思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳328-316

1 幸せ 2 怒り 3 寂しい 4 元気 5 冷酷 6 痛み 7 恐怖 8 意地 9 号泣 10 強がり

11 虚無 12 絶望 13 悩む 14 悦 15 驚き 16 複雑 17 期待 18 がっかり 19 企み 20 軽蔑
21 嘲笑 22 感動 23 どうして 24 意地悪 25 我慢 26 照れ 27 憎しみ 28 微笑み 29 まいったな 30 嫌悪
31 危険 32 知らなかった 33 眠い 34 疲労 35 焦燥 36 勇気 37 違う 38 ショック 39 苦しい 40 拗ねる
41 不安 42 自信 43 睨む 44 不満 45 きょとん 46 告白 47 照れ隠し 48 呆れ 49 見つかった! 50 チャンス


328 ―28 微笑

 幼心に強く覚えていたことが一つだけある。
 それは母が死んで、半年経つか経たないかといったところだったろう。
 父はタクシーの運転手をしており、夜が遅いために私は隣の磯山さんの家に厄介になっていた。
 しかし日が変わるころになっても帰ってこないことも多い父だったために、幼くして母をなくした同情から私の世話を見てくれていた磯山さん夫婦も、私を一人家に返すこともあった。
 私は一人広い家に取り残されて、父と母の名を呼んで泣いていた。

 そしてここからが本題になる…のだが、私には肝心なところの記憶が抜け落ちている。温もりも安心感も思い出せるのに、現実的な部分のみが抉られたように抜け落ちている。
 磯山さんから聞く話によると、ある晩泣き声がぴたりと止み、代わりに笑い声が聞こえるようになったのだという。当初私の父が早い帰宅を心がけるようになったのか、と安心したらしいが、それより後の、普段父が帰って来る時間に、父はいつもどおり車で帰宅してくる。
 そうした晩が続き、磯山さんが様子を見に来ると、私は暗い部屋で誰かと会話しているようだったという。
 磯山さんは父にそれを話し、父は私に「誰か来ているのか?」と尋ねた。
 私はしっかり「お母さん」と答えたらしい。
「…お母さんは何処から来るんだい?」
 私は普段閉まっている仏壇を指し、
「アレを開けてにこにこしながら這い出てくるよ。でも、顔色が悪いんだ」
 以来父は仏壇の扉を外し、早めの帰宅を心がけるようになり、私が母と会うことはなくなった。
 父からすれば、冗談では済まされない話だったのだろう。
 でも私は温もりを覚えている。抱きかかえてくれた。頭を撫でてくれた。子守唄を歌ってくれた。
 たとえその存在が許されず、呪われるべき存在だったのだとしても、きっと優しい人だった。


327 ―27 憎しみ

 その女性歌手は"癒し"の歌を歌う筆頭歌手であり、恐ろしいまでの人気があった。
 彼女が何故そこまで綺麗な浄化作用のある歌を歌えるのかを知るものは殆ど居ない。ただ、両親を失ったことが彼女を逆境から立ち上がらせ、癒しの力を胸の奥に湧き上がらせたのだろう。その程度の認識だった。
 確かに、両親を失ったことは大きく関係している。
 ただ、彼女は事実上両親を見殺しにしている。両親の存命中から人気は凄まじいものがあり、その時彼女はツアーの真っ最中だった。ある日事務所で彼女の弟から「至急金が要るから少し都合してほしい」という連絡を受け取った。
 事務所はマネージャーにその話を伝えたものの、マネージャーはツアーの障害になると見てそれを黙殺した。数百万という大金だったので、マネージャーは立て替えることもしなかった。
 今となっては何故その金が必要だったのかも、何故それが両親の死に繋がったのかもわからない。ただ判ったのは、それを黙殺したことにより、生き残った弟の凄絶なまでの恨みを買ったということだけだった。逆恨みに近い。
 葬式も、彼女のツアーが終わらぬうちにひっそりと行われたらしい。葬式には、彼女の元には話すら来なかった。

 ツアー後にその話を聞いた彼女は愕然として事務所の社長に詰め寄ったが、社長に何の責任もないことがわかった。マネージャーに伝えてはいたのである。マネージャーはクビになった。彼女はすぐに弟に会いに言ったが、態度は酷く冷淡で、彼女がしつこく詰め寄ると塩を浴びせかけられたという。
 恐ろしいまでの嘆きが、彼女の歌に彩りを与えた。
 それは己の罪まで彼女が償ってくれるかのように、疚しいことや罪悪感を抱えるもの、広範ではほんのささやかな悩みを抱えるものまで、全てが彼女の歌に拠り所を求めた。
 彼女の歌は贖罪だった。許しを請う歌だった。たった一人に。自分の歌が弟の黒く固まった心を溶かしてくれることを祈って、全身全霊を込めて歌うのだ。


326 ―26 照れ

 何故か僕は姉さんの家出につき合わされている。家は学校を挟んでちょうど反対のあたりにアパートを借りている。
 姉さんは社会人で、僕は高校生だ。別に僕が付いていく必要はなかったんじゃないかと思う。親父に「一緒に行け」と言われなかったら僕は残っていただろう。親父に言われて、何で? とは思ったものの、何か楽しそうだったから付いて行っていいか一応聞いてみたのだ。そしたら拍子抜けるくらいにあっさりと同行の許諾を得た。正直な話、姉さんは物静かな人だから僕みたいに半端に騒がしいのは居ないほうがいいだろうと思っていたのだが。寛容なのか、何か理由でもあるのか…。
 そうして始まった生活は、基本的には変わらないものの新鮮だった。
 学校が変わるわけではないが、帰る道が違う、家が違う。
 まるでホテルに居るかのような感じだった。姉さんがテレビを全く見ない人なので、僕が家から古いのを持ってきた。僕専用である。台所などがあるスペースを除くと、居住用としての生活スペースは一間だ。姉さんが居るときも僕は普通にテレビを見ているが、特に文句をいわれたことはない。いつも姉さんは黙って本を読んでいる。その姿を見ていると、この物静かな人がどうして喧嘩などしたのだろうと思えてくる。…母さんは過干渉な部分があるから仕方がないのかもしれないけれど。

