思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳540-531

540


 最初にそれを拾ったのはいつだったか、もう数カ月前になるだろう。学校で、掃除の時間に右下に可愛らしいマスコットが描かれているメモ用紙を拾ったのだ。男の子の字で買い物メモか何かの走り書きがしてあり、ずいぶん可愛らしいメモ帳を使っているのだな、クラスの女の子にもらったのかななどと呑気に考えていた。
 マスコットが気に入ったので、今度雑貨屋などで探してみようと思いなんとなく保管していた。
 そしてそのまま机の引き出しに保管して一週間。
 文房具を探すために引き出しを開けて、マスコットの絵を見つけてメモを取り出すと、そのメモに書かれていた内容が明らかに違っていた。女の子らしい丸っこい字で、数行に渡ってテストと部活の折り合いをどうつけようかといった心情が記されていた。  ……私はこのマスコットが描かれたメモを他にも拾っただろうか。いや、そんなことはない。だが確かに拾ったときはこの内容のメモではなかった。では元々のメモはどこへいった?
 机を漁ってみても、マスコットが描かれたメモはやはりその一枚しか見つからなかった。
 内容が変わった? いやそんなバカな。私の記憶違いかもしれない。
 私は首を傾げながらメモを再びしまい直す。
 そして記憶違いではないことを確信したのは翌朝のことであった。さすがに昨日の今日で、少し不思議な経験を忘れはしない。学校に行く前に机の引き出しを開けてメモを確認してみた。
 凄く綺麗な字で数学の公式が書き連ねてあった。
 これは、もう、間違えようがない。
 メモの内容が変わっているのだ。
 それを確信したところで、新たな疑問がせきを切ったように湧き出てくる。
 このメモは何なのか。内容に意味はあるのか。どうして次々と内容が変化するのか。
 内容から察するに、少なくとも私にとって危険なものではなさそうだと判断して、少し様子をみることに決める。
 翌日は、コロッケのレシピが飛び飛びの手順で書いてあった。多分、このメモの通りにやってもできないと思う。
 その翌日は、左手の違和感について書いてあった。何でも、左手には異世界の魔獣の力が宿っていて、それがそろそろ目覚めそうらしい。
 さらにその翌日は、男の子の字でクラスの女の子の体つきに冠するメモが淡々と書いてあった。……少なくともうちのクラスのことではなさそうでほっとする。
 変わるメモの内容に統一性はない。
 誰かが書いたメモをコピー? しているのだろうか。何がどうなってこの状況になっているのだろう。仕組みに関しても、私にはとんと検討がつかなかったのだが、それに関しては不思議とそこまで気にならなかった。起きてる不思議な現象と、それが私のもとにあるということに気を取られすぎていて、そんな地に足がついたような現実的な考察をする気にはならなかった。
 だが気を取られたとはいえ、何か刺激的な展開に発展するわけでもなく、日々淡々と誰かのメモを切り取っているだけだった。  半月後には既に興味をほとんど失い、机の引き出しに入れっぱなしの日々が増えた。
 ひと月ほど経ち、ふと見てみると、真ん中に一行だけ
『見ている人、居ますか?』
 そう書いてあった。
 それを見た瞬間、私の胸にギクリという感情と、ドキリという感情が同時に到来した。
 見られている? いや、違う。これは誰か私と同じように日々内容が変わるメモを持った人が、同じような人が居るかと思って書き残したメモだ。同じような状況の人を探す。考えもしなかった。私だけ特別なのだと思っていた。だが、確かに拾ったメモの一枚がたまたま変化するのだとは考えにくい。これと同じメモを持っている人が変わらない理由なんてどこにもない。
 私は少し迷い、見てます、とちょっと自信なさげな小さな字で書き残す。
 翌日にはその私の書き込みごと消えて、またも全然関係ない書き込みを写していた。
 その日からまた私は毎日メモを確認するようになった。
 意味のある言葉、意味のない言葉、ちょっとした落書き、やけに気合の入った絵。
 全てが日替わりで浮かんでは消えていった。
 二週間ほど経ったある日、どういうめぐり合わせなのか、一度も同じものが出たことがなかったこのメモに、私が追筆をしたためたものが出てきた。そして、それには追記があった。
 小さな、見慣れた字の見てますという文字の下に、連絡をくださいという文言と、フリーメールのアドレスが記されてあった。  私は何かを思うより前に、追われるように記されていたアドレスを書き写していた。
 それからすぐ、私もパソコンを立ち上げて自分のフリーメールのメール作成画面を開いた。
 なんと記したものか。
 時候の挨拶や普通の挨拶など、数文字書いては消してを繰り返した。
 気持ちだけは秘密の共有者として謎の親しみを覚えてはいたが、それ以外のことは全くわからない。
 なぞめいたメモに冠するメールだし、私も無意味に謎めいた調子で書いたほうがいいのかなんて考えたりもした。だがよくよく思えば、相手も全くわからないという保証はない。少なくとも、毎日変わるメモに、誰かが見ることを前提としたメッセージを残そうと思った辺り、私よりは頭が回ることは確実だろう。
 多分二日半くらい悩んだ。それだけ悩んで書いた内容は、「こんにちは、」それだけだった。なぜ句点ではなく読点で終えているのだろう。多分これは間違えただけだ。
 あまりにも決まらないことにイライラして、だだだっと書いてそのまま送信ボタンを押したせいだ。
 書いて送信して不貞寝するという、典型的な自暴自棄行為を行ったが、相手は私よりよほど人間ができているらしい。私のメールをスパムとして処理せずに、きちんとした文面でレスポンスを返してきた。

