思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳175-151

175(14)


 気になるのだから仕方が無い。
 僕は昨日のように昼用に焼き立てのパンを、昨日より少し多めに持ってゆく。
 あの魔女の女の子は一体何処に居るのだろうか。
 ここら辺の子じゃないようだから、誰かの家に仮住まいさせて貰っているのだろうか。
 会えるかさえも判らぬまま、僕は足を昨日のあの場所へと向けた。
 あの場所で、僕が最後に振りかえった時も魔法使いを名乗る女の子はずっと同じ、僕に杖を向けたその姿勢で固まっていた。ただ、肩を震わせて。怒りと悔しさを同居させて。
 昨日女の子が居た場所に着いた。街のはじっこで、地平線へ向かって一直線に進む街道が延びている。
 そこには当然の事ながら女の子の姿は無い。そして同時に僕があげたが受け取ってもらえず、下に置いたパンも無くなっているのが少し嬉しかった。
 女の子は何処に行ったのだろう?
 やはり何処かに仮住まいしているんだろうか。荷物を持っている様子も無かったし、おそらくはそうだろう。
 もう会えないのだろうか。そんな想いで辺りを見渡す。冗談なんかではなく、本気で友達になりたかったのだ。魔法使いの友達なんて考えるだけでも夢が広がる。・・・僕の言いだすタイミングが悪かったみたいだけど。
 ふと。街道外れの森の、少し奥っこの木に何かが見えた。
 近づいてみると、それはあの女の子の被っていた薄紫の長帽子だった。何でこんなところにあるのだろうか。
 近づいて触れようとした瞬間、
「わわっ!」
 足元が円状に光って、幾重もの植物の蔦が上へと駆けあがる。かと思うと、大人二人分くらいの高さで止まり、上で蔦同士が結びついた。僕は図らずして捕われたことに気付く。
「・・・・・・・・・・・・」
 僕は目をまんまるにして、今の状況を整理する。もしかして、もしかすると、今のが魔法だったのだろうか・・・?
 軽く、蔦で結われた檻に触れてみると、妙に弾力があった。出られないのかとも思ったけれど、強く手を入れてみれば外に貫通するし、横に引っ張れば隙間も出来る。出られないことはなさそうだった。
「んむー」
 僕はパン屋の息子として、父さんの仕事を手伝うことがある。パン生地をこねるのには結構力がいるのだ。それで鍛えられた力をフルに発揮して、檻をこじあけて出ようとしてみた。
「んむー」
 途中で力が尽きて半身が挟まれる形になってしまっている。再び力を込めようとすると、
「何してるのよ」
 刺々しい声と同時に、まるで全てが嘘だったかのように僕を圧す力が消え、蔦の檻が崩れた。
『あ』
 女の子を見た僕と、僕を見た女の子の声が重なる。向こうさんも僕に気付いていなかったらしい。それに、僕の顔を一応は覚えてくれていたようだ。
 しかし、今はそれよりも。
「凄いっ!凄いよっ!今のが魔法!?本当に魔法使いなんだね!」
 僕はもう何がなんだか判らないくらい興奮していた。
 女の子の手を取り、その白い手を尊敬の眼差しで見、女の子の顔を尊敬の眼差しで見る、という動作を興奮して何度も繰り返す僕。
 女の子は最初、昨日同様剥きだしの敵意を僕に向けていたけれど、僕の興奮に触れて驚き、戸惑い、
「そ、そうよ。嘘じゃないんだから」
 まんざらでも無さそうに言った。


174

 駆ける。
 長き廊下を。
 赤き絨毯の敷かれた。
 必死に逃げてはいるのだが、その気配は依然として薄れる様は無い。
 孤独の時は無上の安心。恐怖の時は最強の狩人。
 彼女は主であろうと手加減はしない。主の子供であればなおさらである。
 母の居ない僕には母同様に強く優しい。そして怖い。
 開き直りなど彼女には通用しない。罪は罪。割り切られている。
 父さんの壷を割ったことは、確かに僕が悪かったのだ。
 更には彼女が掃除番だったことは、運が悪かったのだ。
 そして彼女は邪魔を許さない。
 廊下の終着点。食卓のある広間の扉を蹴り開ける。
 食卓まで駆け、動悸と息切れを抱えながら振り返ると。
 シャンデリアの光輝を背に、地を蹴って僅かに浮かんだ小さな体躯、それに伴いはためくメイド服、波打つ髪、僕を貫く一望千頃の眼光、獲物を捕らえたと語る薄笑いの口元、そして。
 振りかぶられたモップ。
「あぁぁごめんなさいーっ!!」
 止まらなかった。


173

 壊れたピアノが鳴っている。
 鬱蒼として雨さえこぼさぬ森の木々が、月明かりのために天を開く。
 鍵盤の奏でる無形の揺り篭。森林の奏でる虚空の寝室。
 音の葉が僕を包みこみ、腐葉土に僕が埋もれてゆく。
 壊れたピアノが奏でる頓狂な音韻は美しくは無いけれど、木に木霊して返る音が不旋律の自然任せな音楽のように聴こえている。
 まるで森が自分の部屋のように身近に感じられる。
 まるで音が自分の心音のように悠然と染みわたる。
 些細な音の葉言の葉を見出すには、僕らの日常は煩雑すぎる。