 学校からの帰り道、そんなに道の真ん中を歩いていたわけではなかったのだが、クラクションを鳴らされた。少しムッとしながら脇によると、クラクションを鳴らしてきた車は通り過ぎるかと思ったが、僕の横で停車した。ちらりと顔を上げてみると運転席に居たのは姉さんだった。
「ユキ」
 と窓を開けて姉さんが呼んでくる。ちなみに僕の名前は幸則なのだが、姉さんには一度も正しく呼ばれたことがない気がする。
「…早いね、今日は」
 時計を見ると、まだ五時過ぎだった。普段は七時過ぎくらいなのに妙に早い。
「早く終わった。…買い物に行こう」
「買い物?」
 姉さんは無言で頷く。少し、意地悪をしてみたくなった。
「…僕も行かなきゃ駄目なの?」
 まさかそう返事を返されるとは思っていなかったらしい。姉さんは一瞬目を真ん丸にする。
「そうか、疲れてるもんな。すまん。…何かいるものとかは?」
「いや嘘嘘! 行くって!」
 うーん。すんなり受け入れられるとこちらも罪悪感が沸く。
「いいよ。ゆっくりしてな」
 このままでは平行線になりそうな気がしたので、僕は黙って運転席の反対側に回りこんで、車に乗り込む。軽自動車なので荷物があると少し狭い。鞄だけを後部座席に放り投げる。
 姉さんは何か言いたげに僕を見たが、結局何も言わずに車を出発させた。

 母さんと姉さんが大喧嘩をして、姉さんが家を出ると言ったときも母さんは反対した。母さんは姉さんが喧嘩の最中に言っていた通り、過干渉で過保護なところがある。親父が「もうサチも社会人なんだからいいじゃないか」と言っていなければ、どうなっていたかは判らない。
 そして親父に「一緒に行け」と言われて、姉さんに聞いたらあっさり「いいよ。おいで」と返されて、僕は親父にどういうことなんだろう、と一度聞いてみた。
「…まぁ、サチの面倒を見てやれ」と、親父ははぐらかすように答えた。
 むしろ料理に掃除に洗濯に、掃除や洗濯は僕がたまにやるが、おおむね家事の殆どは姉さんがやっている。面倒を見てもらっているのは僕のほうだろう。親父の意図は未だにわからない。

「…姉さん」
 ラジオも音楽も流れない静かな車内の空気に導かれるように、僕は言葉を口にしていた。
「ん?」
「最初さ、姉さんが家出るときに…何で僕も行くって言ったらいいよって言ったの?」
「……父さんや母さんと三人だけじゃ寂しいでしょ」信号二つ分ほどの無言の後に姉さんは答えた。
 僕は思わず噴き出しそうになるのを堪えた。それは明らかにこじづけだったからだ。
「…姉さん、いつも一人で黙々と読書してるのに一人で暮らすの寂しかったの?」少し笑い混じりに尋ねる。
 姉さんはそれに何度か言いよどんだ後、口を尖らせるようにして答える。多分、運転に集中しているから自分がそんな顔をしているなどとは思いもしないだろう。
「いや…別に…そういうわけじゃ…ない…」
 ククク、と隠そうともせずに僕は笑った。姉さんが以外と寂しがり屋なところがある、というのは今まで姉さんが僕に対して作ってきた像の、必死になって隠していた面が垣間見えたようで何だか温かい気持ちになった。
 姉さんを盗み見ると、前方を心なしか妙に凝視しながらも、顔を赤くして相変わらず口を尖らせていた。
「よしよし」
 信号が赤になって、停車したときに姉さんの頭を撫でてやる。
「やめろよぅ」と言いながらも、ハンドルにもたれかかるようにして唸るだけで、姉さんは特に拒絶したりはしなかった。


325 ―25 我慢

 その研究所の所長は、大変なわがままで、所員を困らせることが度々ありました。
 そのたびに所員は所長を止めなければなりません。

「止めてください、止めてください!」
「うるさい! 私が決めたことに逆らう気か!?」
「止めてください、止めてください!」
「なんだと、離せ! 私はもはや考えるつもりはない!」
「止めてください、辞めてください!」
「えぇい、貴様くど…ん? 今何て言った?」
「ですから、止めてください、と」
「…? まぁいい。私は所長だ。いいか、一番偉い。貴様らの意見に従う義務はない!」
「止めてください、止めてください!」

 所員は毎日大変ですが、それでも自分の好きなことをやるためにがんばっています。


324 ―24 意地悪

「ねぇ、いい加減教えなさいよ」
「いやよ。まだ教えないわ」
「何でよ! そんなにもったいぶることでもないでしょ! 教えてよ!」
「うーんどうしようかしら…」
「いいじゃない、教えなさいよ」
「決めたわ! このことは墓まで持っていく!」
「ええ! いきなり何を言うの!? 教えなさいよ!」
 バチーン
「キャアッ」
 バタンゴッゴッゴッガスッペシュッバーン

「…………」

「死んだ…」


323 ―23 どうして

 一匹のトラが街道の真ん中、石畳の上で横たわっていた。もはや助かるヤマは超えて、体温が徐々に失われてゆく段階にある。
 その様を遠巻きに大勢の人が見ていた。蔑むように、怯え混じりで、見ていた。
 トラが一人の女性を見つけて、弱弱しく鳴きながら這って寄ろうとする。
 しかしそのトラの行動を見ると、その方向にいた人が過剰なくらいに下がった。
『…………』
 それでもトラは体に鞭を打って進もうとする。だが、それは見るからに弱弱しい。
 そのトラを見て危険はないと判断したのか、トラが求めていた女性が一歩前に出る。
「私の娘を返しなさいよっ!」
 そう叫んで、女性は石をトラに投げつける。
 トラはそれを聞いて、その行動を見て、動くのを止める。もうただ悲しそうに女性を見つめるだけだった。女性はなおも叫んでいたが、その声は聞こえていなかった。
 トラはただ思う。
(お母さん…)
(私はここに居るよ…)
(何で石を投げるの…)
(止めて…止めてよ…)
(お母さん…)
(私は………)
(誰?)


