思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳370-351

370

 一体、そこはどれほど前に死んだ都市なのだろうか。
 街の形骸は当の昔に風化を始め、見渡せる景色は何処もかしこも色あせている。
 その崩れた都市の中心部にある宮殿も然り。
 中に入ると建物のそこら中に戦傷が見られる。切り崩された柱。壊れた壁。叩き壊された石像。貫かれた鎧と散らばる骸骨。
 更に奥。
 玉座が在る王の間である。そこにも戦の手が及び、何者かによって王権が打ち倒されたことを語る。上部を抉り取られた玉座、重厚な建築様式の面影が遥か昔のものと語っている。
 金色に輝くものは何一つない。かつては財宝で輝き、幾人もの重臣が詰め寄ったであろうその間も今はもう古き衣装を纏った骸骨がある程度で、歴史的な価値以外は何もない。
 ただ、酷く違和感を覚えるようなことが一点だけある。人によっては憤慨するかもしれない。
 崩れた王座に、一人の少女が当然のような面持ちで座っているのだ。足を組み、指を空でくるくると回しながら何事かをぶつぶつと呟き続けている。その面からは冷酷な印象しか受けることが出来ない。鼻筋が通り、整った面構えながらも相手を見下すことしか知らぬような目。肘掛に肘を置き、まるで玉座が自分のものであるかのような尊大な態度でそこに居る少女。
 少女が一体何をしているのかは夜には判明することだ。
 昼夜が入れ替わり、完全な夜になる。この惑星に月に値するものはないので、星明りのみが自然における明かりだ。弱弱しい光など断ち切ってしまう宮殿内においては今や火を灯すものも居らず、完全なる暗闇となる。
 少女自身何も見えていないはずだが、その玉座より動く気配もなく、低めの声で呪詛のように延々と何かの言葉を呟くそれのみが少女をそこに在らしめている。
 不意に、少女の脇で音がした。その音は武具が触れあったような音、骨と骨が当たる音。
 少女の脇に二つの気配が生まれた。そのうちの一つが歩き始め、王の間を出てゆくと、少しして火を灯した松明を持って戻ってきた。
 松明を持っているのは骸骨だった。そして少女の傍らに居るもう一つの影もまた、骸骨だった。ただ、その少女の傍らに居る骸骨はどこにあったのか、頭に所々欠けてくすんだ王冠を乗せている。
 少女は満足そうに頷くと口を開く。
「父上、兄上、お久しゅうございます」
 少女の傍らに居た骸骨が何か言わんと口を開くが、声が出てこない。結局何も言わずに少女の頭を撫でる。
 少女はその時は嬉しそうな、恥ずかしそうな、年齢相応の表情を浮かべていた。


369

「不穏な毛配がするな……」
「何……?」
「どこからか毛取られぬよう見張られているような、そんな感じがする」
「くそ、一体誰が……」
「……さすがに見える範囲には居らんな。毛穴ほどの隙間を縫っているのか」
「どうする?」
「相手の出方を待って、迎撃するほかない。奴らには我々に勝てる見込みなど毛ほどもないことを思い知らせねば」
「……ああ。そうだな。だが…我々もひとまず隠れるべきではないか?」
「無駄だ。そんなことをしたところでいたちごっこになってゆくだけ。不毛なことだ」
「そうか。……ところで、さっきから何故私の頭を見ている?」
「いや別に」


368

 時折私が行くオークションに出される彫刻で、「千年の神の像」と題されているものがある。
 それは毎回同じ名前で、分類上は「千年の神の像(7)」とか「千年の神の像(9)」とか()で順番を付けているが、同じ名前であることには変わりない。
 それは木を掘って造られている。ある時は古き装束を纏いし王のような威厳を持つ男であり、またある時は空へと何かを求め手を伸ばす女性であり、またある時は孤独を憂うような面持ちの百獣の王であった。
 その彫刻には毎回高値が付けられる。だが不思議なことにその裏、作者に関しては薄気味悪いほど知られていない。これほど立派な彫刻を造りだせるなら有名であって然るべきなのに。

 今日のオークションで出てきた「千年の神の像」は頭蓋骨を大事そうに抱えた、優しそうな女性だった。
 その対比は見るからに不気味であったが、何故か猟奇的な匂いを感じ取ることは出来なかった。私は是非とも家に欲しかったが、別に私は金持ちではない。生活のランクを落としてまで芸術品一個競り落とそうと思うほどに、芸術というものに心を捧げてはいない。
 ただ、こういったオークションに出品される芸術品を見て満足する、さほど裕福ではない人間の一人だった。私のような人間は他にも何人も居り、大抵は何が出るか判らない芸術館程度の認識で来ているのだろう。相当高名なものが出てくるので、少し高めな入場料を差し引いても中々面白い。
 今日も十分に様々な芸術品が出ては競り落とされるのを見て、私は満足感と、僅かな物寂しさを抱えて会場を出た。

