思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳500-491

500


 厄介な病気をこじらせてしまった。
 通知された病名は孤独。一過性であるか、長期に渡るかは不明らしい。 
 現代において最もかかりやすい病気の一つだ。
 人によっては死に至ることもあるという。ただ、非常に細分化されているため、一概に語るのはよくないとされている。
 こじらせたところで、まったく変わらない奴もいれば、まるっきり性格が変わってしまう奴もいる。
 俺は独り暮らしなんて十年以上やっていて慣れきっていたと思い込んでいたが、そんな思い込みなど孤独の牙に掛かれば何の防壁にもならなかった。
 無音が煩い。雨の音が痛い。買い物時のほんのささやかな”俺に向けられた言葉”に必死で縋り付きたくなる。
 テレビをつけても、ラジオをかけても、それらの音、言葉はむなしく俺を押しつぶしてくる。
 耐え難い精神的重圧を持った静寂に震えていると、少しでも音を拾おうと開けておいた窓から猫が一匹、滑り込んできた。
 茶色に薄い黒が混じった猫だった。猫は部屋の主のように慣れた足取りで俺のベッドの上にくると、そこで丸くなった。
 俺は「おい」と声をかけようと口を開いたが、でてきたのはヒュウ、と言う息の通り過ぎる音だけだった。声がでなくなったわけではない。体が発声を拒絶しているかのようだった。これも孤独をこじらせたときによく起きる症状のひとつだった。

 驚いたことに、俺がすぐそばに近寄っても猫は動じず、面倒くさそうな面で俺を見ただけだった。そして再び顔をうずめて寝ようとしたので、俺は恐る恐る猫の体に触れてみた。
 猫は再び面倒くさそうに顔をあげた。そして今度は前足で俺の鼻をひたすらに突いてくる。
 俺はモノじゃない、そう言おうとしたが声はでない。
 猫はじっと俺を見つめてきて、俺もずっと見返してやっていた。
 生きている。
 不意に流れ込んできたのは、そんな感情だった。生命のとか、生きることのとか、そう言った仰々しさはない。ただ、生きているか死んでいるかという事実以上の何ものでもない。だがその単純な事実が、生きる力強さと言うものを俺に流し込んでくれた。
「……何か食うか」
 原始的な感情の流れに心を委ねて、しばらくしてから自然と出てきたのはそんな言葉だった。
 心は寂しさで死にかけていても、体は生きようとしていた。
「にゃあ」
 そして俺の独り言に応えるように、猫が鳴いた。


