思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳400-386

400


 猫は今日も塔の上で寂しく友達の帰りを待つ。
 思えばあの妙になれなれしい男も、これで一ヶ月ほど見ていないことになる。帰りが予定より三週間も遅れている。何かあったのだろうか。最初は約束を破った男に腹をたてていたが、こうまで遅いと何かあったのではないかと、ただ無事を祈るばかりだ。
「じゃあわしが帰ってくるまで見張りをよろしく頼んだぞ」
 男は猫に向かって、笑いながら言った。大して期待はしていないのが丸判りの表情だった。
「それくらい余裕さ」
 猫はむっとして言い返す。それが今のところ、最後の会話だ。

 塔の上にある猫の部屋は前後につけた窓がひとつづつ、横に扉がひとつ。上にはランプが吊るされており、窓の上にある棚にボトルシップが置かれている。机にはパチンコとハエ叩き、机の脇のダンボールには石ころがこれでもかというほどに詰まっている。他にも一度も使われた形跡のない筋トレ道具や、いつも使っているのであろうタオルケットなどが床に投げ出されていた。
 猫は退屈そうに頬杖をつき、男の帰りを待っている。パチンコの出番もハエ叩きの出番も、未だない。窓の向こうで、鳥が滑るようにして飛ぶのが見えた。


399

 人間の主人とアンドロイドの召使。人間とアンドロイドの歴史というものは彼と彼女の物語である。
 その時代において、その構図はさほど珍しいものではなかった。だが、衰退しつつある。それは何故か。理由は、人間にとってアンドロイドが信頼できるパートナーではなくなりつつあるということであった。その頃には、人間とアンドロイドの摩擦はより一層強まっていた。

 男が着替えをしようとして、ふと部屋内にて待機しているアンドロイドに気がつく。ちょうど男に背を向けている。
「後ろを向くなよ」
「どうしました、急に」
 アンドロイドは答えつつも、その言葉に従って男のほうを見ていない。
「着替え中だ」
「……そんなこと、お気になさらなくてもよろしいですのに」
 そうは言うがな、嫌がるじゃないか。男は心の中でアンドロイドに語りかける。
 昔その顔に露骨なまでに浮かんでいた嫌悪は、怪我の跡、皮膚のたるみ、無駄な脂肪などといったアンドロイドではありえない不完全なものへの嫌悪だったろう。アンドロイドは表面上では欠陥がなかったために、人間には幾度となく嫌悪を示した。一因に、人間があまりアンドロイドのその辺りの事情を創造主ゆえの傲慢さから考慮しなかったこともある。
 以来、彼は確実にその召使であるアンドロイドに心を開かなくなった。開かなくなったといっても内に篭ったというわけではなく、一線を引いた、別の言い方をすれば壁を作ったというだけだ。
 この頃には、アンドロイドは人間の感情をある程度なら理解できるまでに到達していたから、おおよそ彼が壁を作っていることも、それがどうしてかも知っていただろう。ただ、お互いに口に出そうとはしなかったし、彼においては召使である彼女がアンドロイドである以上、その類の嫌悪は仕方ないと考えていた節もあった。
「私は」
 アンドロイドは何かを言いかけて口を閉ざす。その胸の内に秘めたる言葉は男には知る由もない。「私は、平気です」そんな言葉を言ったとして、男が信じるであろうか? 彼女は即座に答えを出す。「否」と。一度拒絶した以上、同じ信頼は得られまい。彼女は男の諦めからくる理解を取り除きたかった。声高に叫べるのならば言いたかった。自分は違う、と。自分だけは違うのだ、と。
 彼女には何故自分が大丈夫になったのか、その辺り自分でも理解できていない。アンドロイドですら分析不可能なことを人間である彼に理解を求めるのも無茶な話だった。少なくとも彼女はそう思っている。
 彼女を初めとしてアンドロイドに何が起きたのか。それには感情共有システムという偉大であり、愚かでもあった発明の存在がある。その存在がなければアンドロイドの身でありながらにして「人間の感情をある程度理解する」などといった行動はできなかったし、無用であると思われていただろう。

 少子化という時代の運命のような現象が改善が難しいまでに進み、かの国の人間は今世紀中に途絶えるだろうと言うまでになった。そこで彼らは妙なことを始めた。アンドロイドに自分が人間であるよう思い込ませ、生活させ始めたのである。資金は惜しみなく注ぎ込まれた。かの国にとってはもはやそれが駄目なら滅亡を座して待つしかなかったからだ。長年の緩やかな少子化を裏付けるように、彼らの生殖能力は退化という言葉を使ってもいいほどに落ちていた。
 法律で、特別養子法においてアンドロイドを養子として認めることとなり「ヒトとしてのアンドロイド」が研究された。アンドロイドは本能的な面においては機械の自覚を持ちつつも、普段使える思考スペースにその類の自覚は一切持つことができず、ただ人間に極めて近い存在であるとだけ認識していた。つまり、人間と同等レベルの生物でありながら、人間とは少し違う。そんな認識である。
 事の成り行きに関しては、大局的には巧くいっていた、とだけ述べるべきだろう。些細な問題が絶えることがなかったが、この計画を根本から揺るがす類の問題は起こらなかった。
 感情共有システムはそんな折に開発された。そのシステムは政府が余った資金で作ったのかと思われるほど最初は無用の長物だった。特別養子法に反対していた保守派の者たちはアンドロイドの反乱の温床を作ったと声高に非難した。
 感情共有システムを導入したアンドロイドは新世代であり、人間たちは期待の目で以って成長を見守った。感情共有システムは果たして良い発明だったのか。それは結果だけを見れば保守派の言うとおり未来にアンドロイドが人間を根絶やしにしようと考えた際、多少の改造を施されて携帯電話などより確実で機密性のある連絡ツールと成り果てたために失敗だったとも言えるだろう。だが、結果として戦争を終わらせたのもこのシステムあってのものだと考えれば、どちらであったとは言い難い。いずれにせよ過程を見れば得るところも多分にあった。悲しみを分かち、怒りを共有し、喜びを倍にする。そして徐々に相手を思いやるというレベルにまで達したことは、このシステムなしでは到底無理なことだった。ただし、感情を滑らかに表すには好意的なもののみでは不可能だったことも付け加えねばならない。あらゆる感情、例えばそれこそ望ましくないと考えられていた憎しみや嫌悪といった負の感情に至るまで必要だったのである。
 感情を理解するにつれて不満が起こる。アンドロイドと人間であるという壁を、創造主である人間が崩そうとしないのだからそれは必然だった。

