思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳450-441

450


 夜が明かりを奪っていく。私は夜に奪われていく。人工の光ではよほど強いものでもない限り、私は希薄になる。
 私は七歳を境にして、私は私の影と入れ替わってしまった。でも誰一人として気がつかない。「私」はここにいるのに、私はいつも明るく笑顔で振舞っている。
 でも、もしかしたらこのような状態になっているのは私だけではないのかもしれない。そう、私が入れ替わる前、私と友達の間では影取りという遊びが流行っていた。あれがいけなかったのだろうか。だがいまさら考えても意味がない。誕生日の朝には入れ替わっていたのだから。私は私の影になった。
 影になった当初は戻れないのならいっそ死んでしまいたいとまで思っていたけれど、それを言うのなら毎晩夜が来るたびに死んでいるようなものだ。慣れてみれば影でいるのも悪くないな、と思うようになった。思えば学校のイベントでも裏方に回るような性格の私には凄く適しているのかもしれない。勉強せずにぼんやりしてていいし。
 でも少し怖いこともある。いろいろと忘れていってしまうのだ。たくさんやりたいことがあったはずなのに、今ではいくつかが達成されて、両手で数えられるほどのことを覚えていて、あとの大半は忘れてしまった。暗くなって夜に同化する影のように、形のない何かに私の記憶も溶けていってしまっているのだろうか。
 でももしそうなら、せめて表の私はそれを覚えてくれているといいなと思う。きっと私はいずれ考えることも忘れてしまうから。


449

 私の短い旅の道連れは、奇妙な連中だった。そもそも、私の旅と呼べるのか判らない短い旅すらも、奇妙なものだった。
 気がついたら電車の中に居たのだ。混乱に陥らなかったのはただ、その電車の行き先が見覚えのあるもので、途中に私の家の最寄駅に止まるからに他ならない。
 旅の連れは子供が二人と青年が一人、そして中年の男が一人だった。彼らは幽霊だった。儚げな存在感で、大人二人はどちらも青白い気鬱そうな顔でただひたすらに塞ぎ込んでいるように見えた。子供らも気鬱さは見受けられなかったが、どこか青白い。
「見ない顔だな」
 中年の男は私に言った。どこぞの居酒屋でもない、電車でそのような台詞を貰うとは想像だにしなかった私は面食らう。中年の男は陰鬱な笑みを浮かべて、私の考えなどお見通しだとばかりに言う。
「すぐに判る」
 それだけ言うと、男は役目は果たしたといわんばかりに再び自分の世界へと戻ってひたすらに陰鬱な空気を振りまく作業に戻ってしまった。私は不安になって、別の話し相手を探そうと試みるも、子供らは遊ぶのに夢中のようで話など聞いてくれそうにないし、青年は話しかけたら自殺してしまいそうなほど重苦しい空気を発していた。
 私は仕方なく一人物思いにふけり始める。車内の空気が耐え難いほどの重圧で満たされる頃、ようやく変化が訪れた。
 電車が駅で止まり、青年がふらふらと危うい足取りで降りた。私は青年を横目に見送り、発車を待つ。意外と長い停車時間だと私が感じ始めたとき、降りたはずの青年がその顔により濃い悲壮感と絶望感を携え、再び乗車してきた。青年の乗車を待っていたかのように電車は扉を閉じ、再び出発する。
