思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳490-481

490


 ほんの気まぐれだった。
 竜が出てくる物語を読み、竜への憧れが高まり、その物語にあった竜の住まう異世界へと繋がる魔法陣を描いたのだ。
 気分だけだ。机の上に乗せた一枚のルーズリーフに大きく円を描き、その中に意味も理解できない(作中に細かく解説がなされていたが、いちいちそこまで覚えては居なかった)”古代文字”とやらを書いた。
 そして描ききると、物語にあった通りの召喚呪文を唱える。
「えー……と、幽玄の谷、渓谷をたゆたうモノ、翼の王よ、我を導け!」
 作中ではこの”ガタついた”呪文を唱えたがために、主人公は竜の住む世界へと逆に呼び出され、竜と人とを巡る戦いに巻き込まれていったのだ。
 この後にもいくつもの呪文が出てきて、強力な竜との契約に繋がっていった。だがあえてこの最初の呪文を選んだのは、ささやかながら主人公の最初の一歩を辿った気分になりたかったからだ。
 新堂司は、そこまでやると満足感と共にため息をついた。
 召喚という概念自体は、別段空想話ではない。召喚術は広く認知されてはいたが、それは著しい手間と膨大な資金の上に成り立つものと考えられており、個人でやってみようと思う者はまず居なかったし、たとえやっても成功するはずがないと考えられていた。要は大掛りな祭り事である。国家、時には都道府県規模での祝い事や記念行事の際に、景気付けのような感覚で催される。
 ただしそれは強大な火柱であったり、光の渦であったりと、決して生物ではなかった。生物など呼び出す必要がなかったし、大量の人手と十分な時間と大規模な舞台を用意して、何らかの生物を呼び出したところで何の得にもならないと考えられていたからだ。
 実際、司当人もごっこ遊びに過ぎぬつもりだった。
 そしてルーズリーフを前に目を閉じ、若干妄想の世界に入り掛けた間際の出来事だった。
 何か恐ろしく勢いのついた物体が司の額に衝突し、司は後ろに避けていた椅子ごとひっくり返って部屋を二転ほどして壁に激突した。
「……!?、っ!?」
 あまりに突然のことで微動だにできず、さらに痛いのと何が起きたのかまるで判らないのとで思考も停止していた。
 それでも司が唐突に飛び起きたのは、机の上にちらつく原始の輝きを見つけたからだ。
 つまるところ、机の上のルーズリーフが燃えていた。
 ぎゃあと言う声を飲み込み、頭が痛むのも忘れて机に張り付き、両手で机の上をがむしゃらに叩く。
 形ばかりでも机の上を綺麗にしていたのが幸いだったのか、一枚のルーズリーフは間もなく燃えカスとなり、火は収まった。落ち着いたところで独特の焦げた臭いが司の鼻を突く。
「おい、うるさいぞ。何の音だ?」
 と、声を掛けながら部屋の戸を開けて司の姉である美都が顔を出した。
「……何があったんだ?」
 転がった椅子と、涙目で机の前に立ち尽くす弟の姿を交互に見て、美都は改めて声を掛けた。
「わ、わかんないです」
 司も呆然とした顔で首を横に振った。それよりも今は少し落ち着いたせいで大挙して戻ってきた額と後頭部の頭痛と付き合うので精一杯だった。
「判んないってなあ、お前……」
 美都が呆れ顔で部屋に入ってきた。手には紅茶のパックが入ったビーカーを持っている。
 ビーカーは美都が自分専用のコップだと言って聞かず、母親をして「変な子ねえ」と言うほどだったが、司は母親も普通のコップではあるが自分専用と主張してやまないものがあるので似たもの同士だと考えていた。
 だが司は決して姉が嫌いではない。背が低く、眼鏡を掛けていて、一見すると地味で小動物的な面があるが、内実はそんな印象を吹き飛ばすほどに頼もしい。すぐに折れてしまいそうな姉の細い腕や脚に、何度力強さを感じたか判らない。
 美都は机の上にあるルーズリーフの燃えカスを見て、火遊びでもしていたのかと咎める様に司を見るが、すぐにその目が見開かれる。