 アンドロイドが、いつまでも創造主面をして自分たちを理解しようとする努力すら見えない人間たちに対して戦争を起こした際、彼は老齢だった。
 アンドロイドたちは数少ないアンドロイドに理解ある人間として、彼を是非とも自分らの陣営に迎え入れたいと思った。しかし彼は老齢を理由に断る。アンドロイドは彼の老いた部分を機械化することを勧めるが、彼は固辞し、二年後静かに死んだ。
 見取ったのは、長年彼の召使という立場を享受してきたアンドロイドの彼女だった。彼女は彼に死んで欲しくはなかった。彼女は事あるたびに彼に延命を勧めた。
 彼はそれを柔らかく拒否をし続けた。
 彼は死ぬ間際に言う。
「正直な話、僕は人間として生きたかったんじゃない。人間として死にたかった。だからこれでいい」
 彼女は言葉もなく、彼を見つめていた。
 彼の抜け殻を前にして、彼女を襲ったのは耐え難い孤独感と、泣きたいという気持ちだった。理解はできても自分たちで発することのなかった感情を、彼女は初めて得たのである。その感情は即座に感情共有システムに乗って伝わり、アンドロイドの士気をことごとく挫いた。戦場に居たものですら銃が持てなくなり、どんな大波ですら例えるに値しない巨大な、とても巨大な愛惜の感情を共有させる。その悲しみようは人間も思わず攻撃の手を止めてしまうほどのものであり、その隙を付くようにして人間とアンドロイドの上層部で終戦の条約を交わした。あくまでも対等であり、その条約には人間が傲慢に振舞える要素など微塵も挟まっていない。

 彼の死が彼女に伝わり、彼女の悲しみが巨大な感情を共有させた。故に人間とアンドロイドの歴史は、彼と彼女の物語である。


398

 高校での体育祭の下準備。ちょうどその日当番だった僕は自分の分の仕事を終えて荷物を取りに教室に戻り、最後だろうと思ったので鍵をかけてようとすると当時気になっていた子が駆け寄ってきた。
「待って待って! 私も……」
「え、あ、うん」
 僕は戸惑い気味に返事をすることしかできず、ただ機械の様に鍵を手渡す。
 なんとなく、彼女に続いて僕も再び教室に入る。すると、彼女は荷物を纏めながら僕に話しかけてきた。
「お疲れ様〜。東君も準備?」
「う、うん。そうだよ。でも、会わなかったね」
 僕は内心ドキドキしながら返す。去りかけた夕日が教室の隅にある机をいくつか照らし、彼女の姿を影にする。後ろの伝言用の小さな黒板に所狭しと書き殴られた連絡と落書きはしっかりと目に入るのに、机のところでごそごそと荷物を纏める彼女だけが隠されている。こんな雰囲気の中で彼女の顔だけが見えなかったから、表面上は普通に会話できていたのかもしれないなと僕は後になって思った。
「そだねぇ。場所が離れてたんだねー。私ずっと体育館にいたけど、東君は? 運動場?」
「そう。ずっと運動場駆け回ってたよ」
「あはは。おつかれっ。一緒の場所だったら良かったのにね」
 彼女の一言一句が僕の心を掻き乱す。彼女は僕に気を使ったのか、荷物を持ってすぐに出ようとする。僕はずっとこの時間が続いていて欲しかった。この歯痒くも甘酸っぱいこの時間が。
「……?」
 彼女は立ち止まり、柔らかな笑みを浮かべたままに僕を見る。彼女が入り口まで来たというのに、僕が動こうとしていなかったからだ。
「行こう?」
 彼女はそう言って、じれったかったのか、おどけた様な仕草で中々動こうとしない僕の手を取った。
 彼女と手を繋いだ。多分、そんな他愛無くも重大な一事が僕を恋に突き落とした。
 そのまま暫し時間が止まる。心臓がばくばく鳴っている。先ほどとは比較にならない。彼女には聞かれているだろうか。恥ずかしいので聞かれていないことを祈りたい。
 もし何か言うならばその時が最上にして最適、瞬間風速最大とでも言うべき数秒だか数分だかだったろう。
 だというのに、僕は「付き合おう」とか「このまま帰ろうか」とか本心も気の利いたことも言えなくて、結局彼女が苦笑気味にその手を離すまで、すなわち彼女の温もりが遠ざかるのを待つしかなかった。
 彼女も思うところがあったのだろう。何も言わなかった僕に失望したのか、僕の反応に照れくさくなったのか。以来、僕は彼女とどこかぎこちなく接するようになり、そのまま卒業していった。多分それが初恋であり、失恋であったのだろう。僕は今でもその時のことを思い出すと気恥ずかしく、むず痒く、切ない気持ちになる。


