思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳385-371

385


「腹が立つわ……!」
 そう言って少女は机を拳で叩いた。
「知った風な口を利くな、ですって!? あのくそじじい、何様のつもりよ!?」
 少女は八つ当たりするものでも探しているのか机の上を見渡すが、紙とペンしかなかったため、ペンをとり、さらさらと背後から老人の頭目掛けて花瓶らしきものを振り下ろす自分の姿を描いた。意外と巧い。
 そしてその描いた物を満足そうに眺めると、ビリビリに千切って床に叩きつける。
「アンタ! あれ聞いてて腹が立たなかったの!?」
 少女は部屋の隅に控えていた執事に向かって怒鳴りつける。
「何とも言いかねますな」
 執事の玉虫色の返答に、少女は不愉快気に鼻を鳴らすとイライラした調子で机をトントンと叩く。執事はしかし、と付け加えて言う。
「お嬢様の失言に関しては、私がフォローいたしましょう」
 少女は執事を一瞥し、「余計なお世話よ」と一言言うと、はっとした顔つきになり、今度は執事を睨む。
「……何それ。喧嘩売ってるの?」
「いいえ。私の仕事は責任取りですので」
 それはこの少女が問題を起こすたびに、執事が頭を下げていることを言っているのだろう。
「やっぱり喧嘩売ってるんじゃないの。ああ、もう!」
 少女は何度か強く拳で机を叩く。
「お嬢様」
「今度は何!?」
「言いたいことは大人になる前に言い終えるくらいの気持ちでおりませぬと」
「はぁ?」
「ですから、言った後のことは私が、と。……少々難しいですかな」
「そんくらい判るわよ。ったく、皆して子ども扱いして……」
 相も変わらずイライラとした調子で少女は言う。少女は愚鈍ではないために、執事の言葉をきちんと理解していた。ようは若くて物事へ対する理解が浅い内に、大人として見られるようになっては到底言えない事であろうと全部言い切っておけ、と。知らないことを武器にせよ、とそう言っているのだ。もしそれが失言であろうとも、大人の自分が後は引き受けよう、と。
 少女は執事に何か言おうとして言葉を探すが、うまい言葉が見つからない。感謝をしたいなら「ありがとう」でいいはずなのに、それだとあまりにも感情が直線過ぎて、それを言うには少女には強い照れがある。
 だからその感情は少女の中で何転もした挙句、
「バカっ!」
 一言、そう言い捨てて部屋を出て行った。
 執事は口元だけで嬉しそうに、楽しそうに微笑んだ。


384

 俺は目立たない顔で人見知りもするので、高校に入ったところで友達もロクにできず、結局中学と同じ図書室浸りの日々になるまでそう日数はかからなかった。というよりも、高校が決まってまず調べたがったことが図書室の場所だったので、案外自分でもそれを望んでいたのかもしれない。
 昼と放課後は毎日のように居て、朝も早く来た日は図書室に行く。三顧の礼が足元にも及ばぬような熱意ぶりで、図書室が学校で本当の居場所だった。
 時々煩い連中が来たりもしたが、おおむね静かで俺は満足な図書室ライフを送れていた。多分、中学と同じで、高校を卒業しても語るべき思い出など持っちゃ居ないのだろう。
 梅雨に入り、図書室の人入りが増えても俺は相変わらず図書室の片隅で自分の居場所を確保し続けた。
 そしてそんなモノクロでできた生活が僅かに彩られたのは、梅雨が開けて図書室がまた一部の人間ご用達な過疎化に見舞われたころだった。
「あのぅ」と、不意に声がかけられ、俺は顔を上げた。
 声の主は見覚えがある顔だったが、クラスメイトではない。というよりも、学年で分けられているネクタイの色を見ると先輩だ。しかし俺は部活には入っていないし、他学年の顔など知っているはずがない。はて……?
 その先輩も、言っちゃ悪いが地味な顔だった。ファッションセンスなど欠片もない四角い縁でしかも茶色の、老眼鏡みたいなイメージの眼鏡をかけ、髪を後ろで縛っているもののそれがそこはかとなく野暮ったい。
「何でしょう」
 俺は俺でまともにクラスメイトとも話さない生活なので、やや緊張した声色で返す。
「いつも来てますよね?」
「は、はい……」
 何だろう。利用者何万人目かの記念品でも貰えるのか? 鬱陶しいから出て行けと蹴りだすのか? 用件が予想もつかないので、ありえないことばかり考えてしまう。
「やっぱり」と先輩は少し嬉しそうに言い、「葛原……君でいいのかな?」
 なんといきなり俺の名前を言い当てた。
「ええ……葛原ですけど……」
 俺が少し怖がっているような顔をしていることに気づいたのか、先輩は自分を指して恐る恐る言う。
「私の顔、見たことありませんか?」
「え、ああ……。見たことはあるんですけど、ええと、どこかで会いましたっけ?」
 そう返すと、先輩は少し芝居がかった仕草でガクリと首を下げ、
「私、図書委員で、いつも受け付けに居るんですけど」
「あ……! ああ!」
 言われてみれば。そうだった。図書室の受付の人だ。受付に居ることが当然のような光景として脳に刻まれていたために、すぐに浮かんでこなかったのだ。
「お、思い出しました! そうですね。いつもお世話になってます。……それで」
 何の用でしょうか、と問うと、先輩はええと、と呟き少し黙る。
「今キミが借りている本、どれくらいで読み終わるのかな?」
「え……? これですか?」
 と、俺は今読んでいる児童文学の本を持ち上げる。
 しかし先輩は首を横に振った。
「ううん。借りているほう。ファンタジーの……」
「ああ、あれですか。えーと、明後日か、うーん……まぁ、今週中には。何か急ぐなら明日持ってきますけど」
「いや、いいのいいの。私もあれ読みたいから、返却何時になるかなあと思っただけで」
「そうなんですか。……あれ、まだ頭しか読んでませんけど、結構面白いですよ」
 俺が言うと、先輩は首をかしげた。
「面白い……って、まだ冒頭だけなんでしょ?」
「頭が面白ければ大体全部面白いですよ。俺が読んだものは大体そうでしたから」
「ふぅん……」
「まぁ、そう言うことなら早めに読んで返却しますよ」
 俺が言うと、先輩は慌てたように手を振った。
「いや、いいのいいの! 別に急かした訳じゃないから!」
 先輩は笑顔で「それじゃあごゆっくり」と言い残すと再び去っていった。急かしている訳じゃないなら、なんで返却予定日なんて聞いたんだろう。俺は少し疑問に思ったが、まぁいいやと再び手元の本に集中する。
 それが、矢田先輩との出会いだった。