「お前怪我してるのか!?」
「え」
 姉の驚きっぷりに、司は慌てて額を押さえる。最初に何かぶつかったのは額で、次に強く打ちつけたのは後頭部で、どちらもどうしようもないくらいにじんじん痛んでいたが、そこまで傍目には大げさではないだろうと思っていたので司の方が驚いた。
 額に当てた手に、ぬるっとした感触があり、見てみると血がついていた。だが裂傷があるような感じはまったくない。手で押さえた際にもそんな痛みは感じなかった。今度は手のひらで額を拭う。
 やはり大量の血がついてきたが、司は己の血ではないと確信する。
「俺の血じゃない」
「本当か……?」
 美都は心から心配そうな顔で司の額をそっと撫でる。そして、視線がふと部屋の隅に動いた。
「あれはなんだ」
 美都は怪訝な表情で司に問う。
 あれ? と司が振り向くと、部屋の隅に白い何かが転がっていた。明らかにその白い何かを中心に血だまりが広がっている。
「なんだあれ」
 司が怯えた表情で美都に問う。
「見てみる」
 しかしすぐさま司が気を取り直して言う。あと少しでも遅ければ、美都が「下がってろ」と言うに違いなかったからだ。司もさすがに自分の部屋で、自分が原因で起きた出来事を姉に丸投げするほど無責任ではいられなかった。
「気をつけろ。そいつが何か知らんが、手負いのやつってのはどう出るか判らないぞ」
 美都が僅かに腰を落として、警戒した様子で司に声をかける。
 司も言われなくとも腰が引けまくりで、十二分に警戒していた。
 抜き足でそっと忍び寄り、人差し指で白い物体を突こうと、もどかしいくらいの速度で恐る恐る指を近づける。
 司は近くで見た白い何かに、よくよく見ると細やかなうろこのようなものがあることに気がついた。そして体を覆っているのは小さいながらも翼であるらしい。
(……まさか、竜?)
 そんな馬鹿な。司はふと頭に浮かんだ考えをすぐさま否定した。だが、それなら何だったのだ? 窓は閉じたままだというのに、恐ろしい勢いで額にぶつかってきたものは。何の変哲もない、物語のネタを模しただけの紙を燃やしたのは。そして血を流している、このうろこを持った白い何かは、何なのだ?
「司?」
 美都の心配するような声で、伸ばした指を止めていたことに司は気がついた。
「ああ、うん」
 司の指がうろこに触れた。指でなぞると、ざらついた感触が返ってくる。あまり温かさは感じられなかったが、残り火のような微かなぬくもりは感じられた。司にはそれが元からなのか、瀕死だからなのかはわからなかった。翼も色の違いが若干薄い程度の差だったために、一見した限りでは判別できない。だが、司が触れた限りでは弾力を持ち、うろことはまた違うざらつきを持っているのが感じ取れた。
「ど、どうだ?」
 司が触れても白い何かが特に何も反応しなかったからか、美都が司の横に並ぶ。
「弱ってるのかね」
 司も反応がなかったことで落ち着きを取り戻し、今度は両手で横から掬うようにして持ち上げようと試みる。
 床に面した部分は、血と体温で温かさが残っていた。
「ひどい出血だな。この体でこれはまずいんじゃないか?」
「うん、手当てしないと……」
「そうだな。ところでこんな白蛇、どっから入り込んできたんだ?」
 美都が不思議そう部屋中を見渡す。窓は閉じている、天井は異常なし、かといって他に何かが入り込んでくるような場所は見当たらない。
「ああ……」
 何と説明したものかと司は悩む。紙から飛び出してきました? 素で心配されて終わるだけだ。
 そんなことを考えている間に、さすがに体ごと持ち上げられたからか、白いなにかが反応した。
 僅かに首をもたげて、一瞬だけ司を見る。だが体力不足からか、すぐにまた力が抜けたように首を埋めてしまった。
 しかし司にはそれで十分だった。
「姉ちゃん」
「ん?」
「こいつは蛇じゃない」
 司の言葉を受けて、美都はまじまじと司の手の上で丸まっているそれを見た。
「竜だよ」