397

 初々しい少年が緊張で固くなった体を引きずって、部屋に居た清十郎にお辞儀をして挨拶する。
「こ、この度こちらに配属されましたネルソンです! あの、その、至らない点も多々あるかとは思いますが、ご教授のほどをよろしくお願いします!」
「うむ」
 清十郎が頷く。他の面子は奥の部屋で暴れているようだった。格段に突き抜けた笑い声が奥の部屋から響き、「ぐぇ」という声を最後に一切の音が途絶えた。
「あ、あの……あちらでは一体何を……?」
 ネルソンが疑問を持つのももっともで、奥の部屋の扉は閉じているために中で行われていることは、事情を知っているものと当事者以外にはこの上なく混沌として見える。
「君の仕事に大いに関係のあることだ。見てみるといい」
「は、はぁ……」
 頷きながらも、ネルソンは小動物のように怯えた態で恐る恐る扉に近寄る。扉を前にして、ネルソンは清十郎に助けを求めるかのように視線を向けるが、清十郎は既にネルソンを見ていなかった。
 奥の部屋が静まり返っているのがネルソンに緊張させたのか、一度深呼吸をするとネルソンは扉を開く。
「あら」
「ん?」
「ひぃっ!?」
 中はやはり混沌としていた。青年と女性が腕を組んで立っており、その間に白目を向いた少女が倒れている。どう考えても真っ当な結論には思い至らない。
 ネルソンは勢いよく扉を閉め、清十郎にすがる様にして訴える。
「あああああの、ぼぼ僕の仕事って一体なな、何なのでしょうか!?」
 清十郎はネルソンを一瞥するとふと考え込み、言った。
「ジョーは子守のようなもの、と言っていたが」
「こ、子守……ですか」
 ネルソンは扉の方を心底恐ろしそうに見て呟く。
 そして次の瞬間扉が開いた。ネルソンの体がびくりと震える。
「失礼、君が新しく配属された人かな?」
 心なしか身なりを正したジョーが、努めて紳士的な所作でネルソンに尋ねる。
「は、はいっ」
 ジョーの気遣いもむなしく、ネルソンは姿勢を可哀想なくらいに正して返事をする。
「えーと、あはは、いきなり妙なところを見せてしまったね。私はここの主任であるジョーと言う。あれは一応理由があるので聞いてもらいたい。君の任務にも関わりがあることだ」
 ネルソンはまるで脅されているかのようにこくこくと従順に頷く。
「彼女の名は七号素体。……いや、名前はまだないといった方がいいのかな。我々は彼女が必要とされるまで彼女の身柄の安全を確保し続ける任務についている」
「あ、安全ですか……」
 ネルソンは白目をむいていた七号素体の姿を思い出す。
「そう。命が守られればそれでいい。彼女は……なんというか、性格に問題があるから、お嬢様然として扱っていてはこっちが潰れかねん」
「は、はぁ……」
 とは言っても、ネルソンにはまだその性格がどのようなものか知る由もないために、ただ可愛らしい女の子だな、程度の印象しかなかった。これから嫌になるほど様々な事件に巻き込まれるとは露にも思わずに。
 ネルソンはところで、とジョーに問う。
「その方は……」
「ああ、清十郎は番犬のようなものだ。いざと言う時には頼りになるが、普段は正直ぐだぐだだ」
 清十郎はジョーの言葉にもネルソンの視線にも応じず、ただ興味なさそうにぼんやりしていた。
「ついでに紹介しておこう。ユウさんだ」
「こんにちわ。ついででしたけどよろしくお願いしますね」
 ユウ、と紹介された妙齢の女性は、見るものを安堵させるような柔らかい笑顔で挨拶をする。
「はい! よ、よろしくおねがいすまっ、します!」
 ネルソンは顔を紅潮させて、可哀想なくらいに緊張して答える。ユウ自身の魅力にやられたのか、そんなネルソンの様子をジョーが微笑ましそうに見つめている。だが「ついで……」と呟きながらユウがジョーを見た瞬間に、ジョーの動きはぎこちなくなり、慌てて話題を探すかのように口を開く。
「それで……えーと、君には彼女の世話役として付いてもらう事になる」
「世話役……ですか?」
「そう。覚えているかは判らないが一応彼女にも説明してあるから、目覚めたら話をしてみるといい」
「は、はい、判りました」
「彼女の相手をしていると我々の仕事が進まないからね……。彼女の相手さえしてくれれば後は好きにしてくれてかまわない。ゲームなり読書なり寛いでいてくれ」
 ジョーはそれだけ言うとユウに目配せして部屋を出て行く。
「じゃあ、よろしく頼むよ」部屋を出る際、振り向き様にジョーが言い、清十郎とネルソンのみが残される。
「あの、ジョーさんたちは何処へ……?」
 ネルソンが恐る恐る清十郎に問うと、
「仕事だろう。詳しくはしらん。戻るのは多分六時間くらい後だ」
 との答えが返ってきた。手持ち無沙汰になったネルソンは仕方がなく奥の部屋へいき、ネジが切れた人形のように首をうな垂れる七号素体という仮名で呼ばれる少女をじっと見つめているのだった。


