思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳541

 俺が入った部屋は真っ暗だった。何があるのかもよくわからない。ここまでの道でも、完全に電気系統の設備は死んでいたが、それでも弱い光を放つ苔が壁に入ったヒビに生えており、完全な暗闇というわけではなかった。

 だがその部屋は完全に真っ暗だった。意図的に、わざとこの環境を作ったかのような暗闇だ。部屋自体はよほど厳重に作られたのか、苔が入る余地もないのだろう。
 通路からの光も、弱すぎてその部屋の内装を判別するまでには至らない。立て付けが斜めになった状態で緩くなっているのか、手動で開けたドアもひどくゆっくりと閉まると完全な無音、無光状態になった。
 少しすると、チチチと何か精密機械が作動するような音がして、壁面が光った。
 今までとは段違いの光量に思わず目を閉じたが、目を慣らすようにしてよくよく見ると壁面、その一部が光っているだけであった。俺はその光源をよく見る。何か規則性のある記号が並んでいる。――文字だ!
 バッテリーがつきかけている解読ゴーグルをかけ、電源を入れる。一瞬の間をおいて、壁面に描かれている記号が文字として認識され始めた。解読ゴーグルのライブラリに完全な互換性のある文字ではないのか、文章としては非常に拙い。
『この部屋 見たもの できない 記憶保持』
『ただし 操作 できる 運命』
『一度だけ』
 三行に渡り描かれていたのは、おおよそそんな文字だった。
 この部屋で見たものは記憶の保持ができない、という意味だろうか。特に自身に対して何らかのアクションや刺激があったわけではない。その効果は失われているのだろうか。だがまあ、これは部屋を出ればいずれにせよ判ることだ。
 そして二行目、おそらくこれが一番大事なものだ。運命の操作ができる、とある。
 運命の操作とは何か。少し考えてみたが、さっぱり見当がつかない。
 しばらくその意味について考えていると、壁面の文字がすっと消え、部屋は再び暗闇に閉ざされた。
 そして入れ替わるようにして部屋の奥のほうに鎮座していたらしい機械が弱光で浮かび上がった。演出が何だかテーマパークのアトラクションじみていて胡散臭さすら覚える。
 しかも、その機械は壊れかけであった。ちょうど腰のあたりの位置に操作盤があるだけの、シンプル極まりない機械だ。画面が左右にわかれているのだが、右は以前に来た誰かが壊していったようだ。左は三行に渡って五桁づつの数字を表示する文字盤がある。それしかわからない。しかもその文字盤も血の跡がついて、それを無理やり真ん中の数字が見えるようにこすったようで、縁の方に血の跡がこびりついている。誰かがこの部屋で争ったようだ。弱光を頼りに部屋を見渡すが、かつての争いの足跡は見られない。あるいは、見えていないだけかもしれない。
 以前にあったことはさておき、少なくとも今はこの機械だ。操作方法が全くわからない。しかし運命が操作できるという文言が比喩にせよ何にせよ、軽く見て良いものではないだろう。
 触らずに置くべきか? しかしこのまま踵を返して部屋を後にしたら、もしかしたら全てを忘れてしまうかもしれない。
 もちろん、最初に考えたように既に記憶保持ができない、というものも形骸化している可能性もある。だが逆に、それが機能していないのであればこの運命を操作するという装置も機能していないかもしれない。
 逆もまた然りだ。この文字盤を適当に操作して、いざ成功したとして、何一つこれの意味が分からない俺がいったい運命をどんな風に操作するというのか。しかも操作するということは、少なくとも俺自身の行く末をどうにかするということだ。あるいは過去からして変えるのか?
 この装置を最初から求めてくる連中とは都合が違いすぎる。
 そもそも、このチープな演出で照明が当てられてはいるものの、本当にこれはまだ機能しているものなのか? 画面の半分が壊されていることを考えると、この装置自体が物理的に動作しないような気がする。
 そう思って機械を眺め回す。そして判ったのは、この機械にスイッチのようなものが一切無いことだった。もしかしたら、それが右半分に詰まっていたのかもしれない。
 それが判ると、俺は安堵と失望感がないまぜになった感情に襲われた。未知のものに出会って不安と期待まじりに近づいては見たものの、実は大したものではないと判ったときに感じるようなアレだ。
 操作のしようがない。その事実はひどく俺を安心させた。そして失望感が装置への好奇心へと変わるまでにそう時間はかからなかった。
 ずいぶん古臭い機械だ。もしかして、と思う。もしかすると、この残念な演出から察するに、占いマシンか何かだったのではないだろうか? 壁面の文字もお約束的な演出だと思えばすべて納得が行く。血の跡が残るような争いについてはよくわからないが、それもこれも占いを重んじる文化があったのだと思えば納得できなくはない。
 機械の側面を手のひらで叩いてみる。何が詰まっているのか、反響のようなものはまったくない。中身は一応詰まっているようだった。
 そして叩いたことが何かのスイッチになったのか、機械が動作するような音が聞こえた。キュルキュルというテープが回転するような音が小さく聴こえる。その時には、俺はもうこれはそういうお遊びに近いような機械なのだと疑わなかった。
 盤面を見ると、ゆっくりと上段でひとつ、中段でふたつ、下段でひとつ文字盤が回った。
 それだけだ。
 それで終わりだった。
 合計4つの文字盤が回転して、それ以降はうんともすんとも言わなくなった。やはり、壊れているのだ。
 無駄足だった、とは思うまい。期待していたもののひとつがずいぶん拍子抜けだったことは認めるが、探索が終わったわけではない。まだいくらでも調べるべき項目はある。
 ドアに近づくと軽快な音と共に自動で開き、通路に満ちた淡い光が俺を包んだ。そのまま一歩部屋の外に足を踏み出して、気がつく。
 ……ドアが自動で開いた? 通路に光が満ちている?
 慌てて見渡すと、そこはまったくもって違う空間のように思えた。人工灯が灯り、壁にはヒビなどなく手入れも行き届いている。人の気配だけは相変わらずなかったが、管理はなされていた。通路の作りなどからみて、同じ場所であることには間違いないようだ。
 変わっている。何かが。何もかもが。
 慌てて占い部屋に戻ろうとしたが、振り返った俺の目に入ったのは自動化されたドアが機敏に閉まる直前のところだった。
『この部屋 見たもの できない 記憶保持』
 無理やり翻訳されたその文言が脳裏をよぎったのが、俺の最後の記憶だった。