 次に止まった駅では中年の男が降りたものの、電車が止まっている間に戻ってくる。そして男が戻ると扉が閉まり、電車が走り出すのだ。何かがおかしい。中年の男は私の怪訝な視線に気づいたようで、口元を吊り上げた。
「何がどうなってるって言いたげな顔をしてるな」
 男はそう言って、私の答えを待たずに言葉を続ける。
「出られないのさ。出るための手段を持っていないからな」
「手段?」
「切符さ」
「なら事情を説明するなり、買いなおすなりすればいいのではないのか?」
 男は私の言葉を鼻で笑って、肩をすくめた。
「そうだな。機会があったらそうするよ」
 それきり男は私と会話を続ける気をなくしたようにそっぽを向いた。私も続ける言葉を見つけ出せずに、黙り込む。
 再び重苦しい沈黙が広がり始めながらも規則正しい振動で電車は走り、やがて私がよく見知った駅で止まると、私は彼らがそうしたように降車した。
 見たところ、ホームは完全に死んでいた。空は塗りつぶされたように真っ黒で、光るものが何一つとしてないホームはひどく寂しげだった。電車の明かりのみが頼りなくホームを照らし出している。まるで既に役目を終えて廃されたかのようなホームを、私は早足で歩く。改札まで来ても誰一人として居らず、自動改札も完全に死んでいた。
 改札は確かに全てを拒絶していた。まるで機能しているようには見えないというのに、外からも内からも、全てを分断する壁のような存在感で私を構内に留め置こうとしているようであった。出て行こうと思えば、乗り越えて出て行けるのではないか。その考えも持たなかったわけではない。だが改札の向こうにも生命や気配を感じさせるものは何もなく、それならばまだ電車に乗っているほうが安心できる気がしたのだ。
 不気味さに寒気を感じ、私は上着のポケットに手を突っ込んだ。指先に何かが触れる。出してみると、それは切符の形をしていた。電車から離れたこの場所では光も届かず、何が書いてあるかは非常に判別しにくかっただろうが、それはあまり問題ではなかった。表面には文字は何一つ記されていなかったのだ。
 私は恐る恐る、期待を込めて改札に切符を滑り込ませてみる。改札は相変わらず完全に死んだ機械のようだったが、切符を滑り込ませるとちゃんと飲み込み、道を塞いでいた扉を開放した。
 私は息を飲む。
 思わず電車の方を振り返りかけて、思いとどまった。何故だか振り返ってはいけない気がしたのだ。
 私は僅かに震える足で改札の向こう側でと踏み込んだ。
 一瞬目が眩む。私は圧倒的な明かりと、命ある雑多な音の世界へと放り込まれた。少し呆然とした後、すぐに状況を認識していく。
 戻ってきたのだ。後続の人が立ち尽くす私を邪魔そうに避けていく。私はそこで慌てて振り返った。ちょうど電車の扉が閉まり、出発し始める。その電車に中年の男と青年、そして二人の子供の姿はない。たくさんの人が、少し疲れたような顔で乗っているだけだった。
 私は駅を出て空を見上げた。僅かながらも星が瞬いているのが見える。そうか、と唐突に私は気がついた。何故私が出られたのか。私はまだ生きていたのだ。