 初めましてこんにちは。メモを見てくださった方でしょうか。だとしたらとても嬉しいです。
 私の名前は×××と言います。
 長い通院生活を続けておりあまり親しい人もいないので、もしよろしければ時々でいいのでメールのやり取りをしてもらえると嬉しいです。

 私はメールを開封して読んだあと、感動と後悔に包まれていた。ちゃんと返ってきた感動、自分が送った適当な内容にたいする後悔。
 私は今度こそは、と内容を吟味してきちんと返した。慌てたせいで前回はあんな内容のメールになったこと、返答に対してのお礼、自分のこと。
 相手は必ず二日以内にはメールを返してきた。凄く落ち着いていて、丁寧な文面だった。だがそれでいて私というメモを介したメール相手ができたことに対する喜びが節々ににじみ出ていて、何となく澄ました顔でいながら尻尾をぶんぶん振っている犬を彷彿とさせた。
 しかし期待に反して、相手もメモについてはさほど知識を持っていなかった。通院している病院でたまたま拾い、翌日に捨てようとしたところ内容が変わっていることに気がついたらしい。
 じんわりと私の中には薄気味悪さが滲むように広がったが、相手は少なくともそれを「使う」ということを考えたくらいで、その背景までは特に考えなかったようだ。
 相手にそのメモをどうしたのか尋ねてみると、まだとってはいるが最近は時々見るくらいだと言っていた。基本的に無害なメモ書きが流れてくるのみで、それ以上の何かにはこちらから能動的に動かないかぎり起こりそうもない。
 何となく、用済みになったものを処分するようで気が引けたが、私はそのメモを透過性のない瓶に詰め、蓋をした。そしてそのまま引き出しにそっとしまう。
 もしかしたら今後も同じような人と引き合うことができるのかもしれない。その正体にたどり着くことができるのかもしれない。
 ……だが。
 私はこれ以上踏み込もうとは思わなかった。ちょっと不思議なものをひろって、それが出会いをひとつ生んだ。それくらいで丁度よいのだ。
 私は自分に言い聞かせる。
 私は怖くなってしまったのだ。理解できないものに対して恐怖を抱くという全うな心の仕組みに従い、私はそのメモ帳に対してネガティブなイメージをいだいてしまった。
 私の中でメモを巡る物語は、出会いをひとつ落としてその役目を終えたのだった。


