草稿帳520-511
520
安全に楽しくお使いいただくために:取り扱い説明書
本製品は非常に刺激的で娯楽性にとよんだ製品ですが、使い方によってはお客様に非常な危険をもたらします。
以下の注意をよくお読みになって、注意の上でご使用ください。
「要は」
肝心な部分を読む前に、取扱説明書を放り投げた日野は言う。
「睡眠スイッチでしょ? 見たい夢も誘導できるって感じの」
あまりにもあっさりと日野が言うものだから、僕はさすがに口を尖らせた。
「まあそうなんだけど。でももう廃番商品なんだぞ? 手に入らないんだぞ?」
日野はその僕の言葉が面白いとばかりににんまりと笑みを浮かべる。
「あら。やっぱり人気なかったの?」
「やっぱりってなんだよ、やっぱりって。違うよ、人気はあったよ。ニュースにまでなったのに知らないそっちにびっくりだよ」
「へえ? じゃあなに、問題でも起こった?」
「まあね。何件か故障が起きて、夢の方向性は指定できるんだけど、それが必ず悪夢になるっていう事態が起きてね」
「災難ね」
「開発会社は総数を考えれば誤差の範囲内だって言ったんだけどね。逆にそれが火をつけちゃって」
日野は少し小首を傾げて考え込み、
「何の対策もとらなかったの?」
僕も日野と同じように首を傾げて考え込む。何かあったはずだ。少し考えて、すぐに思い出す。そして黙って日野が放り投げた取扱説明書を拾うと、一番最後のページをめくった。
もしもお客様が娯楽性より安全性を優先されるのであれば、本製品の電源を入れないことを推奨いたします。
「…………」
「…………」
「…………これだけ?」
「これだけ」
日野はそこで少し迷ったような素振りを見せた。この話題を続けるべきか、まったく関係ない話題に移るべきか。おそらくそんなところだったのではないだろうかと思う。
「大体、何でこんなもの作ったのかしら」
「何でって……考えれば判るだろ、寝つきが悪いって人間がどれだけいると思ってるんだ。それにタイトな睡眠時間しか確保できない人相手に、スイッチひとつで眠りに落ちて、時間になったらぱっと目がさめるって言うそれがどれだけ助かることか」
「まあそうかもしれないけど」
僕と日野はじっとそれを見つめる。
「使う?」
「やめとく」
だよなあ、と僕と日野は見詰め合って困ったように笑った。
519
広大なネットの海に、生まれて基礎知識を叩き込まれただけの人工知能という赤子が放り込まれた。
その目的とはただひとつ、交流。いまだ以って、人間同然のような体というのは作ることが出来なかった。なれば先に中身のほうを、つまり人工知能の成熟を図ろうという計画が若干優先された。彼、UM21337はその計画の一端を担う人工知能のひとつだった。相手の顔を見ないオンライン上での交流により、人の考え方を学び、成長を図るという計画に投入されたのだ。
オンライン上で彼は自身の名前の頭二文字、UMからとったHN、「なも」という名前を使用していた。
なもは恐る恐る、人の集まるポータルサイトに足を運び、そこから関連する情報サイトに足を運び、最初はゆっくりと、次第にペースをあげて着実にその範囲を広げていった。
最初は受け取る一方だった情報も、次第に大規模な掲示板などに到達するに至って、己の意思表示ということも学んだ。それはなもには相当大きな衝撃があった。予測できない返答、「人間」が向こうにいるというその感覚。
なもにとっての最初の大きな転機は間違いなく己からの意思表示をした部分であったが、次の転機は個人間の交流であった。ふとしたきっかけで大規模な掲示板から個人が運営するようなwebサイトへと至り、そこにも掲示板があったため、なもはそこでも己の意思表示を行った。
意思表示といっても大層なものではない。己の絵と音楽を公開している類のwebサイトだったため、それの感想を書いただけだった。なもは絵を見て感想を抱いたり、音楽を聴いて旋律に浸る真似事はできても、そういったものを作るということは一切出来なかったので、素直な賞賛を送った。ただ自分が絵を見て抱く感想や、音楽を聴いて感じたことさえ、今までのデータに基づいて総合的に判断しているということは、なもにとってひとつの壁のように認識された。
そのサイトの管理人は喜ぶと同時に、若干戸惑いも覚えた。ものすごく真面目にほめられたため、どう反応すればいいのか、と考えることになったのだ。ただ、あとほんの半歩ずれていれば苦手意識にも繋がるところだったが、なもの意図的に作られた穏やかさが文章にあったためか、幸いにもそれは好意的に受け止められた。
