄った。
「何、ちょっ、ちょっと、これ、何処で買ったのよ!?」
 智子は戸惑いながら上体を反らしつつ答える。
「何処で…って駅降りてすぐの文具店で…。あぁ、あんた自転車通学だから知らないわよね…」
「…………」アカリはごくりと唾を飲む。その震える手に握られているのは一本のシャープペンシルだった。
「そ、そんなにいいの? 今度買ってきてあげようか?」智子はあまりの異様さについついそう言ってしまった。
 アカリの捕食獣同然のギラついた目が智子を見る。智子は反射的にヒッ、と叫びそうになって慌てて声を呑んだ。
「…今度?」
「あ、明日よもちろん。今日買って明日渡すから! ね? いいでしょ? なんなら今日一日それも貸してあげる!」
「ホント!?」アカリの目がいつもの落ち着き…といっても若干興奮気味ではあるが、とにかく落ち着きを取り戻した。
「う、うん。ちょっと落ち着いた…?」
「もう絶好調!」
 それは落ち着いたとは言わん、と思わず突っ込みそうになるが、智子はすんでのところで言葉を呑み込む。今は下手なことは何も言わないほうがよさそうだ。
「…一つ聞いていい?」
「んー?」アカリは緩みきった笑顔で返事をする。
「ど、どこがそんなに気に入ったの?」
 その質問を受け、アカリの視線が氷点下にまで下がる。智子は失言だったか、と軽く舌打ちをする。が、もう遅い。
「……気に入って買ったんでしょ?」
「あ、あぁ、うん。ももももちろんそうだけど、ほら、アンタの意見も聞いてみたいかなあ…なぁんて…あははっ」
 アカリは満足げな顔で頷き、口を開く。
「なるほどね。思わず智子の正気を疑ったわ。この薄い割に弾力のあるゴム、緩やかで寸法も素晴らしいペン先、落ち着いた色調ながら単調ではない模様で形作られた本体…ようやく時代もここまで来たか、って感じよね。ペン先が三段テーパーのも機能的には悪くはないんだけどさ、デザイン的にこっちの方が好きなのよ」
 智子はアカリの正気をさっきからずっと疑っているが、その疑念を声に出すことはせず、ただへらへらしながら同意を示すのだった。


313 ―13 悩む

 報告書:先日殺害されたベリマン氏について

 過激派のシンボルが(おそらく意図的に)現場に残されていたことから、その方向での捜査を続ける途中、ベリマン氏の仕事現場(ネチオ新聞社)のデスクからベリマン氏直筆による興味深い手記が見つかった。以下に記しておく。

 ベリマン氏の手記:
「フェイクスターについて」

 フェイクスター。今奴のことをどうこう言うのは非常に危険なことであるのは十分に判っている。
 嘘の希望であり、偽りの英雄であり、"真の英雄"による革命返しが行われた後、まず初めにフェイクスターが希代の詐欺師として処刑されたのは周知の事実である。

 隕石の迎撃に我々が核ミサイルを使用したことによって起こった混乱は全世界を巻き込み、その中で残っていた政府は保身と安定のために一番手っ取り早く絶対的な恐怖政治の方向で行こうとした。混乱期の中で、その政体は生き残りの民からこれ以上ないほどに反発を受けた。
 そしてその最中に救世主のごとく現れたのがヘルドー・リンマンである。全世界の分割統治よりも中央集権化による安定を、そして世界一体となり乗り切るべきだともっともな事を唱えた。しかし、後の調査で判明し、いまや国定教科書にも載っているのでみなの知るところではあろうが、その実態は世界征服と読んでなんら遜色がなかった。…ただ、実際統一後にどんな政策を試みていたのかは、ヘルドー暗殺時に本営ごと焼き払われたので一切知ることはできない。