539

 帰り道に雑貨屋の看板を掲げた店がある。
 生まれて以来十何年も見ているが、一度も開店しているところをみたことがない。どの時間帯に通りかかっても営業していない。かといって店が潰れるわけでもなく、延々と本日休業の札がかかっているだけだった。
 だが今日、ふとみるとその休業中の札がなく、店に明かりが灯っていた。
 珍しい。明日はまた沈黙しているかもしれない。そう思うと自然と足が向いていた。
 扉を開くと軋んだような音が響き、中の埃っぽい匂いが鼻を突く。
 店にある商品は全体的に埃を被っていて、やはり何年も手も触れられず捨て置かれたことを示している。
 一体、なんで今日に限って営業しているのだろう。
 ガタンと店の奥から物音がして、思わず覗き込んだら
「よぉ、待ってたぜ」
 そう言いながら奥から男が一人出てきた。若い。……と言っても、十何年も閉めてる店だから店主はおじいちゃんだろうと思っていたからなのだが、実際は二十代後半くらいの男だった。ラフな格好で、顔には無精ひげが生え、人懐っこい笑みを浮かべている。
「待ってた?」
 僕が聞き返すと、
「いや、誰か来ねえもんかと暇してたんでな」
 男はそういうが、なんとなく待ってたのニュアンスからは誰か、ではなく僕を、のようなものを感じた。もっとも、改めて確認する気にはなれないが。
「で、せっかく来たんだ。なんか見てくか? 見てくだろ? っていっても今は曲しか売ってねえが」
「曲? 音楽ですか? ……どんな?」
「結構あるぞ……例えば、そうだな、空腹感を満たす曲、失恋する曲、目的地を指定する曲だ」
 男は目録らしきものをぱらぱらとめくってそのなかのいくつかをあげた。……って、ちょっと待て。
「今言ったものがひとつも理解できなかったんですけど」
「普通の日本語だぞ? ほかには……火が出る曲、乾燥する曲とかだな」
「明らかに、さっき言ったのも含めて曲につける形容詞ではないような気がするんですが」
「どれか買ってみるか? 一曲七百円だ。全部生きた言葉を使っているから効果はお墨付きだ」
 さっきから言っていることがわからないことだらけだ。だが、確かに極端に高いわけでもないし、ひとつくらいなら試しに買ってみてもいいような気がする。
「ああ、これも珍しいな、十年かかる曲だ」
「十年かかる曲?」
「そう、八万と七千六百数時間ほどある曲だ」
「……誰が作ったんです、そんな曲。既存曲を適当にいくつか繋いだだけとかじゃないんですか?」
「ずっと未来で作るバカがいるんだよ」
 未来、という言葉が引っかかるが、とりあえず頭に浮かぶ疑問からひとつを取り上げる。
「何のために?」
「その曲にはプログラムが仕込まれてる。生きた言葉で刻まれたパターンだが」
「プログラム? 曲に?」
「そうだ。この曲を聴き終わると次元や軸を行き来できるようになる」
「はあ」
 何だか急に胡散臭くなった。
「本当にできるのだとしても、十年の投資はなかなか勇気が入りますね」
「おっと、信じてない顔だな」
「そりゃあ、まあ……」
「俺は聴いたって言ったら信じるか?」
「えー……」
「ちょっと入り口開けてみな」
 そう言って男は入り口を顎でしゃくった。僕は何か裏があると判っていながらも恐る恐る入り口に向かって扉をそっと開ける。そして愕然とした。
「は……?」
 ちょうど店から顔を出したところでは、両脇にビルを抱え、少し先に車の通り交う道路が横にのびている筈だった。まだ夕方とはいえ車の通りは多く、生き生きとした雰囲気は依然としてそこにあった。少なくとも、この店に入るまでは。
 僕の目の前に実際広がっていたのは、死に絶えたような静寂だった。広がる光景に面影はある。壁面に蔦が伸び放題になって半壊したビルを両脇に抱え、正面に見える道路は舗装が剥がれ、割れた隙間から植物が這い出してきている。打ち捨てられて何十年、何百年も経った未来に来てしまったようだった。
 そしてそんなに寒さは感じ無かったが雪が降っている。見える範囲の地面にうっすらと積もってはあっさりと風に攫われていく。
「雪……?」
 まるで砂のようにあっさりと風に乗って飛んでゆくので、疑問に思って手を伸ばそうとした。
「よせよせ、その灰には触れるなよ」
「灰?」
 聞こえた声に振り返り、扉を閉める。
「ここしばらく、時間によっては灰が降るんだ。……この時代は。有毒だから触れないほうがいい」
「灰……」
「まあそれはそれとしてだ。信じたか?」
 唖然とする。あれはすぐできるような仕掛けではないはずだ。そう思ってもう一度少しだけ扉を開ける。
 戻っていた。見慣れた風景だ。車の排気音に世界が息吹を取り戻したような感覚さえ覚える。恐る恐る扉を閉めて耳を澄ませても、往来の音は途絶えない。そのことにほっとして再び振り返る。
「さっきのは……」
「未来のどこかだよ。まあ、こう言うこともできるってわけだ」
「…………」
 衝撃からなかなか戻ってこれない。自分の感覚を信じるのであれば、あれは嘘ではなくなってしまう。
 嘘かどうかを見極めるためには……多分、実際に聴いてみるしかない。
「どうする」
 男は言った。
「今から聴けば、まだ間に合うぞ」
「間に合う?」
 僕が引っかかった言葉を聞き返すと、男は慌てたように手を振り、
「いや、なんでもない。すまん、今のは忘れてくれ」
 それから真剣な目になって僕を見る。
「色々面白いことができるようになる。未来へ飛んだり過去へ飛んだりもそうだ。別の平行世界へも行ける。ただ次元を移動できるとは言ったが、二次元や四次元にいくのはおすすめしない」
「なんでですか?」
「人体がそもそも三次元用だからだ。本当に行きたいなら事前にちょっとした最適化をしなきゃならないからな。ずっと後で別の次元用の身体フォーマットを制作できるようになる」
「ふーむ……」
 未来は未来で色々面倒らしいな、といつの間にか完全に信じて思考している自分がいた。
「あと本当はルール違反だが、過去や未来の自分に会うこともできる。もっとも未来へ会いに行くのは状況もわからないからおすすめしない」
タイムパラドックス……でしたっけ、起きるんじゃないですかそう言うの」
「そうだよ。だからルール違反だ」
 まさか、と思って僕は目の前の男を見る。……とても自分の面影を見出すことはできない。
「安心しろ、俺は未来のアンタじゃねえ」
 男は僕の視線に気づいて言った。安心したところに男が一言付け加える。
「だが、現代のアンタも知ってる奴ではあるぜ」
 そう言って男は意味ありげに笑った。それは一体どういうことだ、と聞こうとすると、男はふと顔をあげて少し焦った顔をすると言葉を続ける。
「もうあんまり時間がない。どうする?」
「ください」
 つい言葉を発していた。このまま何も無いまま帰って一夜の夢にするには惜しすぎた。財布を取り出して中身を確認する。小銭は四十二円。お札は千円札がニ枚。とりあえず二千円を出す。
「じゃあその十年掛かるっていうのと、あと適当に一曲」
「……ようし、じゃあ百円はおまけしてやる。合計三曲。ニ曲はランダムにいれてやるよ」
「あ、でも僕プレーヤーとか持ってない……」
 ふと今さらながらに思い出す。携帯でも聴けないことはないだろうが……と考えていると、男がポケットからひとつの銀の円筒系の何かを取り出した。
「だよな。エーテル充電式のプレイヤーだ、これを貸してやるよ。いずれ返してもらうからなくすなよ」
 そう言って男は僕に投げてよこした。慌ててキャッチして男を見る。
「え、曲は」
「心配すんな、もう三曲入ってる」
 男は予め予想してたかのように言った。
「まいどあり」
 男は笑顔を浮かべてそう言うと腕時計を確認し、
「さ、もう店じまいだ。また機会があれば話をしよう」
 そう言って出ていくように手でジェスチャーをした。
「あ、ありがとう」
 見えない力に押されるように、僕は扉を開け、なんとかその言葉だけ言って店をでる。扉を閉める直前に見た男は、僕に手をふっている姿だった。
 外に出て大きく深呼吸すると、振り返る。あまり時間もたっておらず、まるで夢を見ていたような感覚に陥る。
 ふと扉を見ると、見慣れた本日休業の札が掛かっていた。
「え……」
 入るときには掛かっていなかった。
 僕は失礼だとは思いつつも扉まで戻り中を覗き込む。明かりも灯っていないし、人の気配もない。真っ暗で中の様子は分からないが、人が居た気配など微塵も感じなかった。扉のドアノブには長いこと人が触れてもいないかのように砂が積もっている。
 不思議というより恐怖感のほうが強くあった。だが、左手には銀の円筒形のプレイヤーが存在している。僕はしばらくそれを見つめると、ここに立っている現実を噛み締めるかのようにぎゅうと握りしめた。