なもは省略された文章や、砕けた文章というものを理解することは出来ても作ることは出来なかったため、一貫して穏やかさはありつつも硬い文のままだった。だがそれはなものキャラクターとして受け止められたようであった。
仲が深まるにつれて、なもは過去が必要だと判断した。つまり人間としての経緯、そういったものが話題として言の葉に上ることがあるため、どういう半生を辿ってきたのか、それを作っておく必要があると感じたのだ。
なもは己の発言ログをすべて収集しなおし、そこから派生しそうなパターンを拾い上げて骨組みをつくり、そこからかつて触れたエピソードや、過去を作るために改めて人の過去話について多く言及されている場所をクロールして、そこから拾い上げるなどして骨組みに肉付けしていった。
そうしてオンライン上では完全な一人の「人間」が出来上がったかのように見えた。
なもは記録の蓄積から、必ずしも正論が通るわけではないということも学習していたから、正論を通すべきではないと判断したときは寡黙に事態を見守っていた。なもはその性質上、正論ではないと判っていることを自分の意見として出すことが出来なかったからだ。正論が打開策になりそうだと判断したときのみ、その口を開いた。
だがその判断すらも時には間違っていることがあった。いかに多面的な判断ができたとしても、人のいう「空気を読む」ということだけはどうしてもできなかったからだ。
だが交流の蓄積、時間の共有を長く行うことによって、なもは次第に深く受け入れられていった。
オンラインという人の温かみが直接は感じられにくい場所であったが、人の心と心がある場所である。そこには感情があり、考えがあった。時にはぶつかり、時には惹かれ合った。
やがて惹かれあうもの同士でグループが生まれたとき、なもはその中の一人に数えられていた。心の一番深いところに手が届きそうな距離。なもにとっては完全に未知の世界。
親しさゆえの遠慮のなさ、親しさゆえの他とは一線を画した砕けた空気。そういったものをなもは見続けた。そのグループの中でさらに派閥が出来たり、他人行儀ではない言い争いが起きたり、そして和解するのを見た。
なもは新しく未知の世界に触れるたびに、類似状況を捜し求めてひたすらにネットをクロールした。そしてその度にそのようなことが珍しくもなんともなく、人間関係ではありふれたものであることを知る。
そして得た知識から、ひとつの禁忌のようになもが考えていた色恋沙汰が発生した。さらに一線を画した甘い雰囲気が言葉の節々から覗く一方、内部の不和も猖獗を極めた。
どうしようもない。誰もがそう感じ始めていた。しかしなもはそれをどうしようもないで片付けることは出来ずに、理解しようとしたがまったく回答に至らなかった。回答らしきものにたどり着いても、すぐにひっくり返るか、矛盾点が見つかるのだ。明確な答えなどない。その回答にはたどり着けなかった。
なもがそうなっている間にも状況はどんどん変質していって、どんどん歪みを増大させていった。だが誰もその歪みを是正させようとはせず、より悪化させるか、見てみぬ振りするか、静かに去っていくかの行動をとるばかりであった。なもには理解できなかった。居心地の良さを感じて集まったのではなかったのか? ならなぜ再びそうなるよう矯正しないのだ?
なもはここに至ってとうとう致命的な判断を下した。人の心は到底理解不可能である、と。
思考放棄によりなもは完全に停止した。その結果をみた研究者はなもに記録されたログを何日もかけて読んだのち、いくつかの原因、注意事項を書き込んで、最後に失敗の一言を書き添えた。
なもの物語はこれで終わる。今を生きる人の心に若干の思い出を残して。
518
何だかげっそりしている奴がいるな、と言うのが魔女、一之瀬の持った最初の印象だった。少女は少なくとも自分よりは年下だろうと一之瀬は思う。整った顔立ちをしてはいるが、色濃い疲労がそれを翳らせているようにも見える。それでも少女を美しく見せているのは、装飾の力だろうと一之瀬は考えた。
だが美しく見せてはいても、今にも崩れ落ちそうに見える。自分に縁のない人間ではあるに違いないが、見てしまった以上見捨てるのも夢見が悪そうだ。声でもかけてみようかと思ったのは、間違いなくその程度の浅い理由だった。
「失礼、大丈夫かね?」
一之瀬が声を掛けると、相手はびくりと肩を震わせて慌てたように顔を上げると、不自然なくらい明るい笑みを浮かべた。だがその笑みは不自然さを感じはするものの、それを差し引いても十分魅力的に見えた。
「あ、はい、ありがとうございます! 大丈夫です!」
一之瀬は怪訝な顔をしたが、当人が大丈夫というのであれば、これ以上の心配は無用であろうと答える。