 しかし当時はヘルドーは革命家としてあらゆる世界の民に持ち上げられた。それほどまでに旧政府の実態は酷いものだったらしい。その勢いに乗って、ヘルドーによる革命という名の世界征服は着々と進み、ようやくあと一息で全てを手中に収めようという頃、まだ記憶も色あせないほどの頃のことではあるが、フェイクスター(当時はシューティングスター。本名は不明)が出てきて各地で内乱の煽動に動いた。おそらく、ヘルドーからすればそれは無視していい程度の規模だったに違いないが、名声のためと本営の近くだったという理由から討伐に動いた。
 それからフェイクスターは巧いことヘルドーを挑発しながら逃げ続け、逃亡先でヘルドーの"革命"の実態を喧伝して回った。そう、多分当時、行動力のあった人間の中ではフェイクスターこそが"革命"の真実を知った第一人者だったのだ。
 ただ、その後が悪かった。
 再び訪れた混乱に、ヘルドーに代わる救世主として期待された"シューティングスター"は、ヘルドーを怒らせるだけ怒らせてある日忽然と雲隠れしてしまったのだ。
 その後、ヘルドーが破竹の勢いで混乱の平定に動き出すのと同時に、地獄からの怨嗟のように"シューティングスター"への非難が集まった。むしろその非難のおかげで、ヘルドーは思ったより楽に混乱を平定できたに違いない。
 そして以降は諸君らの知る通り…。"真の英雄"ルッドマンによるヘルドー暗殺である。
 当初、ルッドマンこそが"シューティングスター"だったのかと称えられた。しかしルッドマンは全くの別人であった。それはルッドマンが世界統一後、改めて地方分権を確立した後にまずやったことが"シューティングスター"改め"フェイクスター"捜索だったことが証明している。それも、地方の村で農夫として帰化しかけていたフェイクスターを引きずり出した挙句に、世界をかき回した罪として処刑してしまったのだ。

 もしかしたらフェイクスターは、ヘルドーによる統一が成ったらおそらく起こったはずの内乱を恐れたのではないかと思われる。もしあの時フェイクスターが出てこなければ、ヘルドーは今なお生きて全世界の権力を一点に集めた玉座に君臨していただろう。"真の英雄"が動いてヘルドーを殺害するまでは少し時間が必要だった。フェイクスターの役割は、時間稼ぎだったのだ。
 だがその場合、賢人の異名をも持つルッドマンが気がつかなかったのか?
 これは仮定に過ぎない…それも突拍子もない仮定に過ぎないが、ルッドマンとフェイクスターは顔見知りだったのではないか? 神格化されてしまったルッドマンだが、過去の記録を見ても相当名声欲が強かったように思われる。だから…おそらくルッドマンより先に出て、ルッドマンを間接的に助けるような働きをして身を隠したフェイクスターを公然と表に出したら、自分が霞むほどの名声を得ると考えたのではないだろうか? フェイクスターは農夫として余生を過ごそうとしていたにも関わらず。
 奴はどこまでが「フェイク」だったのか? 判らない…。
 そもそも、処刑されたフェイクスターは、…本当に当人だったのか? フェイクスターは、当時絶対的な兵力を持っていたヘルドーにさえ、一度たりとも捕まらなかったのだ…。


312 ―12 絶望

 ラボの一角で、獣人二人は追い詰められた。
「…くそ、弾切れだ」
 獣人の片割れ、ラルグリィがトンプソンモデルのマシンガンを握り潰さんばかりに握り締める。
「…こっちも」
 もう片方、アーリネもストライカー12のショットガンを銃尻を掴んでぶらぶらとさせる。
「これで…晴れてエモノはナイフだけになったわけだ」ラルグリィが腰からコンバットナイフを抜き取り、ナイフの腹で巨大な掌を叩いた。
「逃げ切れる…と、思う?」アーリネはラルグリィの機嫌伺いでもするかのように問う。
「…………」
 ラルグリィは追っ手を確認しながら考え込む。
「……ラル?」
「…ん…そうだな。出来なくは、ないだろう」
「本当に?」アーリネは心配そうにラルグリィに聞く。
「任せろ」ラルグリィは相手を安心させるような心強さで胸を叩く。
 アーリネもそれで安心したようで、ほぅと一息ついた。
 アーリネは思う。全て政府が悪かった、と。反政府側との内戦で劣勢に立たされ、隣の中立を約束したはずの国が反政府側に加担の動きが見られる、との報を得ると政府の官僚たちは狂ったような、否、狂わないと到底浮かばないような考えを導き出した。