「あの」
 と、帰りにバーで酒を飲んでいると声を掛けられた。声の主は見たことのない男の東洋人だった。その男も東洋人にありがちな顔で、無表情に見える。さほど綺麗な格好ではなく、しかも髪が長いせいか陰鬱な印象が強く、私はあまりいい印象をもてなかった。
「何でしょう」
 しかし見た目で相手を差別するほど古い人間でもないので、笑顔で答える。
「今日のオークションに居られましたよね?」
「……? ええ。それが何か?」
「一つお聞きしたいのですが、千年の神の像と題された木彫りの彫刻を覚えておられますか?」
「ええ……一応は」
 私は怪訝な顔で答える。
「どう思われました?」
「どう……とは?」
「ですから……不気味だとか、そういった感想です」
「ふむ。そうですね。優しそう……に見えました」
 そこまで言って、私はテーブルの脇に立ちすくまれて話すのも何なので、ひとまず椅子を勧める。
 東洋人は軽く会釈をして座ると、酷く不思議そうな顔で言った。
「優しそう……ですか」
「ええ。頭蓋骨を抱えていましたから、私も最初は先ほど貴方が言ったように不気味、と感じました。でも…」
 私は頭蓋骨を抱えていた女性を思い出す。泣きそうで、でも泣けなくて、感情を何処にやっていいのか判らずに困ったように微笑っているあの表情を。
「でも?」
「女性の顔を見ていたら…どことなく優しいような気持ちになって」
 と、言い終えてから私は少し恥じ入るような気持ちになる。自分の中だけで思うならともかく、他人にこんなことを語るなんて少し変な人に取られても仕方がない。だが私のそんな内心に反して、東洋人は深く考え込んでいたようだった。
「あの」私は段々気恥ずかしくなり、自分の発言を撤回しようとした。
「何故、あれらが千年の神の像と題されているか、ご存知ですか」
 東洋人は私の声に被せる様に、意味深な問いかけをしてきた。思わず私は口を閉じる。
「千年の神の像、というのは実はあれだけではなく、幾つもあるのです。…ご存知だとは思いますが」
 東洋人の最後の台詞に何か含むところを感じて、私は聞き返す。
「何故、私がそのことを知っていると?」
「私もよく顔を出すので、貴方のことは見覚えがあったのです」
 東洋人は照れ臭いのか、小さく微笑った。
「そうでしたか」
 私は頷く。その時には物腰と口調から礼節を弁えた人物であると私には思えたので、最初抱いた僅かな悪印象も消えていた。
「それで、貴方はあれらが千年の神の像と題されているかご存知なのですか? 私はお恥ずかしながら寡聞にして知らないのです」
 私は質問をそのまま返してしまったが、東洋人は気を悪くした様子もなく頷く。
「はい。千年の神、とはその時代において頂点に居た者を指します。ある時代では国の上に君臨せし王を、ある時代では巫女として人々の尊敬を集めた者を、ある時代では弱肉強食の上に立ち、百獣の王とまで称されるようになった獣を。…そしてある時代では子を守るために生きた母を」
「…………」
 私は呆気にとられて聞いていた。今まで聞いたどんな説よりも答えらしく、答えから離れているように思えた。
「しかし……それで神とは、少し大げさすぎやしませんか?」
「そうでしょうか?」
 東洋人は不思議な笑みで返した。
「世界中で神様が宗教によって居る様に、誰かにとっての小さな神が居てもいいと思いませんか?」
 東洋人の言葉に、私は苦笑しながら首を捻ることしか出来ない。言いたいことはわかるのだが、特定の信仰圏に居る私にとって神とは常に唯一であり、他を認めるわけにはいかないからだ。
「…………」
 東洋人は無言で微笑すると、ポケットから何か小さな、ハンカチに包まれたものを取り出した。
「これを差し上げます。いつか、貴方にも理解していただけるといいのですが」
「は、はぁ……どうも」
 東洋人はそれを残したきり去っていった。私がそのハンカチを開くと、中にあったのは木で出来た鍵だった。それは随分と精密に彫られていた。……ああ、もしかして今のが彫刻の……?
 私は慌てて東洋人の去った方角を見るが、既にその姿はなく、私はどこか感心したような、納得したような心持であれが製作者か、と一人頷いていた。
 しかし……と、私は首を捻る。その東洋人が残した鍵の形にはうっすらと見覚えがあったからだ。車の鍵のように見えるが、少なくとも私の車のものではない。他人の車の鍵だとしても、何故……?
 だがどう考えても思い出せないので、私はそれを再びハンカチに包んで鞄に入れた。そしてそれを家に帰って引き出しにしまってからは長いこと思い出すこともなく、鍵は忘れ去られていた。

 鍵の正体に気づいたのは、それから何年も経ってからだった。理由はというと、私も引き出しにしまったきり鍵の存在を忘れていたし、あの東洋人を会場で見かけることもなかったからだ。
 相変わらず私のオークション通いは続いていて、その日は久しぶりに「千年の神の像」が出品されていた。元々毎回出されるものでもなかったのだが、最近は出品されるペースも落ちてきていたので、私が「千年の神の像」と題されたものを見るのは久しぶりだった。
 しかし出てきたものを見ると、その「千年の神の像」は明らかに若い私だった。会場内でそれに気づいた者は居ない様子だったが、恥ずかしくなって照明の暗い会場の隅へと移動してしまう。
 しかし、何故私なのだ? 私はあの東洋人に過去出会った記憶はないし、他の東洋人にも……ん。そういえば、一度だけ関わりを持ったことがあった。しかしあれは女性だった。……ああ、でも、鍵!
 すっかり忘れていたが、私が一度街中で鍵を拾ったことがあり、警察にでも持っていこうかと思ったら、東洋人の女性が車の周りで探し物をしていたので渡したのだ。そしたらちょうどその鍵を探していたようで、いたく喜ばれはしたが、……ふむ、どう考えても千年の神にも小さな神にもなるようなところは見当たらない。私の中ですら取るに足らないことだったので忘却の彼方にあったくらいだ。
 そこで私はああ、と答えにたどり着く。理由はわからないし、その背景の事情も全く知りえなかったが、あの東洋人女性にとって鍵をわざわざ届けた私が小さな神にでも見えたのだろう。
 私はあの東洋人が言っていたことが何となく理解できたが、神に祭り上げられたことが改めてとても恥ずかしくなった。そして照れ隠しのようにそれにしても、と私は思う。あんな鍵だけを渡されたところで、即座に判るわけないじゃないか。