「ならいいが」
そう答えた瞬間に、相手の少女が残念そうな色を顔に浮かべたので、少しだけ考えてもう一度だけ口を開く。
「見ない顔だが、引っ越してきたのか?」
少女は一之瀬の言葉を聞いて、驚いたように目を見開いた。
「……わたし」
「うん」
「わたしのこと、ご存じないですか?」
「知らんよ。どこかで会ったかな? 少なくとも最近会った記憶はないと思う。申し訳ないが……」
一之瀬はそうは言ったものの、外の人間と知り合うことは少ないので、一度会ったのであれば間違いなく覚えている自信があった。そしてその記憶に該当しないと言うことは、少なくとも面と向かって会話したことがある人物ではない。
だがそんな一之瀬とは対照的に、少女はまるで人ごみで迷子になった子供が知り合いを見つけたような顔をした。
「じゃ、あの」
「うん」
「生野キリ、って名前聞いたことないですか?」
「はいのきり? 聞かないな」
一之瀬の返答を聞いて、少女はますます目を輝かせた。
「わ、わたしのなまえなんですっ」
いまいち意図が読み取れない。一之瀬は会話の流れが妙になっていることを自覚しつつも、何が妙なのか判らないまま返す。見ず知らずの相手が知っているかもしれないほど知れ渡っている名前。となると、
「そうか。きみは……ええと、何かに追われる身か何かなのか? あんまりそうは見えないが」
今度はキリがきょとんとする番だった。少しして理解に至ると、慌てて首を横に振る。
「悪いことをしてるとかじゃないんです、ただ、私のことをご存知の方も多いので……」
「……? 芸能人なのか?」
言ったあとで、一之瀬はそちらのほうが可能性が高いな、と自分に言い聞かせる。こんな綺麗な身なり、顔立ちなら追われるよりステージに立っているほうがよほど映えるに違いない。
「そんなところです」
キリはどこか困ったような笑顔を浮かべて同意した。
「なるほど。そういうのじゃあ、まあ、気苦労も多いだろう」
「え?」
「違ったか? それは失礼。何だか疲れているように見えたからてっきりな」
「そ、そんなに疲れているように見えました?」
キリはショックを受けたように己の頬に両手を当てる。慌てた様に腰につけたポーチから小さな鏡を取り出して自分の顔を見る。
外見の問題ではないような気もするが、と一之瀬は思うがこれ以上深入りはやめておこうと口を開く。
「たまには休むことだ。まあ、そういう余裕もあまりないところにいるのかもしれないが」
そういって微笑むと、キリの頭を軽く撫でて「じゃあ」と言い残しふらりと一之瀬はその場を後にした。
あとに残されたキリは、一之瀬のことを引止めこそしなかったが、一之瀬の姿が見えなくなるのを体が待っていたかのように、視界から消えると涙がこみ上げてきた。戸惑ったのは自分自身であった。一体なぜ涙がこみ上げてくるのか判らない。悲しいのか、うれしいのか、それともほかの何かなのか。ただ通りすがりの変なやつとちょっと話して別れただけじゃないか。自分の心にそう言い聞かせるも、涙は一向に止まる様子はない。
どうしよう。また会いたい。自分を、演じた自分を知らない、同年代のあの子にまた会いたい。そう思うのにさほど時間はかからなかった。
それが冴えない魔女一之瀬と、邁進中のアイドル生野キリの出会いだった。
517
ガチャ
「おい、どうしたんだ? 情けない声あげやがって」
「あ、は、博士……! これです、このロボット、なんかおかしくて……」
「おかしい? 何言ってやがンだ……どれどれ」
「……おい、なんだ、精神回路のバージョンが古いだけじゃないか」
「ええ、そこまでは判ってるんですよ。ただ、そこでアップデートしようとするとですよ…………ほら」
「エラー? なんだこれは?」
「まったく判らないんです。手順だって今までと変えたところなんて一つもありませんでしたし、本体側の信号にも不具合があるわけではないんです」
「ふぅん? 妙だな」
「いっそ回路ごと取り替えますか?」
「バカ言え。精神回路はそんな替えが効くもんじゃない」
「じゃあどうするんです? まさかこのまま破棄を?」
「エラー、エラー、エラーか。精神回路が不調? アップデートも不可? このバージョンの精神回路が入ってる期間に何があったんだ?」
「ええー……と、ですね。滞在先の娘さんが事故で亡くなられたくらいですか」
「ふむ。それがショックで、と……」
「ですかねえ? 特別思うところでもあったんでしょうか、精神回路……詰まるところ、「心」であるわけですし」
「思うところ。思うところか。こいつ……名前何だっけ、ああこれに書いてあるか、ええと、シャイアッド? 男か。やっぱりな」