499(420の続き

 もし美由が居なくなっていたら。そういう恐怖はあった。だが例え居たとしても、小さい美由と合わせないほうがいいような、そんな気がしていた。
『もしもし? どうしたの?』
 僕の心配を他所に、美由は何事もなく電話に出た。
「その、今大丈夫?」
『いいけど』
 美由と話すのは実に久しぶりだ。薄情かもしれないが、大学に入って以来始めて、つまり半年以上ぶりになる。メールは度々交わしていたが、やはり言葉となると違うものがある。
『どうしたの?』
 僕が黙っていたからか、美由のほうから再び声をかけてくる。
「ああ、いや。久しぶりだねえ」
『そうね。……勇作君、前置きはいいから本題に入りなさい』
「本題?」
『だーかーらっ、何か用事があってかけてきたんでしょうがっ』
「いや、ええと」用事。そこではたと気づく。昔の美由が来たよなんて言うわけにはいかない以上、特にないことに気づく。
「ちょっと久しぶりに声が聞きたいなと思って」
 僕がそう言うと、美由は電話の向こうで黙り込んでしまった。どんな顔をしているかが判らないので少し怖い。
「美由?」
 怒ってしまったのだろうかと思いながら僕が言うと、美由は大げさなくらいため息をついていった。
『あのねえ、ちょっとはいい知らせでもくれるのかと思ったら、何? 声が聞きたい? 恋人でもあるまいし……。半年以上ぶりの会話の理由がそれなの?』
「いや別に邪魔したいわけじゃないんだよ、邪魔だったら切るから……」
 美由は少しだけ間をおいて、
『ま、いいけどね』
 若干呆れ混じりの声で言った。それから美由はメールでちまちま話してはいたのに、怒涛の勢いで僕の近況を聞いてきた。
 僕は生活のだらけっぷりがバレないように、のらりくらりと交わしていたが、美由は長い付き合いがあるだけあって、僕が隠そうとしていることを片っ端から暴いていった。
『本当に生活できてるの? ぎりぎりの水準って感じしかしないけど』
 美由は痛烈な皮肉交じりの文句を散々浴びせかけたあとで、本当に心配そうに言った。
「……大丈夫だよ、この通り」
『私みたいに馬鹿じゃないんだから、もっと要領よく色々やれるはずなのにねえ』
 美由が心底不思議そうに言った。要領よく、か。僕は心の中で呟く。単位はぎりぎり取れているし、要領よくやれていることはやれている。だけど、うまくは言えないけれど、そういうことではないのだと思う。
『私が居ないと何にもできないのねえ』
 美由がからかい気味に言った。
「そうなのかもしれないなあ」
 いかにもとばかりに同意すると、美由は再び絶句した。
「美由?」
 電話の向こうで昔はよく聞いていた、呆れたという言葉を代弁してくれるため息をつくのが聞こえる。久しぶりであったにも関わらず、美由の顔までしっかり浮かんできた。
『……ま、そんなことより。年末は帰ってくるの? こっちに』
「ちょっと迷ってる」
 すっかり懐かしい気持ちで、帰ってもいいかなと一瞬考えたが、すぐさま今の自分の状況、家に昔の美由が居ることを思い出して慌てて言葉を撤回した。
「いや、やっぱり帰らないと思う。そっちはどうだい? 順調?」
 美由は僕の返答に少し不満を見せたものの、あまり深くは突っ込んでこず、勉強はそれなりに順調だと答えていた。それからしばらくお互いの近況や、そこから派生した雑談などを話して通話を終えた。
 通話を終えてしばらく郷愁に浸っていたかったが、家にいる美由のこともある。僕はあまりのんびりもしていられなかった。
 現在の美由はちゃんと居る。やはり、あの小学生当時の美由が今ここに居るだけだ。美由は一月して無事にかつての時間に帰ってきた。だから一月すればふらりと居なくなるのかもしれない。だが本当にそれだけなのだろうか?
 一体どうやって時間を飛び越えてきたのか、そして僕に用があったという”蹲っていた人”とは誰なのか。そう言った何もかもを知らないままで、本当に全て解決すると思うのか? 僕は自分に問いかける。
 そこまで考えて、あまりにばたばたしていたせいで、美由が代わりに請け負った用件を聞くことを忘れていたことを思い出す。そうだ、そこに全ての発端があるのかもしれない。
「美由、起きて、美由」
 僕は悪いとは思いながらも、美由を起こすことにした。
「へあ……?」
「代わりに使いにいって欲しいって頼まれたって言うけど、用事とは何だったんだ?」
「ああ……」美由は寝ぼけ眼で辺りを見渡し、僕の家の住所と名前が書いてある紙をつまんで裏返した。そこには電話番号が書いてあった。
「ここに電話かけてって」
 美由はそれだけ言うと、ことりと頭を枕の上に落として再び寝息を立て始める。
 僕の数少ないアドレス帳と照らし合わせてみても、やはりその番号は見覚えのないものだった。あやしい。そんな思いが……と言うより、そんな思いしかなかったが、現状の理解に繋がる可能性があるのなら、多少の危険や面倒を覚悟してもかけてみるべきだ。僕は自分にそう言い聞かせると、ぐずぐずせずに電話をかけることにした。
 相手は数コール後に出た。
「もしもし」
『こんにちは』
 声は女だった。多分、僕よりは年上の。だが少なくともその声自体に聞き覚えはなかった。
「美由に伝言を頼んだそうですけど、どなたです?」
『鬼ごっこをしましょう』
 女は僕の話を聞いているのかいないのか、いや聞いていて無視しているのだろうが、唐突に言った。
「はああ?」
『「わたし」を見つけて』
「……あんたを探し出せばどうなるんです? 美由のことが判るのか?」
『ええ』
「何の意味が?」
『回答に意味が必要なの? 君は彼女を元の時間に戻したいのでは? 私はそれができる。だから私を見つけて頂戴』
「わかっ……」
『ただし』女は念を押すように言う。『期限は一月。それ以上過ぎると彼女はこの時間に固定されて帰れなくなる』
「……そうなるとどうなる?」
『今の彼女が消えるだけよ。ヒントは三回まで。三回だけなら応えてあげる。この街からはでない。……じゃあ、待ってるわ』
「おいちょっと」
 女は楽しそうに言うと、一方的に通話を切った。
 意味が判らない。意味が判らなかったが、単純明快に示されたことは、その女を見つけ出せば美由は自分の時間に戻れるということだ。
 今の美由は知識を頭に詰められるだけ詰め込んで、試験と戦おうとしている。
 そしてこの一月は何もせずだらだら無為に過ごす予定だった僕も、その美由のために戦わなくちゃいけないようだ。
 手がかりも何もない。だが、これはやらなくちゃいけないな、とその考えは驚くほどすんなりと僕自身も受け入れていた。