172

 それは音の無い記憶。
 それは画面ごしに見る記憶。誰かのなのか、どれかのなのか、それすらも判らない。
 夢見心地に少年は座り、夢か現実かの区別もついていないような虚ろな目で画面を見ている。
 画面の中では、一匹の妙な模様のある白い蜘蛛が丘陵の城から砂漠へ下る。
 同時に、色の無い七人の男女が幽鬼のような足取りで砂漠の上に立つ丘陵の城へと向かっている。
 蜘蛛と男女が交錯すると、男女は計り合わせたように、しかし無表情で作業的にその蜘蛛を足蹴にして殺そうとする。
 砂埃が舞い、蜘蛛は死んだかと思われたが、砂の中から人間の数倍の大きさになって飛び上がり、足で首を狩り、足で臓を刺し、足で身体を貫き、狩り、刺し、貫き、最後の一人は、どうやって持っているのか大きな丸盆に棒を突き刺したような武器をとり出し、盆の一面にびっしりと生えている小さな刺が機械的な音と共に回りだすと、そこへ押しつけた。
 最後の一人は血もまき散らさずに微塵になった。


171

 例えばこんなのはどうだろう。
 近しい人が死んだとする。少なくとも君は友達以上に思っている。
 葬式には行くだろうか?何をしに?別れを告げに?別れたくなくても?
 ならば、こんなのはどうだろう。
 君は彼の死を知らない。彼とは親しい仲ではあるが、しょっちゅう会うわけではない。
 するとどうなるのだろう?君の中で彼は死んでいない。どこかで、広い世界の、今自分が居る所ではない場所で生きている。そうは思えないだろうか?彼の霜の降りた顔を見ていなければ、君の中で彼は存在する人になれる。
 無論、それは強制されるものではない。ただ僕がそんな考えを持っているというだけだ。
 僕は君を友達以上に思っている。だから僕はいつか君が死んでも式には行かないことをここに表明する。
 もし君も僕のことを少しでも友達以上に思ってくれているのなら、顔を出さないで欲しい。お互いに生き続けよう。生きている間は会おう。死んでいる間は旅に出よう。
 いつか来たる日の為に、送辞と遺言に代えて。


170(55)

 俺は絶命寸前で逃げのびた。
 わざとなのか、俺が負わせた傷が思った以上に深かったのか、トゥインクルは深追いを避けた。
 俺らの叛逆勢はその殆どが天界の戦闘部隊に壊滅の憂き目を見せられていた。
 当初は三万ほども居たが、現在は確認できる範囲では五百も居ない。恐らく散っているもののまだ五千前後は残っていると俺は見ている。
 大神を討たねばならない。暴君を止めぬ限り天界は荒れる。
 トゥインクルはそのことを判っているのだろうか。判っていると思っていたが、少々怪しくなってきた。ただあの厭世ヅラで黙々と任務に従っているだけで、天界なぞどうでも良いと思っているのだろうか。付き合いは長いが、あの馬鹿たれの心中は読めない。
 トゥインクルは強い。もしあいつが早々に回復して戦線復帰したら俺らの残党も益々減る事だろう。
 もしあいつがこちらに来てくれたらと何度も思っている。しかしあんな冗談みたいに強い奴、天界が放っておけるワケがない。淡白な性格のせいで人望こそ無いが、一隊を持たせたらあいつ以上に強い奴はそう居ない。作戦、戦略、攻撃までが殆ど芸術の域に達している。
「トゥヴァルさん!」
 駐屯の男が駆けこんでくる。様相がただ事でなかった。
「どうしたっ」
 俺は傍らの剣を掴んで半身を起こす。まだ体力が全然回復していない。剣が重い。体を繋ぎとめる神経が弾け飛びそうな痛みが全身を走る。
「白のトゥインクルが!」
「・・・!すぐ行く!」
 まさか。もう回復したのか。有り得ない。いや、深追いを避けたフリをしてつけていたか。
 死に体の身体を引きずって表に出る。
 高みに、紛うことなきトゥインクルが居た。
 装束も新しい。傷跡は残っているものの目立つ出血が見られない。まさか、本当に回復したのか・・・。
 俺は半ば絶望した目でトゥインクルを見上げる。
 トゥインクルは俺を含めて三十人以上の兵と相対しているくせに、相変わらず詰まらなさそうだ。
「こいつぁ・・・予想外だぜ・・・」
 俺が言うとトゥインクルは軽く肩をすくめた。
「私もです」
 トゥインクルの見当外れとも言える返答に皆が怪訝そうな顔をする。
「どういうことだ?」
「一人で勝手に動いた件で内偵の疑惑をかけられまして」
 俺は全ての合点がいった。トゥインクルは人望は無いのだ。
「なるほど・・・トントン拍子で叛逆勢扱いか」
 トゥインクルは再び肩をすくめた。
「それで・・・」
 俺が協力する気になってくれたのか?と言うよりも早く、
「ええ。首を差し上げましょう」
「・・・何?」
「私の首でもぶら下げれば、否応なしに貴方方の士気は上がり天界側は下がるでしょうから」
「・・・・・・なるほど」
 沈黙が降りる。兵も大体俺とトゥインクルが幼馴染みの関係にあたることは知っている故に、ちらちらと俺の方へ視線を向ける。
「潔いな。よし、じゃあ降りて来い」
 トゥインクルは表情を少しも変えずに、羽の如くすっと俺の前に降り立った。
 瞬間、
「ふざけンな!」
 トゥインクルの横っ面を殴り飛ばした。
「言いたいことはそれだけかっ!」
 俺が高らかに言うと、
「旦那、白のは気絶してます」
 横合いから声が掛かった。
「あ?気絶?」
「そのようで。というか装束の下の出血が半端じゃねェすよ」
 倒れたトゥインクルに駆け寄った兵が言う。ついでに戦闘装束の下に手をあてがって血塗れの手を掲げて見せた。
「いっ・・・医者ぁっ!」
 慌てて俺も駆け寄った。