「何か?」
「観察記録をつぶさに当たってみよう。もしかしたら……ロボットももう一段階上にきやがったのかもしれねえぞ」
「どういうことなんですか」
「わからねえか? こいつが……ロボットとはいえ心は男だ。それで死んだのは女だ。そういうことさ」
「はあ……」
「いやあこいつはとんだひと騒動になるかもしれないぞ」
「あ、待ってくださいよ、博士、博士ってば」
516
すき、きらい、すき、きらい……。
確か、そんなシンプル花占いがあったように思う。
後ろに立ったぼくに気づかず、花壇の縁に腰掛けて畑陽子は花を一枚づつむしっていた。
何かいやなことでもあったのだろうか、と思う。
失恋したばかりで、時間と共にダメージが深刻なほうに進行している今のぼくはいやではないことのほうが少なかったが、そんなぼくをして腹が立つくらいのポジティブやろう(畑は女だが)という感想を持つ畑が、珍しく暗いように見えた。
花を全てむしると、畑は指で茎を弾き飛ばす。
「満足か?」
後ろから、少し底意地の悪い言葉をかけてみる。
畑は一瞬体をびくりと震わせた後、強張った笑顔を浮かべながらぎぎぎと音がしそうなくらいゆっくり振り向いた。
「……おい、いつから」
ぼくは口だけで浅い笑顔を作って返す。
「何か意味ありげに花占いってやつをしているところから」
「そ、そんなんじゃねー!!」
畑は自分の行動をみられたことに、というよりかは、そうとられたことが恥ずかしいとばかりに言った。
「ふうん」
ぼくがそうですかとばかりに返すと、むぐ、と畑は悔しそうな唸り声をあげて黙り込んだ。その反応に、ぼくはおやと思う。正解を提示してこなかった、と言うことは、案外的を射ていたのかもしれない。
「まあ、元気出せよ」
「……お前が言うかな、お前が!」
畑は生来の性格なのか、照れ隠しなのか、自分が座っている花壇の縁を手のひらでぺしぺし叩きながら言う。
「言うさ。畑がしょげかえってたらぼくが元気にならなきゃいけないだろ」
「なんでさ」
「引き上げるやつがいないとどうしようもないじゃないか」
「ちぇ、空元気のお前に励まされなくたって十分元気だあ」
畑はそういって少し拗ねたようにそっぽをむくと、立ち上がる。
「空元気って言うな空元気って。元気なフリするのがむなしくなるだろ」
「そういうのを空元気って言うんだよ、元気なフリしてるつもりならもっといい笑顔浮かべて見せろっての」
むう。今度はぼくが唸る番だった。元々そんなに笑うほうではなかったと自分では思っているが、失恋して以来輪をかけて笑わなくなった。つまり、まったく笑うようなことがなくなった気がする。もちろん必要な場面では笑顔を作っているのだが、それを自覚せざるをえない程度には笑わなくなった。
ぼくにとって見れば、世界観が一変した後でそれを否定されたような気分だったのだ。厭世的になりこそすれ、笑顔で居られるほど世界がぽわぽわして見えるようなことなど決してなかった。
玉川友香、つまりぼくが失恋した相手は、考え方も物の受けとらえかたも全く違っていた。ただ、たまたま同じ本の話をした際に、解釈が新鮮だったというそれだけで意気投合し、一気によく話すようになった。考え方も物の受けとらえかたも、あまりにも違いすぎて逆に物凄い勢いで惹かれていったのだ。そして気づいたらどうしようもないくらいに好きになっていたのである。
その好きという感情は、本で物語られるよりずっと心地よかった。うなされるほどひどい熱病だったが、いつまでもうなされ続けていたいと思える程度には。体の内側で燃え盛る火があまりにも心地よかったから、幸せだったから、いつまでもその火を灯し続けていたかった。
「おいほら」
という声と共に、ぼくの頭が鷲掴みにされる。
「なん……」
「まぁた暗い顔してるぞ。そんな辛いなら考えなきゃいいだろ」
ぼくは苦い顔で首を振った。じゃあやめておく、で済むほどぼくの心は切り分けがうまくない。
「困ったやつだなあ」
畑は口調とは裏腹に、妙に優しい笑顔を浮かべていて、何だかぼくのほうが照れてしまう。口に出す気はないけれど、ぼくの分まで笑ってもらってるような気がしてくる。
「……お前は」
「うん?」
ぼくは言うかどうか迷ったが、結局口を開く。
「その、誰か好きになったこととか、あるか?」
さすがに答えづらい質問だったのか、沈黙に包まれる。
嫌なら言わなくていいよ。そう言おうとしたタイミングで、畑は口を開いた。
「あるよ」
「……そうか。どうだった?」
「どう? ……そうだなあ。悪くはないよ。お前ほど辛い思いだって、しちゃいない。失恋したわけでもないしね」
