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思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳510-501

510


 人生でひとつ。一人にたった一単語。絶対に言ってはいけない言葉があった。
 それが何かは判らない。人によって違うからだ。
 言うとその場で消滅してしまう。それは「脱落」と呼ばれているが、「脱落」後の人がどうなってしまうのかを知る者はいない。

 ごめんね。そう呟いた声がどこまでもすり抜けて落ちていった。
 すれ違った心が掠れた声で悲鳴をあげていた。何とか解けた心の糸をかき集めようとはしたけれど、かき集めた傍から糸は解れていってしまっていた。
 笑いあえた日々は過去になり、うつむきがちな日々と、過去にすがりつきたい僕が残っていた。

 彼女があまりにも辛そうだったから、僕は今まで一度も使ったことがなかった言葉を吐いた。
「大嫌いだ」
 その言葉を呟いたとたん、体が虚脱感に包まれていく。幸か不幸か、僕にとっての禁句はそれだったらしい。
 本当はそんなこと、微塵も思っていなかった。嫌えるほど好きになって、その嫌いな部分も好きになれるほど、好きだった。
 でも彼女が少しほっとしていた顔をしていたから、これで良かったのかなとも思う。
 傷ついた心を抱えて、何の言葉も残さずに僕は消えた。


509

 人生でひとつ。一人にたった一単語。絶対に言ってはいけない言葉があった。
 それが何かは判らない。人によって違うからだ。
 言うとその場で消滅してしまう。それは「脱落」と呼ばれているが、「脱落」後の人がどうなってしまうのかを知る者はいない。