 獣と人との融合。

 獣の感覚に人の知能。その二つを持ち合わせた兵士が大量に居れば負けることなどありえるだろうか? そう考えた官僚は、ちょうどタイミングよく己の部隊が壊滅したのに生きて帰還した兵士二人を実験台として科学者に送りつけた。
 実は、獣と人との融合という考え自体は、戦争で多少優勢だった頃から科学者に研究要請が出されていたらしい。そして追い詰められて、その人道を逸れた案が実態あるものとして官僚の頭に浮かんだのだ。
 大量の兵士など既に居ないのに。ただ非道なる人体実験の汚名を被るだけなのに。
 実験は行われた。
 そして実験台となった二人の兵士は、今こうして逃げている。実験成功の証を全身に刻んで。

 アーリネは考える。
 実を言うと、どれくらいなのかは判らないが、最近の記憶がごっそりと消えている。忘れているだけなのかもしれない。おそらく、実験の苦痛を忘れさせるための記憶忘却措置の影響が強すぎたのだろう。
 ただ、ぼんやりと…ぼんやりと、ラルグリィとずっと居たことは覚えている。だが、それくらいだ。そう、その向こうに、何か大切なコトが…
「アーリネ!」
 ラルグリィの呼び声でアーリネは意識を現実に戻す。
「…大丈夫か? しっかリしろ。来た」
「え、ああ…」
 本当にぼんやりとしていた。アーリネは頭を強く振って思考を切り替える。
「いいか?」
「ええ、ごめんなさい。大丈夫」
「俺が飛び出すと同時に、お前は向こうへ走るんだ。振り返るな。全速力だ」
「判っ…」アーリネは反射的に頷きかけて、固まる。
「飛び出す? どこへ?」
 ラルグリィは何を言っているんだ、とばかりに眉をひそめ、飛び出すほうを指差す。
「そっちから、奴らが来てるんじゃ…ない、の?」
「そうだ。だから俺が時間を稼ぐから…」
「何で!? 逃げ切れるって言ったじゃないの!?」
 ラルグリィは気まずげに目を逸らす。
「…言った」そして意を決したようにアーリネの目を見返し、「だが、二人でとは言ってない」
「そんな…そんなのって…!」
「言いたいことは判る。だが…」
 その押し問答で、アーリネは急に思い出した。そうだ。部隊から退却するときだ。隊長に言われて撤退中、追い討ちをかけてくる敵兵にどんどん自分たちの部隊は数を減らしていき、もう全滅は確実だった。
『ラル、アーリネ。俺とアーシュが向こうに回る。お前たちは反対側に逃げるんだ』
『馬鹿言うな、お前たちだけが…』
『黙れ。黙れよ? …いいか。お前たちが生き延びて戻り、正確にこのことを報告するんだ。そしたら…政府がよほどの馬鹿でもない限り、戦を続けようとは思わないだろうし、我々七部隊の中で唯一の生存者であるお前たちが戦線に出ることもない。だからその後は、日々俺たちにションベンちびるほどの感謝をしながら二人で暮らせ』
 そうだ。たくさんの仲間の命を預かって、帰ってきた…はずだったのに。
 そして、ラルと貧乏でも平和に暮らす…はずだったのに。それを私は心から喜んでいたのに。何で。何で、愛していることに気がついたら、片方が死ななきゃならないんだろう? …政府? これは、私たちの命を受け取って何も学ばなかった、政府が悪… 「アーリネ! …しっかりしろ。呆けている場合じゃない」
「だって…だって…」
「いいか、もう一度言う。俺が飛び出したら、全速力だ。来るぞ」
「ラル! 待っ…」
 ラルグリィは兵士の群がる廊下に飛び出した。
 反射的に、兵士だったアーリネの部分がラルグリィの言った通りにアーリネを走らせていた。その足は人間では考えられない速度で通路を駆け抜けてゆく。だが、アーリネの心は一歩足を踏み出すごとに、一歩ラルグリィから離れるごとに、底なしの昏い昏い泥沼へと沈んでいくのだった。