498

「思考することをやめてはいけません」
 先生はそう言った。
 でも、僕にはよく判らなかった。
「でも先生、思考することというのがどういうことなのか、よくわかんないです……」
 先生は微笑み、
「そうですね。……確か君は空想が好きでしたね。では、今、時間が止まったらどうなると思います?」
 時間が止まったら。それは、確かに僕がよく考える空想のひとつだった。ありえない世界、状況、そういったことを緩やかに考えるのは、大好きだった。
「全部止まります?」
「そうですね。それは、どう止まるのでしょう」
「どう……?」
「止まった時間の中で、君が動けると考えてみてください。その状況で物を自由に動かせると思いますか?」
 僕は唸りながら少し考えた。
「僕は」
 そう言って再び少し考える。先生は静かに待っていた。
 考えた。時間が止まっていることを。僕が動くことを。やがて時間が動くことを。もし僕が動いて、物を動かしていたらどうなるだろう? 何かが……具体的な言葉は判らないけど、何かがおかしくなるような気がした。そこにあるべきもの、そうでなくてはいけないもの、ちゃんとはまって動いている歯車がずれるような、そんな状態に。
「動かせないと思います」
 先生は満足げに頷いた。
「君がその答えを出すまでの経緯が、思考するということです」
「おー」
「よくできました」
 先生は満足げな笑顔を浮かべて言うと、そのまま教室のドアまで歩いていった。教室のドアを開けて、そのまま出て行くかと思っていたら戻ってきて、僕の肩に手を置いた。
「ちなみに、正解ですよ」
「え……どういうことですか?」
 そう言って僕が振り返ると、先生の姿はそこにはなかった。慌てて周囲を見渡すと先生はすでに廊下に出ており、悪戯っぽい笑顔で手を振ると、僕があっけに取られている間に歩き去ってしまった。


497

 私は眠っていて、ただ当てもなくふらふらとさ迷っていましたが、途中木の立て板に黒いハートマークが描かれた道があって、そこに足を踏み入れました。
 そこはとても真っ暗で、私の歩く道から脇に逸れると、そこにあるのはもうどこまで落ちるのか予想すらできない暗闇でした。
 ただ、道以外何もないのかと言うとそうでもなく、とても温かさに満ちた小さな光がそこら中にあるのです。
 かといって私は道を逸れて近づいてみる勇気もなく、ただ周囲を眺めながら道を歩いているだけでしたが、ふと、道から手が届く範囲に光があるのを見つけました。
 私は駆け寄ってその光に顔を寄せてみます。
 それは記憶でした。かつて、どこかの誰かが、どこかの誰かと幸せでいた、そういう記憶でした。
 ここにはそう言った記憶がたくさんあるのでした。でも、これらは全て、捨てられていたのです。
 それはとてもふわふわとしていて、触れるだけで私を幸せな気持ちにさせてくれましたが、何故だかどこか寂しいような、そんな気もするのでした。