「スリランカの首都ってどこだっけ?」
「ええと確か……スリジャヤワルダナプラコッテ……うわあああ」

 そのギャンブル性ゆえに、己の命を代償とした賭けが一大分野となっていた。
 何日生きることができるかと言う賭け、単語ごとに挑戦する賭け……

 それらは社会に意外なほどたいした障害ももたらしていない。

「最近あいつ見ないけど、元気?」
「やー、落ちちまったってよ」
「……いい奴だったんだけどなあ」
「そうだな」

 理不尽なようでも、それは誰にとっても避けえない自然現象の一つだったのだ。


508

「私は彼女を愛していた。好きだった。だが彼女はそうでもなかったらしい。だから私は決めたんだ」

「いや、俺はあれが大統領だとは思わなかったんだ、本当だよ、でも近づいたら銃出されてびびっちまって……」

「食事を取るのを忘れていただけだ」

「まさか青酸カリだとは思わなかった」

「片思いでいるうちに彼が自殺しちゃったから、私も告白しようと思って後を追ったの。彼はどこかしら?」

「起きたら目の前に銃口があったんだ。金を出せというから、ないと言った。そしたら銃口が火を噴いて……それで、ここはどこなんだ?」


 天界の入り口には色々な一言コメントが残されている。天国でも地獄でもなく、ただ死んだ人が残す言葉。


507

 車の往来する通りから少し逸れて、ちょっと進んだところに個人経営のとんかつ屋がある。内装もチェーン店のような整然さや小奇麗さとは無縁だったが、値段の割りに量が多く、しかも僕の非常に好む味だった。
 とんかつ以外にもメニューはいくつかあったが、その中でも特に異彩を放つものがひとつだけあった。
「安眠豆腐」
 わざわざ手書きで安眠、と書かれている。豆腐は一丁五十円だと言うのに、その安眠豆腐とやらは一丁五百円もした。普通のとんかつ定食に迫る値段だ。
 僕は最近不眠症気味で、頼れるものなら何でも頼りたかった。そこでここの豆腐の存在を思い出したのだ。
「とんかつ定食……と、安眠豆腐をください」
「杏仁豆腐ではないですけど、よいですか」
 店主のおっちゃんは少し無愛想にそう言った。僕が大丈夫です、と答えると、判りましたと返して厨房に篭る。
 豆腐だけはすぐに出てきた。
 普通の、一丁の豆腐だ。葱と生姜が和えられている。よく見ると、少しばかり普通の豆腐よりは色が薄い気がする。一人で、こうやって食べるには少し多すぎるような気もする……が、五百円だ、食べないわけにはいかない。
 醤油を掛けて、口にする。
「……!?」
 豆腐じゃない。最初に浮かんできた感想はそれだった。醤油の味もどこへいったのか、まるで感じられない。まるで己の味覚障害を疑いたくなるほど、醤油のあれだけ濃い味を認識していなかった。
 ではどんな味だったのか。
 まるで舌に触れた瞬間溶けてしまったかのような、淡い味だった。体の芯からふわふわと足の力まで抜けていく感じだった。手が震えてきて、思わず一旦箸を脇に置く。だが少し後には先ほどの脱力感が嘘のように力が戻ってきた。
(凄い)
 素直にそう思った。恐る恐る、切り崩した形を更に崩すことがないよう慎重に、口に運ぶ。
 二口目は普通だった。一口目の感動が嘘のように、少し薄味の豆腐だった。あれ、と思いつつ三口四口と運んでいく。駄目だった。一口目のあの衝撃はまるで訪れない。
 食べ終わったときには、何だと失望する気持ちのほうが正直強かった。好奇心で食べてみたが、これではさすがに安眠など期待するべくもない。もう二度と食べることはないだろうと思いながら、やがて出てきたいつものとんかつ定食に箸をつけた。


 いざ寝る段階になると、失望感より怒りのほうがこみ上げてきた。寝よう寝ようとしているのにまるで眠りが訪れる気配はなく、イライラが募って余計に眠気が遠ざかっていく、そんなことの繰り返しだった。
 五百円も取っておいて、一体なんと言うザマだろう。
 あの一口目の不思議な感覚だけは凄かったが、それだけだ。でもあれは一体なんだったのだろう。そうして僕は一口目のあの感覚を思い出そうとした。

「……あれ」
 何かがおかしい。いつの間にか明るかった。慌てて時計を見ると、もうとっくに普段起きる時間付近で、慌てて布団を跳ね除けて飛び起きる。
(寝て……たんだよな)
 体の気だるさもすっきり取れていて、爽快感すら体にはあった。相当久々の感覚に、気分も晴れやかになる。
 直前の思考も覚えている。ただ、あの豆腐の食感を思い出そうとしただけだ。
 体の力が抜けていくような、あの感覚。昨日は思い出そうとして、その瞬間意識の糸が途切れたほどだというのに、今となっては幕の向こう側に去っていったかのように何も思い出せない。何か危険な薬の一つや二つでも入っていたんじゃないかと思うが、それでもここまで快適な目覚めが受けられるならそれも悪くないと思ってもいた。


506

「俺、すげえいいことを考え付いたんだ」
 僕の敬愛する、もっとも繊細で愚かな友人はそう言った。
「へえ?」
「文章、書くよ。物語を。……人を書く」
 僕は眉をひそめる。これは単なる作家を目指す宣言ではない。彼は既に文筆家としてある程度の名前を馳せていたし、本だってそれなりに出していた。僕が彼を敬愛する理由のひとつである、その内面。
「人を書く?」
 少しそれが気になって、繰り返す。
 彼は何か思いつめたような表情をしていた。何でもいいから、決めたことに突っ走ってやるぞと、そう言う表情。
「人を書く。理想を書く。理想の人を書く。欠点だってないわけじゃない。でも強いんだ。そういう人を書きたい」
 僕はそれを聞いて、何となく何があったのかを察した。
 言うべきか迷う。言おうと口を開き、再び閉じる。だが彼が黙っていたので、結局口を開いた。
「失恋かい」
 彼が唾を飲む音が聞こえた。予想していなかったのだろうか。それとも、こうやって指摘されることを心待ちにしていたのだろうか。
「そうだ」
 少し経ってから、彼が言った。
「でも、幸せな話を書くよ」
「うん」
「幸せなんだ」
「うん」
「書いたら、読んでくれるか」
「うん」
 彼が言う以上、きっと、読む人を幸せの国に誘ってくれるような、とても温かい話を書くのだろう。
 でもそれは、彼の失恋なのだ。彼がどん底にまで落ちて、狂ったように恋焦がれて、幾万もの言葉を費やしても届かなかった、その残骸をかき集めて飾り立てたものなのだ。