169

 森の中火を囲み、楽器をかき鳴らし、あるだけの食料を持ちだして緩やかな一時が流れてゆく。
 火の回りを何人もの女子供が、女の恋人や子供の父親が踊り歩く。
 楽しそうな笑顔。歓声。アップテンポな曲に合わせて場の空気が動いている。
 私も儀礼的な笑顔を浮かべているが、とても心の中までは騙せない。つい視線は小さな広場の隅に走ってしまう。
 男の大半は火から少し離れた木に持たれかかり、焼いたばかりの肉を食っている。酒は飲んでいない。男たちも、笑顔。
 男は肉を食い終わると、そのまま寛いだようにその一時に身を任せ、やがて何かから振りきるように表情を引き締めると、一人、また一人と剣と弓矢、或いはどちらか片方だけを手にとって広場から姿を消す。
 私は耐えられなくなった。
 弓と矢筒を取り、広場から抜けてゆく。森を少し駆けた所でぽつぽつと仲間の男たちの死体が見え始める。
 更に駆けるとまだ生きている男たちが敵と奮戦していた。しかし怪我を負っていて長くは無さそうだ。これはまさに負け戦。私達の部族はこの戦いで滅びるだろう。最後の抵抗。一人でも道連れを。
 喚声が渡る。夜の中。私は矢を取り弦を引く。
 人の死に声うめき声。死への片道末路は冬。


168

 それは「うみたまご」と呼ばれる。
 生きた海色のマーブル模様が表面を動き回り、見ていて飽きることはない。
 それから何が生まれるのかは知られていない。実在するものとは考えられていないからだ。
 夢見がちな空想家によって、ポセイドンの卵や海竜の卵に例えられたり、海の生物が天変地異で滅した時に割れて、中からありとあらゆる海の生物が生まれるなどと神話的な語らいもなされている。

 ・・・と、おおよそ調べたところで判るのはこの程度がせいぜいである。「うみたまご」は他の伝承の類に比べれば知名度も格段に低いのだ。幻想学専門書の末席にぽつりと上記のような情報が記載されているにすぎない。
 柏木幸弘が手に入れた卵は、その情報を信じるなら間違いなく「うみたまご」であった。
 幸弘は卵というよりも卵型の石なのではないかと思う。少なく見積もっても数キロはあるし、強度も卵というには頑強すぎる。
 理解できないのは二点ある。まずは表面の手ざわり。卵でもなければ石でもない。防弾ガラスのような妙な弾力があり、つるつるしている。そしてどんなに固定して立てていても必ず暫くすると転がっているのだ。後者については後で判ることだが、脈動のせいらしい。数時間に一度、内部から突き上げるかのように軽く跳ねるのだった。
 だが確かに見ていて飽きない動く海色の模様はあるし、伝承生物でも生まれそうな雰囲気はある。
 幸弘は、自分の行動にすら半信半疑ながらも、自分の部屋の片隅で宝物を扱うが如くそれを丁重に置いているのだった。


167

 薄茶色の肌に深緑色の目とくれば、存在が絶えたと言われて久しいテンラール(地方によってはテンルアル)人しか居ない。
 遠い西の地にあった砂の遊牧民の一族。技術の都ヴァランガルドと比較すると、その生活はあまりにも原始的だ。しかし反面、同族意識や個々の戦闘能力などは七王都の何処も及ぶところがないほどであり、その多くは各国に傭兵として雇い入れられることが多かった。
 だが五年前のある日、軍事帝国グランスルードの将軍がテンラール人の持つ唯一にして大陸で及ぶ所無き義肢技術に目を付けた事から確執が始まった。当時から現在に至ってなお、義肢に滑らかな動きを出し、仕込み銃や剣などを付ける事が出来るのはテンラール製の物だけである。
 あくまでも技術の門外不出を言い張るテンラールの義肢職人達に業を煮やした将軍がとったのは、強行手段であった。
 血を流す争いが次々と興り、テンラールの義肢職人達は各々が持つ技術と共に、拷問の末に殺され、戦闘の末に殺され、逃亡の末に殺された。
 そして同族意識の強いテンラール人は、まるでそれを予想していたかのように自然に戦闘に参加し、グランスルードの兵を殺しに殺した。