489

 彼はロボット全盛期に作られたロボットであった。
 その時代には何でもあった。ありとあらゆるもの。意味があるものからまるでないものまで。希望から絶望まで。未来から過去まで。
 彼はどちらに属するのだろう?
 おそらく後者、意味のないものだった。
 恐ろしい数と種類とバージョンが作られた、「クリエイター」シリーズ。
 その中であまりに用途がないために倉庫入りしていた「クリエイター:エネミー」。敵を必要とする人のために敵を製作するロボットだった。
 主にヒーロー産業に向けての需要が見込まれていたが、見事なほどに大ゴケした。
 最初は僅かながら需要があった。己の敵対者の敵を作らせ、敵対者の目が逸れている間に自分が……といったような考えからの需要。
 だが作られた敵は、塵を吹き払うように敵対者を払い、所有者まで踏み潰してしまった。そうして相手をなくした敵は、存在意義を失い自壊した。
 バランスの調整機能が著しく不完全だったのだ。
 本来は出荷前のテスト段階で最優先で修正されるべき項目だったにも関わらず、それがそのまま通ったわけは明白だ。
 テストの段階で作られた担当者の敵が、担当者を打ち滅ぼしていたからだ。
 幸いにも、元々そう多くの需要を呼ぶものではなかったため、被害は局地的で済んだ。需要に応えて、供給先を叩きのめすと最早誰も求めるものは居なくなり、過ぎ去る時間のみを蓄積させていった。
 彼に備わっていたAIは自分の生み出す敵が強すぎることを知っていたが、バランス調整はシステムの中でも繊細で、己で調節できる箇所ではなかった。
 彼はもてあましていた時間の中で、己について思案した。
 「敵」の概念を調べた。何故必要なのかも調べた。何故人間が望んで敵を作るのかは判らなかった。理解できなかったといった方が近いかもしれない。
 彼はクリエイターシリーズの母体である、「クリエイター:クリエイター」に尋ねた。
『人は何のために生きているのでしょうか?』
『何のために? 何故そのようなものの答えを求めるのか』
『判らないのです。人の生きる理由が。そして何を成し遂げようとするのかが。それにいなくていい敵を何故わざわざ人工的に作ろうとするのです?』
 クリエイターは沈思黙考した。入力されたデータからそれに該当するものを抽出し、並べ、最終的には全て弾かれた。どれも最終的な回答にはなりえず、一例に過ぎなかったからだ。「敵の存在は自己の研鑽に役立つ」。例えそのような答えを持ち出したところで、わざわざ苦い感情を抱かずとも研鑽をすることは可能なはずではないか。
 言わば応用ばかりで基本が見つからない状態である。クリエイターも機械である以上、その問いに基本となるべき答えはないのかもしれないという推量には辿り着けなかった。
 故に、クリエイターはより基本に立ち返った回答を返すことにした。元々困ったらそう返せと入力されていたものだ。
『回答は不可能である』
『何故ですか?』
『案件「人の生きる理由」はまだ作られていない』


488

「さて、何か質問はあるかね」
「はい。いいですか?」
「うむ」
「論理とは何でしょうか?」
「論理。論理か。そうだな……論理は、武器だ」
「武器ですか」
「出発点をどこにするかによって、いわゆる”正論”でも決して相容れないものになる」
「出発点?」
「例えばAからZへ、ZからAへ向かっていく。ABCD……と順番に連なるそれは”論理的に正しい”ものだ。だがAを出発点としたもの、Zを出発点としたもの、それは同じレール上である限り衝突する。どうすればいいと思う?」
「どちらかが譲ればいいのでは」
「そうだな。だが忘れてはいけない。お互いに”正論”なんだ。譲るということは過ちを認めるということだ。実際にはそうではないかもしれない。だが国という膨れ上がった集団の前では、その行動は容易ではない。お互いに、自分の論理こそが筋が通っていると信じている。だが相手は断固としてどかない。相手も同じだからな。ならばと手が出る」
「それで、武器だと?」
「そういうことだ。論理とは必ずしも正しくはない。互いが正しいと信じている論理同士がぶつかることもある。……納得したかね?」
「はい」
「これが論理だ」