383

 昔から僕の家は貧乏で、ゲームとは縁がなかった。
 でも学校ではみんな当然ながら新発売のゲームの話をしている。僕の知らないゲームの話をしている。大抵は興味を示さず聞き流して「ふーんそんなゲームがあるんだね」といった感じであしらっていたのだが、つい先日でたというゲーム「モノクロ世紀の終焉」は、話を聞いていて少し興味を持ってしまった。その会社は既存のゲームとは少し違う、不思議な空気を持つゲームを出している。前作の「風の中の夢」はさほど話題にはならなかったようだが、さほど話題にならなかったそれでさえ、ゲームに手が届かぬ僕には色鮮やかな傷を残したのだ。「モノクロ世紀の終焉」の情報は、僕にとって生殺しだった。やろうにも出来ない状況では、話を聞いて愛おしさが募るばかりで近づくことは適わない。
 僕はやがて実らない想いの逃げ先を作るかのように、「モノクロ世紀の終焉」攻略本をなけなしの金で購入した。
 その本を開くと、僕の想像をはるかに超える世界が転がっていた。
 主人公が持っているおもちゃの剣。ぴかぴか光るしか能のないそれで、モノクロ世紀を旅するのだ。それ以外にも主人公のモノクロ世紀以前の軌跡に始まり、モノクロ世紀に辿り着くまでの敵や仲間。
 攻略本を見る限りでは詳細なストーリーまでは判らない。他に並ぶゲームと比べると映像の面では確かに劣るが、その攻略本に記されたダンジョン、敵、仲間に製作者の愛を感じ取れた。
 僕はおもちゃの剣を振り回す主人公と共に、ゲームとは異なる「モノクロ世紀の終焉」を想像する。
 モノクロ世紀の目にとって、主人公の持つモノクロではない光るおもちゃの剣はどう映るのか。