367

「 」
 それは失われた言葉だった。一体いつから失われていたのか判らない。ああ、目の前に我が友の は居るのに、別れを告げているのに、私は彼を呼ぶことが出来ない。
「ドリック」
 私が彼につけた名前だ。名前を呼んでみても、彼は弱弱しく反応するだけだ。尾を振る元気も残ってはいないようだ。ああ、何と言うのだったか。一体いつから、一体誰がこの言葉を消してしまったんだ。私は人間だ。彼は だ。 なんだ。……嗚呼、出てこない!
 彼は私の長年の相棒である だった。
 私が幼い頃に面倒を見ることになった で、最初は何処へ行くにも私と離れたがらず、彼のことを思うと頬が緩んだ。
 気づけば彼は私より一歩先に大人になり、そして私もこうして大人になって彼に追いついたと思えば、彼は更に先を歩いていた。
 私は彼に後れをとらぬよう走った。だがその距離は到底埋めがたく、結果として彼は私に最期の別れを告げている。
 昔は彼の底知れぬ体力に驚いた。彼の散歩は、まだ足りないのかという思いが常に付きまとうほど元気旺盛だった。
 最近は彼の体力の衰えに戸惑った。彼の散歩は、もういいのかという思いが常に付きまとうほど衰弱した様子が見受けられた。
 引っ張られ、引っ張った。
 私が撫で続ける傍で彼は小さく一声吠えると、目を閉じる。
 彼は、去った。彼の居ぬ私の時間は、暫く寂しいものになるだろう。
「居ぬ」
 とても寂しい言葉なのに、何故か懐かしさを感じた。


366

 風船くじらに揺られているの。
 ひとつふわり。
 ふたつふわり。
 綺麗な月夜と空飛ぶくじら。
 あたしはその背でごろりとふわり。
 ひとつふわり。
 ふたつふわり。
 風船くじらの穏やかな呼吸にあたしの体は揺られているの。
 風船くじらは風任せに空を往く。
 少しざらついた手触りの皮に頬を寄せ、思いきり夜の空気を吸ってみる。
 安定した鼓動と、静かな夜があたしを眠りに誘ってゆく。
 ひとつふわり。
 ふたつふわり。
 朝までふわり。


365

 コォォォォン
 コォォォォン

 一月ほど前だろうか。昔からあった直径五センチほどの小さな穴より乾いた音が聞こえてくるようになった。
 それは微かな音で、耳を済まさなければ聴こえない程度のものだったが、一度聴いてしまうと、駄目だった。俺はどうにも気になってしまう。
 最初の頃はわざわざ懐中電灯まで持ち出して覗き込んだりもしたのだが、よほど深いのか見ることは適わなかった。誰が、何のために、どうやってこんな穴を? そしてこれは何の音なんだ?
 それはある日突然のように解決した。
 夜、相変わらず聞こえる音に耳を傾けていたら、突然聞こえなくなったのだ。おや、と思って様子を見に行くと穴の上に何か小さな影があった。誰かが何か置いたのかな、と思って近づいてよくよく見ればそれは人だった。
(……人?)
(いやばかな)
(人形じゃないのか)
(でも動いてる)
 その小人は上に覆いかぶさるように覗き込む俺に気づくと、ぎょっとしたように体を仰け反らせて、自分を落ち着けようとするかのように咳払いを一つした。
「こんにちは」
「……お、おう」
 驚きようの割には平然とした挨拶をされて、むしろ俺の方が戸惑う。
「……何だお前」
 としか言いようがなかった。驚くほどミニサイズな、もはや喋る人形のようなヤツが不気味な音をたてる穴から這い出てきたのだ。
「私は……」小人はそこでどう自己紹介したものかと考えたようで、「下から来た」
「見りゃ判るよ」
 俺の見事な即座の返しに小人は不満だったようで、小さいながらも立派に不満そうな色を出した。
「気軽に言ってくれるけどね、君、私はこれでも一月くらいかけて上ってきたんだ」
「……どうやってだ」
「ここと我々の世界を繋げているトンネルを使ったんだ。つまりそこだな。今まで誰も登上を試みなかったようだからな、私が足場を打ちつけながら上ってきたのだよ」
 どうやら、あの不気味な音は足がかりになるものを壁面に打ち込んでいる音だったらしい。
「そいつはわざわざご苦労なことで……」
 だがそんな大儀なことをして一体何をしにきたのか、と思う。
「ふう……。ここは空気も悪くないようだな」
 小人は大きく深呼吸すると満足そうに頷く。
 そして俺が目的を聞くまでもなく、小人の方から話し始めた。
「我が国は物資不足でね。探しにきたのだが……」
(……物資?)
 何を探しにきたのかは知らんが、こんな小さな穴から一体何を持ち帰る気なんだ?
「生きていくために、十分なものを」
「食料か?」
 小人はそれもある、と頷く。続いて懐から大事そうに取り出したのは、俺からすれば米粒のようなものだった。違う点を上げれば、米粒より丸っこい。
「なんだそりゃ……」
「卵だ。これは我らの希望だ。これを無事に孵化させ、生きてもらうために」
「はぁ……卵、ねぇ……」
 ミクロな卵をよく見るために距離を寄せるが、小人は露骨に嫌そうな顔をした。
「おい、あまり近寄るな。割ったりしたらただじゃおかん」
 そいつは凄んで見せるが、一体そんなちっこさで何ができると言うんだろう。突っ込んでみようと思ったが、まぁいきなり喧嘩を売る気もないので止めておいた。…そもそも、一月も不安定な足場で登上してきておきながら今更それもないだろうに。
 俺は肩を竦めて少しだけ離れる。
「よく判らんのだが……地底人……というか小人というか。お前らは卵で生まれるのか?」
「……馬鹿にしているのかね。そんなわけないだろう」
 だよなぁ……と同意しつつも知るかよ、とも思う。見慣れないヤツにそいつらの常識を求められたって俺が知るはずもない。
「何が生まれるんだ、それ」
 その質問に小人はふむと考え込み、
「先代は角の生えたブロクシャだったが……」
 ブロクシャ? 先代?
「あー、あーやっぱいいや」
 何か色々と面倒そうだったので聞くのを中断する。
「まぁよくわからんが頑張れよ」
「無論だ。ところで、会ったのも縁と思って少し水と食べ物を都合してはくれないだろうか」
「んー?」
 頼む、と頭を下げるそいつを見て俺は軽く答える。
「いいよ。お前の分なら大した量でもなかろーし」
「感謝する。……ところで、私は臭いか? さすがに一月水を使っていないので……」
 そういいながら小人は自分の服の臭いを嗅いでいる。正直臭いなんか全くわからない。
「あーいいよ。そっちの水も貸してやるよ」
「ありがとう」
 あんだけ露骨に要求しておきながら、心底笑顔で礼を言う小人を見て、大したもんだと思う。この無自覚な図々しさはどっか偉いところの奴なのだろうか。……まぁ腰が低いだけでもやり難かろうが。
 俺は小人を家にあげて、ちらりと小人の出てきた穴を見る。
 この穴を降りきった所には小人の国があるんだな。
 不意に浮かんだそんな考えに、童話みたいだと自嘲的に笑った後、そうだな、それも悪くない。と、そっと思った。