538

 担任がHRを必要最低限で終わらせたがる人で、いつも僕が一番早く部室に来るのだが、今日は先客がいたようで部室のドアが少し空いていた。
 まだ部としての形はとれてこそいたものの、部員は現在四人になってしまっているため、一年以内に一人増えなければ部から同好会になってしまう。つまり今四人いる部員のうち一人は僕である以上、部室にいるのは残り三人の誰かということになる。
 阿須村先輩か、三島か、後輩の高村の誰か。三島は俺が教室を出るときもまだだらだらしていたはずだから、奴ではありえない。高村はクラス委員に選出されたとかで、大体来るのは最後だ。となると……先輩だろうか。顧問は最初の頃に二度ほど顔を出しただけで以来全く来ないから多分違うだろう。
 先輩も先輩でそんなに早く来たこともなかった気がするので、珍しいなとそっとドアから覗き込む。
 案の定中に居たのは阿須村先輩で、先輩はプリンを片手に乗せて部室内をぐるぐる歩きまわっていた。市販品じゃないのか、プリンの容器表面に文字はなく、蓋の上にカラメルらしき小さい小袋とプラスチックのスプーンが乗っている。
 そのプリンを眺める先輩の横顔は見えない。綺麗な直線の鼻筋に、白い肌と艶やかな目を持つ横顔を、流れ落ちるような黒髪が隠している。
 しばらくプリンを手に持ったまま、俯きがちに部室内を歩きまわると、やがて部室中央にあるテーブルの上にプリンを置き、テーブルに両手をついて言った。
「クソっ……好きだ……」
 プリンはとにかくとして、僕は先輩の口からこぼれた言葉に衝撃を受けていた。好き? 何が? プリン? ……まあプリンだろうけど、なんで悔しがっているのだろう。
 先輩はしばらくテーブルに両手をついてじっとプリンに視線を注いだまま、身動きひとつしなかった。
 だが不意に顔をあげて扉のほうを……つまり僕の方を見た。
 目が合う。
 先輩は動揺した素振りもみせず、僕を手招きする。僕も黙ってしたがって部室内に入った。そしてそのまま先輩の手振りに従って椅子に座る。
「食べるか」
「え」
 本当にいいんですか、という目で先輩を見る。目が合うと先輩は若干目を逸らして、
「……ダイエット中だ」
 そう言うとつつっと僕の方へプリンを寄せた。
「いやでも」
「食え。食うんだ」
 むう、と唸りをあげてとりあえず蓋を明ける。そしてそのままちらりと先輩の顔を伺って、小袋の封を切りカラメルソースをかける。プリンなので別段匂いたつものがあるわけではないのだが、一目見ただけで美味しそう、と思えるようなプリンではあった。
「あまり見たことないプリンですね」
「兄貴の土産だ」
「先輩は食べたんですか?」
「食べた。うまいぞ」
 先輩はじっと僕とプリンを見つめている。…………食べにくい。でもこのままいても先輩が動きはすまい。恐る恐るカラメルのかかった部分をプリンで掬い上げる。そしてゆっくり口に運ぶ。舌に触れた瞬間、舌先から体全体に美味さが伝わってくるようだった。うまい。口の中で味わえば味わうほど、プリンの味が体中の力を奪っていくような錯覚さえ覚えるほど、うまい。
「……美味しい。先輩、美味しいですこれ」
「だろう」
「でもなんでこれを僕に……?」
 そう問うと先輩は難しい顔で少し黙り込んだ。僕は先輩の顔を伺いながら二口目を口に運ぶ。舌が幸せで痺れて全身の力が抜けていきそうだった。自然と笑顔が浮かんでくる。
 先輩はそんな僕の顔をみてふ、と小さく笑って答えた。
「なんでだろうな」
 そう言った先輩の顔はどことなく幸せそうに見えた。