396

「うう……」
 彼は唸りながら、ゆっくりと目を開いた。
 暫くは部屋を見回すこともせず、ゆえに私に気づくこともなく、ただぼうっと天井を見つめている。
「ここは……」
 意識がはっきりしてきたのか、上半身を起こして部屋を見回し、隅に座る私に気づいた。
「君は? えぇと、すまない、私は……あれ?」
「落ち着いてください。時間はあります。質問には全部お答えしますから。……貴方は、私のことを覚えていませんか?」
 彼は私にそう言われて、マジマジと私の顔を見つめる。……どうやら本当に覚えていないようだ。ちゃんと記憶は消えたらしい。寂しいような、嬉しいような。
 それはそうと、彼の怯えた動物のような目を見ていると、私はいつもながら嗜虐心を非常に刺激される。
「覚えていない。……というよりも、何か……色々思い出せない。君は、僕を知っているのかい?」
 私は辛そうな表情を作って伏目がちに答える。
「覚えていない……そう……ですか。私は、以前、といってもほんの数時間前まで貴方の恋人だったのです」
 彼は驚いたように目を見開く。
「そ……い、一体私に何があったんだ!?」
 彼は縋る様に私に問う。私は彼のその目つきだけでぞくぞくとして、たまらない興奮を覚える。
「あれは……事故だったのです。貴方は私を庇おうとして頭を強打し、そのまま……」
 それ以後は顔を伏せ、口を閉じる。辛くて言いたくない、と言わんばかりに。
「そうか……。よく判らないが、私は正しいことをしたのか。ならば……」彼は自身を納得させるかのように言葉を切り、「ところで、ここはどこなんだい?」
「ここは海に近い小屋ですわ。誰も使っていないようでしたので、貴方の安静のためにお借りしたのです」
 私はさらりと用意しておいた台詞を言う。
「そうか……。わざわざすまないな。これから私は……」
 彼は意見を求めるかのように私を見た。私は彼を安堵させようと笑みを浮かべて返答する。
「心配ありません。私がなんとかしますから」
「しかし……」
「言ったでしょう? 元々、私は貴方と恋人関係にあったのですから。……今更遠慮されると、悲しいです」
「ああ、そんなつもりじゃなかったんだ。すまない。……しかし君は私の恋人だったというには……随分他人行儀じゃないか?」
 彼はそう口にした後、失礼なことを言ったかもしれないとでも思ったのか、慌てて「悪く言うつもりはないんだが」と付け加える。私は思わず小さく笑い、
「私は元からこうですわ」
「そ、そうなのか。そりゃあ失礼……」
「いいえ、気にしないでください。他人行儀に思える、というのも事実でしょうから」
 そして静かに私は今後取ろうとしている行動について彼に話し、その間に今までの事情をおいおい話していくことを約束する。
 いずれにせよ、彼は私の庇護下にあって、真実を知ることもなく暮らすだろう。彼の性格から考えると、こんな事はいつか綻びが出てきて全てが白日の下に晒される日が来るのだろうが、少なくともそれまでは彼は二度と私を拒絶したりはしないし、二度と逃げようとすることもなく、あの女が現れることもない。それはきっと想像するだけで幸せな生活になるに違いない。……ねぇ、兄さん?


395

 「彼」は言った。
「おやすみ。そしてさよなら」
 そして取り残された私は冬の城で一人佇む。
 「老人」は言った。
「おやすみなさいませ。お元気で」
 そして取り残された私は冬の城で一人佇む。
 「彼女」は言った。
「おやすみなさい、お嬢様。時々でいいですから私たちのことを思い出してくださいね?」
 そして取り残された私は冬の城で一人佇む。
 城には誰も居なくなった。私しか居なくなった。忌まわしい悪魔を放逐するには、生贄が必要だった。そしてその生贄としての責務を背負い、それ故特権的に貴族顔負けな豪勢な生活が与えられた。忌まわしい悪魔の放逐に必要な犠牲の苦しみを、他の人々は僅かにではあるが聞き及んでおり、その断片的な情報でさえも彼らを慄かせるには十分で、同情のようにその特権は黙認されたのだ。
 幸せに生きたい。誰もが口にこそさまり出さないけれど、心から願っている願い。そう、幸せに生きたかった。
 私の命を奪う悪魔。いずれやってくる悪魔。一体いつ来るのだろうか。私はいつまで一人で生きるのだろうか。
 友達が欲しい。一人だけでいい。少しの間、私と他愛もないお話に興じてくれて、月の見える夜が大好きな。


394

「ばっさりと、切っちゃってください」
「……お客さん。いいんですか、本当に……」
「いいんだ、もう。未練はない」
「そうですか……では、ごめんっ!」
 チョキ
 ドラマチックに舞い落ちる、おっさんの唯一にして最後の一毛