311 ―11 虚無

 アイデアもネタも何もない。


310 ―10 強がり

 八月。とある企業の、灼熱に晒されている屋外ブースの一角。

「おい、お前さん大分辛そうだぜ」
「んー? いやいや。この程度で辛そうとか言うなんて、お前さんのほうが辛いんじゃないか? そら、そこの鍋焼きうどんがまだまだ残っているじゃないか?」
「いや、食事はゆっくりとるタイプでね。それより、さっきからお前さんがコタツの中でもぞもぞ動かす足が邪魔でしょうがないんだ。出たいんなら出たらどうだい?」
「もしかして気づいてないのかもしれないが、お前さん、さっきから振り子のようにふらふらしているぜ。ストーブに近いのが災いしたのかなぁ?」
「なぁに。これはリズムをとっているだけさ。音楽をかじっていたんでね」
「ほほう…。一定しているようには見えないが、リズムが狂っているのかな? きっと外の30℃という気温がとても涼しいぜ」
「ああ、実に涼しそうだ。じゃあ逆にここはどうだろう?」
「…ふん。思考力も落ちているのか? その程度の引っ掛けで禁句を言うとでも?」
「…まぁ、今の引っ掛けが浅はかだったのは認めてもいいがね。…それより、勝者には何があるんだったかな?」
「はぁ? 馬鹿だな、勝者には三十万相当のパソコ…おっと、間違えた。それは二位だった。確か優勝者には業務用ストーブじゃなかったかな?」
「業務用ストーブ! なんて素敵な響きなんだ! 欲しい。欲しいね。ぜひ欲しい」
「極寒の冬ならな」
「…ちっ」
「…ふん」


309 ―09 号泣

 姫城家御曹司の隆一は右手でグーとパーを交互に作りながらその会場に足を運ぶ。
 目指すは会場中央の、人垣のさらに真ん中に位置する掲示板。
 とある高名美術家の直接指導を受けるための試験結果発表だ。
 自分の番号は既に記憶してある。隆一は顔を緊張に強張らせながらも人の頭の間を縫って何とか番号を確認する。
 …………。
 ……………! 見つけた!
 右手で小さくガッツポーズを作る。
 隆一は絵を描くことが好きだった。純粋に好きだった。だが姫城の家ほど裕福ではない親戚たちは、一同に「金持ちの道楽だ」と蔑み混じりに陰で言い続けた。それを知っていた隆一は、報われた気がした。隆一はこの迸るほどの喜びを表現する術を知らなかったが、内心では人生で五本の指に入るほどに喜んでいた。
 確認した以上、もう用はない。しっかり記憶の中の番号と掲示の番号を二度三度と確認して、会場を後にする。
「隆一様!」
 車の傍で控えていた、執事の斉藤と女中の吉村が駆け寄ってくる。隆一が笑顔で迎えようとするより早く、斉藤は隆一に抱きついた。
「次が…次がありますぞ! そう気を落とされずに…! 家に帰ったらお疲れ様会で労いの準備をするように手はずを整えております!」
 斉藤は溢れる涙を拭おうともせず、ただ自分の主を慰めるようにその掌で背を叩きながら言う。
「そうですとも! 親類の悪口がなんですか! 我々の中にも隆一様の絵が好きな物好きもございます! 決して隆一様は…」
 隆一は優しく吉村を制す。
「ありがとう…。気持ちは嬉しいよ。でも、受かったから」
 一瞬、場が凍る。
 斉藤が次の瞬間には吉村に目配せをして、再び声高に叫び始めた。
「そうでしょうとも、そうでしょうとも! 私と吉村は隆一様がどこの馬の骨のケツの穴から生まれでたか知れたものではないような画家風情に認められないはずがない、とずっと信じておりました。私、期待通りの結果に感激の涙が止まりません!」
 隆一がげっそりした顔で吉村を見ると、吉村は携帯電話に声を潜めて指示を下していた。
「いえいえ、受かったんですって! 幕とケーキの文字を至急祝勝会に書き換えて…ええ、…え? 本当ですって! 受かったんですよ! 間違い…? いえ…む…そうかも…。…でも一応祝勝会でお願いします!」
 隆一はさらにげっそりした顔で晴れ渡った空を見上げる。別に、悪気があってやってるんじゃないんだよなぁ…。
 それから暫く、言葉の機関銃とでも言うべき賛美の嵐を、隆一はげっそりした顔で受け続けるのだった。