322 ―22 感動

 あたしの家族は両親以外に年が離れた双子の弟と妹が居る。大学生のあたしとは違い、下の二人はまだ小学生だ。
 今日は家族で映画を見に来ていた。本来ならあたし一人で行く予定だったのだが、母さんもみたかったらしく、それならばということでぞろぞろとアヒルの行列よろしく家族で連れ立って来ていた。
 話は、わかりやすい筋のアクションだ。最近はラストでどんでん返しがあるようなサスペンスを数本見ていたので、気分転換…というには贅沢だけど、たまにはこういうのも観たくなる。

 映画が終わり、近場の、いくつかの食品店が密集したフードコートで休憩していた。
「凄い! 格好良かったー! バーンって!」
 妹の千佳は身振りつきで好きなシーンをあたしに教えてくれる。でも、言葉も身振りもあまりにも抽象的過ぎて、具体的にどのシーンなのかわかる事は滅多にないのだが、その不器用ぶりも含めて愛くるしい。
「…つまらないね。あんなの」
 弟のシュウは背伸びしたい年頃なのか、いっちょ前ぶって何から何まで全部否定する。正直、あたしにはその無理ある背伸びっぷりが可愛らしくて仕方ない。
 つまるところ、年がうんと離れているので、両方とも可愛いのだ。
「シュウ君いっつもそれねぇ? 人生詰まらなくなるわよー?」と、母さんがたこ焼きを分解してたこを探しながら言う。
「…つまらないものはつまらないもん」シュウが拗ねたように言う。全部を否定して、孤独な一匹狼を気取っているくせに、本当は構って欲しくて仕方がないのだ。
「そんなことないよー! わたし面白かったもん!」千佳がシュウの意見に身振り交じりで反論する。
「お前のは、何処が面白かったかちっとも判らない」
 それにはちょっと同意。…だが、千佳はぷー、と唸りながら頬を膨らますと、シュウのたこ焼きを一つ奪い取る。
「あー! 何すんだよ!」
 そう言ってシュウは千佳のたこ焼きを一つ攫っていく。
「何するのよ!」千佳も負けてはいない。…元凶なんだけど。
 そうしたやり取りを眺めていると、母さんが携帯電話を見ながら「ちょっとお父さん探してくるわ」と言って立ち上がる。人が結構いるので、どこかで立ち往生しているらしい。
 適当に見送りながら、眼前の可愛らしい喧嘩を見守る。飛び火を避けるために、あたしの分は全部食べた。
「…シュウ」ふと、あたしはシュウを呼んだ。
「…ん?」シュウの反応と共に、自然と喧嘩もストップする。
「本当に詰まらなかったらいいけど、涙するときに涙し、怒るべきときに怒ることが出来ないような子にならないようにね」
「…? うん…」シュウは釈然としない顔ながらも、頷く。
「つーまーりっ! わたしを見習いなさいっ!」千佳が胸を張って断言する。
「お前を見習ったら頭がパーになるだろっ!」
「どういう意味よっ!?」
 喧嘩、第二回戦に突入。
 あたしは余計なことを言ったかな、と少し反省する。シュウの否定癖が将来悪影響を及ぼさないように― そんなことを考えて、まるで親みたいだな、と少し自虐的に笑うのだった。


321 ―21 嘲笑

 しんしんと降り積もる雪が草原を白く染めてゆく。
 降雪に強めの風が加わり、吹雪と呼んでもかまわない天候になる。
 その草原の…否、雪原の、森に近い場所に人影があった。うずくまっており、その背には雪がその人物が留まっている時間を示すかのごとく降り積もっている。
「クレメンティア…」
 うずくまっている男は、自分と同じ兵装をした女性を抱きかかえていた。
 戦場から逃げてきたのか、双方共に疲れきった顔で返り血も見られた。ただ、クレメンティアと呼ばれた女性の方はまだ多少は余力がありそうな男に比べて、紙のように顔が白い。血の気がなかった。
「クレメンティア…」泣きそうな、か細い声で男は女性の名を呼ぶ。
「ライナルト、…」
 やっと、といった調子でクレメンティアは言葉を口にするが、男性の名を呼ぶのみで後半は声になっていなかった。
 ライナルトは僅かに安堵の表情を見せるが、一瞬で掻き消える。冷静に考えればこの状況は拙い。本営は大分離れているし、雪になる前の雨で全身濡れている。過剰に冷える。自分ならば風邪で済むかもしれないが、クレメンティアは命に関わる。
「クレメンティア、本営に戻るまで持ってくれ…」
 ライナルトは祈るように言った。
「…ライナルト」クレメンティアは意識がはっきりしてきたのか、先ほどよりは明瞭に、力強い調子で言う。「アンタ、なんて顔してるの」
「君に言われたくないよ。…もう、いいから黙っていてくれ…」
「…はっ。弱虫のアンタに指図される…ッ…謂れはないね」
 クレメンティアは口端だけで、ライナルトを馬鹿にしたように笑う。
 ライナルトは一瞬だけ空を見上げて、歯を食いしばる。そして次にまたクレメンティアを見下ろしたときには普通の顔に戻っていた。
「…君は」ライナルトは反論を許さぬような口調で言う。「いつもそうだ。小さい頃からずっと僕を弱虫扱いしてきた。でもその結果がこの大怪我じゃないか!? たまには大人しく…」
「…煩い。戦場では私みた…いな捨て駒の方が偉いんだよ。……、若き天才参謀だかなんだか知らないけど、戦えないなら黙って本営から出てこなきゃいいんだッ!」
 クレメンティアは一気に言い切ると、酷い咳をする。
「もう、喋らないでくれっ! 僕には君が居ないと…居ないと…」
 クレメンティアはライナルトの言葉を聞き、泣きそうな、困ったような、そんな複雑そうな表情を浮かべてから軽蔑しきったような笑みを浮かべる。いつもなら呼吸をするような感覚でそんな表情が出来たのかもしれないが、今は引きつっていて、見るからに痛々しかった。しかし、クレメンティアはそんな自分のことにはかまわずに口を開く。
「…ぁ………」
 声が掠れて出てこない。
 クレメンティアは思う。そろそろ限界かもしれない。…いや、本当はもうとっくに限界なんて来ていた。よく持った方だ。さっさと自分は置いて報告に本営へ戻れ、と言おうと思ったのだが残念だった。おそらく、言っても聞きやしなかっただろうけれども。
 昔からライナルトは素質はあったのに心を鬼にする、ということが出来なかった。図面の駒を動かすときにしか、その片鱗を見ることはなかった。どれだけ叱ったか判らない。けれど、今日に至るまでライナルトはライナルトだった。
 ライナルトの戦術は底冷えするものがある。一部の兵を駒として完全に切り捨てるような形ながらも、最終的には勝利を得るという徹底的な合理さ。あまりにも想定どおりに敵が動くので、プログラムされたゲームの駒のような気分だった。
 ライナルトも、将として戦場に出ればきっと大物になっただろうになあ、とクレメンティアは少し残念に思う。だが、もし今後そうなったとしても多分自分がその雄姿を目にすることはない。
 クレメンティアは静かに目を閉じる。ライナルトが、泣きながら自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。