448

 人が老いるように、地球も老いた。何億年と年を重ねてきた。また地球が老いてきたということは、同時に海も同じくらい年を重ねてきたということになる。
 海もその広大さを年月と共に更に増し、誰もが推察することすらかなわぬその深慮さにますます深みが加わった。
 海は緩やかで、気の遠くなるほど長い逡巡の末にひとつ案を巡らせた。自分の中の住人たち、またそれ以外の生命と意思疎通するためのメッセンジャーを生み出そうというものだ。だがその海から外界との繋がりとして遣わされたメッセンジャーは、その役を担うには荷が重すぎたのだ。
 メッセンジャーはその役を早々に忘れてしまい、海の住人を始めとして、知的生命を自称する地上の人間たちもそれに気がつくことはなく、皮肉にもそのメッセンジャーに海老と名づけて、今日でも正しいメッセージを読み取ることなく、美味しく食べている。


447

 この年に発表された「ぶつかる可能性がある」彗星は可能性で終わってはくれなかった。寄り道もせずに、律儀にまっすぐ地球へと向かってきていた。天文台の人間は何度愚痴を漏らしたことだろうか。「腹をすかせた犬じゃないんだから、わざわざまっすぐ来てくれなくてもいいのに」「彗星が目視できるくらいになるまで黙ってた方がよかったよ。重圧感がひどい」
 大統領の公式発表で、世界は一瞬静まった後、蜂の巣を突付いたような騒ぎになった。「私は人類の皆さんが最期まで冷静であり、奇跡を祈ることを願っています」大統領は言ったが、それでどうにかなるような事態ではない。ただでさえあらゆる動物が今まででは考えられなかった突拍子もない行動を起こし、人々は一抹の不安とともにそれを報道し、やり場のない不安とともに受け止めていたのだ。そしてその正体を知っても対策を立てようもないことを悟ってしまった。
 とある家族は家に閉じこもって、震えながら事態の趨勢をテレビで見ていた。とある修行僧は静かに祈っていた。とある団体は「ようこそ地球へ!」と書かれたボードを空に向けて掲げていた。とある市では治安という言葉が叩きのめされ、殺人、破壊、強盗を始めとする暴動が起きていた。とある土手では恋人同士が愛を語らっていた。とある街では何人もの、何十人もの、何百人もの人が手を繋いで空を見上げていた。
 発表後何日かが経ったが、もう衝突は避けられそうにないところまで来ていた。空に、徐々に大きくなる特異点が見え始めている。
 人々は奇跡を祈っていた。一見そうは見えない人も、心のどこかでは奇跡を祈っていた。
 奇跡を祈っていない人はたった一人しかいなかった。
 とある人気のない山岳地帯に居る、一人の少女である。
 少女は確実に迫り来る破滅の姿をじっと見ていた。その手にはバットが握られている。特別なバットではない。少女が麓の街まで降りて、手持ちの全財産であるおよそ二千円ほどの価値のお金で購入したごく普通のバットだ。少女は特別体つきに特徴があるわけではない。この辺りでは標準的な体つきで、どちらかというと栄養が少し不足気味に見える体つきをしている。そんな少女がまっすぐに立ってバットを構え、一直線に向かってくる彗星を見つめている。
 奇跡を祈らないたった一人の少女は、目に縋る意思ではなく闘志を宿して。


446

 空には星がありました。たくさんの星がありました。
「我々で最後だ」
 うちゅう服を着た人間が言います。人間たちは、ぼくたちの方を向いて敬礼をしました。
「我々の大地に」
『大地に』
 一人が言うと、他の人間が続きます。
「我々の故郷に」
『故郷に』
 中には涙すら浮かべている人間も居ました。なにが悲しいのだろう。なにを泣いているのだろう。今日はこんなにも星がよく見える日なのに。
「さようなら、地球の友よ」
 人間たちはロケットに乗り込み、扉を閉めました。
 ロケットが飛び立っていきます。ぼくは胸が痛みました。人間のお医者さんが以前話していた病気だとすぐに気づきました。その病気は、「さびしさ」と呼ばれています。
 最後の人間たちを乗せたロケットが星の間に消え、ぼくの胸のうちにはさびしさが残されました。
 さようなら、人間。さようなら、友よ。


445

 国が水面下で一触即発状態になるほどの事態を巻き起こしたナノディスクになにが入っていたかというと、少なくとも当事者たちは未来で何らかの言葉を記憶したデータが入っていると信じていた。
 結果だけを述べると、実際その通りだった。ナノディスクに入っていた音声データは、今から八年と三ヶ月後に録音されるものだ。
 問題は中身である。中身があまりにも予想外かつ失望するようなものだったので、なかったことにされた。一番最初にそれを聞いた組織の人間が「そんなディスクは存在しない」と言い出したのだ。
 怒ったのは聞けなかった人間である。何らかのイベントでも、あぶれて外にいる人間は「中ではきっと面白いことが行われているに違いない」とやきもきして考えるように、世界を根底から揺るがす恐ろしいメッセージが入っているに違いないと考えた。
 そこから陰惨な陰謀劇が始まった。水面下という状況は同じながら、どんどん行方不明という名目の死体が積み上げられていった。
 誰かが策謀の末にディスクを手に入れて聞き、そのディスクを処分しようとして、また同じことが繰り返される。
 ナノディスクの存在を知っていて、それを付け狙っていた組織の人間たち全員がそれを聞く頃にはナノディスクはタブーとされていた。いくつか理由はあったが、もっとも表に出せる理由として妥当なものは「何かヤバそうなものということにしておかないと、死んだ人間が浮かばれないから」というものだった。