382

 唯蔡真由嘉は眠たそうに大きな大きな欠伸を一つ。
 斜め後ろの席でその様を眺めていた僕でさえも呑まれてしまいそうだった。夏のこんな地味に暑い日に寝たりしたら、まず間違いなく寝汗で微妙に嫌な気分を味わうのだろうけど。
「おい」
 ただ、授業中にするのはよろしくなかった。我らが日本史教師氏崎に、丸めたテキストで唯蔡は頭を小突かれる。
「いてぇ」
 唯蔡は悪びれる風にでもなく呟く。こうしてみると女の子と言うよりは悪ガキと言った風情だ。ショートカットにしていることがその色をより強めている。
「いてぇ、じゃねーだろ。おー? 授業をちゃんと聞けよ」
「聞いてます聞いてますよ……」
「じゃー今何の話をしてたか言うてみぃ」
西南戦争でしょ。田原坂で負けて宮崎で軍散らして……」
 ……田原坂
 明治維新の話をしていたので間違いではないが、何か行き過ぎている。聞いたことないぞ、田原坂
 だが氏崎は不満そうな顔をしながら「聞いとるならいい」と言って教壇へ戻る。
 どうも珍しく予習をしていたらしい。前の日本史の授業で同じ展開で散々にネチネチ嫌味を言われたのがよほど耐えかねたのだろう。
 その証拠にほら、口の端が吊りあがっている。
「見たか? 大成功だっ」
 と小声で言いながら、小さく手元でピースサインを作り、唯蔡は僕にサインを送る。僕はまた氏崎に見つかるんじゃないかとヒヤヒヤしながらよくやったよ、という仕草をしてみせる。いやホントに。まさか前回の逆襲を企てていようなどとは。素振りすらみせなかったのに。これで怒った氏崎が日本史のテストを、唯蔡が言ったような田原坂とかワケの判らないレベルまで吊り上げないことを願うばかりだ。
 僕は小さく息をつくと窓の外を見た。中庭を挟んでグランドが見えるが、今はどこも使っていないらしい。空を見ると雲が飛び交う中に青空が見える。別に何か悩み事を抱えているわけでもなかったが、空を見ていると何とはなしにぼーっとしてしまう。
 結局、授業の残り十分くらいを心ここにあらずで無駄に過ごしたのだった。気づいたのは氏崎が律儀にも黒板を綺麗にしている時だ。さて、誰にノート借りようかな。
「いやぁ傑作だろうあれ!」
 休み時間になると唯蔡はよほど自分の仕返しがツボにはまったようで、僕の机をバンバン叩きながら言う。
「随分嬉しそうだなあ」
「狙ってたからな」
 唯蔡はふふん、と軽く胸を張って威張ってみせる。
「……今回の期末が楽しみでしょうがないよ。レベルの急激な上昇があったりしないかと」
「う゛。そ、そう言うなよ……。ま、まぁ大丈夫だろ。テストならもう時期的に出来上がってるはずだし」
「最後の問題にその田原坂とか言うのを書かなきゃいけない記述問題でたら、僕は唯蔡を恨むよ」
「むぅ……」
 唯蔡が難しい顔をしていたので、僕はからかうのもこれくらいにするかと思い、冗談冗談と誤魔化す。
「まぁ、大丈夫だろう。多分。きっと……。……あー、ところでさ」
 と、唯蔡は急に白々しいくらいの話題転換をした。大体予想はつく。こういう白々しい話題転換をするときは大概何かのお誘いの時だ。何度誘っても自分で切り出すのは恥ずかしいらしい。
「今日、暇?」
 これもテンプレだ。別に僕が忙しい日なんてそうないことは判っているはずの今でも、唯蔡はそれを言う。
「暇だよ」
「お、じゃあ、えー、今日ちょっと遊びに出ないか?」
「ふむ。どこに?」
「ちょっと遠いが隣町。神社で祭りやっててさ、従姉妹が店出してるっちゅーんで誘われてるんだ。で、どうかな。良かったら」
 普段の唯蔡を知っていると判るが、誘いの時だけ妙に腰が低い。別に「今日ちょっと付き合え」でも僕としては問題ないし、というか実際そういう奴もいるのだが、知り合って結構な時が経ってもここだけは頑として変わらない。
「喜んで」
 気持ちだけは丁寧な僕の返事に、唯蔡は笑みを返す。
 呪文を唱えたその日に、退屈な暑い夜は夏の夜の夢へと化けるのだ。


381

「いい? いい子にしてなきゃだめなのよ」
 そう言って幼い彼女は私に言った。
 悪魔の私に物怖じもせず、不出来の弟に言い聞かせるような口調で偉ぶって言う。気づかれないようにはしているのだろうが、無理に背伸びまでして自分を大きく見せようとしている努力でさえも微笑ましい。
 彼女が私を恐れない理由は何か? それは人間のようにスーツを着ているからではない。紳士的な私の物腰でもない。ただ直感的に「大丈夫だ」と信じ込んでいるからだ。……もっとも、無根拠というわけでもないのだが。
「いい子にしてなかったらおしおきするからねっ」
 そう言って、彼女は大事そうに胸元から出した契約書を自慢げにちらつかせて見せる。私は毎度のことながら恐れているふりをする。少し怯えたような、疲れたような、そんな表情を。これの存在こそが彼女の私を恐れぬ根拠であるのだが、本当は、そんな契約書など最初からただの紙切れ同然で何の効力も持っていない。
「わかったの? おへんじは?」
「はいはい……」