 具体的な経緯は、何一つ彼は言わなかった。ただ、文章を書くと、いつものように言っただけだった。
 喜んでも、怒っても、哀しんでも、楽しんでも、彼の心の辿り着く先は物語だった。架空の世界に、己の心を託すのだ。彼はそうやってひとつ、またひとつと、心の墓標を立てる。
 どういう形でやっても、それは面白く、読者の層は変わってもちゃんと評価は受ける。
 しかし彼は心の墓標を一つ立てるたびに、感情を欠落させていっているように思えた。表面上は特に変化もなかったが、やはり僕はそう思っていた。
 僕以外の、彼と付き合いの長い友人はみなそう思っているらしい。中にはそんな彼を不気味がって疎遠になる者まで出てきたほどだ。
 少しづつ、少しづつ失っていく。書き始めに持っていた感情が大きければ大きいほど、彼が創作活動という名の何かに没頭すればするほど、何かがなくなっていった。
 だがそれでも僕や周りの友人が、彼に創作を辞めさせようとしなかったのは、ひとえに彼の作品が読みたかったからだ。心を犠牲にするように書かれた作品には、心があった。犠牲になった心が宿っていた。
 残酷なことは承知しているが、そうなっていった先、何も犠牲にするべき心がなくなった彼は、一体どうなるのだろうかというその姿を見てみたかった。
 ただ、彼の、見ていて胸が苦しくなるような生き様を、見届けたかった。


505

 カタン
 ポストに何かが投下された音がした。

 その頃の僕は恐ろしいほどの無気力感に囚われていて、指一本動かすのも億劫だった。椅子の上で膝を立て、体育座りのような姿勢で、顔を膝に埋めていた。
 無気力感の中で外的要因によって少しだけ波が起こり、何とか動く気力をかき集める。
 一度動けば、単に気力の問題だ、玄関まで行くくらいなら特に問題なかった。いつものようにピザ屋か寿司屋のちらしじゃないのか? そう言う考えはあったが、何故か僕を突き動かすものがあった。
 脱ぎ捨てられた靴の上に落ちていたのは、手紙だった。宛名が手書きで書いてある。住所も、名前も、しっかりあっている。
(ダイレクトメールではない……?)
 裏側には、中央に個人情報保護と堅苦しい明朝体で記載されたシールが貼られているだけで、宣伝の文句もなさそうだった。
 恐る恐るシールをはがしてみる。
 過去の僕へ。手紙はそんな出だしで始まっていた。

 過去の僕へ。多分、この頃だったと思う。ひどく鬱勃として、全てに思い悩んでいたはずだ。
 今これを読んでいる僕は、未来のことなど知る由もないと思う。未来は、大変なことになっている。機械や薬の力によって人から負の要素を追い払い、いわゆる暗闇のない世界を作り出した。負の感情のない世界を想像できるだろうか? 旅行で数日来るくらいなら、なんと素晴らしいところだろうと感心するだろう。もし少し名残惜しくて週単位で残ってしまえば何かおかしいことに気がつくだろう。
 どうか、どうか過去の僕よ。寂しさを教えてくれ。孤独を、抑圧を、憎しみを、負の感情を未来に持ち込んでくれ。