 数多くの陰に生きる人間たちを突き動かし、肩を落とさせたものの中身は単なる口頭メモで、どうしてこんなものが八年もの過去に流れ着いたのかはまるで判らない。口頭メモは以下の様な言葉から始まる。
『うどんのつくりかた』
 のんびりとした喋りで七分五十秒程度で語られるうどんの作り方は、当初は何かの隠喩かと散々論議されたが、実際最初に見つかってから八年と三ヵ月後に、政府の職員がたまたまネットで見つけたうどんのつくりかたを口頭でメモしただけだと言うことが判った。  関係者は揃って肩を落とし、一部は激怒してその職員を首にした挙句、そのディスクを捨ててしまった。
 首にされた職員はディスクだけでも持って帰ろうと探し回ったが、既にどこにも見当たらなかった。


444

 不幸にも度々勘違いする者が居るので今一度書き記そう。惑星アルバは、ナントカ保護団体に好きなだけ保護をさせるために作られた密林まみれの人工惑星であり、ナントカ保護団体が一人も居ない理由に呪いや陰謀などといったことは一切関係ない。それは都市伝説にも満たない中傷レベルの話だ。彼らがどうなったのか知りたければ情報統合局に行くといい。ただし性格がまるで変わってしまったり、ある部分の記憶が抜け落ちていたとしても責任はもてない。<惑星アルバ 広報>

 動物保護団員らしき人を見た? それは結構。だが気をつけたまえ。精神がまともではない。精神がまともではない動物保護団員は動物図鑑にも記載されているので、確認すると良い。情報は頼れる友となる。<惑星アルバ 観光>

 アルバで暮らす。悪くない。だが覚悟は要る。ただの人死に程度なら事故として処理される。<惑星アルバ 行政>

 狩りをしたければするといい。気の狂った動物保護団員に見つからないように。<惑星アルバ 広報>


443

 いくつかの書物に共通する事柄としては、星の預言書というものがあり、それは猫によって管理されているとも、少なくとも猫には管理されていないとも、そもそもそんなものは存在しないというものがある。
 これらから判ることは、ある時代に星の預言書という言葉が人気を博し、そして猫になんらかの関係があると言うことだ。存在の真偽がどうであろうとも、だ。
 星の預言書について肯定的な書物にはこのように記されている。
 星の預言書には、死を予見する猫が星の死期について書いたものであり、それには我らが良く知るこの太陽系にある惑星の死期も書かれている。もちろん、地球もだ。見ない振りをしたほうがいいこともある、とは考えない人間や好奇心を詰め込んだだけのような人間がそれを酷く知りたがった。星の預言書を管理する猫は、興奮した大衆に驚いて誰も(少なくとも人間には)見つけられぬ場所へ星の預言書を隠してしまった。
 ここで疑問を三つ書き残しておく。
 一つは一般的な猫にそれを読み解くだけの頭脳があるのかということで、一つはそもそも人間の言葉ではないのではないかと言うことで、最後は予言ではなく預言なのだから実はもっと違うことが書いてあるのではないか、ということだ。

 一方星の預言書について否定的な書物にはもちろんこのように記されている。
 星の預言書などと言うものは存在しない。何故なら私は見たことがないからだ。ましてや猫が管理しているなどとは馬鹿馬鹿しいにもほどがある。そのようなたわ言は信じるに値しない。

 この意見に、肯定的な書物の改訂版では反論が記載されている。
 曰く、猫が管理していることを信じられないのはアンタが猫に嫌な思い出があるからであり、アンタが見たことがなくても存在するものはたくさんある、とのことだった。
 さらに否定的な書物の改訂版では反論が記載されたが、それはもう唯物論になっていて、出版社が気を利かせたのか読者も意見を書き込めるように余白を百頁ばかり作って、今後は一切関知しないと公言した。
 こうして星の預言書の真偽は愛猫家と唯物論の議論の中に埋もれて、雲のように飛んでいってしまった。