308 ―08 意地

 菊沢佳恵はベンチに座って困りきっていた。
「ぅおーい…。もう許してくれよー」
 公園のベンチの前で、一人の男の子が泣いていた。度々目元の涙を拭って泣くのを我慢しているようだが、笑えるくらいに隠せていない。
 木々が秋風に撫でられる微かな音と、時折公園の外側を走る車の音以外は全く聴こえてこない。公園自体が狭いわけではないのだが、今はこの場にいる二人を除いて無人だった。
 男の子のしゃくりあげる声が、菊沢の許しの請いに対する返事のようだった。
「何だー? 何がそんなに許せないんだー?」
 菊沢の名誉のために言っておくと、菊沢は何もしていない。
 そもそもの発端はこうである。
 この男の子は今日、授業参観で張り切っていた。たまたま近くに来ていた菊沢が親戚の家に宿を借りており、その親戚の子供の授業参観に忙しい両親の代わりに出たのだ。そして授業参観で張りきって積極的な態度で挙手をして発言をしていったが、それは求められた回答とはどれもズレており、クラスメイトの失笑と嘲笑を買う結果となった。
 その帰り道、菊沢が一言ぽつりと「頑張ったなあ」と言ったらいきなり泣き始めたのだ。慌てた菊沢はすぐ近くだった公園に寄り、そこで話を聞こうと思ったのだが全然喋らない。ずっと泣き続けている。それで菊沢も困り果てているのである。
「むぅ…」と腕組みをして唸るも、何も事態は解決しない。
 どうしたもんか。子供関連でこれほど悩んだのは初めてだろう。ただ首を捻るばかりだった。
 そして数分ほど経ったろうか。男の子は顔を上げた。
「…先生なんて全然偉くないもん」
「え、えぇ?」
 いきなり何の話か判らなかった。しかしここで下手なことをいうのも拙そうだ、とそれだけを考える。
「ん、まぁ先生よりは偉いヤツなんていくらでもいるけどさ…」
「お姉ちゃんのほうが偉いもん」
「わ、私か?」菊沢は返答に窮する。
 自分も一応は"先生"なのだ。高校だったり中学だったり大学だったりとふらふらしている非常勤ではあるが。
 それきり、男の子は泣くことに専念し始める。菊沢の観念では"今日あったこと"は大したことではないので、「相手の気持ち」になれないのだ。
 だからどんな思いで泣いているかなど、とても判らない。珍しい親戚のお姉さんにいいところを見せようとしたとか、それが失敗して悔しかっただとか、親戚のお姉さんの一言で堰が切れて泣き出してしまったものの、そのこと自体がますます情けなくなっただとか、気遣われる自分のみっともなさだとか、そんなことは菊沢が十年悩んでも辿り着けない場所なのだ。
 菊沢は頭をかきながら顔を上げる。そして公園の向こうのほうで葉が舞い落ちるのを眺めていた。