364

「このカプセルの中に入りなさい」
 幼い私はある日突然母にちっぽけな、私の身長より少し大きいくらいの円筒型のカプセルに押し込められた。
 それは棺桶にしか見えなくてとても嫌だったのだけれど、親の言うことは絶対だったので、私は渋々とカプセルの中に入る。
 カプセルの中は意外にも快適で、映画は見れるしゲームがびっくりするくらいに遊べたので全然暇はしなかった。食事は普通の料理ではなく宇宙食のような携帯食料に近いものだったけど、ゲームや映画に夢中だった私は余り気にならなかった。
 母は時折外の覗き窓から元気な私を見て微笑んでいた。私も微笑み返してはいたが、母が何を思って私をこんなところへ押し込めたのかは全くわからなかった。
 そんな生活がどれほど経っただろう。多分、一週間前後だったと思う。
 夜、私は眠りについていたが洒落にならない規模の振動に揺さぶられて目が覚めた。
 慌てて起き上がろうとするが、カプセルの中に居ることを思い出す。
 動けない。もどかしい。
 何が起こったのだろうか。母は無事なのか。
 カプセルは防音も相当なものだったが、何故かある程度は自分で調節できた。防音レベルを下げ、懸命に耳を凝らすとざわめき声が聴こえてきて私は安堵する。
 でも、何が起きたのだろう?
 母が後で説明してくれるのだろうか。
 私はもやもやとしたものを抱えたままうずうずしていたが、映画やゲームを選択するツマミの中にラジオが聞けるツマミがあることを思い出した。
 ラジオを付けてみる。
 どうも場所が悪いのか、雑音が酷い。
 隕石、宇宙人、核爆弾。そんな単語が飛び交っているようだ。余りにも現実離れしているので、ふと昔アメリカのラジオ局が『宇宙人が攻めてきた!』だかそんな内容の放送をラジオでやって騒ぎになった、という故事を思い出す。
 ラジオは雑音の中でずっと何かを喋り続けていたが、突如糸が切れたかのように放送が途絶えた。
(あれ?)
 私は必死で人の声を探す。しかしいくら探しても人の声が聴こえてくることはない。
 私は不安になり、外のざわめき声を聴こうとした。
 しかし、先ほどは確かに聞こえていたはずのざわめき声さえ途絶えている。防音レベルは最低にしているのに。
「お母さん! お母さん!」
 呼べども、このカプセルの外と中は遮断されている。外からの声はある程度届くが、中からの声は外に殆ど聞こえないようだった。母の耳が遠くなっていたとか言う冗談みたいなことでも起きていなければ、そうのはずだ。
 けれど私は無駄と知りつつも叫ばずには居られない。
 一体なんだというのだ。
 振動。そして聞こえてきた隕石に宇宙人に核爆弾。
 何か、ただならぬことが起きている。そしてその一週間前に私がこのカプセルに入れられた。
 嫌な予感が私を刺激する。私はカプセルの中で身を捩じらせ、何とかカプセルを開けないものかと試みた。
 やがて私の労力が報われたのか、カプセルのどこかでガチンという音が鳴り、続いてシューという無機質な、ちょうど電車のドアが開くときのような音がした。
(やった!)
 そう思い、開くのを焦燥と共に心待ちにしていた私に訪れたのは、暫く見ない外の景色ではなく、異常なまでの眠気だった。
(これ……は、違……う!)
 何か変な機能を作動させてしまったらしい。だがそれを止めるべく行動に移すより早く、私に蓄積されていった眠気が私を容赦なく睡眠状態へと叩き落してゆく。
「おか……あ……さ」
 その時カプセルの横から何かがドシンとぶつかる音がしたが、一体それが何だったのか、私はついに知ることはできなかった。