 手紙はそれで終わっていた。薄気味悪いと思う。だが筆跡は、少し整っているものの、確かに僕の字だった。
 未来? 何の話だ?
 そう思いながら手紙の表を見て、固まった。消印が13年後になっている。場所は何故か北海道からのようだった。13年後には何かが起こっていて、僕は何らかの理由で北海道にいる?
 そして表には、僕の家の住所が書いてあり、左側、本来なら差出人が書いてあるところに、小さく何かの紋様が書き記されていた。それが落書きやサイン代わりに残されたものだったのならば、僕は普通に見過ごしていたに違いない。だがそれは未来の僕を名乗る誰かが意味深なメッセージを送ってきた葉書に記載されていたものであり、僕はその紋様に見覚えがあったのだ。
 見覚えがあったとは言えども、明確に覚えているわけではない。薄ぼんやりと、記憶の残滓に残っていた、その程度だ。
 探そう。思い出そう。
 静かだった草原に風が起きるように、心のどこかから久しぶりに気力と言うものが沸き起こってきた。
 負の感情のない未来に、負の感情を持ち込む。どうやったらそれをできるのかすら、今は見当もつかない。だが少なくとも、それをすれば大きく状況は変わるに違いない。もしかしたら、僕が未来のあるべき姿を根本から変質させかねない状況になるのかもしれない。だが未来の僕が言う以上、今の僕にとってもそれは正解なのだろう。
(とりあえず、顔でも洗うか……)
 久しぶりの心が沸き立つ感覚に、ちょっとした爽快さを覚えていた。


504

 あらゆる作業の機械化と人口の増大を経て、人はあらゆる部分に退屈から逃れるための選択肢を作ることに腐心した。
 その中でも、地味ながら注目をあげていたのが葬式である。
「自分を語れ」という挑戦的なキャッチフレーズとともに、葬式プロデュース業がおおいに賑わった。
 当初は不謹慎だ、という面から一般人や宗教家による猛烈な反対運動が起こっていたが、それも退屈という名の眠らない巨人の前に、長い時間をかけて屈服した。そうして生き抜いてきた葬式プロデュースも産業のひとつとして定着し、それほど珍しいものでもなくなった。
 だが、それと同時にささやかれ始めた噂があった。
 本来ならあるはずのないこと、つまり都市伝説が生まれ始めたのだ。
 それは電車葬と言うもので、電車で眠るように死んでいるというものだ。何人か自分は見た、あるいは乗ったという者が居たが、不思議と彼らの話す内容が一致していたというのもその話を広まらせる一端だっただろう。
 電車に整然と座っている乗客。彼らは正装をしており、一様に同じ姿勢をしている。背筋を伸ばし、膝に手を置いて眠るように目を閉じている。そしてその膝元には小さな箱があり、そこに彼ら自身の遺灰が入っているというのだ。ではその彼ら自身はなんなのか、と言うのは愚問である。自身に生き写しの人形、クローンまでもが安価で手に入る時代だ。そのようなものはどうにでもなる。
 静かに、規則的に揺れる葬式電車の中で、一休みのように眠り続ける死者たち。
 それを聞いて、ああ、それはいいなあ、と思う者も少なくないという。


503

 石があった。どこまでも吸い込まれそうな黒色をした石だった。
 骨董品店の片隅にあったそれには値札がついておらず、思わず女の店主に「あの石は売り物ですか」と聞いていた。店主は僕を少しの間じっと見ていたが、笑みを浮かべると、
「あげるよ」
 と言った。
「え……でも」
「いらないのかい? お前さんみたいな石だ、仲間だと思って大切にしてやりな」
「あ……りがとうございます」
 僕は内面を見透かされているような物言いに、怒りと言うよりは若干の恐怖を覚えたが、それでも構わずに貰って帰ることにした。

 家に帰って見ると、ますます不思議な石であるように思えた。
 触れた部分だけ、魔法のようにじんわりとオレンジ色に染まるのだ。指を離すと、段々元の黒色に戻っていく。そういう製品はいくらもであるが、こういう石は珍しいように思えた。
 店主が言った、僕みたいな、とはどういう意味だろうか。その意味を考えてすぐ回答に至る。
 多分、僕の予想が正しければ、僕の対人関係だろう。
 人付き合いがうまくない僕は、人とそれなりに親しくなってもすぐに離れてしまう。これはもう、性分のようなものだった。
 人と居るのは、嫌いじゃなかった。そして人が離れていく悲しい痛みにも慣れていた。別れは必ずしも穏やかな終焉ではなく、時には痛烈な言葉を浴びせられて去っていくこともあった。やはり、それも辛くはあったが、慣れていた。
 痛くも優しいぬくもりが去っていくと、暗く冷たい孤独が押し寄せる。それはちっとも暖かくなんてなかったが、代わりに痛みもなかった。孤独は楽しくはなかったが、もはや辛いものでもなかったのだ。
(そういうことなのか?)
 石に無言で問いかける。石は答えを返さなかったが、それが答えだとばかりに冷たい光を宿していた。