307 ―07 恐怖

「どうだい"お嬢様"? スカっとするだろう?」
 薄明かりに照らされた室内。一人の男が中央の手術台に似た台の上で、老人に残虐の限りを尽くしていた。
 部屋の片隅で人形のように立ち尽くす少女の足元に目玉。濁りきったそれは台の上の老人のものだ。少女が見ている前で、男は心底楽しそうに老人の腹を割き、腸を引きずり出す。
「どうした? もっと近くで見ないのか? このクソ爺に文字通り骨まで仕返しが出来るぜ?」
 少女はそこで始めて感情の動きらしきものを見せた。表情は眉一つ動かさぬ無表情。ただ、拳がぎゅっと握られる。
「…とう様。もう止めて。いくら嫌いでも…おじい様はもう…死んでいるわ」
「…おいおい何年も会ってないのに今更"とう様"だなんて水臭いじゃないか。遠慮せずにおじ様とでもなんとでも呼びたいように呼ん…そういえば我が子と今日に至るまで会えなかったのも、この爺のせいだっけなあ!」男は怒りに任せて思い切り振りかぶり、メスを心臓に突き刺した。
 少女はそれきり黙って俯く。相変わらずの無表情。それは恐れから来ているのか、感情の欠落の表れなのか、全く判別がつかない。
 男は横目で少女を、自分の娘を一瞥した。その顔に何の感情も浮かんでいないことが不満だとばかりに、老人―自分の父でもある―の遺骸に唾を吐きつけた。


306 ―06 痛み

 チリンチリン

「いらっしゃいま…あ」
「おーっす」
 私がバイトしている小さな喫茶店に、よく学校の友達である結城君が遊びに来てくれる。…いや、マスターが言うにはもうずっと前かららしいから、私のほうが彼の行きつけに店にバイトとして入った、と言ったほうが正しいのだろう。
「いつものー」結城君はカウンター席に座ると、私にそう言う。
 結城君の"いつもの"。彼の嗜好に合う珈琲だ。もう、何度も注いでいる。他のお客さんに注いだ分よりも多いかもしれない。
「いつもの、って注文するのって格好いいですよね」私は頬杖をついて暇そうにしている結城君に言う。
「…判る? 俺もそれやりたくてさー。そのためにここ選んだのよ」
「……?」"いつもの"と言うのと、この喫茶店が結びつかなくて、私は首を傾げる。
「あぁ、判んない? だからさ、俺珈琲好きだからこういう場所だと頼むのいつもそれだし、店小さいほうが顔も覚えてくれるだろ?」
「なるほどー」あまりにも判りやすい理由に、思わず私はクスクス笑う。「そういえば…うちのクラスにいる吉山君って言う男の子が、いつも行ってるチェーン店のラーメン屋で「いつもの」って頼んだらお店の人に「はぁ?」って返されたって憤慨してましたよ」
「あっははははは! チェーン店はなぁ! 人の入れ替え激しいし、駄目だぁ。覚えてもらえるのは強盗やらかしそうな人相の人くらいだよ」
「くく…そ、それ…酷いですよ…あはははは」
 二人して笑い出す。

 チリンチリン

 そのささやかな時間に終わりを告げるかのごとく、新たな来客をベルが知らせた。
「…ヒロ」
 そのお客さんも良く見る顔だった。いつも結城君が来て暫くするとやってきて、結城君を連れて行ってしまう。穏やかだけどしっかりした顔立ちで、同性ながら憧れる所がある。結城君の彼女さんなのかな、と思ったけれど、とても聞く勇気はなかった。
「ん、ああ」
 結城君もその人に気がつくと立ち上がって財布を取り出す。ああ、やっぱり行っちゃうんだ。そんな失望の念も結城君が気づくわけはなく、お釣りがないように値段ちょうど分を置いて「じゃ、またな」と行って店を後にする。連れの人も私に軽く目礼をして外に出る。結城君の連れの人が何か頼むことは凄く少ない。十回に一度くらい、結城君が飲んでいるのと同じものを頼む。でも、私は何故か悔しいから、いつも少し味を変えている。
 そう、何故か悔しいのだ。たまにとは言えども注文してくれるお客さんであることには変わりがないのに、何で悔しいとか思っちゃうんだろう?
 自分の胸に聞いても答えは返ってこない。ただ、何か黒いもやもやとしたものが無関心に心の片隅に居座っている。何だかこの黒いもやもやは好きになれない。でも、いくら追い払おうとしても、その黒いもやもやは消え去ってくれることはないのだった。