442

 ――アクセス成功。
「よし!」
 セッティはその文字を見た瞬間に握りこぶしを作った。
 今現在では使用されなくなって、どこからもリンクを切られているはずの空間に接続することに成功したのだ。違法ではないが、非常に危険なので警告が山のように沸く。言わば穴ぼこだらけの紙箱、しかも穴が開いていない部分でも水でふやけて、いつ破れて潰れてしまってもおかしくないようなところに踏み入るのである。
 だがそんな放棄された空間は現在使用されている空間と同じくらいあるので、「再利用」といかにもな口実で踏み入るのだ。
 セッティは、見つけた空間がどんなところかとわくわくしながら入る。
「っと……」
 中空からホールを作って着地して、辺りを見渡す。はるか高みにまでそびえる、草一つ見えない岩壁と川。都市部じゃないのか、と少し肩を落とすがそれでもほころびも少ない見事な場所だった。
「うわ」
 セッティは振り返って広がる光景に驚き、肩をすくめる。
 巨大な洞窟だった。中に入れば空が重苦しい岩で埋められてしまったかのような錯覚を覚えるほど、巨大な洞窟だった。ドーム状になっている洞窟で、横幅も奥行きも底知れない。
「すごい……」
 都会から出たことがないセッティにとって、なんとも感動的な光景だった。こういった場所が嫌いというわけではなかったが、特に好んでいるわけでもなかったために自然の名所といった態の場所には来た事がなかった。しゃがみこみ、砂を少し手にとって見る。異常なし。手から地面に砂を落とす。わずかにノイズが混じる。ノイズの方が勝って空間の崩壊が始まると、そこは見るも無残な廃墟となる。無限に広がるノイズの地面とノイズの空。目印のようなものは何一つとして存在せず、居続けると頭が狂うか、死にたくなるか、自分から狂うしかなくなる。ノイズしかないために自分という存在もノイズに過ぎないのではないかという感覚にとらわれ始め、サイバースペースにある電子の精神体にすぎない体はノイズの廃墟を構成する一部となり、精神が消滅するのだ。
 まだ比較的廃されてから時間が経っていないのか、結構長持ちしそうな空間だった。しかしプライベートスペースにするには無駄に広すぎて少し寂しいかもしれない。都市部のような人口建築の多いほうがプライベートスペースには向いている。少なくともセッティにはそうだった。
 セッティがそこまで考えた時だった。洞窟の奥のほうに白い特異点があることに気がついた。目を細めてみるが肉眼ではいまいち確認できない。
特異点拡大」
 洞窟内に探査プログラムを走らせて白い何かを拡大する。
 人だった。白いワンピースを着た少女が、気鬱そうに座り込んで顔を膝の間に埋めている。
(先客かな)
 セッティはそう思うと同時に、苦いものがこみ上げてくる。せっかく見つけたのだが、どうやら自分のものにはなりそうにない。暗黙の掟として、先客が居たら身を引くのが礼儀だった。
「すいません」
 セッティは仕方なしに人影の元まで歩いていって声をかける。
 白いワンピースの少女はゆるゆると顔を上げた。顔には生気がなく、目元が黒ずんでいて、セッティは思わず少し距離を置いた。
(ドラッグ中毒!?)
「なんか用?」
 白いワンピースの少女の声は思ったよりもしっかりしていた。
「えーと、その」
 セッティは困って、ジェスチャーを交えながら説明しようとしたが、肝心の説明するものがなかったので不思議な踊りを踊っているようにしか見えない。
 白いワンピースの少女はゆるゆると顔を下げた。
「いや待って。あるんだって、あー……、ここはあなたの場所?」
 白いワンピースの少女は半分だけ顔を上げて答える。
「違う」
「え、違うの?」
「違う」
「誰の場所?」
 セッティは声を潜めて聞いた。下手な大物が唾をつけているような場所であれば、すぐに出ないと強力な駆除プログラムを差し向けられかねない。リンクが切れている、と言うことを逆手にとって空間ごと押しつぶされることもある。そうなると精神体を戻すことが出来ず、いくつかの意味で死ぬことになる。セッティは自分で作った緊急脱出プログラムを一動作で起動できる状態にする。