320 ―20 軽蔑

 貧弱な、目が悪い細くて白い少年だった。教室ではいつも一人きりだし、何かペアやグループになることがあればいつもあぶれる。人と険悪な雰囲気になりかければへらへらと謝罪してやり過ごす。プライドも尊厳も何もなく、クラスではおそらく教師を含めたとしても最下級の人間として見られている少年だった。
「な、何してるの?」
 一人きりで食べる昼食も、人の居る教室と人の居ない校舎裏ではだいぶ違う。人が居ないほうが、変な威圧感を感じずに済む。だから、今日も校舎裏に来た。すると見るからにガラの悪い連中が四人ほど固まっていた。
 自分の領域に侵入された怒りがちらつく。しかしそんな"己を出す"感情は自分の中でさえ紙屑以上の価値もない。でもこんなに人が居ては落ち着いて昼食も取れない。だが…相手にやむをえないような理由があるなら納得できるだろうと思い、半ば自分のために声をかけた。
「あ、あぁ?」
 ガラの悪い四人の一人が、見た目どおりの反応をする。他の三人も狼狽したように慌ててその場所から散開した。
「なんだよてめぇは」
「何か用なのかよ!?」一人はいきなりキレ気味に、叫ぶようにして言う。
「い、いや…。ここで昼を食べようと思ってたから…」
 少年のその答えに、四人組は機嫌を思いっきり悪くしたようだった。
「ンだよコイツ…」
「ッけやがって…」
 そのままヒソヒソと四人で固まって内緒話をしている。少年は内心では鬱陶しいなあ早く消えないかなあと思っていたがそんなことはおくびにも出さず、ただへらへらと四人組みの反応を待っている。 「あぁ、悪かったなあおいしいお昼ご飯の邪魔しちまって」そういって、一人が少年と無理やり肩を組む。
「俺らはもういくわ」一人が少年の頭を二度三度、軽く叩く。
「おう行くわ」一人は背後に回る。
「気にしないでくれよ」一人が少年の腕を取る。
 少年のメガネが少しズレ落ちる。しかし腕が取られていて直せない。
「な、何」
 少年は明らかに何かされかけていることに驚き、怯え、身をよじらせるが、少年の力は相手の一人分にすら及ばない。
「いやもう行くからさ、俺たち」
 そう言って先ほど頭を叩いてきた一人が、いきなり少年の足を掴んで持ち上げた。少年は宙ぶらりんの状態になる。
「うわっ! 何だよ! 離せっ!」
「離す離す」そう言いながら少年をブランコの要領で揺らす。
「せーのっ」と、先ほどまで少年と肩を組んでいた一人が、校舎の窓のところで言った。
 同時に、少年の体が宙に踊る。
 一瞬、パニック状態に陥る。
 次の瞬間には頭と足を強打して室内に落下していた。
「キャアアアアアアアア!」
 とすぐ近くの周りで悲鳴が上がる。が、少年は痛くてそれどころじゃなかった。頭を押さえればいいのか足を押さえれば判らずにその場で呻いて縮こまる。
「ぐっ!?」
 いきなり、腹を踏まれた。と、思うと腹を蹴られ頭を蹴られ尻を踏まれ背中を蹴られ蹴られ蹴られ…
 再び、どこかに投げ出されたのだろう。背中に再び大きな衝撃が走り、落下の衝撃で全身を打ち、再び痛みにもだえる。

 やがて多少落ち着いて状況把握にまで意識が回せるようになると、まず気がついたのは喧騒で、次にここが廊下だと言う事だった。自分は脳みそなんてネズミほども詰まっていないような人間の屑どもにどこかに投げ入れられ、それから…それから…よく、わからない。もう一度だけ投げ出されたのは判っている。
 ならば目の前の部屋が最初に投げ入れられた部屋か…と思って顔を上げると、文字が読めなかった。メガネがどっかに飛んでいってしまっている。
 突如、その部屋の扉が開いた。体操服を着た女子が数人出てくる。ああ、ここは更衣室か―と少年は気づいた。
 その体操服を着た女子たちは何故かすぐには立ち去らず、少年の前で立ち止まると、一言「最っ低」と飛びっきりの生理的嫌悪を込めて言い捨てていった。
 泣きたいような、笑いたいような気分だったが、心にはぽっかりと穴が開いている。何か感情を表現しようとしても…本当に出来なくなってしまったかのように。