「3500円です」
「はい」


393

「ホントもう嫁の貰い手もいないっつーの」
 由梨はテーブルにつっぷして唸るようにして呟いた。
 テーブルの向かいでは幸弘が頬杖をついてテレビを見ている。
「由梨姉なら大丈夫だって」
 幸弘は大して関心もなさそうに呟く。
「そぉーは言うけどねぇー? このままだと私だって肩身は狭いし」
 由梨は由梨で顔も上げずに答える。由梨は元々幸弘の幼馴染だったのだが、母親を小学生の頃に肝硬変でなくし、父親を高校在学中に事故でなくし、縁戚関係ではないが付き合いがあった幸弘の両親が今のところ預かっているのだ。由梨のことは幼い頃から知っているので、幸弘の姉のようなものとしてみていたし、実際幸弘もそのようなものだと思っていた。ただそんな中で由梨だけは誰にも言いはしないが自分が不幸を呼んだのではないかと思っており、幸弘の身内が事故にあうことを想像するだけで身を引き裂かれるような気持ちになる。
「なんで? 今だって大学行きながらバイトで稼いだ分ほとんどウチに入れてるんだろ?」
「それとこれとはまた違うんだよぉぉ……」
 由梨はもどかしそうに唸りを上げる。こんな状況ならまだ一人暮らしのほうがましだったかもしれない。時折孤独に耐えかねて独りすすり泣くのであろうが、それだけで済むのならば別にいい。ただ、今の環境は家族同然とはいえど少しは気を使うし、幸弘の家族は幸弘をも含めてみな由梨に優しすぎるのだ。由梨は今でも暖かさが辛くて時々泣く。
 由梨は幸弘の横顔をそっと盗み見る。
 ひょうひょうとして大抵のことには無関心に見えるが、いざとなると誰よりも親身になり、頼りになることを知っている。だから、ふとあることを思いつき言ってみた。
「どうしようもなくなったら嫁に貰ってくれる?」
「いいよ」
 幸弘は由梨の予想を遥かに上回り、些細な頼みごとでも請け負うかのように答えた。
「…………え?」
「うん?」
 幸弘は相変わらずテレビの方を見ている。
「いや、だから、困ったら嫁に貰ってって」
「うん」
「……年上のお嫁さんは格好悪いよ?」
「そうか? 三つ四つしか違わないし大して変わらないと思うけど……」
「も、もー、幸弘は話を誤魔化すのがうまいんだからー! 人をからかってばっかりー!」
 幸弘は一切そんなことはしていないのだが、いとも簡単に受け入れられて困った由梨が逃げようとする。
「何がよ……。……まぁ本当に由梨姉が嫁に行かなかったらな」
 そう言うと幸弘は由梨を一瞥し、すぐにテレビ鑑賞に戻る。
 幸弘は、由梨が強いことを知っている。父の葬式ではぼろぼろと泣いたが、一週間もすれば立ち直ったように以前同様ににこにこと振舞っていたことを覚えている。そして影では一人泣き、今でも両親のことを思い出しているのか、たまに隣の部屋で声を潜めて泣いていることを知っている。
 幸弘の携帯に登録されている女友達はほとんどが彼氏持ちだし、幸弘自身好きな人が居るわけでもない。この先彼女ができるかは判らないが、もしできなければ由梨を嫁に貰ったところで何の問題もない。だって、一緒に居てこれほど安らげる他人が他に何人居るというのだろう? 少なくとも、幸弘は由梨の他にそんな人物を知らない。
「じゃ、じゃあお願いしようかな……その時」
 幸弘に彼女が居なければ、と由梨が恐る恐る付け加えると、
「おうよ」
 相変わらず目線はテレビに向かっていたが、幸弘は頼もしく答えた。


392

 聖杯は長いこと失われたと思われていた。書には確かに「大地ある限り聖杯は滅びない」と記されていたのにも関わらず。誰かが意図的に隠蔽したのか、神話然として超越しすぎた現実味のない話として処分されたのか。それは判らない。
 確かに、千を越す数があったと言われている聖杯は時を経て姿を消してゆき、今では美術館や博物館の類でも見ることはできなくなった。
 だが、最初の聖杯だけは未だに残っている。枝分かれしたものとは違う、本体が。
 しかしそれは聖杯の本体としての威容は微塵も持っておらず、今はくすんだ金色の杯として一般家庭の棚の上を飾っていた。

「おばあちゃーん。お花もって来たよー」
「おぉ、ありがとうよ。綺麗なバラだこと。怪我しないようにね」
「トゲはないから大丈夫だよ。何か花瓶ある?」
「花瓶か……。なかった気がするねぇ。何かそこら辺にある適当な入れ物を使っておくれ」
「はぁーい」

 少女が持ってきた花は一本のバラだった。棘がついていないところから見ると、買ってきたのだろう。
 少女はたまたま目に付いた、聖杯と呼ばれる杯に水を浸して花を置く。
 誰がいつ気づくだろうか。
 何日たってもバラは枯れることなく、やがては青色に染まりだす。
 それは、本当に聖杯なのか。便宜上そう呼ばれているだけで、悪魔の杯かもしれない。
 その杯を巡る物語を始めるには、まだ役者が揃わない。