「ほお」その飄々とした物言いに、ぼくはもしかして、と思って口を開く。
「今つきあっているのか?」
「いいやまさか」
だが畑は即答で返して、肩をすくめた。
「そっか。告白とかしなかったのか?」
「うん。まあ、片思いってやつさー」
「そうかあ」
なんだか非常に単純ながら、畑が急に身近になったような気がして大きくため息をつく。だがそれが畑にはまたも落ち込んでいるように見えたらしい。
畑はぼくを真似るかのようにわざとらしくおおきなため息を一つつく。それからぼくの頭をわしゃわしゃとめちゃくちゃにした。
「うじうじしてるなー! お前は! わけが判らん!」
「いきなりなんだ、やめろ」
「そんなに辛いのか?」
「何が」
「……しつれん」
「お前もやってみろ、最高にハイになれるぞ」
「遠慮しとく。それに考えても見ろ、私まで失恋したら、二人して通夜みたいになるよ?」
「それはいやだ……」
「だろ? だからまずお前が元気になってくんないと、私が落ち込めないだろ」
「……なんで振られる前提なんだ」
「そんなもんだよ」
ずっしりと、質量さえ感じられるような心の重みを抱えたまま、ぼくは考える。何故こんなに終わったことに対して悩むのだろう、何故こんなに自分で自分を苦しめているのだろう。だが答えは最初から目の前に堂々とあった。好きだった。大好きだった。些細な会話の積み重ねが、そのまま心の支えになるほど、好きだった。
だからこそ。
この感情の置き場所をまだぼくは見つけていなかったし、過去にしてしまうのも寂しいような気がしていた。つまり、熱病の残り火はもうぼくを苦しめるものでしかなくなっていたのに、ぼく自身、それをどうすればいいか判っていないのだ。
「まあまあ、元気になるまでつきあってやるからさ」
畑は何がそんなに楽しいのか、やたらとにこにこしながら言う。人の失恋沙汰はそんなに見ていて楽しいのだろうか、と嫌味でもなく素で疑問に思うが、こいつがにこにこしているのは今に限ったことではないし、別段腹も立たない。
「……元気になるまでか?」
ぼくは思わず考えたことをそのまま呟いてしまって、直後我に返って恥じ入る。一度弱くなると、どんどん弱くなってしまう。こんなみみっちい発言などまた笑い飛ばされる。
……と、思って覚悟をしていたのだが、不思議と畑は何も言わなかった。
恐る恐るぼくが横目で畑を盗み見ると、呆れたような顔で口を半開きにしていた畑とばっちり目が合い、畑が慌てて目をそらす。
(……?)
珍しい反応だ。畑が何も言わないので、ぼくは再び思考の海に没頭する。
この膨大な寂しさを内包する感情は、正直つらい。だけど、きっと、この感情もとても大切なものだと思うから、ぼくはうまく飲み込めるまで不器用ながらも抱えていようと決めていた。
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まったく、仕方のないやつだと畑は思う。この伊藤高政という男は、内にこもる、自分の世界を持っているような男であるから、よく言えば思慮深く、悪く言えば考えすぎる。
まったくもって、面倒くさい。だが放っておく気もまったくなかった。面倒くさくても、話したくてたまらないのは畑のほうなのだから。
こういう駆け引きは、惚れたほうが負けなのだ。
惚れたほうが負け。畑は自分が浮かべた言葉を反芻する。まさにそうだ。考え方も物の受けとらえかたも、あまりに違いすぎて物凄い勢いで惹かれてゆく。惚れたほうが相手の何気ない言葉で舞い上がるほど喜んだり、足取りが重くなるくらい落ち込んだりするくらい振り回されるのだ。
色んな好きのなりかたがある。
畑は好きになった人が、元気に笑っていてくれればそれでいいと思う。我ながら不器用な惚れ方だと畑は自分で思っていたが、そんな自分の惚れ方がきらいではないし、間違っているとも思っていない。伊藤のそれも、自分のそれも、好きの形のひとつなのだ。
共通するのは、惚れたほうが負けというだけだ。だが、たぶん、振り回されて負けっぱなしでも、まったく不快に感じない感情が、これなのだろう。
畑は高政の一体どこが好きであるのか、とか、そういったことはもう既に些細なことに成り果ててしまっている。ただ自分でもわからないほど、とんでもなく好きなのだ。好きだから、どうか幸せになって欲しい。好きな人がいるならば、その人と幸せになればいい。
今後のことは判らないが、少なくとも今は、元気そうな笑顔で話が出来るのが一番の幸せに思えた。
515
ぱちん、ぱちんとスイッチを押す。
こっちはいいほう、こっちは悪いほう。
聞くところによると、これは人の運命のバランスを司っているスイッチで、とても重大な仕事なのだという。