 しばらく呆然としていた。
 チャイムが鳴るのが聞こえる。予鈴か本鈴かもわからない。ただ、呆然としていた。
「もー…何なんだよ」
 大人の声が聞こえてびくっと体が震える。だが、体はそれ以上動いてはくれなかった。
「あー。覗きの現行犯か」その大人…多分教師だろう。その人は納得したように手を打って言う。
「違いますよ…多分」その教師を牽引してきた女子生徒が答える。
「おーい」教師は少年の目の前で手を振る。
 少年は人形のように無反応。
 女子生徒は無言で更衣室の中へと消えてゆく。
「…………?」
 教師は怪訝な顔で少年の顔を覗きこむ。少年は意識はしっかりしているし、何らかの反応を返そうと思った。しかし、なんだか自分は壁一枚隔てた向こう側に居るような、まるで自分の体が他人の意思の元に動かされているような感じで、手足が全く言うことを聞かない。
 その教師は少年が見たことのない顔だった。別の学年なのか、一時的に来ているだけなのか、どちらかなのだろう。随分な童顔で、年齢が全くつかめない。顔だけで判断すると二十前後なのだが、実際はさすがにもうちょっといっているだろう。
「先生、メガネ。その子の」
 いつの間にか女子生徒が教師の後ろに立っており、メガネを渡す。メガネは奇跡的に無事なようだった。少しフチが曲がっているが、それだけならマシだろう。
「うぉい」
 教師にメガネをかけさせられて、それでもなお無反応だった少年は頬をつねられる。ゆっくり、ゆっくりと意識の塊が全身を巡回して、
「痛ひでふ」両頬をつねられた辺りでやっと感覚が戻ってきた。
「おお、気が付いたか。一体、何があったんだ?」教師は微笑むとそれを聞いてくる。
「痛ひでふ」
 教師はまだ頬から手を離していなかった。
「ん、すまん。お前頬めちゃくちゃ柔らかいな! ちょっとドキドキした」教師は照れたように笑った。
「えぇと…」少年は起こったことを説明するために、考えをまとめ始める。しかし、教師は別の意味で捉えたようだった。
「ああ、私のことなら気にしなくていい。先生だよ。臨時だけどな。菊沢だ。職員室によく居るぞ。無駄にいい珈琲があるんだよ…あんな珈琲は」
「…先生」話が脱線してきたところで、背後の女子生徒が制する。
「おお、すまん。…で?」
 少年は事のあらましをつかえながら、どもったりしつつ、順番もよくなかったが一生懸命説明した。
「ふむ…」菊沢は一通り聞き終わると、納得したように頷く。
「先生、私もそれが本当だと思います。入ってきたときは誰かに投げ込まれたような体勢でしたし、…こんな言い方はどうかと思いますけど、その…覗きとかできそうな子じゃないですし」
「…お前はまだまだ甘いよ。でも…今回はそうなんだろうな」
 菊沢は何故か酷く愉しげな笑みを浮かべると、少年の肩に手を置く。
「さて今からは…」そして続く言葉は、教師に対してそんな高い評価をしていない少年の常識からでは、完全に予測できない言葉だった。「復讐といこうか」


319 ―19 企み

「ではノルモチョンネス、これよりお前を正式な地球征服計画先発として地球に送り込む」
「はっ!」
「よって、対敵諜報部による報告より導き出した最も無難な姿で潜入してもらう」
「はっ!」
「まずは、ジャパンと呼ばれる地へ潜入してもらうことになっている。島国と言う小国ながら先進国として名高い地だ。征服の第一歩に相応しい」
「はっ!」
「万一正体がバレたという可能性があれば即帰還するように」
「了解しました!」


「おい、ノルモチョンネス、聞こえるか。こちら司令部。応答せよ」
「はっ! ノルモチョンネスです」
「首尾はどうだ」
「…危険であります」
「…何だと? 説明しろ」
「はっ! どうも連中は私が違う生命体であることに感づいているようであります…。はっきりとは見て来ないものの、道行く人間の大半が私を一瞥してまいります」
「…それはジャパンの習慣か何かでは?」
「…いえ…おそらくは…それはないかと。実際、調査のためにあちこちを見回しておりますと、時折♂に分類される者どもが寄ってきて何処から来たのか、と言った質問をするのであります。そして追い払っても追い払っても固体識別色の違う完全な別人である♂が寄ってくるのであります」
「…ふむ。おい、諜報部を呼び出せ」
 チー
『閣下、諜報部です。何か御用が?』
「何か御用が、じゃない。ノルモチョンネスの偽装の件だ。溶け込むどころか相当目立っているらしいぞ」
『そんなはずは…』
「一体どういう偽装シェルにしたんだ」
『はい。情報に基づき、人間が警戒を弱める幼年期の背格好に、♀の顔を、ジャパンの美的感覚に基づいて作りました。識別年代層は"幼女"です』
「ふむ…。作戦に抜かりがあったのか? 諜報部、ご苦労。念のために人間の表層から深層意識までの調査を再試行してくれ」
『了解いたしました』
「ノルモチョンネス、聞こえるか」
「はっ! 明瞭に聞こえております」
「一度帰還せよ。作戦をもう一度見直す。念のために今回降りた場所を報告せよ」
「はい。ジャパン王都のトウキョウ内、ステーションアキハバラ近郊です」
「…うむ。ご苦労だった。帰還後はしばし休息をとれ」
「はっ!」