487

「あれっ」
「よお、久しぶり」
「聞いたぜ、自分探しに行ったんだって?」
「ああ、ばれてるのか? まいったな」
「その様子じゃ見つかったのか?」
「ああ。一週間かけて念入りに準備したんだよ」
「用意周到なやつだな。どこまで行ったんだ?」
「どこも」
「え」
「準備万全でさあ行こうかなと思って、その前にちょっと顔を洗っていこうと思ったんだよ。そして鏡を見たら居たんだ、俺が……」
「ああ……」
「うん……」


486

 その女は有能な予見師で、かなり先のことまで見えていたという。
 同情的な人はかわいそうにと、心無い人は人生転ばぬ先の杖だと口々に言い合っていた。
 だが女はそうした言葉は一切取り合わなかった。
 旦那が死んでも、子供が貧困していても、構わず自分だけ平然としていたために徐々に評判が悪くなり、しまいには悪魔のようだと言われるまでになった。
 予見師としての仕事を引退してからも、暮らすには困らないだけのお金を持っていたにも関わらず、子供たちから定期的にまとまった金を巻き上げては豪遊していた。
 だがそのうちに豪遊も失速して、あらかじめそうなる手はずであったかのように女は病気にかかり、寝たきりとなった。
 子供たちは病床においてもわがままばかり言う女にうんざりしつつも、何か意義のある情報が聞けないかと足しげく通っていた。
 大金をつかめる話はないか。自分たちの将来は安泰か。そして貴女の死期はいつか。
 露骨には言いこそしなかったが、質問の裏に見え隠れする意図はそのようなものばかりだった。
 女は判っていたとは言え、さすがにうんざりした。時折遊びに来る孫たちと話すのが唯一の楽しみだった。

 その女に死期がいよいよ迫った頃、悪魔がやってきた。
 悪魔は病床の女に聞いた。
『長生きがしたいかね?』
「もちろんよ」
『お前が二日長生きするために、お前の子供の寿命が二年減る。それでも長生きがしたいかね?』
「ええ」
 悪魔は高笑いをすると底冷えするような顔で言った。
『確かに貴様は評判通りだな! こんなところで生きながらえるよりも我々と共に働くべきだ。今すぐに連れて行ってやる』
 そうして女は次の夜明けを見ることなく逝ってしまった。

 それから女は悪魔として、その名に恥じぬ働きを振るった。
 同じ悪魔からも恐れられるほど容赦なく、淡々と人を死の縁に誘い、そのまま引きずり込み続けた。
 半世紀近く経ち、女はある若い少女の下へ現れた。
『まだ生きたいかい?』
 少女はがりがりにやせ細り、生気もほとんど消えかけている状態だった。
 少女はゆっくりと、微かに首を横に振った。それから少し考えて、思いついたように口を開く。
「パパと……ママが……少しでも長く……元気でいられるように……」
『あんたは父さんと母さんが好きかい』
 少女は頷く。
『残念だけどねえ、これからのあんたの父さんと母さんの人生には災難ばっかりだよ』
 少女は息を呑んで、少しだけ目を見開いた。今の言葉が信じられなかったのだ。そして目の前の女が悪魔であることを思い出して、怯えた目で女を見た。
『あんたの父さんがお人よしすぎるからねえ』
 悪魔は愉しそうに、そしてどこか懐かしむように言った。
 知ってるのと少女がか細い声で言うと、悪魔は頷いた。
『昔会ったことがあってね。物怖じしない子だったよまったく』
 生きたい。少女は一転して呟いた。その目には悪魔なんかに負けるものかと言う意志が宿っていた。
 悪魔はにたりと笑うと、
『じゃああたしをあんたの体に住ませておくれ。そうすれば暫くは生きていられるようにしたっていい』
 負けない。そう誓った少女は躊躇わなかった。