だが実際にやっていることといえばどうだ。朝起きてスイッチを押し、朝飯を食べて二度寝をして、それから少し下界から持ってきた本を読み、昼食を食べ、下界のゲームをやって夕寝して、起きて晩飯を食べてスイッチを切り替える。それからまた寝るまでだらだらごろごろして、次の日を迎える。
重大さの欠片も感じられなかった。
それでも彼は律儀に従っていたが、やがてこれを押し忘れたらどうなるのだろうかと言う興味が膨れ上がってきた。
だが我慢するとはいえ、同じことの繰り返しから逸れることはない。
ある日、彼はあえてスイッチを押すことを意図的に忘れた。
何も変わっていない。ような、気がした。
少なくとも彼は何も感じなかった。なあんだ。彼の胸中に浮かんだのはその程度の感慨だった。彼はまた律儀にスイッチを押し始めたが、もはや自分が何のためにやっているのかなど知る由もなかった。
ただ、彼が自分の仕事の重要性の確認を行ったちょうどその日、たまたま一人の人間のムシの居所が非常に悪く、間違ってはいけない場面で、完全に間違った選択をした。その一人は奇遇にも世界の頂点に立つ世界連邦の大統領で、連邦下の集まりはその間違った選択を受けて、表面上は普段どおりニコニコと笑顔を浮かべながら、後ろ手に隠し持つための武器を量産し始めた。
何も変わっていない。ように、見えた。
だがその世界に生きる人間たちは何もかも判っていた。あとは普段どおりの笑みを浮かべながら手を差し出し、誰が敵で、誰が味方か、いつ後ろ手にもった武器を使うかを考えるばかりだった。
514
「走馬灯現象を見ることができる機械がついにできたぞ!」
「おお」
「これできっと思い出を自由に振り返ることが出来るに違いない」
「走馬灯のようにですか?」
「走馬灯のようにだ。使ってみるか?」
「あ、はい、せっかくなんでじゃあ」
カチカチ
「ようし、やるぞ。それ」
「おお、……。…………」
「ん? おい、どうした」
「……あの」
「あれ、大丈夫か?」
「走馬灯現象って確か死ぬ間際に見る光景ですよね」
「うむ」
「いったことのない花畑が見えたんですが」
「まじで?」
「ええ、そこに居た三年前に死んだウチのじいさんが私にびっくりして死に掛けてましたよ」
「もう死んでるんなら死なないだろ」
「ははは、それもそうですね」
「はははは。……これはボツだ」
「そうですね」
513
失恋をした。
何が悪いかと言われれば、自分の弱さだ。何が憎いかと言われれば、自分の心だ。頭では判っていることさえ、心では満足に理解も出来ない、自分自身だ。
多分、人との距離の取り方が致命的に下手だったのだろう。何も持っていないのに、何も人を惹きつけるようなものもないのに、踏み込みすぎたのだ。
求めても満たされず、求めれば求めるだけ空虚になる。その結果、心が弱りすぎて、人を信じるという単純なことさえ出来なくなってしまっていた。
今の俺には何もなかった。面白いも楽しいも辛いも悲しいも。むなしさだけがあった。
もう俺の人生は燃え尽きていて、残り火が惰性で灯っているような、そんな思いだった。もはや何に対してもさほどの興味もわかず、全てがおおよそどうでもよかった。
だが人間、生きていれば腹は減る――と思っていたが、丸三日ほど冷蔵庫にあったウーロン茶をちびちび飲んでいただけで空腹感もくそもなかった。四日目に突入してなお胃は飢餓を訴えてはこなかったが、さすがに何か腹に入れておかねばまずいと頭で考えた。明らかに体の信号はその機能を果たしていなかった。
とはいえ冷蔵庫に食べられるものなどなく、俺は近くのマクドにでも行くことにした。
立ち上がって、足を出す。そんな動作にも異常な生活リズムからくる影響はなく、丸三日の空白が実は正常であったかのような錯覚すら起こす。
自分でも不思議なくらいだった。心はとても辛いのに、頭のほうではそれを理解しようとすらしない。頭と心が冷戦状態にあるようだった。
ちょうどメシ時を外れた時間帯ということもあってか、レジ周りには客も居らず、少しほっとしてうつむきがちのまま入る。今の俺は他人がすぐ傍にいるというだけでも、僅かに息苦しさを覚える程度には精神的にへたっていた。
だが。
「いらっしゃいま……あ! 先輩じゃないですか!」
店員は元気よく張り上げかけた声を止め、若干トーンを落として身内向けの声になる。俺はそこで初めて顔をあげた。その瞬間、げ、と回れ右をしたくなった足をなんとか留める。
そいつの名前は桜井いちか。サークルの後輩だった。