320 ―20 軽蔑

 貧弱な、目が悪い細くて白い少年だった。教室ではいつも一人きりだし、何かペアやグループになることがあればいつもあぶれる。人と険悪な雰囲気になりかければへらへらと謝罪してやり過ごす。プライドも尊厳も何もなく、クラスではおそらく教師を含めたとしても最下級の人間として見られている少年だった。
「な、何してるの?」
 一人きりで食べる昼食も、人の居る教室と人の居ない校舎裏ではだいぶ違う。人が居ないほうが、変な威圧感を感じずに済む。だから、今日も校舎裏に来た。すると見るからにガラの悪い連中が四人ほど固まっていた。
 自分の領域に侵入された怒りがちらつく。しかしそんな"己を出す"感情は自分の中でさえ紙屑以上の価値もない。でもこんなに人が居ては落ち着いて昼食も取れない。だが…相手にやむをえないような理由があるなら納得できるだろうと思い、半ば自分のために声をかけた。
「あ、あぁ?」
 ガラの悪い四人の一人が、見た目どおりの反応をする。他の三人も狼狽したように慌ててその場所から散開した。
「なんだよてめぇは」
「何か用なのかよ!?」一人はいきなりキレ気味に、叫ぶようにして言う。
「い、いや…。ここで昼を食べようと思ってたから…」
 少年のその答えに、四人組は機嫌を思いっきり悪くしたようだった。
「ンだよコイツ…」
「ッけやがって…」
 そのままヒソヒソと四人で固まって内緒話をしている。少年は内心では鬱陶しいなあ早く消えないかなあと思っていたがそんなことはおくびにも出さず、ただへらへらと四人組みの反応を待っている。 「あぁ、悪かったなあおいしいお昼ご飯の邪魔しちまって」そういって、一人が少年と無理やり肩を組む。
「俺らはもういくわ」一人が少年の頭を二度三度、軽く叩く。
「おう行くわ」一人は背後に回る。
「気にしないでくれよ」一人が少年の腕を取る。
 少年のメガネが少しズレ落ちる。しかし腕が取られていて直せない。
「な、何」
 少年は明らかに何かされかけていることに驚き、怯え、身をよじらせるが、少年の力は相手の一人分にすら及ばない。
「いやもう行くからさ、俺たち」
 そう言って先ほど頭を叩いてきた一人が、いきなり少年の足を掴んで持ち上げた。少年は宙ぶらりんの状態になる。
「うわっ! 何だよ! 離せっ!」
「離す離す」そう言いながら少年をブランコの要領で揺らす。
「せーのっ」と、先ほどまで少年と肩を組んでいた一人が、校舎の窓のところで言った。
 同時に、少年の体が宙に踊る。
 一瞬、パニック状態に陥る。
 次の瞬間には頭と足を強打して室内に落下していた。
「キャアアアアアアアア!」
 とすぐ近くの周りで悲鳴が上がる。が、少年は痛くてそれどころじゃなかった。頭を押さえればいいのか足を押さえれば判らずにその場で呻いて縮こまる。
「ぐっ!?」
 いきなり、腹を踏まれた。と、思うと腹を蹴られ頭を蹴られ尻を踏まれ背中を蹴られ蹴られ蹴られ…
 再び、どこかに投げ出されたのだろう。背中に再び大きな衝撃が走り、落下の衝撃で全身を打ち、再び痛みにもだえる。

 やがて多少落ち着いて状況把握にまで意識が回せるようになると、まず気がついたのは喧騒で、次にここが廊下だと言う事だった。自分は脳みそなんてネズミほども詰まっていないような人間の屑どもにどこかに投げ入れられ、それから…それから…よく、わからない。もう一度だけ投げ出されたのは判っている。
 ならば目の前の部屋が最初に投げ入れられた部屋か…と思って顔を上げると、文字が読めなかった。メガネがどっかに飛んでいってしまっている。
 突如、その部屋の扉が開いた。体操服を着た女子が数人出てくる。ああ、ここは更衣室か―と少年は気づいた。
 その体操服を着た女子たちは何故かすぐには立ち去らず、少年の前で立ち止まると、一言「最っ低」と飛びっきりの生理的嫌悪を込めて言い捨てていった。
 泣きたいような、笑いたいような気分だったが、心にはぽっかりと穴が開いている。何か感情を表現しようとしても…本当に出来なくなってしまったかのように。

 しばらく呆然としていた。
 チャイムが鳴るのが聞こえる。予鈴か本鈴かもわからない。ただ、呆然としていた。
「もー…何なんだよ」
 大人の声が聞こえてびくっと体が震える。だが、体はそれ以上動いてはくれなかった。
「あー。覗きの現行犯か」その大人…多分教師だろう。その人は納得したように手を打って言う。
「違いますよ…多分」その教師を牽引してきた女子生徒が答える。
「おーい」教師は少年の目の前で手を振る。
 少年は人形のように無反応。
 女子生徒は無言で更衣室の中へと消えてゆく。
「…………?」
 教師は怪訝な顔で少年の顔を覗きこむ。少年は意識はしっかりしているし、何らかの反応を返そうと思った。しかし、なんだか自分は壁一枚隔てた向こう側に居るような、まるで自分の体が他人の意思の元に動かされているような感じで、手足が全く言うことを聞かない。
 その教師は少年が見たことのない顔だった。別の学年なのか、一時的に来ているだけなのか、どちらかなのだろう。随分な童顔で、年齢が全くつかめない。顔だけで判断すると二十前後なのだが、実際はさすがにもうちょっといっているだろう。
「先生、メガネ。その子の」
 いつの間にか女子生徒が教師の後ろに立っており、メガネを渡す。メガネは奇跡的に無事なようだった。少しフチが曲がっているが、それだけならマシだろう。
「うぉい」
 教師にメガネをかけさせられて、それでもなお無反応だった少年は頬をつねられる。ゆっくり、ゆっくりと意識の塊が全身を巡回して、
「痛ひでふ」両頬をつねられた辺りでやっと感覚が戻ってきた。
「おお、気が付いたか。一体、何があったんだ?」教師は微笑むとそれを聞いてくる。
「痛ひでふ」
 教師はまだ頬から手を離していなかった。
「ん、すまん。お前頬めちゃくちゃ柔らかいな! ちょっとドキドキした」教師は照れたように笑った。
「えぇと…」少年は起こったことを説明するために、考えをまとめ始める。しかし、教師は別の意味で捉えたようだった。
「ああ、私のことなら気にしなくていい。先生だよ。臨時だけどな。菊沢だ。職員室によく居るぞ。無駄にいい珈琲があるんだよ…あんな珈琲は」
「…先生」話が脱線してきたところで、背後の女子生徒が制する。
「おお、すまん。…で?」
 少年は事のあらましをつかえながら、どもったりしつつ、順番もよくなかったが一生懸命説明した。
「ふむ…」菊沢は一通り聞き終わると、納得したように頷く。
「先生、私もそれが本当だと思います。入ってきたときは誰かに投げ込まれたような体勢でしたし、…こんな言い方はどうかと思いますけど、その…覗きとかできそうな子じゃないですし」
「…お前はまだまだ甘いよ。でも…今回はそうなんだろうな」
 菊沢は何故か酷く愉しげな笑みを浮かべると、少年の肩に手を置く。
「さて今からは…」そして続く言葉は、教師に対してそんな高い評価をしていない少年の常識からでは、完全に予測できない言葉だった。「復讐といこうか」


319 ―19 企み

「ではノルモチョンネス、これよりお前を正式な地球征服計画先発として地球に送り込む」
「はっ!」
「よって、対敵諜報部による報告より導き出した最も無難な姿で潜入してもらう」
「はっ!」
「まずは、ジャパンと呼ばれる地へ潜入してもらうことになっている。島国と言う小国ながら先進国として名高い地だ。征服の第一歩に相応しい」
「はっ!」
「万一正体がバレたという可能性があれば即帰還するように」
「了解しました!」