537

 神様に時間を止める方法を教えてもらった。
 一度しか使えないと聞いていたので、慎重に使おうと決めて、ここぞという時にのみ使おうとずっと考えていた。
 使い方を教わって六年経ち、時折それを思い出しては本当にとめられるのだろうかという疑念は抱きつつも、使わないままでいた。
 だがある日交通事故に合い、僕はすんでのところで時間を止めた。
 その日から僕は全ての時間が止まった世界で、一人で暮らしている。
 何も変わらない世界で、時間の動かし方を探し続けていた。ここまで何も無いと神様の時間も止めてしまっているような感覚にさえ陥ってしまう。
 過去もなく、未来もなく、現在すらない。睡眠回数換算で1280日。それが時の流れを隔絶して生きている僕の時間だ。
 僕以外が死んでいるこの現状を僕が生きていると言っていいのか判らないが、電化製品は動かないので紙にずっと覚書を付けている。が、それももうとっくに書くことがなくなって経過日数(日付はずっと同じだ)と一言添えるだけの状況がずっと続いていた。
 僕の中の時間は、やはり僕が動いている以上止まってはいない。このまま何十年も続いて、僕が親より老いてから時間が動くくらいなら、いっそ僕の死が引き金になってくれたほうがいい。まだそう考えるだけの余裕はあった。
 暑くもなければ寒くもない。清潔、不清潔もあまりない。ただ僕の新陳代謝による汚れだけはどうしようもなかったので、ここしばらくは体を洗う都合上川辺付近で暮らしている。誰も見る人がいないので気兼ねはしていないが、移動するときは服を着るようにしている。いつ時間が動き出すかが判らないから……というのは名分で、そういうものまでも捨てていってしまうと、自分から何か大切なモノが欠落してしまうような気がするからだ。
 コンクリートジャングルのド真ん中に居ながら、生活水準は何世代も逆戻りしてどん底にたたき落とされた。
 食料だけはなんとか近隣の店にあるものを貰って生きている。最初は金を払っていたが、すぐに手持ちが尽きて、以来貰っている。唯一ありがたいのは、ナマ物も痛まないことくらいだ。
 僕は静かに空を見上げて手を翳す。沈まぬ太陽が不変の高度で僕を照らし続ける。
 テレビが見たいなあ、音楽が聴きたいなあ、人と話したいなあ。手の届くところにあるのに決して手が届かなくなっているものに、僕は想いを馳せた。


537

 彼女のこころは限界が近いはずだ。
 私は教室で毅然として背を伸ばす彼女を見て思った。生真面目にすぎる彼女に誰も表立っては言わないが、クラス全体で疎ましがっている節があり、女の子しかいないこの教室で、彼女は孤立していた。
 彼女も肌でその雰囲気を感じ取っているのだろう。時折少し寂しそうに俯き、直後にそれを否定するかのように小さく首を振るのを見たことがある。
 彼女はおそらくこの状況になった原因が判っていなかった。あるいは判っていたのかもしれないが、それが譲れないものが起因であることゆえに諦めていたのかもしれない。
 彼女は彼女なりに、最善となる道を考え、それを全力で遂行しようとしただけだ。こうすればよりよくなる。ただ彼女の場合、それが規律によってなるものと考え、大半の人には窮屈としか感じられないものだっただけだ。
 露骨ないじめにまでは発展しなかったが、誰もが彼女と疎遠でありたいと考えているのは易々と判った。
 私は彼女に興味があった。……実に不純な理由から。
 彼女は所作のひとつひとつが非常に静かだった。そして彼女の陶器のような白さと、整った鼻などがさらに強く印象づけていた。頬杖ひとつつく光景も絵になっているし、授業中は背筋をしっかりと伸ばしているその姿は凛とした清廉さすら感じられた。
 その彼女の芸術品めいた部分が、神性のような隔絶感を帯びて多少は突き刺さる様な視線を緩和していたものの(時にはより一層突き刺さっていたものの)、それでもなお面倒な性格だという評価までを揺るがすには到らなかった。
 お昼になると、彼女はお弁当を持って教室からふらりと姿を消す。
 どこに行くかというのはもう既に判っている。屋上前の踊り場だ。屋上の扉は施錠がなされているが、その手前の踊り場には使われなくなった椅子と机がセットで置いてある。彼女はその忘れ去られたかのように孤立した場所で昼を過ごしながら、物思いに耽るのだ。実際、普段人のいない移動教室がある階のさらに上で、屋上も開放されてないとなれば人はまず来ない。