 そして戦争になった。

 グランスルードは本格的に大軍を結成、無関係な遊牧民を巻き込んで大陸全土に散らばるテンラール人と戦争をやりだした。もっとも、戦争と呼べたのは最初だけで、のちに虐殺と化した。
 完全武装した兵に、接近戦に長けていたテンラール人はあっという間に銃殺された。  惨殺につぐ惨殺。いつしか兵も狂ったように、テンラール人を見れば銃を向け、降伏も聞かず、命請いも聞かず、ただ撃った。
 そして三年前。戦争は終結した。テンラール人はただ負けたのではなく、全滅した。生き残っていた者も、戦争終結後であろうと殺された。
 百五十年前に起きた、大陸全土を巻き込んでの騒乱以来の戦争であった。


166

 凋落した機械の神は海の底へと沈められ、苔で永き歳月を食んだ青銅のように成り果てていた。
 深海の果てで、深淵よりそのかろうじての生存を海中のあらゆる生物に主張するが如く、眼窩にあたる部分が片方定期的に赤く灯る。というよりも、海底に沈められた際の水圧で片方は破損したようであった。
 神としての尊厳は完全に剥奪されて、今は太古の沈没船と並んで時空の海域に晒されている。
 怒りはあるのか。表情の造れぬ顔の造形からは読み取れぬ。
 唸りをあげる。


165

 雨が降る中公園のベンチに座っている。
 否、ベンチに座っていたら雨が降ってきたのだ。
 それでもリエラは立ち上がろうとしない。公園を横切る人々の視線を肌で感じる。声を掛けようとする者もリエラの年不相応の重苦しい雰囲気に戸惑いを覚え、結局何もせずに去ってゆく。
 リエラは未だ歳十に届くか届くまいかの若き脳で思考する。

 自分が物乞いをしていたあの国はきちんとした関係が成り立っていた。
 徹底されたギヴアンドテイク。何か施しを貰うことで、その施主は功徳を積むことが出きるという考えの上に成り立つ仕組み。そこでは中途半端な情感の介入する余地は無い。
 自分はその仕組みが公然と成り立つ国の真っ只中に居た。
 自分はその仕組みが確立されない一夜検校の渦中に居る。
 これはおかしい。現在の状態は矛盾している。片側の天秤に物を置きすぎているのに、それでなお均等を保つ不可解さ。
 思いだすことがある。
 誰かに拾われて一月あまり贅沢な暮らしをしていた、私と同い年くらいだった物乞いの子は、時折お屋敷からくすねてきた食べ物を私に分け与えてくれたが、ある日突然姿を見せなくなって、後にその子を引き取った人のお屋敷から手足をもがれた状態で発見された。
 そんな趣味の割に高名な人物だったらしく、警察が沢山押し寄せていた。私もこっそり出向いてたまたまその子を見たが、虚ろな目をしていてあまり幸せそうではなかった。
 つまりあの子でさえも一月の贅沢であのようになった。私はもうどれくらい経つだろう?まだ何もされていない。死ぬばかりじゃすまないかもしれない。もっと酷いことをされるかもしれない。逃げなければ。逃げなければ。逃げなければ。
 そう思ったところでようやく体が動いて立ちあがり、ひとまず逃げようと思った。とにかく何処へでもいいから、あの家から決して近くない位置へと逃げようと思った。
 一歩踏み出した所で、昨日の夜から何も口にしていないが故に底をつきかけた体力が、リエラの体を支えきれず思わずよろめく。
 何かにぶつかった。
「リエラ・・・?」
 あの男が居た。もう駄目だ。全ては手遅れだ。
 思考とは裏腹にリエラはなおも駆けだそうとする。
「リエラッ・・・!」
 腕を掴まれる。リエラは微塵もためらうことなく振り払った。
 駆け出しながら憎しみを込めた一瞥を投げかける。男は傘をさしているくせに、もう一本傘を手にしていた。ただ、馬鹿みたいな表情で私を見つめている。
 男には私がどんな風に見えたのだろうか。

 リエラはいよいよ強くなった雨の中、ぬかるむ土と跳ねる水と踏みしめながら公園の出口に向かって駆ける。
 足が思うように動かない。土が異様に足どりを重いものにさせているのか。強勢の雨で濡れた服が体を鈍らせているのか。或いはその両方なのか。
 そして全ては体力が底をつきかけている為だと理解した時、三つの妨害がよりいっそう強くリエラに襲いかかり、足を取られ、転倒した。
 跳ねる泥。止まない雨。底を尽きかけていた体力もいよいよ雨と一緒に流される。悔し涙と共に流される。物乞いをしていた時も空腹感のあまり死にそうになったことはあったが、さすがにその状況になれば同じ物乞いの子が酷く惜しそうな表情で私に少しだけ食べ物を分けてくれた。しかしその時は泥も雨もなかった。乾燥しきった土と、沸き立つ熱気しかなかった。
 何故だか凄く、惨めだ。せめて痛い思いをせずに済めばいいと思う。この空腹感を抱えたまま死んでいった方が或いは幸せなのではないだろうか。そう思いながら最後に一瞥すると、公園の出口は目前だった。