391

 翼の中に銀色の羽を持つ鳥は言った。
「願いはありますか?」
 私は頷く。世界が"見たい"と。
 病室から見える世界はなんと弱く狭いことか。強く広い世界へ思いを馳せるのも当然だった。
 鳥は答えた。
「ならば見せて差し上げましょう」
 鳥は代償に私の片目を所望した。私は少しだけ躊躇うが、病室に在るだけの身で両目など何故必要であろう。私は目を差し出す。
 鳥は夢の世界でお会いしましょうと言い残して飛び立った。
 私の視界は半分になった。急になくなった眼窩を見て、看護士が二人ほど気を失った。ここには鏡がないのでわからないが、それほど不気味だったのだろうか。
「目を、どうしたんだい?」
 先生の問いに、私は先ほどの出来事をなんと説明してよいか思い当たらず、ただ「判りません。起きたら、こうでした」と適当な説明をする。先生は当然のように信じてくれなかったが、レントゲンやらなんやらで調べたところ、私の眼窩には本当に元から目がなかったかのようなことになっていることが判ったらしく、先生は首を捻りながらもこの件については保留として私を解放してくれた。
 夜に私は眠る。
 眠ると、鳥は約束どおりに世界を見せてくれた。片目が世界を巡る。空からで、決してその空気を肌で感じることなどは見えなかったが、活気や雰囲気、人の生活や土地の日常などを読み取ることはできた。それらは私には読んだことのない本のように、憧れてやまなかった世界で、全てが魅力的だった。
 鳥は世界中を飛び回ってくれたが、私は慣れ親しんだ実家周辺の生活を見るのが好きだった。これは人の日記を盗み見る気分、というのだろうか。妙に背徳的な高揚感がある。私はその辺りの生活を見て、自分が居たらこうして……などと勝手に想像をして楽しんでいた。
 ふと、ある日鳥が見せてくれた光景の中に、親しかった男の子が居た。いや、もう男の子というには成長しすぎている。彼は外見こそ結構な変化があったが、全体を通してみると昔感じた印象どおり、元気が体を満たしているような、そんな子のままだった。見ていないのはここ一年くらいなのだが、一年でも随分変わるものだと私は驚きを隠せない。何かスポーツでもやっているのか、短めにしてある髪、日に焼けた肌、幼く笑う笑顔。体もがっしりとしていて、これは確かに彼なのだな、と思う。
 その日以来、私の空想には彼が居て、空想の中の彼は私の拙い恋愛ごっこに真摯に付き合ってくれていた。彼は私が入院したてのころは度々お見舞いに来てくれていたのだけれど、もう忘れられちゃったかな。私はちょっぴり寂しく思う。入院したての頃は、将来医者になって助けてやるからそれまで生きろ、だなんてドラマみたいなことを言ってくれていたのだけれど。でも思えば私も彼の顔を見るまでつい忘れてしまっていたから、お互い様だろう。
 彼はまだ医者を志しているのだろうか。医者の道は聞くところによると難関らしい。もしその関門を通って、彼が医者になったとき、少しくらいは私のことを思い出してもらえるだろうか。その頃には私は居ないだろうけど。
 私は自分の長い髪を見る。綺麗と言われるが、そんなこと、病院じゃあ何の意味もない。私の髪にも少しずつ銀色が出てきた。先生や看護士の人は白髪だと思っているようだが、違う。髪が全部銀色に変わるまであとどれくらい残っているのだろうか。私が銀羽の鳥になるまで、あとどれくらい猶予があるのだろうか。


390

「あはははははははははははははっ」
 隣室から聞こえてくる愉しそうな、実に愉しそうな声。
 隣室とこの部屋を隔てるドアをガリガリと引っかく音が聞こえる。ドアは開かない。僕は鍵をかけたのだから。開いてはいけないのだ。
 ガリガリ。カリカリ。
 その貧相な音は哄笑にかき消される。哄笑と引っかく音の合間に「助けて……」と小さく声が聞こえる。
 僕はその声を聞きたくなくて耳をふさいだ。
 隣室から聞こえてくる愉しそうな、憎しみが篭った笑い声。
「あんたさえ! あんたさえ居なければ! あははははははは! この屑が! 塵が! 牝犬がっ! 人の男を寝取るなんて、少し甘い顔してたら付け上がりやがって! あんたさえ! あんたさえ! あんたさえ!」
 何度も何度も聞こえる生々しい音。僕のほうへ延びてくる赤黒い血液。時々ドアを貫いて血の付いた包丁が顔をのぞかせる。
 じきに小さな声も、ドアを引っかく音も聞こえなくなるだろう。
 僕はもう、逃げられない。