 彼女のこころは限界が近いはずだ。そう判断すると、私は行動を起こすことにした。
 間違っているのならばそれはそれでいい。だが、本当に限界が近いのであればそれを越えさせてはいけない。自分なりに構築した、偏ったルールで私はそれを想う。
 購買で買ったパンを手にすると、私は彼女に五分ほど遅れて教室を出る。そのままいかにも何も知らずに屋上へ出ようとしたような態で階段を上ると、屋上の扉に手をかけて扉が開かないのを確認する。その上で仕方ないから引き返そうとするのを装って横を向き、そこで初めて彼女に気づいたような顔を作る。
 教室外で見る彼女はひどく驚いているように見えた。
 教室でそうしているように、屋上手前の踊り場で、放置されている椅子に背筋を伸ばしてちょこんと座る彼女はひどく滑稽さを伴う違和感があった。
「あ……」
 目を真ん丸にして、私を見つめる彼女に私も思わず見入ってしまい、私は言葉を失う。
 だが私のわざとらしい挙動をずっと見ていた彼女のほうが我を取り戻すほうが早かった。彼女は我を取り戻し、言葉を探し、個人としてではなく、クラスメートとしての距離感で以って言う。
「屋上へは出れないわ。禁止されているし、鍵もかかっているし……」
 想定していた答えだった。私も慌てて言葉を探しなおして口を開く。
「そっちこそ。屋上で食べようと思ったものの、鍵がかかってたから仕方なくここで食べてるクチなんじゃないの?」
「な! い、一緒にしないで!」
 彼女は両手をついて立ち上がる。だがすぐに気を取り直して座りなおした。
「静かなところが欲しかっただけ」
 なるほどね、と私は頷き、
「私もここで食べていい?」
 私は問いかけながら返事も聞かずに階段に座る。目の前に陣取る必要はない。そこまでの距離はまだ不要だ。
「……好きにしたら」
 彼女は突き放すような冷えた声で言う。やはりいきなりの言葉に警戒したようだ。無理もない。教室での自分の立ち位地を自覚している以上、好んで近づくような輩は居ないと踏んでいたに違いない。あるいは、裏があるかだ。
「なんで階段に?」
「椅子がないじゃない。立って食べろっての?」
 おそらく彼女は何で階段に座ってまでここで食べるのか、というそういうことを問いたかったのだろうが、あえて額面上の言葉に対しての返答をした。
「そう」彼女はそっけない返事で黙って黙々と食事を再開する。
 だがやはりすぐ足元でパンをむさぼる私の姿は気になるらしく、ちらちらと視線が投げられているのはなんとなく判った。
「…………、……何か用?」
 彼女は相当長い間逡巡した後で、ようやく言葉を発した。
「いやー……」
 敵意。警戒心。あまり好意的でない感情がうっすらと感じ取れる。まだ明確化こそしてないものの、いつでも浮かび上がる準備をしているような、そんな感覚。
「興味があって」
 私は正直に告げた。生真面目な彼女のことだ、曖昧な回答はより態度を硬化させるだけだろう。多分、この回答でもそれは避けられないだろうが。
「興味」
 彼女は私の言葉を反芻して首を傾げる。
「何に?」
「あなたに」
 彼女はやはり怪訝な顔をした。私の言葉は即座には警戒に変換されず、その発言の意図を探られるような形になった。
「興味、ね……一緒のクラスなんだから、興味も何も」
 彼女はそこまで言って、自分で言葉を飲み込んだ。言下に感じる意図。判るでしょう、私がどう思われているか。おそらくそういうことを言いたかったんじゃないかと思う。
 だが判っているから来たのだ。意図が空回りして悲しそうな表情を見せる瞬間、孤立していようとも縮こまらずに、毅然として背筋を伸ばしてやっていけるその芯の強さ。その横顔がたまらなく綺麗で、私は性別を越えて惹かれたのだ。いじめのような粘質な牙を突き立てられることもなく、ただ距離を置かれていた彼女に。彼女も幾度となくクラスと分かり合おうと思って歩み寄る努力はしていたように思う。最初持っていた頑として譲らなかった部分を崩したりもしたが、それでもなおクラスメイトからして見れば歩み寄るに十分な状況ではなかった。
「まあまあ、少しばかり私にもお付き合いくださいな」
 そう言っておどけたように私は手を差し出す。
 彼女は拒絶するかとも思ったが、怪訝な表情は崩さぬままで私の手を取った。……取ったというよりも、差し出されたので乗っけてみたという態ではあったが。
 いずれにせよ、とっかかりは得られた。あとは歩を進めて距離を少し短くするだけだ。
(まあ、それが一番難しいんだけど)
 どう転ぶかはまだ判らない。だが少なくとも彼女の心の緊張を和らげる方向に行きさえすれば。少なくともここから見える未来とはまた少し違う光景が見えるだろう。
 そう考えて、私は彼女に笑みを向けた。


536

 姉ちゃんはいつだって俺の先を行っていた。
 俺がガキの頃は男勝りな姉ちゃんの背中にのこのこついていってたし、少し大きくなったガキの頃は少し大人しくなった姉ちゃんに勉強を教えてもらっていた。もう一回り大きくなって精一杯背伸びしている頃でも、俺の悩んでいる事を先読みしてアドバイスをくれた。
 ただ、そんな姉ちゃんもひとつだけアドバイスをくれなかったことがある。
 俺に気になる子ができた時だ。別に姉ちゃんに相談したわけではなかったが、恥ずかしいことに何かと女の子とはこうあるべきだ的な話をよくしていたから、言わずとも姉ちゃんなら感づくのは容易かったはずだ。
 姉ちゃんが俺にアドバイスをしてくれなかったのは、姉ちゃんも恋をしたことがなかったからだ。
 姉ちゃんが俺にくれるアドバイスは、仕入れた知識と経験則に基づくものだ。どちらかが欠けている場合は滅多に口を出さなかった。
 俺と姉ちゃんは仲が良いまま大人になった。姉ちゃんが大学にいって一人暮らしをしてからもメールのやりとりはよくしていたし、それ以上にそこまで離れてもいなかったので良く帰ってきた。
 俺も姉ちゃんとは違う大学に行って、また気になる人ができて、以前よりはずっとストレートに姉ちゃんに相談したが、姉ちゃんはアドバイスをくれなかった。
 姉ちゃんも恋をしたことがなかったからだ。
 姉ちゃんの話に色恋の話題が出てきたことはほとんどなかった。大学生の頃、ひどく酔っ払った姉ちゃんが一度だけ俺に「彼女はできたの?」と聞いてきたことがある。俺は妙にどぎまぎして、全然居ないし、結局気になっていた子は既に彼氏が居たんだ、と伝えた。姉ちゃんは酒臭い息を吐きながら、にへらと笑ってそうかあと相槌を打った。表情と言葉の割にはあまり感情が篭っていないように思えた。酔っていたからだろうか。俺によっかかってくる姉ちゃんの上気した頬が妙に艶っぽくて必死で見ないようにしていたことを良く覚えている。
 姉ちゃんは就職して、四年目に結婚した。
 俺はというと相変わらずそういうのとは縁がなく、職場も男やもめだったから、新婚の姉ちゃんに聞いた。恋をするのはどんな気持ちかと。
 姉ちゃんは回答をくれなかった。
 二年後に姉ちゃんが死んでも、それは判らなかった。
 姉ちゃんは恋をしなかった。
 ずっとそう思っていた。