164

 部屋のドアの開く音で気がついた。どうも仕事に集中しすぎていたらしい。
 少し贅沢して買った二万円する背凭れつきの黒椅子を回転させて、部屋の入り口へと向ける。今日もいつもと同様にたたずむ彼女に僕は微笑む。
「お帰り、リエラ」
 そこに居るのは僕の子であり、僕の子でない。
 前回の仕事の取材旅行で行った地で物乞いをしていたリエラを、ちょっとした事情で引き取ったのだ。
 引き取った当時は汚れてその顔も酷いものだったが、洗って身支度を整えたら僕の思った通りになった。生まれつきの金髪。当人の意思など関わり無く澄んだ碧眼。染みついた泥の下から出てきた白い肌。それは最初に見たときのどこか西洋の貴族の家柄なのではないかという思いをいっそう強めた。
 リエラは未だ僕に心を開いてくれる様子は無い。それどころか露骨な警戒の色が見て取れる。
 僕はドアの所で立ちほうけるリエラに判るよう英語で問う。
『公園にいったんだよね?お友達は出来たかい?』
 僕は自分でどんなに無茶なことを言っているか知っている。リエラはまだ日本語が判らない。いや、ある程度は判っているかもしれないが、まだ喋ることは出来ない。少なくとも僕は聞いたことが無い。
 リエラは僕の質問に答えてなのか、その無表情と一の字に結ばれた口のまま僅かに ー注視していなければ判らない程度にー 顔を伏せた。
『まぁしょうがないよ。ゆっくりやればいいさ・・・』
 リエラは僕が言い終わるとふいと横を向いてドアを閉めてしまった。足音が遠ざかる。
 ゆっくりやればいいと言ったものの、僕は胸中の何かよく判らない靄を霧散させることが出来ずに、机に一度だけ拳を振り下ろした。


163

 オールドアースの暦で7月3日、記す。
 本日は最悪な情報を得た日だった。京都、山城府内の転位ゲート破損より二週間半、総合管理局の通達ではゲートの修復はなされないとのことだった。
 理由は二つ。転位ゲート修復は金が掛かること。オールドアースは一世紀を待たずして完全に水没するであろうことが理由だ。
 俺とシリアは帰れなくなった。
 帰るには海を越えねばならない。しかしオールドアースに技術は殆ど残っていない。昔あったらしい旅客機ーニューアースの大型観覧船のようなものかーはもう残っていないらしく、大陸間移動は船か単葉機くらいだそうだ。
 しかしシリアは生まれ故郷である5th・・・ニューアース以外で生活できるのが嬉しいのか、ここオールドアースを去るのが名残惜しそうだった分喜んでいる。ここ最近のシリアは本当に自然体だ。少なくとも、この喜びようなどはプログラムされたものとはとても思えない。事実違うのだろう。詳細はまだよく判らないが。
 暫くは・・・ミソラの所でのんびりしようと思う。

 今日はミソラの勧めで三人で散歩に出た。
 オールドアースは”最後の大害”での甚大な被害にも関わらず、未だ一部では人が暮らす。
 当時は消費しきったオゾン層の代わりに、一機何百万マークもするフィールドジェネレータ内蔵の専用機を三機も飛ばしてまで崩壊した土地を保護する総合管理局の正気を疑っていたが、今なら判る気がする。
 2th、3th、4th・・・ニューアースの5th含む11thアースまでのどれより凄い圧倒的な存在感。生きているという感覚が手で掴めそうなほどだった。大地が脈動している。死にかけながらも地脈は生きているらしい。決して淡白ではないその感触はニューアースにはないものだ。
 オールドアースは他のどのアースとも違う点が一つある。それは創られたものではないという点にある。ただそれだけのことなのに、何という安心感だろうか。まるで、ここより遥かに暮らしやすいはずのニューアースが、薄い板の上に造られた安価なジオラマの如く思える。
 ヒビ割れたアスファルトや、その隙間から雄々と生命を主張する雑草。旧道路を外れたところからは叢生する木々が微風に揺らめき、時折角張った象形文字のような ー日本人や中国人が好んで使う「カンジ」というものかー ものが書かれた年季の入った木板が転がっている。
 全てが整然と区画され、管理され、運営される人工惑星ではありえない雑然さがむしろ気持ちよかった。初めて「生きている」ことを感じた気がする。
 やがて辿りついた先は絶景だった。というより他に無い。視界の開けた山頂近くから見下ろす景色は素晴らしいものだった。デコボコの道路は水位が上がって低地の村や街を沈めるに至った水面下へと流れてゆき、その水面からは沈み損ねた街灯がぽつりぽつりと顔をだしている。所々に小さな木船が浮かび、何をするでもなく漂っていたりする。ミソラ曰く「酒でものんでるんじゃない?あの人達好きだから」とのことだが。なるほど、あぁやって飲むのも悪くはなさそうだ。
 その情景は7thアースの新鋭画家リスウェイの「望郷者達」と近いものがある。ひょっとしたらリスウェイもここへ来たことがあるのではないか。

 なお、シリアは今日結構な数の写真を撮っていたらしく、俺に撮影記録の入った視素ピクセルチップを渡してくれたので、保存しておく。あの肌で感じることすら出来た感動には及ばないだろうが、記憶の記録媒体の一つとして。