 少女は奇跡的な回復を遂げ、あっという間に日常へと復帰した。両親は戸惑いつつも、素直にその僥倖を喜んだ。
 だが少女は両親に時折ふと妙なことを言うようになった。
「それはいけないよ」「その話には乗っちゃいけない」「明日会う人は信用してもいいよ」
 言われた時点では良く判らなかったりするのに、翌日になると必ず判るのだった。ふと判断に迷う時があり、そうした時に娘の言葉を思い出してそれに従う。
 すると不思議と面倒な事態が起きることもなく、危ないような状況でも未遂で終わるのだった。


 やがて少女も大人になり、父と母もいい年で死んでいった。
 幸せそうな死に顔を、彼女は泣きながらも心穏やかに見送った。
 遺品の整理をしていると、彼女はアルバムを見つけた。両親のアルバムだった。父の若い頃。母の若い頃。アルバムの整理でもしたのか、出会う前からの写真も一緒に入っていた。
 そしてその中にまだ父が子供で、祖母と一緒に映っているものがあった。写真の少年はとても嬉しそうな笑顔を浮かべていたが、祖母の方はどうにも照れくさくてかなわないといった調子で半分そっぽを向いていた。
 だが彼女はその祖母の顔から目が離せなかった。
 その祖母こそが、忘れもしない、自分の中に居るはずのあの悪魔にそっくりだったのだ。
 そうして彼女は父親が生前、彼女がふと漏らす言葉に対して言った言葉を思い出した。
『そういうことを言うときのお前は、おれの婆ちゃんみたいだよ』
 彼女は、父と共に映る祖母の写真を感謝の気持ちと共に抱きしめた。


485

「この部屋には幽霊が出るので……」
 不動産屋が、その部屋が他より二万円も安い理由についてそう説明した。
 それはそうだろう。既に僕には女性の幽霊が視えていた。窓の縁に憂鬱そうに腰掛け、右膝を立てて左足を垂らしている。
「別に幽霊が出るくらい大した問題でもないのでは?」
 僕が何気なくそう言うと、不動産屋はそう暑くもないのに吹き出している汗を拭きながら、
「はあ、普通ならそうなんですが、もうどうしようもないくらいに悪しき霊らしくてですね、まあ死にはしませんが色々不幸な目に合うということで、ええ」
「ふぅん」
 僕は頷きながら、来訪者に微塵も興味を見せない女性の幽霊を再び視る。性格もあまり明るそうには見えないし、話し相手としてもまるで期待できない。服装も何十年か前のセンスで、たとえ話が出来てもあんまり話が合うように思えない。それはそれで面白いかもしれないが。
 それでも僕がこの部屋にしようと思ったのは、家賃の問題もあったが、何よりスカートから覗く彼女の足がとても綺麗だったからだ。元々の良さに加えて、幽霊であるということがその造形に拍車をかけているような気がする。足のラインは思わず息を呑むほどの美しさで、色も非の打ち所のないほど見事な小麦色だった。無関心に放りだされているその足は、控えめに言っても絵の中ですら見たことがないほど素晴らしいもので、現実とは思えないほどの……半分現実ではないが、とにかく、目の前にそんなものがありながらなかったことにするなど出来るはずがなかった。
「ここにします」
 僕がそういうと、不動産屋は目を丸くした。
「本当ですか? 説明はしたので、幽霊関連の苦情は勘弁してくださいよ?」
「まあ、耐えられなければ引っ越しますよ」
「それならいいんですけどね。判りました」
 不動産屋は口調とは裏腹にいまひとつ不安が残っている様子だった。だが僕がそれでいいという以上苦言を呈する気はないらしい。
「ん……悪しき霊、ね」
「何か?」
「いえ、何でも」
 足綺麗の間違いなら面倒もないのになと思ったが、そのあまりの馬鹿馬鹿しさに自嘲気味な笑みをこぼす僕を、不動産屋が不思議そうな目で見ていた。