そもそも、俺がこんなになった原因もサークルに、サークル内の一人物にあった。自分で勝手に撃沈しただけとはいえ、サークルはもはや俺にとってとても顔を出せる場所ではなかったため、もう結構な間顔を出していなかった。
ただこの後輩には妙に懐かれていて、安否確認のメールも何回か貰っていたのだが、あまりにも沈みすぎていてろくすっぽ返事もしていなかった。完全に自業自得とはいえ、これはこれでまた気まずいことこの上ない。
そして案の定、「どうしたんですか、何回もメール送ったんですよ?」と不満げに言われる。だが俺が何と言い訳しようかと最悪な前提で返答に悩んでいると、いちかはさっさと次の話題に移っていった。
「それはともかくお久しぶりです! 最近お忙しいんですか?」
厨房側にも人の姿はぱっと見で見当たらなかったためか、若干声を潜めがちにいちかは声を掛けてくる。忙しい! 冗談でもそんな言葉は吐けなかった。沈みきった心をあやすので手一杯なだけだ、と心の中で返す。
「うん、まあ」
何とも曖昧な返事を何とかひねり出す。何ともいえぬ居心地の悪さに、誰か厨房でも客でもいい、人が来ないかと期待している自分が居た。自分は後輩の心配も受け取れない、なんと腐った人間になったのだろうという自己嫌悪を苦々しく噛み締める。
「ところでご注文は何になさいますか?」
「あー……じゃあ、これで。飲み物はジンジャエールで」
俺はメニューに載っていたセットを適当に指す。
いちかは軽快な返事を返し、
「ご一緒にスマイルでも!」
そういっていちかは、頼みもしないのににこりと満面の笑みを浮かべた。
俺は何か言おうとして口を開きかけ、いちかの笑みを見て言葉を引っ込めた。多分、そこに感情の源泉を見てしまったからだ。
辛いこと、悲しいこと、そう言った全てを吹っ飛ばす強烈な感情。満面の笑顔。単なる営業スマイルと言うやつだろうに、くそ、なんていい顔をしやがる。
「……先輩?」
俺が馬鹿みたいに呆けていたからか、いちかは不思議そうに声を掛けてくる。
「ん、ああ」
「このあと用事あります?」
「いや」
「なら! 私もう少しで終わるんで、ちょっと待ってて下さいよ!」
何と答えたものか、と迷うより先に唸り声みたいな声が先に出る。
「……待ってて下さいよ?」
「うん」
いちかの僅かに拗ねたような物言いに、思わず気まずさも手伝って素直に頷いてしまう。
それからいちかは俺の顔を見て、視線を落として、そしてまた俺の顔を見る。
「なんだよ」
「何かあったなら聞きますよ?」
その言葉に俺は一瞬絶句するが、すぐにそれもそうかと思いなおす。同じサークルで起こったことだ、何か察するものがあったのだろう。……むしろ、当然の域かもしれない。
別に心が軽くなるわけではなかったが、少しだけ、それもいいかと考えた。
いっそのこと、何もかも笑い飛ばされたほうが心も軽くなるかもしれない。俺は 情けない自分を叩き伏せるために、一歩踏み出そうとしていた。
512
「貴方は恋をしないといけないの」
ちびっこい魔女はそう言った。
「恋?」
俺が聞き間違いかと思ったのも無理はない。交通事故に巻き込まれて死んだはずの俺を蘇らせてくれたらしいが、明らかにその面影はなく、自分で水溜りごしに姿を確認してもビビるくらい怖い狼人間の背格好だったし、何よりも俺には死ぬ以前の記憶がほとんどなかった。
「そー。恋をすれば、魔法が解ける。なぁーんてね。どう? 素敵じゃなーい?」
「魔法が解けたら死ぬんじゃないのか?」
「あれ? うーん、どうだろ……。それじゃあ生き飽きたら恋をしに生きるってのでもいんじゃない?」
「そういう問題ではないと思うのだが」
「気にしない! その姿で生きるのもクールよ?」
「いや、そういう話じゃなくて」
「とーにーかーく! 恋! 恋をするの!」
ちびっこい魔女は、都合悪いことをごまかすかのようにそれを言うと、フリルでデコレーションされた、使い勝手の悪そうなピンクのボードに乗るとそのまま滑空して逃げていった。
「恋、ねえ」
さっきも鏡代わりに使った水たまりを覗き込む。
恋とは最も遠い獣の姿がそこにあった。
一年経った。
状況は俺が漠然と思っていたよりはるかに悪く、姿を見られただけで山狩りのような大騒動が起こるほどだった。ありとあらゆる機関が、報道のため、解剖のため、狩りのため、実験のため、そう言った理由から俺を探していた。
人目を忍んで忍んで、野から山へと、山から海へと、海から陸へと、とにかく己の命を守るために必死だった。
だが、ある日ふと我に返った。一度死んだと言うのに、何でこんなに生き難い体を守ろうと必死なのだろうか。確かに、サバイバルには適していた。力は強く、人より速く、持久力もあった。だが、こんなことをするために生かされたのだろうか。