496

「あいつ、死んだんだって?」
「ああ、つい先日くたばっちまったんだとよ」
「あの数々のゲームを乗り越えてきた男も、ついに負けたか。やっぱり死因はゲームか?」
「そうらしい。何でも無限ループだったんだと」
「無限ループか……それは仕方ないな」
「かわいそうに」


495

「もし無人島に放り出されたらどうする? 持ち物はひとつだけ自由で」
「よくあるやつだな。そうだなあ……やっぱり水かな」
「本当にそれでいいのか?」
「え?」
「考えても見ろ、海に囲まれてるんだ、水なんてその気になればいくらでも作れるだろ」
「そうかな……そうか……そうかもしれないな、うん、じゃあ、ナイフかなあ」
「本当にそれでいいのか?」
「え?」
「考えても見ろ、確かに若干便利な面はある、だが要は考えようだ。石を砕いたり、木の幹を使ったりしたってそれなりに鋭いものにはなるだろう?」
「そうかな……そうか……そうかもしれないな、うん、じゃあ、暇つぶしの本とか火とかかなあ」
「馬鹿、本なんて読んだらそれで終わりじゃないか。活字は何も返してくれないぞ。火だって頑張れば自分で起こせるじゃないか」
「そうかな……そうか……そうかもしれないな、うん、じゃあ、友人かなあ」
「だよな。じゃあ次はどうやったらこの無人島から脱出できるか考えてみよう」


494

「そばにいてよ」
 文芸部の先輩が書いた恋愛小説で、唯一の色恋沙汰らしい台詞と言えば、それくらいだった。
 それ以外はほとんど日常会話の延長にすぎず、好きです、愛してます、そういった直接的な言葉は一切使われていなかった。そもそも、それ以上の言葉を使ってしまえば、不幸になってしまうからだろうと思う。彼と彼女は姉弟だった。幼い頃に別れ、再びそれと知らずに仲を深め、互いを知ってゆく過程で知ってしまったのだ。
 だから、直接的な言葉はなかった。
 でもそれは私には直接的な言葉以上に温かいものをもたらしてくれた。先輩の選ぶ言葉は、男の人とは思えないほど優しいもので、とても私を安心させてくれた。
 私には最高の作品だったけれども、文芸部での評価はそれほどでもなく、いつも文芸誌の後ろのほうに頭数のひとつとして載っていた。
 と言うのも、その作品を書いた先輩、加藤先輩があまり部自体に馴染んでいなかったからであったように思う。やはり部という狭い場所である以上、執筆者個人の人気も掲載には影響するところがあったのだ。
 文芸部は内輪ではかなりやかましかったが、その輪の中でも加藤先輩は少し浮いていた。いや、浮いていたというよりも輪の外から穏やかに見守っていたと言う感じだった。
 確かに、文芸部全体で見れば異端であったように思う。部全体を占めていた作品も底抜けに明るかったり、不思議な力を持っていたりするような現実とは一歩距離を置いた夢想的なものがほとんどだったのに対し、加藤先輩の書く小説はとことん現実を見据えた重苦しいものだったからだ。これは実体験ではないのかと、加藤先輩に姉か妹が居るのかと他の人が尋ねているのを何度か聞いたことがある。加藤先輩はその度に、苦笑しながら「おれは一人っ子だよ」と答えていたのを覚えている。
 部全体の雰囲気からは少しばかり外れていたものの、加藤先輩の小説を楽しみにしているのは私だけではなかった。加藤先輩の小説があまり言の葉に上ることはなかったが、一旦話題になればなんやかんやでみんな参加して来ていた。