162

「しゃーしんーをとーるわよー」
 言いながら綾はちっとも一箇所に止まらない伊川の方へ近づいた。
「ん?あぁわかったわかった、綾、並ぶから落ち着ぐほぉっ!?」
「全く人が親切で言ってやってんだから統率とかそんな感じの言葉を感じさせなさいよね」
「まぁまぁお前も入れよ」
 そう言いながら殴られて即復活した伊川が、綾に寄りかかりながら言う。
「あのねぇ、私が入ったら撮れないでしょうが・・・それと手をまわすの止めなさいよ!」
「先輩達らぶらぶですねー」
 写真が撮られるのをおとなしく待ってる待口がのほほんとした表情で言う。
「待口、アンタも・・・」
「こーいうのはハミった奴が寂しいだろ?問題ない問題ない・・・おーいそこ行く黒髪美人な姉ちゃん、悪いがそこのカメラで一枚頼めるかー?」
 呼ばれた若い・・・しかし伊川達よりは上の女性は、苦笑気味ながらも「いいですよー」という声と共にカメラに近寄ってきた。
「な?俺世渡り上手ー」
「先輩ナンパとか上手そうですもんねー」
「・・・伊川?」
 伊川は綾の心なしか冷たい声に慌てたように首を横に振り、
「ないない。そんな事実はない!こら待口、貴様後で毛虫ダンスの刑だ」
 待口が無言で、更に必死めいた表情で首を左右に振る。
「いいですか?撮りますよ?」
 撮影者を請け負ってくれた女性がクスクス笑いながらも声を掛ける。
「うぇーい。ほら、綾」
「はいはい・・・」
 綾が諦めたような顔で伊川に誘われるまま真ん中に入り、待口と伊川と肩を組んだ。
「はい、チーズ」
 シャッターを切る。笑顔が写る。
 日常が少し、切り取られる。


161

「あーあーあー」
 ヨシュアは片側が壊れて形が歪んだ転位ゲートを眺めて放心したように声をあげた。
 しかし壊れているのはゲートばかりではない。ゲートがあった寺社を改築した御堂も、台風で飛んできた建築物によって直撃を食らい、開けたところから陽光が注いでいた。
「気持ち良いくらい壊れてますねー」
 シリアが帯電の為にバチバチとなる転位ゲートを見ながら言う。
「くそう、まさか転位ゲートのある御堂内部に直撃するとは・・・」
「周りに防壁装置もないみたいですし・・・。日本のゲートセキュリティはどうなってるんでしょーか。そこらの消耗品とは違うのに・・・」
「単なるエネルギー総量の問題じゃないか?オールドアースは元からエネルギーなんて無いに等しいからな」
 シリアは肩をすくめ、再び壊れた転位ゲートに目を向けた。
「それにしても・・・台風で飛んできた建築物が1thアースの日本で唯一のゲートに直撃なんて、ろまんてぃっくが大暴走ですねー」
「帰れない事実がそんなに素敵なら海に沈めて帰らなくて良いようにしてやることもできるが」
「そーういえばさすがは1thアース、海もあるんでしたっけ」
「しかし大崩壊があったせいでまともなのはないらしいが・・・塩臭いというだけでいいなら、うん。でもお前錆びたりするんじゃ・・・」
「もー、耐水コーティングくらい施してありますよー。基本ですっ」
 その時、御堂の外にスクーターの排気音が近づいてきて、止まった。
ヨシュア君、シリアちゃんっ」
 転びそうな勢いで、ミソラが駆け込んで来た。
「わ。ミソラさん、何で・・・?」
「いや、ラジオで転位ゲートがオダブツって・・・うわ。酷い壊れかたしてるわね」
「ちなみに直接の原因はその隅にある柱です」
 ミソラが目を転じると、炭化した柱が隅で転がっていた。何で柱までこんな惨状なのか目で問うと、
「先ほど私とヨシュア君で腹いせに火刑にしました」
「・・・君たちってさ、良い性格してるよね。・・・ま、それは置いといて。行こうか」
「はい?」
「どこへ?」
 三人が三人とも不思議そうな顔をした。
「どこへ・・・って私のウチ。だって帰れないでしょ?」
「い、いいんですかっ!」
 シリアがミソラに詰めよって目をじっと見つめながら手を握る。
「だって、迎えに来たんだよ?」
 そういえば、とヨシュアは思う。そもそも、ゲート周りの山城府と旧帝都などの一部以外は完全に寂れて人がまばらにしか済んでいないオールドアースで、ミソラはここからは結構離れた場所に済んでいる。
 慣れない道をここまですっ飛ばしてきたのだろうと思う。いつもなら周りの景色を見ながら徐行運転しかしないミソラの服には、今日に限って砂や泥などの汚れが目立っている。
「・・・何しに来たと思ったの?」
「俺はてっきり野次馬根性かと・・・」
「やっぱり良い性格してるよ君たちは・・・」
 ミソラは呆れたように言った。
 どっちにしろ、これは大助かりなことには変わりない。少なくとも、転位ゲートはあと五つ、ロシア、中国、アメリカ、イギリス、エジプトと大分離れたところにしかない。しかもオールドアースには信じ難いことに各大陸を繋ぐ内部移動のゲートが一つもない。
 今後の有り方はゆっくりと考えればいいか。
「すまん。じゃあ、暫く世話になる」
 ヨシュアがミソラに頭を下げ、シリアも慌てたように「以下同文ー」と言いながら頭を下げた。
「ん。素直に言えてよろしい」
 ミソラは満足そうに笑顔で肯くと、
「じゃあ、いこっか」
 ヨシュアとシリアの肩を叩いた。