「おい、ノルモチョンネス、聞こえるか。こちら司令部。応答せよ」
「はっ! ノルモチョンネスです」
「首尾はどうだ」
「…危険であります」
「…何だと? 説明しろ」
「はっ! どうも連中は私が違う生命体であることに感づいているようであります…。はっきりとは見て来ないものの、道行く人間の大半が私を一瞥してまいります」
「…それはジャパンの習慣か何かでは?」
「…いえ…おそらくは…それはないかと。実際、調査のためにあちこちを見回しておりますと、時折♂に分類される者どもが寄ってきて何処から来たのか、と言った質問をするのであります。そして追い払っても追い払っても固体識別色の違う完全な別人である♂が寄ってくるのであります」
「…ふむ。おい、諜報部を呼び出せ」
 チー
『閣下、諜報部です。何か御用が?』
「何か御用が、じゃない。ノルモチョンネスの偽装の件だ。溶け込むどころか相当目立っているらしいぞ」
『そんなはずは…』
「一体どういう偽装シェルにしたんだ」
『はい。情報に基づき、人間が警戒を弱める幼年期の背格好に、♀の顔を、ジャパンの美的感覚に基づいて作りました。識別年代層は"幼女"です』
「ふむ…。作戦に抜かりがあったのか? 諜報部、ご苦労。念のために人間の表層から深層意識までの調査を再試行してくれ」
『了解いたしました』
「ノルモチョンネス、聞こえるか」
「はっ! 明瞭に聞こえております」
「一度帰還せよ。作戦をもう一度見直す。念のために今回降りた場所を報告せよ」
「はい。ジャパン王都のトウキョウ内、ステーションアキハバラ近郊です」
「…うむ。ご苦労だった。帰還後はしばし休息をとれ」
「はっ!」


318 ―18 がっかり

「お前がガシャポンで当てた赤外線装置、壊れてるよ」
「至極残念」


317 ―17 期待

「今回の発明について説明する」
「はぁ…しかし博士、その犬は?」
「うむ。まぁ見ていろ。この…どこだ…あった、骨があるだろう」
「え、えぇ。犬君、むちゃくちゃ欲しがってますけど」
「うむ、これをだな。ちょっと待ってろ…」
「え、何処に行くんですか博士…って行っちゃったよ…部屋出て何処行くんだろ。お前も骨欲しかったのになぁ? …あ、帰ってきた」
「次は…」
「博士、その前にこの犬君に骨あげたらどうです。めちゃくちゃ涎垂れてますよ」
「骨は置いてきた。変わりにコレだ」
「何でそんな意地悪を…。…って袋? 今度はそれをどうするんです?」
「こう…ぐしゃぐしゃと音を立てる」
「わっ! 犬がめちゃくちゃ喜んでますよ!? 尻尾も大振りで…何が入ってるんです?」
「いや、これは空だ。しかし今までにこの音がするとエサと骨を与えてきたからな。条件反射だ」
パブロフの犬ですか。それと発明と、何の関係が?」
「うむ。今回の発明は題してパブロフシステムと言うものなんだ。条件反射、というのがキーワードでな。君に説明するため、この犬に袋の音に条件反射で反応させるようになるまでに一ヶ月掛かった」
「そ、それだけのために…? 鬼だ! 博士、アンタ鬼だよ! パブロフの犬くらい言われれば判るのに…うう、犬君、ごめん、ごめんよぅ」
「しかし涎が凄いな。もしかしたら昨日エサをやってなかったか」
「ええぃ、アンタもう地獄に落ちてくれ!」


316 ―16 複雑

 一体、いくつの要素が固まって、挙句に崩壊してしまったのか。もし、叶うならば。時間を数時間だけ戻して欲しかった。
 そう、全ては今日の朝から積み重なってきたのだ。

 僕の学校の、僕のクラスの、僕のグループ…とでも言うべき仲のいい友達の中には、いくつかの不文律、つまるところ暗黙の了解がある。その一つが「高価いエロ本を買うときはカンパ」である。一人がこれこれこう言う本が欲しいんだ、と言う。そして自分も読みたいと思ったら数百円出す。そして言いだしっぺが買って飽きたら(ただし、買ってから二週以内)次に回す。
 そして僕は一月半前に一口乗っていた。
 一月半前、僕はまだ実家に居た。それから半月後くらいに姉さんと母さんの大喧嘩が起こり、姉さんが家出を決意したのだ。それに何故か僕も付いていくことになったりと、とにかくバタバタしていたのでそのことはすっかり忘れていた。
「ほい」
 と、クラスメイトの志藤に紙袋に入ったそれを渡されても、見るまでは何なのか判らなかったほどだ。  そこで、困った問題も起きてくる。今、姉さんと住んでいるアパートは生活スペースが一間なので、もはや共同生活であり、家のように自室があるわけではない。わざわざこの本をゆっくり見るために家の方に帰るのなんて怪しいこと極まりない。
 トイレや風呂に余り長いこと篭るのも変だし…。最終手段は放課後の学校かしらん。
 そんなことを考えながらも集中しなきゃいけない授業や昼などが挟まって、ついつい忘れてしまっていた。おそらく、昼休み中の大富豪で久しぶりに大勝ちして、一週間ほどは昼飯に困らないような状況になったのもそれの存在を忘れる一因だったのだろう。

 それから帰宅し、夜になり、僕は鞄を部屋の隅に放り投げて、姉さんが買ってきた週刊誌を読んでいた。
「ユキ、ハサミ貸してくれ」
 風呂上りで髪を結い上げた姉さんが、テーブルに会社の書類を広げて色々と整理していた。
 僕は漫画を読むのに忙しかったので、
「筆箱の中にあるから使っていいよ」とだけ返事をした。そう、思い出すべき最後の場所はここだった。僕が明日の時間割のために、鞄を開けて教科書入れ替えをするのは大抵寝る前か翌日の朝だったからだ。そして筆箱は当然鞄の中にある。もし、この時点で気が付いていれば、僕は不自然さは隠せなくてもそれの存在自体はぎりぎり隠しおおせただろう。もう全て漫画が悪い、と言い切りたかった。
 姉さんは、その場に座ったまま上体と腕だけを伸ばして部屋の隅にある僕の鞄を引き寄せる。
 そしてハサミを使う音が聞こえて、暫くすると静けさの中に何か硬質のページを捲る音がした。僕は書類整理をしていた姉さんが何か読み始めたのか、と横目で姉さんを見やった。