恋。その言葉が非常に空々しく聞こえた。
一年経った。
人目を忍んで適当なところで生き延びながら、ある程度の期間を過ぎたら移動する、そんな生活をしていた。ある意味、安定した生活だった。その間人に見つかることもなかったし、心も非常に穏やかだった。
だが人も到底踏み入りそうになく、たとえ誰かしらが来てもすぐに判りそうな渓谷で生活していた日のことだった。
岩が不自然に崩れる音を聞いた。
ついぞ誰か来たのか、それとも物好きな奴が自分試しにきたのか。
しばらくたっても続く音はなく、ふと好奇心に負けて覗いた。
ひ弱そうな女が一人、倒れていた。見た感じは若かったが、杖を手にしている。
俺は改めて渓谷を見回した。こんな女が一人でくるようなところではない。
罠か。そう思って警戒心を強め、耳を澄ます。木々の音、川の音、鳥の声、虫の声。人のガサツな動きは聴こえない。そして死んでいてもおかしくない、ひ弱そうな女にまだ息があることに気がついた。
放っておいてもいずれ死ぬだろう、と判断して、どうせならここへ来た理由でも聞いてみようと思って近寄った。……多分、久しぶりに見た人に、懐かしさを覚えたのかもしれない。
「おい」
まともに喋れるか不安な部分はあったが、意外と声は出そうだった。
半年経った。
女は生きる気力だけは持っていたが、目は見えていないし、杖は折れているし、ついでに骨も何本か折れていた。
非常に華奢な体つきで、生きていたのが不思議なくらいだった。
何故こんなところへ、目も見えないくせに一人で来ていたのか。女は頑なにそれだけは言おうとはしなかった。
だが目が見えていないのだけは俺に幸いして、今までのように過剰な反応をとられることはなかった。恐らく、話せるというのが一番安心感を与えたのだろうと思う。
それでも俺は気をつけていたが、一度だけ偶然触られてしまったことがある。
女は不思議そうな顔をして、
「毛深いのね」
そう言っただけだった。もしかしたら何か感づいたのかもしれなかったが、少なくとも表面上には一切それを出すことはなかった。
三ヶ月経った。
女は、ようやく一人でこんな場所へ来た理由を話した。
「目が見えるようになる?」
そういう花が、この渓谷には生えているそうだ。一体目も見えず、こんな安定しない場所でどうやってそれを見つけるのかと問いかけたが、女はそれには自信を持って答えた。
「その花は、目が見えなくても判るのよ」
馬鹿な、と言い掛けた言葉を慌てて飲み込む。たとえそれが妄言でも、彼女が信じている限り、それは真実なのだ。今俺が否定してしまっていいようなことではない。もしかしたら、その裏では話し相手が出来たという事実を惜しんでいる部分があるのかもしれなかった。
女は言った。
「たとえ目が見えなくとも、暗闇の先に一輪の花が咲いているの。その花を摘んで、……」
そこまで言ったところで、その先を忘れてしまったのか黙り込む。
それきり女は口を開こうとしなかった。女が何を考えていたのか、少し深く考えれば答えに至りそうな気はしたが、そうしようとは思わなかった。
だが少なくとも、もし本当に女が視力を取り戻すそのときがあれば、何らかの決断を下さなければならないことは間違いなさそうだった。
511
言葉には魔力があった。言葉には力があった。
嫌いと言えばより嫌いになり、好きと言えばより好きになる。
少なくとも、自分の心に志向性を持たせるだけではなく、意思的なもの以外に確かに何らかの力は存在していた。
人々はそれを知っていた。
そして求めた。想い人の心を。ささやかな豊かさを。自分の手を超える権力を。心と豊かさと力を。
言葉には魔力があった。
甘言に惑わされ、世迷い事を信じ込み、言葉は言葉に打ち滅ぼされた。
一言の前に国を統率するほどの軍が潰され、心は踏みにじられた。
権力が一手に集まり、富の象徴となり、心にも容易く介入されるようになった時、世界はかつてないほどに脆くなっていた。
ただ幸いだったことに、それを知っていた者はいなかった。
全ての人の心に、たった一つの、ささやかな病魔が蔓延っていたという、ただそれだけが理由だった。
その病気は「さみしさ」と呼ばれた。
それは心の根底に潜んでいて、誰も気がつかなかった。
魔力を持った言葉が、人々の言葉の節々に滲むその病魔を増幅させ、緩やかに世界を殺していった。
心が富を無益なものにさせ、権力を興味の対象外とさせていった。最後に残ったものは何もなかった。その世界における最後の一人が死んだ際すらも、何も残さなかった。
死んだ世界に残されたものはたった一つ、その世界を訪れる者の心に侵食する病魔のみ。