160

 夜の間道に僕はへたりこんだ。
 もう駄目だと思う。こんな先がどれくらいあるかも判らない道で、暗闇で、空腹で、人も通らないで、ガス欠で、更には変なのが来て。
 僕の眼前、暗闇の中に映えるように存在する白いガタイは人間ならレスラータイプだろう。宙に浮いている。角張ったよく判らない白い材質で出来た人型の物体が僕を見下ろしている。
「・・・くっ!」
 僕は命優先と体に言い聞かせ、疲労で悲鳴をあげる体を動かして走って逃げようとする。しかし平常時の半分くらいの速度しか出ていなかったとはいえ、そんなことは問題ではない。十歩と行かぬうちにそいつはふわりと僕の行く手に周り込んだ。
 やはり僕に用があるらしい。
 そいつは昔流行ったガンダムとか言うロボットみたいな顔を僅かに動かして、僕を見た。
 僕も見返す。
 そいつの目は、左がー僕から見ると右だがー何も灯っておらず、右だけ小さな赤い光が灯っていた、
「・・・?」
 僕が見つめると、そいつの目が突如何かの意思を伝えるかのごとく点滅し始めた。一秒に数回点滅したり、二秒くらいに一度くらい点滅している。
 僕は判らなかったので、ただ首を横に振った。すると意思が伝わったのか点滅は止まったが、代わりにゆっくりと手を差し伸べてきた。
 僕は眼前に突き出されたので思わず一歩退いたが、近くで見るとそいつの手は思ったほど白くなく、土埃やその他の塵などで薄汚れていた。
 もう一度そいつの目を見る。赤い光が一心にこちらを見つめているような気がした。
 僕が殆ど無意識に汚れた白い手に触れようとした瞬間、そいつの斜め後ろから一筋の光線が走ってきて、そいつの肩に直撃した。
「!!」
 物が削れるような鈍い音がし、そいつがぐらりと揺らめく。しかしすぐに体勢を立て直して、少し後ろに下がった。そして反転すると、背にあった六つの排気口のようなところから、二等辺三角に近い形状の白い光を四対生み出す。
 そして、次の瞬間には、消え去っていた。
 一拍間を置いて電車が目の前を通りすぎたような風が吹く。慌てて辺りを見渡すと、光線が来た方向に既に大分小さくなった白い影が見えた。


159

 優しい日差しが差し込んでいる。
 今は最も世界が優しい時間に違いない。・・・少し寒いけれど。
 わたしは三メートル程の高さの木板が連なっている塀の傍らを歩いている。
 そこは影になっていて、陽光もほんの途切れ途切れにしか差してくることは無い。わたしはそこを音も無く、煙草を口に、手をポケットに、ゆっくりと歩く。短めのスカートを穿いているせいで、足が少し冷たい。
 時折意外な強さの追風が吹く。その度に煙草の白煙が前方へと流れる。
 ふと見下ろすと、塀の終わり、その手前に白い花一つ。
 不運にもぎりぎりで陽光の当るところには生まれることは出来なかったようで、風にゆられて必死に陽光を浴びている。
 わたしはそれを踏まないように塀の外側に出た。
 日が思った以上にまぶしかった。


158

 ぼくが小さい頃、住んでいた三番街通りの隅に小さな骨董屋があった。
 そこは無愛想な老人と、愛想のよい奥さんが経営している店だった。
 ぼくは骨董には少しも興味は無かったけれど、老人が安く切手を売ってくれるので毎日のように足を運んでいた。
 老人が売ってくれる切手は様々だった。それほど貴重なものでなければセットで売ってくれるし、貴重なものでも今考えれば破格の値段で売ってくれたものだ。
 少し埃っぽい店内は常に薄暗く、ぼくはそこら中に置いてある壷などを割らないようにそろそろと歩いたのを覚えている。奥までいって老人に声をかければ、老人はニコリともしなかったが必ずぼくを奥へあげてくれ、奥さんは必ず何かお菓子を出してくれた。たまに客足の少ない日には、老人も店を閉めて一緒に食べた。
 しかしやがて年が経ち、ぼくが兵役で戦争に駆り出され、終戦と共に戻ってきた時、ぼくの見知っていた街は焼失していた。
 三番街通りで残っている建物なんか一つもありはしなかった。全て焼けていた。
 ぼくは避難した人達を尋ねて歩いてみたが、誰も老夫婦のことは知らず、ぼくは途方に暮れた。そしてそれきり今日に至るまで未だに手がかりは何も無い。

 売ってくれた切手の中には世界で二枚しかない、今売れば時価五十万ポンドはするモーリシャスの一ペニー切手なども混じっていた。老人はこれの価値を知っていたのだろうか。切手に詳しかった老人が知らなかったはずは無いだろう。何故当時ぼくのような子供でも手が届くような値で売ってくれだのか。
 彼はぼくを何度も孫ができたようだと言っていた。ぼくも老夫婦のことは当時両親よりも好きだった。両親は悪い親ではなかったが、老夫婦はぼくが時折夢想していた理想の親のようだった。
 この破格の切手達と、老人のぼくへ対する感情がーおそらく予想は当っているだろうがー関係あるものだとしたら。