 姉と弟は、悩み、迷い、懊悩した。男と女と言う線を越えても、やはり血の繋がりは強固で、考え方もどこか一致するものがあった。それが幸か不幸か、互いに相手さえ居ればほかに何もいらないと言う捨て鉢の結論には走らなかったのである。片方がその結論に至ってしまっていれば、おそらくずるずると引きずられて泥沼へと足を踏み入れていたのだろう。
 だが、そうはならなかった。姉弟として。二人が各々に課した立ち位置はそれだった。
 弟は高校を卒業して、姉と一緒に暮らし始めた。しかし決して一線は越えなかった。じゃれあう行為が姉弟としての範囲を決して超えないよう、互いを想う自制心で抑えた。愛の言葉も言うわけにはいかなかった。お互いが誰も入れないほど近くに居ながら、お互いが片思いのような状況だった。だから、
「そばにいてよ」
 そんな何気ない言葉にどれほどの想いと重みが込められているのか、片思いの相手は知っていた。

 加藤先輩の小説は、そんなもどかしいところで完結を迎えた。短編でも、シリーズでも、書き終えた作品には後書きを加えるのが通例だったので、加藤先輩も後書きを乗せていたのだが、それがまたたった一言、
「幸せだと思いますか?」
 それだけだった。
 それが幸せか否か。それはかなり論争を呼んだが、結局肯定派と否定派の話は平行線で、妥協点を見つけることはできなかった。
 私は、幸せだったのではないかと思う。お互いが片思いでも、そこは誰も入ってこれない小さな箱庭だったから。

 加藤先輩は、それを書き上げてまもなくして卒業していった。
 あれから私も文芸誌に原稿を出すようになったけれど、やはり加藤先輩の小説が載っていない文芸誌は私には寂しく感じられた。加藤先輩の書く小説の読後感、感情移入して味わえる高揚感、絶望感、そう言ったものを出せるようになることが私の目標でもあった。
 私がそれを話すと、
「ふうん」文芸部の友人である千里はそう言って、愉しげな笑みを浮かべた。「でもさ、あんた気づいてる?」
 私が無言で首を傾げると、千里は今にも笑いだしそうな表情で続けた。
「そのペンの尻で額をつつくクセ、加藤先輩にそっくりよ。形から入ろうっての?」
 私は驚いた。加藤先輩にそういうクセがあったことはもちろん知っていた。だけど、いつの間に私は自分でもやるようになっていたのだろう。まるで心当たりがなかった。
「……気づかなかった。いつからなんだろう」
 私がそう言うと、千里はついに笑い出した。
「あんた、自分でも気づいてなかったの? 私が覚えてる範囲では加藤先輩が卒業するちょっと前くらいだったと思うけど」
「そうなんだ」
 私は戸惑い、驚き、そして少し喜んだ。加藤先輩の記憶がこんなにも色濃く自分の中に残っていることに。
 そして気づいた。
 そうか。私は、多分、加藤先輩のことが好きだったのだ。今更のように思う。その瞬間胸を締め付けられる思いがして、やがてそれも郷愁と共に溶けていった。


493

「月の歌を聴いたことがありますか?」
「月の歌? なんだいそりゃ、最近のヒットチャートか?」
「都市伝説の一種ですよ。月夜の綺麗な晩に、どこからともなくか細くて綺麗な旋律が聴こえるという、ね」
「そりゃ周りが静かだから、偶然遠くからの音が聴こえてきたってだけじゃないのか?」
 私の言葉に、彼女は困ったような笑顔でそうかもしれませんと返した。
 その時はそれきり、話が終わってしまった。