 もともと、私は人間だった。昔は私もこの街に人間として住んでいた。
 だが、家族を守る力が欲しくて、私は魔に身を堕とした。
『直系の血が絶えるまで』
 それが約束だった。血が絶えたら、私は未来永劫安らぎのない地獄の住人として苦痛を享受しなければならない。ここまでするとどんな大層な家の者か、と思われるかもしれないが、直系などと大仰な言葉を用いてはいるものの、私の家は別段たいそうな家でもない。ごく普通の家庭だ。ただきっかけは、私をずっと守ってくれていた姉の危機に、この身を差し出しても力になりたいと思ったのだ。私には何のとりえもなかったゆえに、単純に恋焦がれるようにして求めたのは力で、求めた結果いくつかの偶然と必然が重なり、得た答えがこの姿だった。
 これが正しかったのは判らない。この姿になってからは両親からは二度と帰るな、と追い出され、姉は私の姿を見て泣いていた。この姿の私など居ないもののように、私の昔の写真を見つめる姉を見て、私は己の姿に苦悩したこともあった。人の色ではありえない異常色の強靭な皮膚に、負の感情しか宿らぬかのような紅い眼。尖った耳に二本の角。手から足からすべてが「人間」とは一線を画していた。
 追い出された私は、仕方ないので隠れて自分の家族を見守ることにした。追い出されたところで行く当てもなかったし、いまさら行きたいところもなかった。ただ、自分の存在意義を持ち続けていたかった。
 それからずっとそのように暮らしてきた。親は死に、姉も死んだ。姉の子が無事に成長するのを私は静かに見守っていた。やがて世代から世代へと移っていき、血筋はそこからもどんどん増え、「直系」もかなりの数になってしまった。いくら魔に身を堕とした私といえども、いくつも目を持っているわけではない。姉に顔が似ている子が居る家だったり、私の隠れ場所に一番近い家だったり、危うそうな家だったりと適当に選んだ。
 どうもその家は金回りが悪かったらしい。と言うよりも、外から来た女の金遣いがいけなかったようだ。私が見守っていた家は借金に揺らいでいた。さすがに、身から出た錆までフォローするつもりはない。私が見守っていると状況はどんどん悪化していき、借金取りが取り立てに来るほどになった。まさか平凡な一家庭であった私の家からそんな類の愚か者が出るとは思わず、少々驚いた。私が最初奮起した理由である姉の危機とて避けられぬものであり、自己管理不足のツケではない。
 程なくして、その家は夜逃げをした。私は追おうと思ったが、その夜逃げの中に子供が居ないことに気がついた。子供は一人で置いていかれたのだ。借金のカタに、であろう。
 翌日来た借金取りは一瞬で状況を把握し、子供を連れ去ろうとした。借金取りには悪いが、私も何の落ち度もない我が子を見捨てるわけには行かない。私は全身を隠し、少し子供のための小細工も整えて久しぶりに、本当に久しぶりに人前に出た。
 借金取りは横から現れた私に悪態をつき凄んで見せたが、昔の私ならともかく、今の私にはその程度児戯に等しかった。適当にあしらって向こうが武力行使に出るのを待ってから正当防衛という形でお引取りを願い、私は子供を迎えに行った。結局その子が生きているうちに聞くことはなかったが、子供からすればそのときの私は助けに見えたのか絶望に見えたのか。私は仮面で顔を隠していたし、子供は尻を突き出して怯えていたから後者だったのだろう。私は用意した小細工を取り出し、それを見せた。それが今も効力があるかのように残っている「契約書」だ。内容は適当に書いた。私の正体を詮索しないことを条件に、持ち主の命ある限り守る、という内容だ。正体を詮索するな、というのは余計かと思ったがいろいろと面白いこともあったので結果的にはよかったのだろう。
 その子供が年を取り、結婚し、子を残して死ぬまで私は傍に居続けた。さすがに妙だ、とは思われた様だし噂された様だったが、執事のようなさほど目立たぬ役割にいたことと契約書が効を奏してかはっきりと問い詰められることはなかった。子供たちには好奇心から幾度となく探られたが、私はすべてをかわしてきた。ここで素顔を見られるわけにはいかなかった。同じことを繰り返したくはなかった。  「直系の血が絶えるまで」というのを約束にしたのは、当時の私にしては冴えていたと今でも思う。私の実の姉が他界してから数百年は経つが、未だに「直系の血」は絶える気配がない。あと何百年か何千年か……。私の地獄行きは今しばらくの猶予がある。
 それからの、私が再び自分の家族に受け入れられてからは、やはり人間の生活と言うことですべてが目まぐるしかった。こうやって記すとなるとあれもこれもと記憶が溢れてくるくらいに。

 契約書などなくとも、私が家族を殺すことはありえない。こと「直系の血」に関しては。しかし契約書の存在が彼女やその周りの安心と信頼の根拠となりうるのならばそれでよいのだろう。
「……ちょっと! 聞いてる?」
 気づくと彼女が口を尖らせて私を睨んでいた。どうも思い出に浸りすぎた。
「いえ、申し訳ありません。聞いていませんでした。何でしょう?」
「私の部屋の片付けもしておいて! パパとママが帰る前に!」
「……それはご自分でなさってください」
 彼女が私にいい子でいろ、と言うのは目立つから出歩くなという気遣いであるのはいいのだが、彼女自身は割とだらしない。……念のために言っておくと、目立つから出歩くな、と言うのは私が目立つことを嫌っている、ということを考慮したうえでのことであり、悪意からのものではないことを彼女の名誉のために付け加えておく。彼女の外出毎に言われるので多少うんざりするのも事実ではあるのだが。
「うー……ケチね……。チッ、仕方ないわ。時間もないし、譲歩してあげる。デェーランの新作チョコケーキでどう?」
「ふむ。いいでしょう。ではいってらっしゃいませ」
「よろしくねっ」
 彼女が元気よく手を振りながら駆け出してゆく。私のほうはいいからしっかりと前を見て欲しいのだが。
 やれやれ、今から片づけか。私は彼女の後姿を見送りながら、ネクタイの位置を直した。