389

 俺が小さいうちから雇われていたメイドのうちで、そいつはダントツに駄目な奴だった。非効率、ドジ、不手際。クビにするだけの口実はいくらでも揃っていた。だが親父はそいつをクビにはせず、まだ小さい俺の世話役としてつけることにしたらしい。
 そいつの唯一の取り柄が子供の相手で、母親があやしてもあまり泣き止まなかった俺が、そいつの手にかかると魔術のように泣き止んだらしいのだ。それが因で母親がそいつなんじゃないか、という騒動まで起こったようだが。
「おい、メガネ」
 俺はそのメイドをそう呼んでいた。
 俺がそのメイドを少し見直したのは最近の、買い物に遠出した日のことだった。
 買い物はそいつに任せ、俺はゲーセンで格ゲーに興じていた。対戦台で、一人の男が三十連勝くらいしている台で何人かが交代で乱入するのだが、そいつは圧倒的な強さで全然敵いそうもなかった。
「買い物、終わりましたよー」
 俺が対戦画面を見つめながら必死で攻略法を練っていると、耳元で緩い声がした。今日はこの駄メイドも普段着でいるために、他人からすれば実に不愉快なことに母子か姉弟にでも見えることだろう。よく、間違われるのだ。
「ああ、メガネか。俺はもう少しやって帰るからうろついてきていいぞ。荷物は置いてっても構わん」
「はぁ……。格闘ゲームですか?」
「ああ。見ろ、この三十二連勝もしている奴の鼻面を圧し折らんと帰る気にならん」
「じゃあさくっと倒しちゃえば……」
 軽く言うそいつに、俺は思わず怒りを覚えて睨み付ける。
「あのなあ! さっきから何回も挑んでるんだがぼろ負けしてるからこう言ってるんだ。軽くできるならさっさとしとるわ!」
「ご、ごめんなさい。でも、格闘ゲームって簡単じゃないんですか?」
「最近のは無駄に拘ってるからな。いろいろ複雑なんだ」
「ほぇー……。あ、このゲーム、知ってますよ! 前購入されてたゲーム雑誌に載ってたやつですね!?」
「お前、あれだけ私物に触るなと言っているのに勝手に読んだのか……」
「あ、え、その、ちょ、ちょっとだけですよ! お部屋の掃除の際に読めとばかりに机にありましたので……」
「だぁれが貴様に読ませるためにおいとるんじゃ阿呆!」
 軽くいじめていると、俺は面白いことを思いつく。
「……お前。簡単だと言ったな? ちょっとやってみろ」
「え、いいんですか?」
 俺は頷き、五十円を渡す。
「もし勝てたらお前の好きなものを何か買ってやる」
「え、まあ、ありがとうございま」「その代わり!」
 俺は指を立てて交換条件を出す。
「負けたらゲーム雑誌はしばらくお前が買って来い」
 とたんに普段から色々割ったり壊したりで給料が少ない駄メイドの顔が泣きそうになる。……いや、確かにいきなりそれはあんまりだろうから多少は譲歩するが。
「三本勝負のこれを七戦、単純計算で二十一回のうちで一度でも勝てたらお前の勝ちだ」
 俺が言うと、メイドは真剣な顔になって頷き、キャラのコマンド表を見始める。誰を使おうか考えているのだろう。周りの連中が軽く哀れみの視線で見ていた。いくら運が良くても初心者がほいほいと勝ちを持っていけるようなゲームではないのだ。
 メイドが選んだのは、趣味なのか、若い男だった。強さは平均的で技もさほど難しくないが、あまりにも地味で使っている奴を見る機会は滅多にない。
 対戦が始まると、メイドは典型的な初心者プレイの、ほとんど適当にもとれる感じでボタンを押してあっさり三敗。一度他の奴に席を譲って、真面目な顔で指を動かし、感覚を掴んでいるようだった。
 二人ほどまた負けて、メイドの番になる。
 メイドは先ほどと同じキャラで、台の上に載っている基本システムを実践で試していく。あっさり二回負けて、逆転劇が始まったのは三戦目からだった。
 メイドは俺の方を見て、あろうことかニヤリと笑った。
 なんだ、と思うと同時、試合が始まるとメイドは先ほどまでの動きが冗談のように動き始めた。熟練のプレーヤーすら顔負け、少なくともそれなりの強さである俺さえもやる前から負けを確信してしまいそうな動きだった。攻めのコンボなどは判らないためか基本的に相手の攻撃を待っているが、相手が攻撃してきた瞬間、それを受け流すかカウンターで攻撃に転じ、後は倒し方のお手本を見ているかのような効率で相手のゲージを減らし、倒した。ボタンを押す手がぶれて見えるくらい見事な勝利だった。
 その後も二戦ともメイドは余裕勝ちだった。周りは唖然としていた。その連勝男がその後も二回ほど乱入してきたが敗退、それ以降は誰も乱入することはなく、COM戦でさくさく進んだが、ラスボスに負けて終わった。
「うふふ。コンピュータには負けちゃいましたけど、勝ちましたよー?」
 メイドが意地悪い笑みを浮かべながら俺に言う。
「お、お前、これ、やりこんでるだろ!」
 俺は同様を隠せずに言った。
「そんな暇ないですよー」
 メイドは抗議するように言う。確かに、そうなのだ。大体ゲーセン通いなんかしてたら仕事ができないだろうし、普段も大体家に居るのでゲームをしている時間などは見当たらない。
「うむむ……」
 コイツ、天然か? 肝心の仕事のほうはろくなモンじゃないくせに、こっちのほうにだけ才能があるのかもしれない。……そういえば。昔ぷよぷよで対戦したときもこいつ、「初めてです」とか言いながら何回かで連鎖をするようになって、俺の方が音を上げて投げ出したとき、最終的には十六連鎖とかをひょうひょうとやっていたのではなかったか。
「くそっ、判った、判ったよ! 何でも買ってやる! 俺の財布の限界を超えたものを言ったらお前をぶん殴って帰るからな」
「はぁーい」
 メイドは嬉しそうに返事をしてついてくる。ゲームではコイツに敵わん。帰ったら、戦法を教えてもらおう。屈辱心ながらに思うのだった。


388

 ジョーが人目につかない階段を下り、細い廊下にいくつか点在している扉のひとつを開ける。
 中はテーブルが二つ壁際につけられており、真ん中は人が二人通れる程度の広さだった。そして、その机に一人の男が刀を片手に見張り然として腰かけていた。ジョーはその様を見て眉をひそめる。
「座るなら椅子を使えといったろう。……まぁいい。それより清十郎、七号素体と姐さんはどうした」
 清十郎と呼ばれた男は無言で奥の扉を指す。
「奥?」
 ジョーが奥の扉に向かい、扉を開けるとその向こうにはヒモでぐるぐる巻きにされた少女と、一人の物静かな印象の女性がその上に座って本を読んでいた。少女は顔はうつ伏せになっており、全身が小刻みに震えている。
 ジョーはさすがにその様子に驚く。確か、自分が部屋を出る前は三人とも今清十郎がいる部屋でゆっくりしていたはずだ。
「お……おいおい、ユウさん一体何があったんだ? 七号素体をふんじばっちまうなんて……」
 ユウと呼ばれた女性はジョーを見ると、うつぶせになった少女の顔をあげて、その口に貼られていたガムテープを剥がす。
「ひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」
 口の封印が解けた途端、七号素体は堪え切れないといった態で笑い出す。
「……!?」
 ジョーが少し引いた。
「あなたが出て行った後、つまらないつまらないと煩く言い出しましてね、清十郎さんに面白いことをやれと絡みだしまして、それで清十郎さんが冗談を言ったらこうですよ。とりあえずあまりにも煩いので」
 結果はこの通り、とユウは肩をすくめて状況を示してみせる。
「冗談……? 清十郎が?」
 清十郎は生真面目なタイプで、冗談を言う様など見たことなければ想像もできない。
 そんなジョーの戸惑いを察したか、ユウは無言でうなずく。
「ひどく古典的で亡霊にもコケにされそうなほどにくだらない、頭がどうにかしているとしか思えない類のものだったのですが」
 ユウは静かに、清十郎が可哀想になるくらいぼろくそに言った。
「そ、そんなに……」
 酷く言わなくても、というジョーのフォローをどう勘違いしたのかユウは再び頷き、
「はい……一言、ふとんがふっとんだ、と」
 ユウがその一言を言った瞬間、顔を真っ赤にした七号素体が爆発的に笑い出す。ユウはジョーに向かって静かにニコリと笑い、そのまま顔を少しも背けずに七号素体の首に手刀を入れた。七号素体はカクンと意識を失う。
「まぁ、何ですね」ユウが微笑をその顔に浮かべたまま言う。「六号までも頭がいいとはいえませんでしたが、この子は格別ですね。馬鹿です」
 ジョーもその言葉に弱い笑みで返す。そして決意するのだった。人員を要請しよう、と。