 私がその話を思い出したのは、その日の月が格別に綺麗だったからだ。
 私は性格的な面を強く反映してか、いつも足元を見て歩く。だというのに、その日だけ妙に明るくて空を見上げたのだ。
 月は夜空を煌々と照らしていた。
 思わず私は立ち止まって月を見ていた。
 彼女とは会わなくなってから久しいが、風の噂によると行方知れずとなってしまっているらしい。元々旅行ばかりしていてふらふらしている人物だったので、周囲もそこまで深刻には考えていないようだった。
 私にあの話を教えてくれた彼女は、今、どこで何をしているのだろうか。月は、遠い。そんなことを思いながら月を眺めていた。
 そしてそんな私の郷愁に導かれるようにして、聴こえた。
 微かに、不思議な音が。最初はピアノか何かだと思った。だが違う。その「音」は私が知っているどんな楽器とも違っていた。
 初めて聴く音なのに、どこか懐かしさがあった。
 しかしその旋律は、美しいのにどこまでも沈んでいくようで、鎮魂歌、別れの歌、そう言った悲哀方面の色を非常に強く持っているように感じられた。
 不意に、私はもう二度と彼女には会うことができないような気がした。何の根拠もなかったが、その曲にはそう思わせるだけの何かがあった。
 月は煌々と私を照らしている、今日も。


492

 ぼくたちの世界は守られていた。強い弾力性のある壁に覆われた世界で、ゆらゆらと生きていた。
 だから世界とは、ゆらゆらとゆれるものだと思っていた。
 文明、文化、それらは歴史があって培われていたものだと思っていた。
 近年の衰退もそれは不可避のものであったが、それは決して外的なものではなく、ぼくたちの世界の辿ってきた道の行く末にあるものだと信じていた。
 だから世界の果てにある壁越しに、想像もできない光景が広がっているのを見つけたときの衝撃はとても説明できない。
 それこそが世界と呼ばれていて、ぼくたちが今まで生きた世界、この小さな世界はふうせんと呼ばれているらしかった。
 世界の高度が低下すればするほど、ぼくたちの世界も荒廃してゆく。
 そして世界は荒廃と共に縮小し始めていた。
 荒廃、縮小、高度の低下。
 ふうせん世界の中にいるぼくたちは、それを見ることしかできなかった。
 ぼくたちが、ぼくが最期に外に見た光景は、何も変わらず静かに存在し続ける穏やかな昼下がりだった。