380

「それが実りの種? ……意外と普通ですね」
 豊穣を約束するという実りの種は、私が考えていたものとは随分違っていた。普通の種と殆ど変わらず、僅かに大きいくらいで目立つ違いもない。おそらく、長年付き合ってきたような人でないと区別などつかないのだろう。
 この道二十五年という宮間さんは、私が言ったようなことは言われなれているのか、困ったような顔で笑う。
「どんな形を想像してました? 「私が居るのに何で彼はあの女のほうばかり見ているの。あんな女なんて居なくなってしまえばいいのに」みたいな普通とは違う歪な形ですか?」
 私は言われて考えてみる。その評判を聞いてから普通とは違うのだろう、程度の認識だったので正直こういう形なのではないか、という想像は今しがたまでしたことはなかった。
「そうですね……。明確に描いていたわけではないのですが……付き合っている彼が別の女の人と手を組んで歩いているのを偶然見つけて、悲しかったけれど別れる決心がついた。そんな、ちょっとだけ普通の種から外れた違う感じがあるのではないかと思っていました」
「そうですか……」宮間さんは微笑なのか苦笑なのか、小さく笑みを浮かべながら答える。「名ばかりが先行するのは常です。実りの種とは……そうですね、「あの子が居たから今まで頑張れた。あの子の存在は太陽だったんだ」そんな調子で他の種の成長を促してくれるわけで、希少といえば希少ですが、魔法のような力を持つわけではありません」
「なるほど……」
 私は今一度実りの種を見つめた。他より少し、大きいくらいの。だけどその大きさが他の種を引っ張っていく統率者たる証なのだろう。
 宮間さんはまだ実のならぬ畑を見て微笑んでいた。


379

「いずれや貴方様方の強力な助けとなりましょう」
 そういって町の長者より預かった眠れる獣を呼び出す不思議な笛は、彼らにとっての最終戦の前での呼び出しに応えなかった。
 彼らは戦力不足だった。ゆえに彼らは何事かあったのかと心配し、待った。何度か、笛の綺麗な音色を空の彼方へ響かせもしたのだが、一日二日と待てども現れる様子はない。
 逃げ出したのかも知れぬ。彼らの一人がぽつりと呟くと、じわじわと不信が広まり、もうこのままいくべきではないか、という意見が出始めた。
 世界に闇をもたらす者。今この大地に生きるものたちにとってその者は恐怖の対象であり、刃向かおうなど考えることすら恐怖につながる、そんな存在なのだ。眠れる獣もいくら伝説級とはいえ、獣は獣である。本能がある。その本能が、己より強いと告げたらどうなるのか。獣に「負けるとわかっていても戦う」という義侠のような心があるのか。それは彼らの想像の及ぶ範囲ではない。
 が、現に眠れる獣は現れなかった。
 今になってもただ遅れているだけと信じたい心がある一方、どんどん諦観の念が広がる彼らから、ただ澄んだ音色が寂しくこだまする。


378

「おい、簡単にアメリカンジョークが作れるやり方をネットで見たぞ」
「へぇ?」
「適当に文を作って最後に「よく見たらお前のカミサンだったよ」でしめるんだと」
「ふむ……。……いやでも随分方向性が限定されるな」
「そうでもないぞ? そうだな……。例えば、この前マンホールの蓋が開いててさ、誰か気づかずに落ちたんだ。アホだなーと思ってよくみたらお前のカミサンだったよ」
「んだとこの野郎」
「わっ、おい、ジョークだって! 落ち着け!」
「あ、ああ、スマン……」
「ジョークが通じないのかお前は。まぁそれは置いといてだな、こないだ他にもデパートでバーゲンコーナー通りかかったら凄いのがいてな、どこのアマゾネスかと思ったらお前のカミサンだったよ」
「うーん……」
「何だ? イマイチか」
「いや、そうじゃなくて……。ミステリーまで作れるとは思わなかった」
「……? おいおい、俺はアメリカンジョークは言ったがミステリーなんざ言っちゃいないぞ」
「いいや、ミステリーだ。お前が見た俺のカミサン……。独り身の俺。SFだって作れそうだ。俺は別の世界ではカミサンが……! なぁ、俺のカミサン、どんなだった?」
「……あー。いやいやごめん。俺が悪かった。そして黙れ。別にボケ合戦を始めるつもりはない。ただひとつ訂正を入れるなら、そうだな。よく見たらお前の、じゃなくてウチのカミサンだったよ」
「こりゃ酷いアメリカンジョークだな」