305 ―05 冷酷

「…な…にをしている…」
 人通りの全くない取り壊しを待つばかりの廃ビルだらけの区域の一角で、一人の男が必死に起き上がろうとして、正面で瓦礫に座ってじっと自分を見ている存在に気がついた。そして、その人物が自分をこんな目にあわせた憎き敵であることも、充分過ぎるほどに判っている。
「見ての通り、何もしちゃいないよ。心配するな。これ以上…何をする気もない。今のところはね」
「なら…何故そこに残っている…さっさと消えたらどうなんだ…」
 瓦礫に座る人物は口元を歪めてニヤリと笑う。
「いやぁ…ヴァンパイア…ヴァンパイア、ねぇ…」
「…確かに私はヴァンパイアだ。…何が言いたい?」
「日光で塵になる様が見たいんだよ。もし本当にそうなら信じるぜ」
「信じるも何も…」
 瓦礫に座る人物は手を振って言葉の先を制する。
「おいおい、普通の人間の私に負けたお前さんが何を言っても証拠にゃならんよ。昔読んだ文献で再生能力も凄い、みたいなこと書いてあったから試しに両足潰したけど、全然治らないじゃないか?」
 ヴァンパイアの男は凄絶なまでの眼光でその人物を睨み付けるが、涼しい顔をしているのを見て諦め、すぐに目を逸らす。
「女なんぞに…」ヴァンパイアは不愉快そうに呟く。「…貴様、何か変なものでも使ったろう。再生が…いくらなんでも遅すぎる」
「ん。バレた? なはは。蝙蝠退治を依頼してきた人らがくれたんだわ。効いたみたいで良かったよ。効かなかったら朝まで延々潰さなきゃならんかったし」
「くそっ、一体何でこんな…」ヴァンパイアはひび割れが目立つアスファルトを拳で叩く。
「…目にあうのかって? 私はよく知らんけどねぇ。自分の胸に私らの常識と照らし合わせながら聞いたほうが早いんじゃないの?」 
 そしてその人物は瓦礫から立ち上がり、うろうろし始める。
「そろそろ帰りたくなってきたなあ。もうすぐ夜明けだ。きっと今まで見たことがないくらいに綺麗だろうよ。…ねぇ?」
 ヴァンパイアは答えず、舌打ちをして目を逸らした。


304 ―04 元気

「博士、妹さんのことは本当に…」
 白衣を着た一人の若い研究員が、よれよれの白衣を着て、中年に差し掛かった辺りの男に声をかける。その声は本当に心がこもっていて、いたたまれなさを滲み出していた。
「んー」
 博士と呼ばれた男は椅子に背を預け、天井を見ながら煙草をふかし、無関心のように生返事を返す。
「我々も…もう少し知識を持ってあの研究に挑んでいれば…」研究員は今度は悔しさを滲ませて言う。放っておくと、自虐に走りそうな男だった。
「まぁ仕方がないさ」博士はへらへらと笑いながら研究員を一瞥して返事をする。「もう済んだことだし、いいよ別に」
「…………」
 研究員は半泣きで博士を見る。自分の妹を助けるためにしていた研究がようやく完成する、という時に妹のほうが完成を待たずして命尽きたのだ。悲しくないはずがない。事実、研究所でその報を受けたときは雄叫びを上げて研究していたものを壁に投げつけたのだ。その日一日中は自室に篭りきりで食事もとらず、誰も寄せ付けなかった。
 翌日はちゃんと食事もとったがやはりまだ落ち込んでいるのが判った。
 そしてその翌日にはこの通り、妹が死ぬ前と同じ状態まで戻っているのだ。あまりに早い立ち直りに気でも触れたか、と所員一同は思ったがその態度に普段と、数日前の普段と違うところは見て取れなかった。
「…? 平気平気。そんな心配しなくても大丈夫さ」
 博士は研究員の心配そうな視線に気づいて笑って見せる。その態度は不自然に明るいというわけでもなく、本当に普段どおりで、そのことがより周囲の者を不安にさせるのだった。