491

「新年明けましておめでとう」
 そんなやり取りを学友たちと交わして、俺は初詣からワンルームの我が家に帰ってきた。

 違和感。アパートに帰って最初に感じたのはそれだ。
 出る前とは何かが違う気がする。でもここは俺以外に出入りするものなどいるはずがない。
(まさか新年早々物盗りだってのか?)
 表面上は平静を装いつつも、早足で部屋に踏み入る。
 荒れてはいない。特に物が動かされた様子もない。
 俺は安堵のため息をつくと同時に、違和感の正体はなんだったのだろうと考える。
 気のせい、で済ますにはその違和感は少し強かった。
 何がおかしい? 何かがおかしいはずだ。
 俺は玄関まで戻って、改めて部屋を見直してみた。
 感じた違和感の正体には気がついた。何か気配がするのだ。
 だが、と俺は部屋を見渡して思う。開きっぱなしの押入れにだって、誰か隠れているわけではない。そしてそこ以外に誰かが隠れられるような場所はない。
「誰か居るのか?」
 部屋の中に声を投げてみる。当然ながら反応はない。
「くそ、ありがたい話だなおい」
 誰に言うでもなく、俺は毒づいた。
 おみくじで出た大凶。その証明が早速なされたのかもしれない。
 部屋の中にある貯金通帳やら印鑑やらの大事なものを確認する。全部ある。
 その時、背後のコタツで何かを置く音がした。
「?」
 振り返ってコタツを確認する。特に何も変わったところは……あった。
 今までは確かになかったはずの缶コーヒーが置かれていた。
 缶のコーヒーなど俺はめったに飲まないから、自分で買ったはずがない。それにこれは今の今までなかったものだ。
 何かが居る。誰かではない。姿は見えない、何かが居る。
 得体のしれない恐怖に襲われて、思わず後ずさりした。反射的に携帯と財布だけを手にとって、家を出る。
 どうしようどうしよう。そんな想いが頭に渦巻く。
 今からお払いでもしてもらいに神社に戻るか?
「年始から呪われてやがる」
 すべての理不尽を吐き出すかのように呟く。
 すると、次の瞬間携帯が鳴り出した。
 以前暇つぶしに、よく話す知人連中には適当に指定の音を振り分けていた。それなのに今はデフォルトの無味乾燥な着信音だ。ということは、普段話さないような連中か、まったく知らない誰かからということになる。
 そして携帯電話を確認して思わず固まった。携帯電話のディスプレイには「##$7321(%ggHq*」という電話番号とはとても呼べない文字列が並んでいたのだ。
(これで電話番号と認識されているのか?)
 思わず呆然と立ち尽くす。だが少し経っても一向に鳴り止む様子はなく、仕方なく俺は通話ボタンを押した。
「あー……も、もしもし?」
『どこへ行く?』
 聞こえてきた声は覚えのないもので、男とも女ともとれそうな中性的な声だった。ただ声に渋みはなく、少なくとも自分よりは若い印象を受けた。
「……えー、誰です?」
『神だ』
「上田? 覚えてないなあ。どこの知り合いでしたっけ?」
『神様だ!』
「は……」
 神様。その言葉を認識した瞬間頭が真っ白になる。
 いったい何でそんなのに絡まれなきゃならないんだ?
「……あの、変な宗教とか、そういうのはいいんでやめてもらえません?」
『宗教!? 変な!? んな、なんと失礼な……覚えていないのか? 貴様、自分で言ったことを?』
 自称神様の言葉に首を傾げつつも、もしかしたらそういう会話の誘導法かもしれないと警戒は解かずに返す。
「何の話か判りませんが」
『とぼける奴だな、籤が大凶だったからお助けくださいと祈っていたではないか』
「それはお参りのときの話で……」
 と、思わず言葉を呑む。お参りの時に願ったことなど他言した覚えはない。何で知っているんだろう。というよりも、大凶をこの手にしてから一時間くらいしか経っていないのだ。己の中で警戒の質が変わる。
「……あんたは、本当に一体誰だ? いや、うん、まあ神様だったとしよう。だとしても何で俺の携帯にかけてきてるんだ?」
『どこへ行くつもりか聞くためだ』
「どこにもいかないよ。ただ……部屋の中に何かが」
 俺がそこで口をつぐむと、自称神様はこれが答えだとばかりに返した。
『私だ』
「はい?」
 思わず気が抜けた声で返すと、電話の向こうで自称神様は烈火のごとく怒りだした。
『はい? じゃないっ! 私を完全に無視した上に飲み物を差し出してやったら逃げおって!』
「ちょちょ、ちょっと待ってくれよ、無視したって誰も居なかったぞ!?」
『嘘をつけ、何度も声をかけただろうが!』
「そんな馬鹿な……。判ったよ、くそ、戻ればいいんだろ」