 魂を噴き出した。

 顔が青ざめて、紅潮するのがありありと判る。
 急に心臓が早鐘を打ち始める。
 思い出したのだ。あのテーブルの上に載っている紙袋を。姉さんが手にして、ページを捲っている本の存在を。
 姉さんの手から本を引ったくって、全てなかったことに――
 したいところだったが、僕の頭はそれでも冷静な部分が残っていた。気づかなかった振りをして漫画を読むのを再開する。もちろん、フリだけだ。第一、手が震えているわ台詞が頭に入らないわ心臓が早鐘を打つわで読書どころではない。
 姉さんの出方を見よう。それしか頭になかった。策というにはあまりにもおそまつで必死な窮地の策。でも、他に僕に何が出来たって言うんだ? もはや手遅れだった僕が取れる対策はそれしかなかったのだ。
 あの本を僕はまだ見ていないが、確か軽いフェチ要素の入ったものだった気がする。千円以上するエログラビアだ。何も言い訳が聞くような状況ではない。
 姉さんはまだ何も言わない。まだ読んでいる。
 それを横目でちらちら確認しながらも、僕は考える。
 ああ、明日から家に帰るか。姉さんはきっと…母さんに向けるものとはまた違う軽蔑の視線を投げかけてくるのだろう。口も利いてくれなくなるかもしれない。
 僕の思考はそうやって姉さんが無言で居る間にどんどん泥沼化していき、もはや死んだほうが楽になれそうなくらいの自虐的な観測を導き出す。さすがにここまではならないはずだ、と心の中では思っていても、姉さんの無言の時間分だけプレッシャーが加算されて「ありうるかも」に変換されてしまう。
 僕は己の思考の泥沼から逃げ道が見出せず、なんとも情けないことに泣けてきた。涙がじんわりと目じりに溜まる。泣くくらいなら持って帰らなきゃいいのに、とか見なきゃいいのに、とか思う節はあるかもしれない。だが、そもそも姉さんに読まれることなど考慮すらしていなかったのだ。仕方がない。
 僕は涙をごまかすために、必死で漫画のストーリーに感動しているような状況を作り上げようとする。だが、無理があった。どの話も涙腺を刺激するようなものなどないし、感動にしても涙の量が異常だ。僕は"感動"という形だと流れるほど涙を流すことはないからだ。
 やがて紙袋に極力音を立てないようにしながら触れる微かな音が聞こえた。読み終えた…らしい。読むようなものでもないのだが。何か言われるんじゃないかと僕は死刑囚のような気分で待つ。何度か、姉さんの視線が刺さっているのが痛いくらいに判って身が千切れそうだった。
 軽蔑の言葉でも何でもいいから早く言って欲しい。ただそれだけを願った。
「ユキ」いよいよギロチンの刃が放たれる。僕は無駄だと知っていながらも、心に精一杯の防壁を作った。
「漫画、読み終わったら貸して」
 …………は?
 思わず僕は姉さんの方を振り向く。
「………ユキ?」
 姉さんの方が驚いたような表情をしていた。
「え、あ」
 僕は慌てて涙を拭うが、既に遅かった。姉さんは心配そうな顔で僕の方に寄ってくる。
「んーどうしたー?」まるで赤子をあやすかのような優しい声で言う。
「…ぅ…いや、その」
 僕のエロ本が、などとどうして言えようか。僕が言葉をまとめるのを待つかのように、姉さんは僕の頭を黙って撫でてくる。ちらりと盗み見したその顔に軽蔑の色などは少しも見られなかった。でも、逆に言及されないほうが怖い。
 僕の精一杯だったと思う。僕がちらりと自分の鞄に目をやる。姉さんも判ったようだった。だが、さすがに何と言っていいかは判らないらしく、沈黙が続く。
 姉さんは、軽蔑したんだろうか。僕を。今更だが、姉さんには軽蔑されたくなかった。親父よりも母さんよりも信頼できるし、その性格は人として好きだったからだ。…でも、さすがにもう言い訳はできない。
「………まぁ、ユキも男の子だもんな」姉さんはこの気まずい沈黙に耐え切れなくなったか、仕方ない、と言わんばかりに僕の頭を軽く小突きながら言った。
「…軽蔑した?」
「してないよ」そう言うと姉さんは僕を抱き寄せて、僕が小学生の頃に良くやってくれたように、自分の心臓の音を聞かせようとした。
 でもさすがに僕も高校生だし、姉さんの胸の感触に困ったので逃げようとしたが、逃げようとすると姉さんはいっそう力を入れるので動けなかった。
「…でも」と姉さんは言葉を続け、僕は思わず緊張する。「…彼女が出来てもあまりああいうのを求めないほうがいいとは思うぞ」
 噴き出した。本日二度目。
「あはははははははははっ」
 何か僕が悩んでいたのも何もかもが馬鹿らしくなった。考えてみれば、今更ながら…とはいえ今日は全てが後手に回っているが、姉さんは僕よりもずっと大人なんだということに思い至る。別にギャルゲーのキャラじゃあるまいし、エロ本に過剰に取り乱すような年齢でもないのだ。これじゃあ、過剰に心配した僕が馬鹿を見ただけのことだ。
 姉さんも僕の気持ちが伝わったかのように、僕の頭を軽く叩く。
「…そんな泣くこともないだろうに」
 僕は答えない。
「あははっ、口先がアヒルみたいになってる」
「…もー! 漫画! はいっ!」
 僕は姉さんに漫画を押し付けると、今度こそ姉さんの腕の中から逃げ出して、顔を洗うために洗面所に駆け込んだ。
 しばらく、姉さんがククク、と笑っているのが聞こえていたが、別段もう変な気持ちにはならなかった。