363

 その日発掘されたオレンジに輝く石は「地球の星」と名付けられました。
 露出している部分は一部分だけなのですが、一体どれほどの大きさが埋まっているのかは判りません。
 何度か掘り出そうと動いたこともあったのですが、いくら掘ろうとも大きさは未知数であったので、中止せざるをえませんでした。下手をしたら大陸の一部を抉り取るほどの事態になりかねないからです。
 その石は昼間はそれほど目立ちませんが、夜になるとぼうと闇に浮かび上がるように淡く発光しています。
 材質から起源から、何もかもが判りません。ただ今日も昨日も明日も変わらずに煌々と輝いています。滅びに向かって、輝き続けています。


362

「顔より先に声を忘れていくんだ」
 由実は暗い顔で俺に言った。
 由実は別に何か病気なわけではない。ただ、少し会わない人をどんどん忘れてしまうのだ。情報の取捨が激しいからだろうか。割と頻繁に会う俺でさえも、俺が少し海外へ行って土産を携えて顔を出せば、少し忘れかけていた節があるほどだ。
「私は怖いんだ」
 由実は暗い顔で俺に言った。
 由実は覚えているだろうか。高校の時、同じ台詞を言ったことを。
「僕は怖い」
 高校の時はまだ、初めて会ったときからの自称のままだった。いつから自分のことを私と呼び始めたのだったか。……嗚呼、俺も覚えていない。大学の、後半では既に私と言っていた気がするが。
 この時は確か、中学の友人に会ったのに全く判らなかったのだという。由実と一緒にいた小学生来の友人曰く「全く変わっていなかった」とのことだから、相当ショックだったのだろう。
「顔より先に声を忘れる。つまりだよ? 例えば私の中で君の声を忘れてしまう。すると私の脳は君を過去の人として忘れるようにしてしまうんだ」
 由実は空を見上げて「どうにかならないもんかね、これは」と寂しそうに呟いた。
 さぁねぇと俺は返すが、実を言うと、何度も会っているのに初めましてと挨拶したことを指摘されて慌てふためく由実が結構好きなので、別にこのままでもいいんじゃねぇかなぁなどと考えているとは、とても言えなかった。


361

 もののはずみで、と言う言葉があります。これは皆さんにとっても馴染み深い言葉ではないでしょうか。

 もののはずみで学校帰りに好きな子の家を見つける。
 もののはずみで好きな子の家に立小便。
 もののはずみで好きな子の家に放火。
 もののはずみで好きな子の通報で警察に追われる。
 もののはずみで海外へ高飛び。
 もののはずみで未開のジャングルへ。
 もののはずみで土着の部族と遭遇。
 もののはずみで首長の娘と恋に落ちる。
 もののはずみで結婚。
 もののはずみで望郷の念に襲われて嫁と共に里から逃げ出す。
 もののはずみで追っ手が掛かる。
 もののはずみで悲劇が起こり、
 もののはずみで人生の終幕。

 このように皆さんも日常で経験するようなことばかり。
 私ももののはずみでとりとめのない文を書き始める次第でして、もののはずみと言えば昔懐かしのスーパーボール。を売っていた駄菓子屋。そういえばコンビニにも駄菓子屋の名残のようにうまい棒がありますが、納豆味とかコーンポタージュとか際どい味まで出ていますが今は一体何種類あるんでしょうね。
 駄菓子屋といえば今はデパート内に昔懐かし"風"と題して置かれている小洒落た駄菓子店が時代を懐古するかのように存在していますが、店員はおばあちゃんじゃないし大人が懐かしさ余りに買いに来るのが関の山。
 おばあちゃんと言えばコンピューターおばあちゃんですが、今考えると凄い語呂で色々な想像ができます。例えば……。

 ああ、気がついたら随分と話が逸れていました。つい、もののはずみで。


360

「妹は水と言うより氷のようね」
「兄の方は人当たりもよいし、好感が持てるのに……」
「あの蛇のような目で見られるのはぞっとしないわ」

 今より少し昔。水の術士家系である藤堂家ではその代五子があった。二人は分家の養子縁組に出され、一人は殺され、本家には一番小さな兄妹が残っているだけであった。
 一番小さなと言っても、妹が生を受けてから既に十六年ばかりが経っている。
 兄は術士としての修行に専念させられ、藤堂家の血筋にふさわしい能力を開花させた。
 妹は兄を守るためのモノとしての修行を強要され、感情を欠落させた。
 それらの形ができ始めた頃に先の道も自ずと決まり、兄は天真爛漫に誰に対しても愛想良く接したが、妹は誰に対しても最低限の形式的な礼儀で、よく敵対者としての姿勢を見せた。そんな対照的な二人に対する周囲の評価が二分するのは当然の結果だったのだ。
 もし妹の方が能力的に優れている見込みさえあれば、兄が妹を助ける、そんな未来もあったかもしれない。だが悲しいかな、妹は一般で見れば突出して優れていたはずなのだが、兄の方はもう天才と評すほかなかったのだ。
 妹は課せられた生き方に忠実に、影のように兄に付き従い、害になるかもしれない可能性を常に威嚇し続け、時には潰してきた。
 妹は殆ど兄しか仲間を知らなかった故なのか、純粋に惹かれるところがあったのか、身内にさえ殆ど無感情に接するのに対し、兄に対しては時折感情らしきものを見せた。妹にモノを教えた人間や両親でさえも妹の微笑みなど見たことはなかったろう。仮に見たとしても気づかなかったかもしれない。それほどまでに微笑を見せる時間も、表情の変化も僅かだった。