377

 ああ、あの男が気になるのかい? 最近有名らしいねえ……。何? あの男みたいになりたい? いやいや、それは考え直した方がいいね。アレは昔は酷い評判が悪かったんだよ。信じられない? ……だろうねぇ。あの車椅子のが嫁だよ。あたしの娘さ。あの男はね、昔は殆ど毎日を遊んで暮らしてもう周りからは殆ど村八分さ。ただ、アレがここに居続けることが出来たのは誇張でもなんでもなくあたしの娘のお陰さね。娘はガキん時分から変にマセてて将来への夢とかそういうのが殆どない現実主義者でねぇ。あたしも幾度となくうんざりさせられたもんさ。
 まぁ大学では金稼ぎばっかに精出して勉強もろくにせず、持って帰ってきたのはあの男でね。どうもそれまで初恋もろくになかった娘だけど直情的なとこもあったんだねぇ。トントン拍子で結婚話が進んじまってさ。反対? したよもちろん。あの男は遊び人……というほどじゃあなかったけれど、夢ばっか語る、娘と正反対の男だったからね。でも反対するなら二人でどっか行って勝手に暮らすっちゅうもんで押し切られるようにして、ねぇ。
 結婚してから暫くはもう見ちゃいらんなかったよ。娘は馬車馬のように働いているのにアレときたら夢がどうだこうだってほっつき歩いてばっかでねぇ。何べん言っても聞きやしないし、娘に言っても幸せそうな顔で「あの人はああだからいいのよ」なぁんて言うもんだからこっちとしては苦い顔で見守るしかなかったのよ。
 それが三年……いや、四年前だったかね。娘が事故で足をあの通りやっちまってさ。働けなくなってさぁどうするって時にあの男はふらっと居なくなったのよ。どれくらいだったか…まだ娘も退院すらしてない頃で、もう顔見知り全員腹を立てたの何の。殺しちまえ、なんて意見も出たくらいでさ。でも肝心の娘が特に気にしてないようで、「そのうち帰ってくるから大丈夫」の一点張り。まぁ娘が退院して少し経った頃に本当にふらりと帰ってきてね。それ以来どっかで働き出したのか…ふらりと姿を消して暫くすると帰ってくるのよ。まぁ未だに得体のしれないろくでなしだよ、あたしにとっちゃ。娘が幸せそうだから何も言わないけどね。
 あたしの娘が夢を追い求めること自体をアレに託した? そんなわけ……うーん……あたしも夢くらい持った方がいいって昔は結構言ったからねぇ。そうかもしれないねぇ……。まぁ、夢を持たれても心配させられっぱなしだから、ちょうどいい関係だったのかもしれないな。


376

 :1
 少女は何故死ななければならなかったか。
 それは預言者であり、予言者であったからである。彼女はある意味で全能だった。彼女が言うことは必ず起こった。それは避けえぬことで、彼女は度々起こる事象を言って民を怯えさせ、しかしそれに対する準備を整えさせた。
 しかし預言者としての彼女は、人間世界で暮らす上で「言ってはならぬある事」を口にしてしまい、殺された。

 :2
 少女は何故生き延びたか。
 未来、彼女が必然となる歴史があった。それはずっと遠い未来で、彼女が何度か生まれ変わるほどの未来であったのだが、途中で殺されてしまうと転生は狂い、歴史が滅びてしまう。故に未来の技術で以って一つの歴史のために彼女を生き延びさせなければならなかった。
 彼女は殺された歴史を人為的に改竄され、「重傷のところを救われた」。しかし第一事象上の変更はなく、"図書館"に記述される彼女の歴史はそこで途絶えている。

 :3
 最後に少女はどこで見ることが出来たのか。
 少女が生を受けた世界では生き延びることが非常に難しいと判断した彼は、時間を飛んで別の時空下で適当な世界平面上の適当な時間軸に下りた。
 幾ばくかの追手はあったが彼女は無事に生き延び、彼を看取った後自ら亜空間に飛び降りて何処ともしれない世界平面上の時間軸に下りた。未来、歴史は存続した。存続した以上、どこかで彼女は生き続けたのだろう。