 そう言って通話を一方的に終了すると、駆け足でアパートへと引き返す。
 靴を脱ぎ捨ててアパートに転がり込み、恐る恐る部屋中を見渡してみても、やはり誰も居ない。
 頭の混乱が収まらぬままに、騙されたのか? と自問していると、再び携帯がなった。番号も確認せずに電話に出る。
『……今度は一体どんなつもりだ?』
 妙に底冷えのする声が耳を叩く。
「待て、本当にどこにも居ないじゃないか! そっちこそ騙そうとしているんだろ? 今実際に家に居るんだ」
『大体アレだけ反応しておいて、いまさら何のつもりだ?』
「あれだけ?」
 俺が心から返すと、少しばかりむっとした声が言った。
『よく思い出せ』
「何を?」
『貴様が誰か居るのか、と聞くから私が答えたらありがたがっていただろうが! こちらが歩み寄ろうと”じはんき”で買った飲み物を置いたら逃げ出したのは誰だ!』
「あれは……」
 まさか独り言の裏で会話が成立しているとは夢にも思わなかった。
「待ってくれ、あれは別に会話のためじゃない。自分に向けて言ったんだ。それによく考えてもみろよ? こうして携帯ではちゃんと応対しているのに、現実で無視するなんておかしいじゃないか」
『それはそうかもしれぬが……そんな馬鹿なことが……。ん、いや、ちょっと待てよ?』
「?」
 急に声が途切れ、電話の向こうで何かごそごそしている音が聞き取れた。少しして、
「いてっ」
 後ろから急に軽く頭をはたかれた。
 慌てて振り向くが、誰の姿も見て取れない。
『なるほど』
 と、文句をぶつけるより先に電話の向こうから声を発してきた。
「今何かしたのはあんたか? 何がなるほどなんだ?」
『そこら辺にあった雑誌で叩いてみた。どうやら本当に私が見えないらしいな。こうして声は聞こえているし、物質を介せば触れることもできる。だが姿だけが見えない。……どうも私が少し失敗したらしい』
「何の話だ?」
『少なくとも、私が……いや誰か、あるいは何かがいるということくらいは判っているんだろう?』
「まあ、なんとなくは……」
 答えながらも、自称神様がどうやら同じ室内に居ることは疑いようもなさそうだった。
(参ったな……)
 見えない、しかも神様を名乗るような相手と狭いワンルームで同居するなんて落ち着くどころの話ではない。いずれは慣れるかもしれない。しかし、慣れるまでこの”何かが居る”感覚と一緒に過ごせというのは先に精神が参ってしまいそうな気がした。
 若干緊張して、ぎこちなく部屋の整理を始めてみる。一応電話はつながっているが、向こうは黙りこくっていた。
 ふと、紙束の下にあったやたら汚れた手鏡を持ち上げると、ベッドの上に居るはずのないものが見えた。
 鏡の向こうに、居るはずのない人影が見えている。思わず廃棄予定の紙で表面を拭いた。
「おい」
 電話越しに声をかけると、鏡の向こうの人影は、脇に置いてあった木の板にごてごてと装飾をつけたような物を拾って、慌てたように耳にあてた。
『な、何だ?』
「今俺が何をしているかわかるか?」
『え、ああ……?』
 そう言って自称神様は俺を見て、すぐに俺の手にある鏡に気づく。そして目が合った。
『おお』
 少し驚いた後、自称神様は嬉しそうに目を細めて手を上げた。
『よう』
「ようじゃねえ、何だ、あんた一体何なんだ!? 鏡の中だけで見えるってどうなってるんだよ!? 軽くホラーだぞ!」
『そんなこと言われてもなあ』
 自称神様は、拗ねたようにそっぽを向く。
「大体、何でウチにきたんだ? 不運を何とかしてくれるってのか?」
『人を当てにするんじゃない』
「じゃあ本当に何しにきたんだよ」
『そういう口実を作って遊びに出てきたんだよ』
「……本当は神様じゃないんだろ?」
『何だとっ……! ふん、そこまで言うなら良い、じゃあ神様らしいところを見せてやろうではないか』
「おう」
『…………』
「…………で?」
 見せてやろうではないかと言ったきり、むすっとしたように座り込んだ自称神様を見て、続きを促す。
『何だ、で、とは。貴様、私を魔術師か何かと取り違えてはおらぬだろうな』
「いや、てっきり自信満々に言うからひとまず何か見せてくれるものかと」
『馬鹿を言え』
 と、言うことは。己に語りかける。一体何を以ってして神様らしいと主張するのかは判らないが、それをしてくれるまでは居座るつもりらしい。
(結局かあ……)
 お引取り願いたい気持ちはやまやまであったが、大凶なら年始からこういうこともあるのかもしれないな、と生まれて初めて引いた最悪な一年の前評価に、乾いた笑いを漏らした。