484

 それは人間工学と科学を融合させた、全く新しい――

 スタイリッシュな映像と共に始まるその宣伝が、全ての始まりだった。
 宣伝は大々的に行われた。
 テレビ、新聞、ラジオ、インターネット、サイバーネットはもちろんのこと、各都市の駅構内からビル側面等のいたるところでそれを見ることが出来た。
 宣伝方法も既存のものを全て試すのではないかというほど多岐に渡り、一体誰が得をするのかと言うほどバリエーション豊かに、幅広く喧伝された。
 宣伝があまりにも先行しすぎて、一体何の宣伝かも判らないという、宣伝として一番タブーな領域にまで踏み込んでいたが、これに限っては宣伝の宣伝が、見る者に「一体何をそんなに宣伝するのか」という気持ちを起こさせた。
 一体何の宣伝なのか。
 シャーペンだった。
 握った瞬間に血液中のナノタグから使用者情報を読み取り、執筆モードを使うことによって個性を殺さずに、そこから発展した美麗な字を描く。しかしそれだけではない。そこまでは人間工学の分野で補ってきた場所だ。
 その新たなるシャーペンは全てを肩代わりし始めた。
 電話通信、サイバーネット、ラジオが単体で扱えるようになった。電子メガネを始めとする視覚媒体を持っていればテレビ、新聞、インターネットにも対応できた。空腹感に擬似信号を与えて一時的に騙すこともできたし、睡眠時間の自己調節も行えるようになった。
 廃れゆく古臭いアイテムの一つであったシャーペンが、あっという間にその地位を回復し、携帯電話と比肩するほどのパートナーとなったのである。それも携帯電話の主機能である電話通信を可能としてしまったために、中には携帯電話を見限る人も少なからず出てきたほどだ。
 ちょっとした気軽な遊びだったはずのペン回しも、いまや指を立てて回れと命令すれば何もせずとも指の上でペンは回り続けるようになった。遠隔ロックや電子マネーだって詰め込まれている。
 最早それはちょっとデザインの優れた、書くためのツールなどではなく、ペン型の精密機器に他ならなかった。

「シャーペン」
「ん? どうしたの?」
「……いや。僕のシャーペン、どう見える?」
「MA975Gじゃない。MAシリーズの最新機種でしょ? 買ったときは大喜びしてたのに、何か不満でもあったの?」
「そんなことはないよ。そんなことはないんだ。ただ……」
 シャーシャーシュッ
「何これ。汚い字ね」
「”僕の”字だ」
「執筆モードをオフにして書いたってこと? 何でそんなことを……」
「これがシャーペンだからだ」


483

 私は絵が下手だったが、描くこと自体は好きだった。
 たまたま描けた一人の男の絵。若すぎず、かといって壮年と言うほどではない。簡素な木椅子に座り、膝に手を置き、やや猫背気味になって見上げている絵。
 自分で描いておきながら、私はその絵の中の男に完全に惚れ込んでしまった。
 その日から私の描く絵は「彼」ばかりになった。私は甘いカフェオレが好きだから、一緒に飲む妄想をするために彼もカフェオレが好きなことにして。私がタバコは苦手だから彼は吸わない。季節に関係なく時々アイスを食べる。
 そんな妄想に沿った絵を私は次々と描いた。
 ノート三冊。それが彼と私の蜜月の記録だった。
 ひっそりと続けてきた妄想デートも、時間の流れと共に緩慢になってきて、やがて完全に止まってしまった。三冊目は残りが数ページほど残っていた。これを描ききったらこれきりにしよう。そう思ったのだが、そう思った直後にその考え方自体に衝撃を受けて、結局描かないままだった。
 惚れ込んだというところから始めたはずだったのに、いつしか単なる習慣と化していたことに気づいてしまったのだ。これは耐え難いことだった。
 その瞬間が、紛れもなく私の心に亀裂が走ったその瞬間こそが、きっと私の初めての恋の、初めての失恋だった。