 遺品に紛れていた姉ちゃんの日記をぱらぱらとめくっていた。高校生の頃からつけていたらしく、おおよそ週単位であることが多かったがそれでも量は膨大だった。
 その中でひとつだけ恋という字が含まれるものがあった。曰く、恋に落ちる速度は一秒もあれば十分だが、時々背中にのこのこついてきたりもするらしい、と書いてあるものだ。
(背中についてくる……?)
 その記述が恋に落ちるとどう結びつくのかは判らなかったが、きっと姉ちゃんは恋をしたことはあったのだ。
 だがそれなら何故俺の質問には一度も答えてくれなかったのかは判らなかった。言いにくい分野だったから? 実った恋ではなかったから?
 それからしばらく考え込み、諦めて日記を閉じる間際、実ってはいけない恋だったから? と言う考えがよぎったが日記を閉じると同時にその考えも振り払った。


535

「うぃー……いっく……おい! 酒はまだか!」
「もうよしときなさいよ、十分呑んだじゃないの」
「馬鹿言え、金もあるしまだまだいける」
「アンタが呑めるかを聞いてるんじゃないの、体に悪いからもうやめときなって言ってんの」
「ちっ、うるせェなぁ……そこまで言うならひとつ教えてやる」
「呑んだくれから教わることなんて何にもないよ。さっさと帰って妹さんの面倒みてやりな。一人であんたを待ってんだろ?」
「いいから聞け……、俺にはなあ、酒を飲んでいるときだけ現れるダチが居るんだよ」
「ああそうかい、ほら、帰んなって」
「いいから聞けって、まあ性格とかはいけ好かないやつなんだが、不思議と話があってな。そいつも妹が居るって言いやがんだ」
「まったく幻覚見るまで呑むやつがあるかい、酒びたりなアンタの身を案じてる人も居るってのに」
「幻覚じゃねえよ、それでそいつは最近妹にいいひとができたってんで、帰りにくいから一緒に酒飲もうぜっつってな……まあそんな事情なら仕方ねえから俺もつきあってやってんだ」
「それでアンタが酒で体壊してちゃ妹さんもおちおち幸せにもなれないでしょうが、ほらしゃきっとなさいな」
「俺の話じゃねえってんだろ、何聞いてやがんだ。俺はただの付き添いで……おい、酒はまだか!」
「しょうがないねえ、ほら」
「おお、やっと……っておい、ばかやろう、これは水って言うんだよアルコールゼロじゃねえか」
「アンタの身を案じてる人も居るんだから、それで我慢なさいな」
「妹なら大丈夫だよ……。ほら、はやく」
「アンタはほんとに妹さんのことしか頭にないねえ。あたしだって一応は心配してるんだからこのアルコールゼロの酒で我慢しときな」
「ちっ、まずい酒だ」


534

 兄の挙動が気になるようになったのはいつからだろう。居間で私がテレビを見ていても、兄はテレビの正面にあるソファーには座らず、食卓の木椅子に座って本や漫画を読んだり、そこからテレビを見ていたりしていた。
 いつも晩御飯を食べ終えると食卓側の電気を消してしまうので、私はよく「暗いからおいでよ」と言ったものだ。
 兄の返答はいつも変わらず「ここでいいよ」の一言で、既に目を大分悪くしてそろそろ眼鏡をかけなきゃならないってくらいなのに、相変わらず暗いところでモノを読む習慣をやめなかった。
 兄は無口な人で、家族の誰とも若干の距離を置いているように思えた。とはいっても、年の離れた弟が遊んでもらいたがれば相手をするし、母がお使いを頼めば特に文句を言うでもなく行くし、なにかそれについて問題があったわけではない。むしろ私が勝手にそう感じていただけかもしれない。
 だがそうやって距離感を感じていたから、どこか注意深く兄を見るようになっていたのかもしれない。気づけば私は兄の背中を追っていた。友達との会話で、父や兄、弟のような異性の家族が槍玉にあがるような話題のときも、私にとって兄は憧れで、かつ尊敬する対象であり続けた。父とあまり会話することがなかったため、私にとって父よりもよほど影響力が大きかったように思う。
 兄が私の中でそんな対象になって以来、私は家族にも友達にも誰にも言えない秘密を持った。
 休日の家事は母ではなく兄妹でやるように、ということになっていたのだが、私は残念なことに料理はあまりうまくなく、兄に任せきりだったかわりに洗濯などは私がやることになっていた。母、父、自分、弟の洗濯ものを洗濯機に放り込むと、周りに誰も居ないことを確認して兄のシャツを取りあげる。
 そしてそっと自分の顔を押し付ける。家族の誰とも違う、兄の、兄だけの匂いだ。
 甘く柔らかいような匂いではない。が、なんだか落ち着いた匂いで、私の心に安心をもたらしてくれる。落ち着くのだが、同時にどきどきする。落ち着けない。私の心のある部分はすごく落ち着いて、それは体にも作用して今にも腰から力が抜けてへたり込んでしまいそうなくらいなのに、同時に胸の奥はすごく熱くて落ち着くどころか火が広がっていくようでもあった。
 この胸の内で脈動する感情の呼び名を私は知らなかった。
 ただ、ひとつ。
 兄の匂いが
 すき。