「ククク……この……なりたがり屋め。今度は悲劇の主人公に"なりたい"か?」
 仮面で顔を隠した男が兄に言う。藤堂家後継者として、敵対勢力との衝突は常に避けえぬ問題だった。
「…………?」
 兄は怪訝な顔をした。仮面の男の言葉は、見ず知らずの者が言うにしてはあまりにも兄の性格を知っている言葉だったからだ。
 仮面の男は更に抑えた笑いをして、仮面をとる。
「疑問は解けたか?」
 兄の顔が凍りつく。それは幼馴染の。遊び相手の。
「友達だと……思っていたのに……!」
「生温いな。そんなことが、何の理由になるんだ。お前は今や藤堂の長子。分家のそのまた分家の俺は家のやっかみ者だ」
「…………」
 兄は言葉がない。
 かつての友人が見つけた居場所は光の楽園だったのか、闇の庭園だったのか。問うまでもない謎掛けは、脳裏に翻る儚い笑顔と共に消ゆる。
「これが最後になるだろうがな」男は愉しそうな笑みを浮かべて言う。「遊ぼうぜ」
 男は構えるが、兄はそれどころではない。動揺が尾を引きすぎて戦闘などとても無理だった。男は兄が精神的な揺さぶりに弱いのを知って、敢えてこのような手に出たのだ。
「いかないなら勝手に……ッハ……?」
 言葉を中断して男は地面に伏す。広がる血泉。
 その背後には短刀を手にした妹の姿。
 妹は音もなく男の背後に回り込み、そのまま首を掻っ切ったのだ。
 妹は男には目もくれず、呆然と立ちすくむ兄へと歩み寄る。
「兄様、終わりました。……兄様?」
 妹は兄の傍で愛らしく首を傾げて兄の言葉を待つ。その顔に罪悪の影は微塵もない。
「……兄様、かの者は裏切り者だったのです。幼き頃は縁深かったとしても、今は今。割り切りましょう? 私は決して裏切りません。兄様、私の手を取ってください。二人きりで、参りましょう?」
 妹の蕩かすような誘惑に、兄はふらふらと妹の手をとる。
 妹はうっすらと微笑みを浮かべ、歩き出す。
 それは一つの術士家系の破滅への道となる。


359

「博士。……博士!」
「ん? おお、何だ」
「何だ、じゃないですよ。何ですかこのロボット……しかも頭だけ……」
「目からビームがでるロボットだ」
「!」
「だけどどうやってもレンズが焼け付くからなあ」
「でも凄いじゃないですか。何か解決案とかは思いついていないんですか?」
「発想の転換。目からビームを撃たない」
「はぁ……」
「鼻から撃つ」
「ダサッ!?」
「だってさー。法務局の連中に自慢しに行ったら一発きりって言うので子供の発明扱いされるし、やってらんないよ」
「……博士、年はいくつですか」
「おいおい、誤解するなよ? できたら見せろって言われてたんだよ。なのにこれだぞ? 全く…。あー、もう鼻からジェット噴射して打ち上げてみよう。大気圏越えられるかな」
「ギャグじゃないですか。何で折角の発明をそんななげやりに…」
「いいよいいよ。一回造ったからもういつでも造れるし」

 宇宙を流浪する民が見つけた謎の頭。
 それは何かのメッセージを含むと思われたが彼らには見つけ出すことができず、製造元も判明しない謎の頭を巡って巨大な波紋が宇宙の一角で巻き起こる…。


358

 そこは子供を飼い殺すかのような小さな小さな園の中。
 園の一室、白い部屋で少年と少女が対峙している。白い部屋で白い服に身を包む二人は、遠めには天使のように見えるかもしれない。金髪の少年はそんな中にもまだ人間味があったが、恐ろしいほど綺麗な白髪の少女は、肌の白さも相まって何か別のモノのようだった。
 少女の眼帯に怯える少年に、少女は優しく手を差し伸べる。
「大丈夫。怖くないよ」
 少年の顔は引きつっている。逃げるべきか、少女の手を払うべきか。…或いはその手をとるべきか。
「この眼は……」少女は少し考え、「ちょっと疲れちゃったから、休憩しているだけ」
 少年は少女の顔に魅入られるようにして、ふらふらとその手をとった。
「ね? だから……」
 少女は少年の手に自分の手を重ね、にこりと微笑んで言う。
「檻の中の私を返して」
 少女のその言葉に少年は底知れぬ恐れを感じて、意味のない叫びを上げながら走り去る。
 取り残された少女は笑みを崩し、残念そうな顔で宙に放置された手を握る。
 少女の言葉に恐れるものなどは何もなかった。あるとすれば、対面する相手にある少女に対しての罪悪感からのもの。
 無論、少女が不器用だと言うこともある。いや、この少女に限っては器用すぎて逆に本質を隠しているのだ。
 少女が檻の中に残した自分。それは縛られた自己。
 詰まるところ、少女は少年に対する仄かな恋心を年齢に不相応なくらい婉曲に言っただけだった。ただ少女は幼いが故に己の難解な言葉こそが己を孤立させ、実らぬ恋に拍車を掛けているとは思いもしない。
 少女はただ、独りで。