375

 綺麗な音を紡ぎ合わせて作られたその旋律は、確かに綺麗ではあったのだが―

 いくつかの分野の学者が集い、音を紡ぐことによって創りだした箱庭ほどの世界は、創世時、それはとても綺麗なものだった。単音で聴いても綺麗な音と分類される音だけで世界を創ったのだから、それは当然だったろう。
 だが予想外だったのはその後のことである。荒廃する速度が予想をはるかに超えていたのだ。倍速で再生して維持していた世界とはいえ、その荒廃速度はどこかに欠陥があるとしか思えないものだった。
 学者たちは一度世界を音素レベルで分解して、入念に調べ上げた。しかしどこにも問題はなく、学者たちは頭を悩ませた。
 やがて一人の学者が提案した「一度一つの音楽として組み立てて、意見を集めてみたらどうか」という意見に同意し、一度世界として組み立てられた音素は音楽として再構築された。その音楽は、当然ながら概ね好意的に受け止められた。そしてそれ故に学者たちは己らの理論に間違いがなかったと実感し、やはり頭を悩ませることとなった。
 それが解決したのはそれから少し後のことであった。三ヵ月後に同じく意見を集めてみたところ、やはり好意的ではあったものの、「飽きた」という意見がちらほら見られるようになった。学者たちはその今までとは違った意見を重要視し、その理由を調べた。その答えは割りと簡単に見つかったのだ。
 それは綺麗な音のみで構築されているために、メリハリに欠け、新鮮味をすぐに無くしてしまう、というものであった。加えて、音楽として作った時はさほど目立たなかったが、世界を構築するレベルになると、いくつかの音同士が近すぎて互いを喰らいあっていた。
 学者たちは音が音を喰うという事態はさすがに想定していなかった。いや、想定してはいたのだが、世界を構築できるほどの多重な組み合わせ下によってのみ喰らいあう音というのは予測しきれなかったのだ。
 そしてそれを発端にいくつかの見直さなくてはならない問題点が浮かび上がってきたため、音で築かれた世界は二度目の解体を迎えることとなった。だが今度は音を守る必要もなかったため、箱庭ほどの世界に歪んだ音を一本流した。
 その綺麗な音で構築された世界は、その世界を一直線に駆け抜けた歪んだ音によって両断され、世界を支えきれなくなった音は微細な音素として砕け散った。その際に余韻のごとく残った音はとても寂しく、どこまでも澄み渡っていた。


374

 彼女が求めたのは「愛しい人の心臓」だったのか、「愛しい心臓」だったのか、最後にそれだけが引っかかっていた。

 数々の恋人を殺害した彼女は、何度も言っていた。
「人を殺す夢を見るのです。そして、朝目覚めたら隣で死んでいるの……」
 精神科にて無意識の行動であると判断された後、独房を移して様子を見ることになった。
 しかし様子を見る限り寝ている間に妙な行動をすることはなく、いたって穏やかであった。
 狂言ではないか、という話が出始めた頃、彼女は妙な事を訴えるようになった。
「夢で心臓を見るんです。隣には彼が眠っていて……いえ、誰、というわけでもなく、毎日違います。そして私がゆっくりとその彼に向かって手を伸ばしているんです。……え? ああ、心臓というのはですね、彼の体はいつも透き通っていて、心臓だけがすごくくっきりと見えるんです」
「……君はその心臓へ手を伸ばしている、と?」
「はい。多分、そうなんだと思います。でも私は……ああ、なんと言ったらいいのか……自分の意思で伸ばしているわけではないのです。勝手に誰かが私の体を操って手を伸ばしていくのを、私がじっと見ているような感じで……。私自身の体の感覚ですか? いえ、そういうものは一切……。ただ文字通り"見ている"だけなんです」
「毎晩それは同じかね? 恋人の顔以外に変わっている点などは?」
「いえ、特には……ああ、待ってください。ありました。……どんどん、近づいているんです。毎晩毎晩…。一晩で手が動くのは僅かなのですが、それでも確実にその心臓に近づいているんです。私……私は……」
「……落ち着いて。落ち着きなさい。大丈夫だ。……いいね? もう君は誰をも殺すことはない。だから無理にその夢を拒絶したりせず、できるだけ平静な心でそれを見届けるんだ」
「ああ、判りました……。でも……辛いのです……」
 以来彼女は不眠と錯乱の兆しを見せるようになったが、少量の沈静剤で抑えることには成功していた。彼女が夢で見るという己の手はどんどん恋人に近づいていき、いよいよ恋人の胸にその手が到達するというとき、彼女は息苦しさを訴えてきたので念のために検査をしたが異常はなく、様子見をすることとなった。彼女の独房は夜通し監視カメラで見張られていた。彼女は午前二時前後より酷くうなされ始め、三十分ほど経つと落ち着きが戻り、そして更に三十分後、呼吸が停止した。
 呼吸停止が確認されてすぐに蘇生処置に入ったが、彼女は息を吹き返すことはなかった。原因は不明とされていて、その横に小さく呼吸困難とだけ書かれていた。

 彼女の見た夢が全て真実であり、彼女を裏から操る何かが居たとするのならば、彼女が求めたのは「愛しい人の心臓」だったのか、「愛しい心臓」だったのか、最後にそれだけが引っかかっていた。