303 ―03 寂しい

 会社の昼休み、煙草を吸いに外へと出る。最近は社内禁煙になって肩身が狭い。だが、それも仕方がないことなのだろう。じきに半世紀を生きたことになる私は、もう淘汰されゆく身なのかもしれない。娘の会話にも正直ついていけないこともある。その点は…私が年をとったのではなく、若者文化がいつでも流動的な証拠だろう。
 私の学生時代は、今の私からは想像も及ばぬほどに騒がしかった。
 五人ほどでつるんで、色々悪巧みをしたり人をからかったり、賑やかという言葉以外が浮かばないくらいに華やいでいた。多分、あの頃が一番楽しかったと思う。奇跡的に大学に受かった時も、初めて彼女が出来たときも、今の嫁さんに出会った頃も、いい思い出ではあったが、楽しいとは違っている。あの面子で居るときが一番楽しかった。
 鬱陶しいくらいに賑やかだったあの日々も、今は静かな思い出として過去に浮かんでいる。そして時折ふと思い出しては、今でも懐かしい気持ちになる。


302 ―02 怒り

「本当にィ…?」
 瀬尾は疑わしげな眼差しで目の前の少女を見た。
 当人曰く、
「本当に! 本当に、幽霊なんですっ!」
 らしい。しかし…と、瀬尾はその少女をしげしげと見つめる。足がある。薄幸そうな感じもない。本当に幽霊なのだとしても、普通に人として生活できそうだ。
「…………」
 瀬尾の考えていたことが顔に出ていたのか、少女は噛み付きそうな表情で唸る。
「そうだ」と瀬尾は手を打った。「少し待ってて」と言い残してその場を後にして、数十分ほどで戻ってくる。
「ちょっと、一体何なんですか!? 話の途中にいきなり何十分も待たせて…」
「これ。作ってきた」
 瀬尾は少女の話を遮るようにして、今の間に作ってきたというそれを掲げて見せた。
「……これは?」
 少女は怪訝な顔で覗き込むようにそれを見る。
「こうするんだ」と瀬尾は少女の頭にそれをつけた。
 それは白い三角形。日本で最も定着している幽霊の自己主張の一つ。
「あー、こうすれば…。うん。確かに幽霊かもしれない」
 瀬尾は満足そうに白い三角形をつけた少女の顔を眺める。
 だから少女が呆れた表情をしつつも、腰の辺りで握り締めた拳で以って、目の前の少年に鉄拳制裁を与えるか否か考えていたことに気が付くことはなかった。


301 ―01 幸せ

「こ、これが…」
 男が小さな密閉された缶を、震える手で抱きかかえるように持っている。
 男の背後には惨状が在った。男がいるのは銀行のような場所の一番奥。その場所に、男以外の生存者はいない。三十人近くの人間全員が死んでいた。
 そこら中に紙片と血が飛び散る中、男はその手元の缶しか見えていない。
「ついに…手に入れた…」
 男は極めて慎重な手つきで缶を布で包み、転がっていた適当な鞄の中にしまいこんだ。
 鞄を持ち、振り返り、室内の惨状を見渡す。
「あははははははははははははははははっ!」
 その場所にいた人間が、最早無力な肉塊でしかないことが可笑しくてたまらないという風に、笑った。