502

 ギィーィィィーィーィ……
 寿命が来ているのにうっかり死ぬのを忘れてるんじゃないかとすら思える、物静かな老人はその音を聴いて、「正常です」と呟いた。
 私は老人の言葉の意味が飲み込めず先生を見たが、先生は深刻そうな顔で頷いただけだった。
 私が習っている楽器はトルニケスと言う、バイオリンに似た楽器だ。
 バイオリンに似てはいるが、その扱いは異なるところが多く、そのマイナーさ故に調律ができる者も限られていた。
 私のトルニケスの音に妙なざらつきが混じるようになってしまって、先生が調律師を呼んだのだ。聞くところによると、トルニケスに限らず、音の鳴る楽器ならあらゆるものを扱える、調律の神とも呼ばれる人だそうだ。
 その老人は音の生命を読み取れる(聴き取るではなく)らしく、音を聴いただけで楽器の不調が判るらしい。もちろん調律師である以上、音の異常が判らないのは困る。だがこの老人はその音から調律の不具合ではなく、その他諸々、老人曰く「楽器の人生」を読み取れるらしい。
「あの」
 私だって、自分の楽器にはそれなりの愛着がある。何も判らないまま話が進んでいくのは辛かった。
 老人はそんな私を横目で見て、トルニケスに再び目を落とすと喋り始めた。
「トルニケスは消え行く楽器です。13年前にトルニケスを作る職人が引退し、以降私の知る限りでは一挺も作られていません。君の使っているトルニケスも、相当古いものです。調律の問題ではない。言わば私と同じですよ」
 老人の言っていることはすぐにわかった。トルニケス自体の寿命がきているのだ。
「そう……ですか」
 私は呟く。似てるからといって、バイオリンに移る気もなかった。実質、これが引退宣告のようなものだ。老人はそんな私をじっと見て言った。
「曲は弾けるのですか?」
「え、ええ……」
 特にコンクールなどに出たわけではなかったが、町の小さいイベントなどではちょくちょく呼ばれて演奏をしていた。
「聴かせてくださいませんか」
 私は目を丸くして老人を見た。
「ですが……」
 私のトルニケスは音がざらついている。聴けないほどではないが、心地よいとはとても言い難いのは判りきっている。
「君のトルニケスで」
「……判りました」
 私は先生を見たが、先生も異論はないのか静かに頷いた。
 私はトルニケスを手に取ると、深呼吸をして弾き始める。できるだけ、ざらついた音が浮かないよう、重い音が多様される曲を選んだ。
 弾いているうちに、ふと思った。重く、ゆったりした旋律で奏でられるこの音は、鎮魂歌のようだと。


501

「じゃあ、プロモーションビデオってことをいしきしてね」
「はあい」

 そもそもは子供の頃の遊びで、音楽だってそこら辺で適当に録音したものにすぎませんでした。

「カット、って言うまでだからね」
「判ったよう」
「それじゃ、スタート!」

 当時はプロモーションビデオも、歌手が格好良く歌ったり、人が最高に格好いい瞬間のひとつだったり、それくらいの認識しかありませんでした。本来の意味なんて理解していませんでしたよ。
 でも……。

「由佳ちゃん、危ないっ」
「え?」
キキーッ

 監督役の由佳ちゃんが事故で亡くなってしまったんです。
 以来私は、ずっとプロモーションビデオを撮られているような感覚があって……いえ、強迫観念とか、そういうのじゃないんですよ。苦痛に思ったことはありません。でも演技してるって感覚はあるから、一種の、とは言えなくないかもしれませんね(笑)
 ……とにかく、私が女優として大成できたのは彼女の存在があったからであり、彼女のことを片時も忘れたことはありません。死ぬまでこのままかもしれませんが、なんとなく、私が引退するべきときに現れて「カット!」と言ってくれそうな気がするんです。


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