357

 隕石によって地上の電磁波が狂い、人間の存在を駆逐しつつあったロボットが一気に倒れた。
 ロボットによって人間はその数を減らしていたため、人間が以前の繁栄を取り戻すために掛かった年月は、ロボット全盛期の時代を容易に古いものへと塗り変えてしまった。
 そしてロボットたちの時代を置き去りにしただけではなく、限られた土地は人間のために再開発が進められ、その痕跡をも隅へ隅へと追いやっていった。
 錆付き、植物に呑まれた取り残された地帯。
 そこに一人の男が訪れる。男は初心者然とした山歩きの格好をしていた。帽子の下にある貧相な顔を見る限り、男は学者かその辺りのように思える。
 男は植物に埋もれた、旧時代にかつてロボットが幅を利かせていた頃の施設を見つけた。それは現代文明と比較したところでなんら遜色ないものであったが、誰にも使われず朽ち果てたそれは遺跡と呼ぶに相応しい威容を備えていた。
 男は慎重にその中へと入っていく。
 中も満遍なく錆と植物の洗礼を受けており、かつての機能を取り戻すことは無いように見える。男はいくつか実際に動くか色々と試してみたが、機械は微塵も反応しなかった。
 一番奥まで来て、どの機械も死んでいることを確認すると、男は僅かに肩を落として再び出口に向かう。
 ふと、たまたま目をやった一部屋で、光が点滅しているのを見つけた。
 生きている機械があるのか!? と男は驚いて駆け寄る。先ほどもここは見たが、絶対にこんな光はなかったはずだ。
 点滅している光は非常用スイッチのものだった。しかし男には非常用スイッチである、ということは判るものの、これを押すとどうなるのかなどと言うことは一切が想像つかない。
 男は興奮に震える手でスイッチを押す。
 ゴン、と老朽化のためか小さい振動を伴ってどこかで音がなった。
 男は何が起こるのか、と構えていたが音はそれっきりで再び静寂が訪れている。
 恐る恐る男は動き出す。再び建物中を探してみたところ、一番奥の部屋にて隠し部屋らしきものの扉が開いていた。
 男は背負っていたリュックから懐中電灯を取り出すと、慎重に進みだす。
 隠し部屋は地下にあるようだった。男は階段を下る。
 途中にも何かあるかもしれない、という男の期待と不安の入り混じった予測に反して、その隠し通路も一切が死に絶えていた。非常灯もなく、男は懐中電灯の光を頼りに下ってゆく。
 階段を降りきった所にあった扉はロックがあったが壊れていたらしく、手動で無理矢理開ける事ができた。
 その部屋は建物の規模から考えれば随分と小さな部屋だった。
 その部屋には三本の生命維持装置。そしてその生命維持装置の一つに、一人の子供が液体に浸かって浮かんでいた。
 それはロボットが密かに保護していた人間なのか、造られた子供なのか、一見では判断できなかった。


356

 ある北方の地に住まう少女は、七つの齢に達しようとしている。
 ある南方の地に住まう少年は、七つの齢に達しようとしている。
 七つとは、分岐点である。
 神に近い幽世から、完全に現世へと脱皮をする。
 七つまでに妖怪の類に幽世に連れ戻されなければ、そこは現世なのだ。
 遠い地で互いに繋がりを持つことなどないはずだった少年と少女は、いつも夢の中にて出会う。
 幽世にて、目を閉じて己の片手を前方に伸ばし、伸ばしきった先で指先に触れるものがある。目を開けばそこには見知らぬ異性。
 現世と幽世との境界の区別すらおぼつかぬ少年と少女に、それはどう影響を与えたか。
 少女は、夢で会う少年を運命の人だと思った。少女の現実の生活では少年ほど思慮深い人は居らず、少年ほど少女を一人の人間としてみてくれる人も居なかった。
 少年は、夢で会う少女を自分を連れ去る妖怪の類かと思った。少年は現実の生活では体が弱く一年の半分以上をベッドの上で過ごす人間であり、夢で会う少女は自分が抵抗もできないほどに弱るのを待っているのだろうと思っていた。
 この擦れ違いは、少女も少年も互いに己の身分を明らかにしなかったことにある。少女は深く知ろうとすれば少年が消えてしまうかもしれないと思い、少年は向こうは当然自分のことは知っているものだと思っていたし、人型とはいえ妖怪に興味は沸かない。
 少女はここに来て一つの決心をしていた。自分の身分を明らかにし、少年に会いたいと考えたのだ。
 それは少女が七の齢を迎える前日。
 少女は知らぬ。少年も知らぬ。七つの齢を迎えるその日から、夢で必ず会う誰かが消えてしまうことを。


355

 船はどこを目指すでもなく揺らぐ波間をたゆたう。
 男は船べりからただ下の水を眺めていた。
 もはや進むべき道標などどこにもありはせず、いつか道標が出現することもない。
 食料が尽きるまで、永遠に彷徨うのがこの船の宿命となってしまったのだ。
 男はこの船でどこへでも向かった。
 危険だといわれるところにも好んで行った。
 その結末がこれだったのだ。男は後悔しているのかいないのか、自分でもわからない。
 男は不満そうに塞がれたボトルの口を見つめた。


354

「博士。お呼びですか」
「ん? ああ君か……。うん、そう。実は新しい発明が完成してな」
「……それって……もしかして以前おっしゃっていた地下帝国探索機とかいう……?」
「いや、残念ながらそれじゃない。これを見てくれ」
「これは……デスノート? この漫画が一体……まさか!?」
「そう、信じられないだろうが……」
「そんな……博士、まさか、人を……?」
「ん? いや違うよ馬鹿だな君は。それは漫画の中の話だろうが」
「……で、ですよね! あはは、つい早とちりを……で、これがどう関係するんです?」
「参考にしただけさ。出来たのがこれだ」
「……何ですかこの表紙が原色オレンジなケバケバしいノートは……」
「アンノートだ」
「アンのノート?」
「アンは人名じゃない。とりあえず、このノートに書き込んだことは"起こらない"」
「はぁ」
「そうだな。見せたほうが早かろう……えーと……そうだこの試験管。まず、落とす」
 パリーン
「え、と……? あの、博士?」
「まぁ見ていろ。で、このノートに書く。「14:51 試験管は割れる」」
「…………?」
「まだだ。ちょっと……3、2、1、よし」
「……? 何も変わってな……あ、あれっ!?」
「こういうことだ」
「な、何で割れたはずの試験管が……直ってるんですか?」
「この試験管はもう上からレンガ落としても割れないぞ」
「なんてことだ……凄いじゃないですか!」
「うむ。だが特に使い道もなくてな……。ゲームをリセットするのと同じだ。危ないかもしれん」
「え、えぇ……。でも……」
「とりあえず私がこれを作ったということはわかっただろう」
「は、はい」
「じゃあもういいか。「14:57 アンノートは存在する」」
「え、え、そんな!?」
「いいんだよ別に。ほんの気まぐれだから……3、2、1、よし」
「……あれ? 消えていませんよ?」
「いや、もう普通のノートになったんだ」
「そんな……折角の発明を……」
「でもこの試験管はもう割れないぞ。これは君にやろう」
「いいんですか?」
「構わないよ。多少危ない実験にでも使いたまえ。私は探索機の続きをやる」
「は、はい……。では……失礼します」