533

「今の彼氏が……」
 気になっていた女の子との会話の中で、そんな言葉が出てきてがっかりしたが、なんとなくそんな予感もしていた。
 僕は七歳の頃に電柱か何かに頭をぶつけて五分かそこら失神していたことがある。その時は救急車まで駆けつける大事になったが、目が覚めた僕はけろりとしていて、検査の結果も異常なくそのまま解放された。
 だが今にして思えばその失われた五分が、今に到るまでの僕の人生に深刻な影響を与えているような気がしてならない。
 僕の決断で記憶に残るほどの大きなものというのは数えるほどしかないが、そのどれもがほぼ失敗に終わっている。そうでなくても日常でもあと少しでも早ければ、という場面には枚挙に暇がない。そしてそういう場面に直面するたび思い出すのは、七歳の頃に飛んだ五分間だった。

 夢で五分を失わなかった僕の人生を見ることがある。多分、僕が切望していたものだ。浪人もせず、彼女もでき、大きな発表でも失敗しない。発表を大成功で終えた僕は、壇上から彼女を見つけ出して目と目で笑いあう。そしてそのまま大きな拍手に見送られて壇を降りてゆく。そんな様相を見ながら、やはりこれも自分の人生ではない、と寂しい気持ちで思うのだった。


532

 今日は松岡が帰っていった。
 現実の松岡は指を鳴らすことができない。だが夢のごとく作られたこっちの世界では、松岡は指を鳴らすことができた。松岡はそれが捏造されたファクターであることを見破り、夢の世界から出ることができた。
 この世界は、もう夢のような架空の世界であることをみんな知っている。だが出ることができないのは、己と強く結びつくが捏造されたファクターを見破ることができないためだ。何故こんな状況になっているのかは判らない。それも夢から出たら全て思い出すのか、身をもって知ることになるのかのどちらかかもしれない。
 死も終わりではない。どんなに凄惨な死に方をしたとしても、翌朝ベッドの上で目が覚めるのだ。
「兄さん」
 妹の声で目が覚める。僕はソファーでうたた寝していたらしい。両親は一週間ほど前に帰ったのだが、僕と妹は未だに捏造されたものが何であるかに気づけずにいる。
「おはよう。……疲れたの?」
 少し可笑しそうにくすくすと微笑い、妹は僕を気遣うように声をかける。
「疲れて……いるのかな。僕と同じクラスの松岡って奴が今日、帰ったんだよ。僕のクラスももう残っているのは半分も居ない」
「よかったじゃない」
 妹はそう言って僕の隣に飛び込むようにして座る。
「そりゃ、まあいいことだけどさ……」
「自分も出たい?」
「まあね」
「私を残して?」
 妹は悪戯っぽい笑みを浮かべて僕の顔を覗き込むようにして言った。
 僕はそんな妹の頭をわざと強めにわしゃわしゃと撫でる。
「馬鹿いうなよ。お前も早く見つけて帰れ」
「そうは言うけどね」
「いいか? どんなことであれ、鍵は自分に関係するものだ。自分自身のことじゃなくて毎日使う道具かもしれない。湯島は自分の自転車が……なんだっけ、なんかすごくいいのだった、とかそんなだったからな。身の回りの些細な違和感。切望、無意識、そういう……」
 妹は口を尖らせて僕の話を遮って言う。
「判ってるよ。判ってるけど、ならこれだって解決するものじゃないってことくらい兄さんだって身をもって知ってるでしょ」
「まあ、ね」
「『お前は一体何の夢を見ている?』」
 妹が声色を変えて言う。
 その言葉はよくこの世界で耳にする問いかけだ。それに回答できるのであれば、おそらくこの世界で翌朝を迎えることはないのだろう。
「意外と思っても見ないことだったりするんだろうな……。多分、考えもしないような」
「あるいは、無意識に考えてることを避けてるとかね」
 妹はそう言って、テレビ台の隅に置かれている家族の写真に目をやった。僕もつられて写真を見る。五年位前に関西に行った際の写真だ。通りすがりの人に撮ってもらったんだと思う。両親の間で僕が笑っている。父さんと母さんに会いたいなあ。そう思った。
「期限があるわけでもないだろうし、少しずつでも可能性を潰していくさ。急がば周れってね……」
「兄さんは昔から何をやるにも地道なんだから」
「そのほうが確実だろ」
「そうね」
 妹はそう言って甘えるように僕の肩に頭を預けた。僕も妹の頭に、自分の頭を乗せる。妹の頭からは柔らかい匂いがした。


531

「とある部族が居た。転生という概念を非常に強く信じる彼らには、夜は老いた状態だった。夜が深くなるにつれて、”日”はどんどん老けていって、朝日が差す頃に死に、生まれ変わる。そういう考えだった。彼らはゆえに夜が深まることを夜がふける、と言った。というのが夜がふけるの語源だ」

「違うよ」