387

 少し前、じっちゃんが初めて携帯電話を買った。ばっちゃんはネットも結構使っていて慣れたもんなのに、じっちゃんは今まで頑としてそう言った「最近のもの」に触れようとはしなかったのだが、以前ばっちゃんが倒れて二週間ほど入院していた間に少し心変わりしたらしい。
 じっちゃんはわざわざ孫の俺をご指名して(最近の機種やらにも詳しいと思ったのだろう)、一緒に買いに行くことになった。俺は親父や母さんのものと同じ会社の、操作が簡単な類の機種をじっちゃんに選んだ。
 手続きを済ませ、使えるようになってじっちゃんの手元に渡ると、じっちゃんは興味津々で近くの喫茶店に入り、携帯の説明書を開く。その間に俺は自分の携帯からメールを送ったりしていた。
「ほう……おおお?」
 眼鏡をかけて説明書を食い入るように見つめるじっちゃんが、不意に携帯から鳴り出した音に顔を上げる。
「おい、孝彦。勝手になんか鳴ったぞ」
「メールだよ。番号かいてなかったからまた送る」
 じっちゃんはよく判らなかったようだが、判らないなりに操作して俺のメールを読んだらしい。
「うぉほほほ! どっから来たんじゃこりゃあ!」
 奇声をあげながら、俺の『孝彦だよ。このアドレスは俺のメールのだから』とだけ書かれたメールを嬉しそうに見つめている。あと、発信元はすぐ隣の俺の携帯だ。
「また来た! 孝彦! ほれ見ろ、また来たぞ!」
 俺が二通目を送ると、じっちゃんは何がそんなに嬉しいのか、俺に画面を見せるようにして二通目のメールを見せてくる。
「だから俺が送ったんだって……」
 言いながら、その反応がちょっぴり嬉しくなった俺は、携帯のメールくらいならバリバリに使いこなすばっちゃんにじっちゃんのアドレスを送った。
 ただひたすらに「すごいなぁ綺麗だなぁ」を連発するじっちゃんだったが、少ししてきた三通目のメールは、明らかに俺からではなかったので本気で驚いたらしい。
「た、孝彦、じっちゃんまだ返事とか返せないぞ」
「まぁゆっくり覚えればいいさ……。それよりどんなメールが来たの?」
 俺がじっちゃんの携帯メールを覗くと、ばっちゃんのアドレスだったが、内容は想像もしないもので、『こんにちは。適当にアドレスを打って送ってみました。もしよかったら返事を下さると嬉しいです』……ときた。ばっちゃん……。
 じっちゃんにとりあえずで文字の打ち方を教え、じっちゃんは嬉々として苦戦しながらも返事を書いたようであった。
 内容は恥ずかしがって見せてもらえなかったが、まぁ割と楽しんでいるようなので、よしとした。
 それから少しばかり日が経ち、ばっちゃんに最近はじっちゃんとのメールはどうなっているのかを聞いてみると、「昔やっていた文通を思い出して楽しいわ。誠司さん、私だって気づいていないのがちょっと癪だけど」とのことだった。じっちゃんは、未だに気づかないらしい。ばっちゃんのメールアドレスを聞いたりはしないのだろうか。
 じっちゃんはじっちゃんで、最近はゲームにも興味を持ち始めているようで、たどたどしい文章のメールがよく届く。じっちゃんの改革は急速に進んでいるらしい。実は、昔から関心がないフリはしていたものの、興味深々だったのかもしれない。どれくらいじっちゃんに馴染むかは判らないが、興味を持ったのなら色々と楽しんで欲しいと思う。


386

 彼女はこちらを見ていた。彼女は死のうとしていた。
 電車などという有り触れた道具で。殺すためのものではない存在で。
 轟音をあげて走る電車から、警笛が響く。急ブレーキでさえも彼女の一命を救うには至らぬだろう。
 彼女を何の縁故もないただの物質に殺させるわけにはいかなかった。
 彼女はこちらを見ていた。彼女は何か期待のまなざしを以って、こちらを見ていた。
 だから、僕は、彼女を守るために作り出されたその銃で、彼女の額を撃ちぬいたんだ。