353

 さる女性が若き時分でありながら、魔道に身を堕とした。
 理由は何だったか、もはやそれは数十年も昔の話。
 魔道に身を堕とした者の多数がそうであったように、その女性も例に漏れず最初の目的などとうに失していた。
 女性は魔女と呼ぶに相応しい貫禄と知識を身につけ、老いた。
 何度も年月を経る中で、女性は自ら静寂を望むかのごとく丘の上の屋敷へと移り住んでいた。
 やがて。そこへ一人の青年が屋敷の門戸を叩いた。
 使い魔をやり要件を問えば、死んだ恋人に会いたいのだと言う。
 女性はならば試練を乗り越えて見せよ、と青年に三つの試練を課した。どれも難題で、少しでも心が挫ければ乗り越えることはできなかったであろうそれを、青年は満身創痍になりながらも乗り越え、再び姿を現した。
 女性は屋敷へと招き入れ、弱っている青年を殺してしまった。青年の願いを叶える為に。

 そして女性は思い出す。自分が魔道に身を堕とすきっかけとなった、恋人の裏切りを。
 嗚呼、青年が持つその誠実な心こそ、女性が魔道に求めたものだったのだ。


352

「君のイモムシのような美しさ。イモムシのような優しさ。イモムシのような気配り。イモムシのように愛らしい目。全てが好きです。付き合ってください!」
「……君。喧嘩売ってるのでなければ、イモムシ見たことないだろ」


351

「この矛はどんな盾でも突き破り、この盾はどんな攻撃からも守ってくれます! 戦場にひとつ、いえ、一家にひとつ如何でしょうか!」
 道端で、商人が茣蓙を敷いて武具を売っている。立ち寄り、口上を聞いている客はまずまずな人数で、この様子ならそこそこの売り上げは期待できるであろう。
「名工が炉に身を投げて造りだしたこの矛は、妖怪すらも突き破ります。そして野生の中で強くたくましく生き抜いた大熊や猛虎の攻撃をも防ぎきったこの盾! ここで買えば戦場での一番手はあなたです!」
 明らかに量産が不可能そうな口上を並べる商人。そこへ、一人の旅人が聞いた。
「その矛で、その盾をついたらどうなるのですか?」
 旅人は明らかにその口上のおかしさを嘲笑うかのように問う。
「…………」
 商人は、答えられなかった。客も、無言。
 冷静になってみれば商人が売っているのはどこの武器屋や防具屋でも売っている代物であり、客もそんなことはとうに承知した上で商人の口上を楽しんでいただけだった。少し後、周りの白い目に気づいた旅人は足早にその場を去った。

「この矛はどんな盾でも突き破り、この盾はどんな攻撃からも守ってくれます! 戦場にひとつ、いえ、一家にひとつ如何でしょうか!」
 聞き覚えのある口上が聞こえて旅人が顔を覗かせてみると、以前居た商人だった。旅人はこの前の経験をひどく恥じていたので、今日は邪魔にならぬよう後ろのほうで少し口上でも聞いていこうかと一瞬身を引きかける。
「おや、この前の旅人さん」
 と、旅人が身を引くより先に、旅人のことを覚えていた商人が声をかける。
 ああどうも、と少々気まずげに旅人が挨拶を返すが、商人はお構いなしに、
「ちょっとこっちに来ておくんなさい。問題を解決しました」
 旅人はどうしようか迷った末に、問題を解決したという言葉が気になり、商人のほうへ歩く。客の視線を浴びて少し恥ずかしかった。
 商人はどうぞ、と言って矛を渡してくる。旅人は首を傾げながら受け取ると、商人は徐に盾を取り、言った。
「さて皆さん、引き裂かれた恋人同士の血肉が息づいているこの矛と盾は決して互いを傷つけあうことはありません。ただ、恋人に会うために敵を粉砕するのです。それをお見せしましょう」
 そして商人は旅人に盾を突いてみろと言う。旅人は予想だにせぬ展開に戸惑っていたが、周りの客に押されるようにして、盾の中心めがけて突いた。
 客は、無言。みな呆然としている。確実に演技などではない動きで盾を突いたはずの矛が、本当に盾を避けるがの如く脇の地面を突いていたのだ。
 それから、矛と盾は物珍しさから飛ぶように売れた。
 あっという間に手持ち分が売り切れ、間もなくして場が閑散とし始める。
 それでもなお呆然としっぱなしの旅人に、商人はそっと種明かしをした。
「なぁに。磁力ですよ。矛同士がくっつかないように側面を絶縁しただけです。矛で突くのは盾とかでしょうからね」