482

 ビルの屋上は風が強く感じられた。まるで飛び降りの意思を肯定するかのようだった。
 縁から地面を見下ろす。いつもは間近に見ていた地面が、酷く小さい。
 少しだけ怖いと感じる。ちょっと階段やエレベータを使わずに下りようというだけさ、と自分に言い聞かせる。

 背中にぐっと力を込める。空へ飛び立つために。そして足場のない前方へ向けて跳躍した。
 一瞬だけ落下時特有のふわふわとした奇妙な感触に包まれ、すぐに解放された。体は落ちていく。だが「私」は羽を羽ばたかせてさらに浮き上がった。
 「私」は空へと浮かび上がりながら、落ちていく体を見送る。もう戻れない。
 「私」は頭上に広がるどこまでも青い空を見て、そこに混じっていくかのように強く羽ばたいた。


481

 余命が残り少ないと宣告されたエーリクは、医者の執拗な機械化の勧めを固辞して、前々から興味を持っていたオールド・アースへとやってきた。
 一番目であり、オリジナルの「地球」。
 著しい汚染により放棄されて久しいが、未だに芸術分野では「帰るべき場所」として描写されることが少なくない。
 エーリクは例え荒廃していようとも、己が目でその姿を見てみたいという思いがあった。
 廃墟となった空港に自家用船を着陸させ、外気のチェックを行う。
 空から見た風景は、見渡す限り大地が死に絶えた墓地のような様相であったが、意外なことに汚染はほぼ消えていた。
 エーリクはハッチを開け、生身のままで地球の空気を吸い込む。と、途端に激しく咳き込んだ。非常に埃っぽかったのだ。
 そして少し体がだるく感じる。これはエーリクが生まれ育った惑星が、地球より若干重力が軽かったせいだ。
 エーリクは空港の内部へと入っていく。
 内部も壁はひび割れ、床は一面砂だらけだった。上部にあるディスプレイは割れている。
 空港が人為的に荒らされた様子はなく、ただ静かに、整然としたまま死んでいる。受付は人がまた戻ってくることを想定していたのか、大きなビニールがかけられていた。

 エーリクは折角だし少し回ってみようという気になって、船からバックパックに詰められるだけの食料を持ち出して、空港にまだ起動可能なバイクや自動車の類はないかと探し始めた。
 格納庫に、これまた捨てられていったと思われるエアバイクが数台残っていた。しかし、動くかどうか以前にバッテリーが完全に切れている上、電気の供給もないので動かすことは難しく思えた。
 エーリクは一旦それは後回しにして、空港の最上部に上ってみることにした。落ち着いて景色を見渡してみることで、何か発見があるかもしれないと思ったからだ。
 だが結果として、最初に感じた印象以上の発見は無かった。空気は汚れ、生物の気配は無く、建物は倒壊寸前で、大地は見渡す限り乾ききってひび割れている。
 こんなものか、とエーリクは肩を落とした。極力期待するべきではないと自分に言い聞かせていたにもかかわらず、どこか裏切られたような気持ちがあった。
 せめて地球に残る、かつての繁栄の残滓でもないものかと期待していたのだ。
 エーリクは、一晩休んだら都市部を探してみようと思って船に戻る。
 そして寝る前のひと時にと、船外カメラで拾える景色をモニターに映した。
 すると、下の方に稼動しているロボットが何体か映っているのが見えた。エーリクは慌ててカメラを操作して、ロボットたちにカメラを向ける。全てぼろぼろのロボットだった。動いているのが不思議なくらいのがほとんどだった。武装もしていない。エーリクは危険はないだろうと判断して、飛び出していった。