 最近は私も眠るのが辛い。
 眠ると、妙な夢を見る。私は自分の家の書斎より少し広いが何もない部屋に居る。ドアはなく、窓が一つあるだけだ。明かりは豆電球を少し明るくしたようなもので、なんとも心もとない。窓から見えるはずの外は気味悪いほどに暗く、何一つ視認することはできない。鍵を開けようとしてもそれは溶接されているかのように頑強で、窓を叩き割ろうとしても鉄の壁を相手にしているかのような錯覚を抱く。
 私はすることもなく部屋の中で呆けているのだが、時折部屋の周りを何かが駆け回っている気配がするのだ。窓から覗こうとしても相変わらず何一つ見えるものはなく、気配のみが部屋の周囲をうろうろとして、しばらくすると消える。
 そう、それは部屋の周囲を駆け回っているだけに過ぎないのに、気配だけはじりじりと私の元へと迫ってきている気がしてならないのだ。


373

「……うわっ!? ……? あ、あれ? あ、何だ……いやぁびっくりした」
「どうしたって言うんだい?」
「うん、実は酷い夢を見てさ。朝から車に乗ったらボンネットにうんこが乗ってて、会社に着いたらいきなり見に覚えのないことで上司に怒られて、昼飯は地面に落とすわ帰りにいつも買う弁当が売り切れだわ、車になんか傷がついてるわ、帰ってゲームやってたらセーブしてないのにいきなり停電になるわで…ホント悪夢だったよ」
「そ、それは災難だったね……」
「ほんと、夢くらいはいいものみたいよなー。もしあんなことが現実だったら、なんて考えるだけで死にたくなるよ」
「へぇー……(どうしよう……こっちが夢の世界なんだけどな……)」


372

 おかえりなさい、と私は主を出迎える。
 上着を受け取り、衣裳部屋へと私は向かう。
 途中、上着の匂いを嗅ぐと家のものではない香水の香りがした。これは、嗚呼、そうだ。前々から付きまとっていた牝犬めの匂いだ。あの牝犬はまだ懲りもせずに私の主にちょっかいを……? やはりあの時容赦すべきではなかったのだ。首を絞める手を緩めるべきではなかったのだ。あの牝犬めが泣いて謝り二度と主に近づかないと宣誓を立てさせたところでこうなるのならば、やはり私の判断は間違っていたといわざるを得ない。私も甘すぎた。指の一本くらいは切り落としておくべきだった。いやそれでは優しすぎるか。……。どうせ今回はその程度じゃ済まないのだから良いとしよう。
 私は強く上着の匂いを嗅ぐ。……匂いが強い。これは道で会って絡まれた、などというレベルではない。同室に居たのだろう。嗚呼、もしもあの牝犬が交尾までしていやがったら私は絶対に許さない。牝犬はもちろん、主もだ。主は立派で高潔な人であるが、あの牝犬に体を許したとなればそれなりの制裁を受けるのは当然のこと。
 主はズボンか財布か携帯を調べれば確証が得られるかもしれない。……いや、その前に体の匂いを嗅げば答えは如実に語られるだろう。
「麻耶」
 ヤクでもやっているのか、目つきが常に悪い同僚のメイドを呼ぶ。
「なぁに?」
 麻耶は料理途中だったようで、エプロンをつけている。
「何か切り落とすものを貸して頂戴」
「……いいわ」
 私は借り受けた鉈と大鋏を隠し、何事もなかったかのように部屋で寛ぐ主の元へと向かう。


371

 蛇の子は彷徨い歩く。
 偽りでもいい。慰めが欲しかったのだ。
 「足」を賜りし時より幾霜。脱皮を繰り返すうちに這う機能は退化し、鱗に覆われた人間、と言った態になった。
 蛇の子は彷徨い歩く。
 求めるものを求めすぎて、逆に遠ざけていることに気づかない。
 「地図」を賜りし時より幾霜。最初は白地だった地図が、今は四分の一ほど埋められている。
 それは蛇の子が踏破した場所が記されている。
 だが、それには想像出来ぬほどの労力で以って造られている。何故なら、出来ていないのは地図だけでなく地形もまた然りだからだ。
 蛇の子が視線をあげれば、見えるのは地平線などではない。白い、無が横たわっている。
 後ろを振り返れば地平線は見える。しかし、何もない。山も、森も、川も、海も、そういったもの一切が見当たらず、ただ平ら。茶色い不毛の地面のみが延々と続く。
 蛇の子が未開の地に足を踏み入れるたび、地形情報を練って大地を作り上げなければならない。
 蛇の子が遠い昔に行った小さな命を助けるという善行。それは死後に評価されて、何か望みをかなえてもらえる次第となった。蛇の子は願った。「未開の、人間の居ない土地が欲しい」と。
 蛇の子は人間に殺された。故に人の居ない別の大地を望んだ。与えられたのはまだ造られてすらいない土地。
 蛇の子は彷徨い歩く。
 世界を開拓する気分とは随分陰鬱であることを知った今なら、人間への気持ちも少しは改められる。
 荒地だらけの地図すらもまだ、完成しない。