 白いワンピースの少女は、無言でセッティを指した。セッティはとっさに振り返る。誰も居ない。
「私?」
「そう」
「そんな馬鹿……」
 な、と言おうとしてセッティは止まった。白いワンピースの少女が空間情報を呼び出してセッティの前に表示させたからだ。そこにはセッティの名前とセッティの管理コードが記されていた。
「どういうこと?」
 セッティは目を白黒させつつも怖くなって聞いた。ここはリンクを切られた、打ち捨てられた空間なのだ。管理コードが通るはずがない。
「この空間は」
 白いワンピースの少女は顔を上げながら話し始めた。
「取り置きされた空間の一つ。今から七十五時間と三十二分後にウイルスプログラムが放たれる」
「は?」
「ここを守り通さなければいけない。出来なければ、相応のペナルティが与えられる」
 セッティは全容が見えてきて思わず頭を押さえた。ここはゲームのための空間だ。捨てられた空間を保存しつつも放置しておいて、餌が掛かったら強制的に管理権限を与え、逃げられないようにする。そこにあらかじめ繋いでおいたパスを経由してウイルスプログラムをぶつけるのだ。意図は新しく作ったウイルスプログラムの強靭性を試すことで、大概の管理者は新しいウイルスプログラムに対処しきれずに汚染され、空間ごと電子の海の藻屑となる。しかも大抵は自分がそのゲームに巻き込まれていることにすら気づかず、わけのわからぬまま飲み込まれていくのが常だ。
「あなたは何? 共同管理者?」
 セッティの意識がようやく、本格的にこの白いワンピースの少女に向いた。おそらくウイルスプログラムのことを知っていて、しかもその情報を流したと言うことは一緒に対処する共同管理者なのだろう。……そうだとすると、管理コードがセッティ一人分しかないのは妙だ。
「違う」
「じゃ、何」
 白いワンピースの少女は答えようと口を開くが、声が出ていない。セッティの様子を見てそれに気づいた白いワンピースの少女はざらざらと錠剤を手に出して飲み込んだ。
「クアレンス端末」
 セッティは一瞬名前かと思ったが、すぐに違うと思い直す。よりによってその名前を使う人間は居ないはずだ。クアレンスとは次世代サイバーネットワークのマザーになると言われているプログラムで、目下開発中のはずであった。
「クアレンスって……なんでそんなのがここに?」
 クアレンスはうつろになってきた目をセッティに向けつつ答える。どうも焦点もあやふやになってきているようだ。クアレンスが服用したのはどう見てもドラッグの類にしか見えなかったが、存在を固定するための薬でもあるようだった。
「移動中に出口を埋められたの」
 セッティは考え込む。何やら面白くなってきた。ゲームに巻き込まれて管理権限を押し付けられて、三日と少し以内に未知のウイルスに対する防壁をくみ上げなければならないのは癪だが、次世代機の雛形の端末が一緒に居るのだ。どうも万全なコミュニケーションをとれそうな精神状態ではなさそうだが、万全ではないコミュニケーションならとれそうな精神状態ではあるようだ。
「防壁組める?」
 クアレンスは視線をうつろに彷徨わせた後で頷く。
「そう、よかった。じゃあ協力しましょうよ。私はセッティ。よろしく」
 セッティが手を差し出す。ゆっくりと差し出されたクアレンスの震える手を掴み、優しく握手をした。


441

 最大手の通販サイトで、わたしは前々から狙っていた宇宙船を買った。
 個人用のもので、値段は430万円。出た当時でも720万円だったことを考えると、随分と安くなったものだと思う。高い事には変わりないが、宇宙への浪漫を個人で買うには妥当な値段だろう。
 でも問題がある。燃料は何処へ行くにしても片道分しか詰めない。飛び立つ際に消費する燃料がちょっと大きすぎる。おそらく、宇宙へ出たらそれっきりになる可能性が高い。
 だからわたしは未だに地球にいる。宇宙の本、宇宙の映画、宇宙の写真、それらを集めて眺めている。いつか本物の星空へ到達するその日まで。