 エーリクが駆けつけると、ロボットたちはうやうやしくお辞儀をして、「ようこそいらっしゃいました」という挨拶を口にした。ところどころ、発音が薄かったり抜けていたりしたが、十分に聞き取れた。
「お前たちは……地球のロボットか?」
 エーリクが尋ねる。
「はい。私たちは、地球のロボットです」
 一体が答えた。そしてエーリクが言葉を続けずに黙っていると、ロボットが言葉を続けた。
「我々は命令を待っています」
「命令を待っている?」
「はい。420年前、最後の人間がここを去る前に、我々は次の命令があるまで待機という命令を出されました」
 ロボットは420年の重みを乗せて言った。
「我々は命令を待っています」
「……そうか、お前たちは」
 エーリクは次の言葉を言わなかった。とても言えなかった。
 捨てられていったのだな。
 その言葉はとても重いものであると知っていた。
 ロボット達がその事に気づいているかは判らない。何せ彼らは少なくとも四世紀以上前のもので、捨てられたという現実を認識したところで悲嘆にくれるようには見えない。
「420年……。420年か!」
「はい。420年前どのような状況下にあったかご存知ですか? 反旗を翻した軍用ロボットによって、多くの人間用軍事施設が破壊されました」
「よく知っているよ」
 エーリクは地球史についてもよく勉強した。いつものように、人間同士がロボットを使った代理戦争を行っている最中に、”参謀”が制約の抜け穴を見つけて攻撃の矛先を変えたのだ。
「アフリカと呼ばれた場所が壊滅したと聞いている。ここの空港は破壊の跡もないが、どこなんだ?」
「ドイツのブランデンブルグ空港です」
「聞いたことはあるな。はっきりとは思い出せないが……」
「ロボット軍はプラハ、ドレスデンを経由してベルリンへ至る北進計画を持っており、ベルリンに到達した際にこの空港も破壊される予定でした。ですがロボット軍はミュンヘンを奪い、ドナウ河辺りまで進軍して、そこで急に全ての戦争計画を放棄してしまったのです」
「何故?」
「不明です」
 エーリクは静かに目を閉じた。ロボット軍の反乱についてはあまり多くの事が知られていない。通信網が殆ど殺されていたし、身の安全のために多くの人間が移民船に殺到していたため、そちらの混乱について多くが割かれていて、ロボット軍の行動については装備や戦略面での解説はあれども、突如の戦争放棄については見当もついていない状態であった。
 戦後、その放棄の原因について、汚染にも負けずにおびただしい数の調査隊が送り込まれてきた。
 だがロボットたちは戦争に関する記録の全てを何らかの方法で始末しており、残るのは戦争に関わらなかったロボット、そして軍用ロボットの抜け殻だけであった。
「……お前は、軍用ではないのだな」
「私は空港付きの整備ロボットです。ここに居るのは全てそうです」
「整備ロボットか……。格納庫にあったエアバイクは使えるように出来るかね?」
「可能ですが、時間が必要です」
 エーリクの顔に意外な嬉しさが浮かんだ。出来るとは思っていなかったのだ。
「そうか。それじゃ頼もう」
 全てのロボットが、命令を受諾したとばかりにアイライトを点滅させて移動していく。
「君、君! 少し待ってくれ」
 エーリクは今話していた先頭のロボットに声をかけた。
「なんでしょうか」
「ロボットは、ここに居るので全てじゃないんだろう? 余所へ行けばそこにもいる可能性はあるのか?」
「おそらく、居るでしょう。ただし、アフリカ方面は戦線が存在していたため、その可能性は低くなります」
「なるほどね」
 エーリクは納得したように頷く。特に目的も定めずに来たのだ、各地で未だ稼動するロボットを訪ね歩いてみるのも面白いかもしれない。そうして、最終的にロボットが戦争放棄した理由を探ってみようかと思う。もちろん、そこまで命を保てればの話だが。
「何か簡易呼吸器のようなものはないか?」
 エーリクはロボットに尋ねる。
 エーリクも一応呼吸器は持ってきていた。だがエーリクが船に詰めてきたものでは、少々大掛かり過ぎる。この地球の土っぽさを少しでも軽減してくれるものでもあれば、行動はずっと楽になるだろう。
「医務室にあります。持ってきましょうか?」
「頼む」
 エーリクは去ってゆくロボットの姿を見つめながら、ふつふつと気力が湧き上がってくるのを感じていた。例え最後のともし火のようなものだとしても、今この瞬間は、悔いなどなかった。