 ・・・戦争は嫌いだ。


157

 その日は『天高ク空ハ晴レ雲一ツ無キ快晴也』と記されている。
 他国の進入を防ぎきれなかった大名は殺され、その子供が世話役と共に捕虜となっていた。
「じい、じいは居るか」
 少年が呼ぶと、初老の人物が慌てたように少年の元へ駆け寄る。
「ここに。いかがなされましたか」
 少年は答えず、通路の真ん中に立ってじっと正面を見つめている。
 じいが少年の視線を辿ると、敵将割り出しのための首実験が行われているところだった。
「あの者達は何ぞ?」
 少年が問う。
 じいは悲しそうに目を伏せて答える。
「あの者達は我らの戦者にござりまする」
「戦者とは、皆ああなのか」
「ああ、と申しますと?」
「目が光っている。何か今まで見たことの無い・・・行灯とも星とも違う光だ」
 じいは驚いたように少年を見た。
「若様、あの者達の執念がおわかりですか」
「執念・・・」
「今殺さねば必ず殺す、という・・・執念の目です。彼らは敗残の身となれども、戦意を微塵も失っておりませぬ」
「だから・・・今殺されているのか」
「は・・・」
 じいは悲しそうに少年を見た。
「だが時折我を見る目にはその光は微塵も無い。じい、我はあの者達に死んで欲しくないぞ」
「それ・・・は、・・・。若様は捕虜の身ゆえ、適わぬことで御座りまする」
「・・・捕虜とは嫌なものだな」
「じいも心よりそう思います」
 少年はじいに「下がれ」と命じて、自分はいつまでも立ちつづけていた。


156

 わたくしは、兄様が苦しんでおられるのを見ておられませんでした。
 苦しんでいるときのお顔は、わたくしの知っている優しく、思慮深い兄様が病魔によって追い出されそうな気さえも致しました。
 しかし兄様が兄様でなくなろうとも、わたくしは兄様をお慕い申し上げていました故、ただ手助けをすることすらも適わず、おろおろと見守るばかりで御座いました。
 ですから、苦しみのあまり気が狂いそうになっておられた兄様がわたくしの所へ忍びこまれた時も、怖いなどの感情を一切抜きにして、力になれることをただ心より喜んでいたのです。
 深夜、寝ていたわたくしの布団へと近寄られた兄様は、暫くそこで苦しんでおられたのだと思います。わたくしがふと目を覚ますと兄様がうずくまって頭を抱えておられたのです。
 わたくしは声をお掛けしようと思いましたが、それよりも早く兄様が顔をお上げになり、わたくしの口を兄様自らの口でお塞ぎになったので御座います。わたくしは目が覚めていたとは言え、さすがに驚いて反射的に突き放そうと致しました。
 しかし病魔に蝕まれていたとは言え、兄様は殿方ですからわたくしよりもずっと力が強く、びくともしませんでした。兄様は少しの間固まったように動かず、突如いきなりわたくしから飛びのきました。わたくしは驚いて兄様を見つめたのですが、兄様はそれ以上に驚かれたご様子で目を見開いておられました。
 その後兄様は謝罪の言葉を何度か口にしたあと、そのまま駆けて外へと出て、それっきり戻っておられません。
 このような山奥では何が正しくて何が間違っているのかなど、学も無いわたくしには到底想像も及ばぬところですが、今はただ兄様が一日一秒でも早くお戻りになるのをお待ちしている次第です。


155

七つの玉座には王が座る。

 一つの玉座には富と繁栄の国の王が。

 一つの玉座には義に篤い義足の王が。

 一つの玉座には一人きりの国の王が。

 一つの玉座には麗しく賢き女王が。

 一つの玉座には勇猛たる国の王が。

 一つの玉座には朽ち果てた遺骸の王が。

 一つの玉座には深淵に横たわる闇の国の王が。


154

「出来たッー!」
 と、嬉しそうな歓声が響いた。
 その声の意味を理解したかどうかはともかく、ゴールデンレトリバーのボックスは身体を起こして声の方へ向かった。
「ボックス、ボックス、ほら!」
 声の主である少女は、ボックスの姿を見つけると嬉しそうに手招きして自分の背後にあるものを見せた。
 おっきな小屋だった。
「ボックスのお家だよー」
 ボックスよりも少女の方が嬉しそうで、汗が伝う顔には満面の笑みが浮かんでいる。
「宝物とか見つけたらしまえるね!」
 少女はボックスの背を軽くばしばしと叩きながら云う。
 ボックスは宝物があるとしたらまず第一にその少女を選ぶであろうが、言葉の判らないボックスは少女の嬉しそうな顔を見て、ただ嬉しそうに尾を振るのであった。


153

 奥の方は行き止まりで、壁一面に巨大な鬼面が描かれていた。
 薄暗い廊下の途中、不自然に開けた場所があり、そこから光が差し込んでいる。ランプも何もない廊下で唯一その場所から差し込む自然の光が光源であった。
 その光源を元によくよく眺めてみれば、廊下には一面に奇怪な文様の絨毯が敷き詰められていることが判る。
 私が薄気味悪いと評判のそこへ取材で訪れたのは二日前であった。
 夜、私は懐中電灯を懐に忍ばせていったが、何故か月明かりがまるで増幅されたように強く、十分視界は利いていた。
 しかし。
 そこには先客が居た。まだ幼い少女である。
 寝巻きなのか、薄いネグリジェを身にまとっただけの姿で私を待ち構えていたかのように立っている。
 少女の目は赤かった。宝石のように赤かった。月明かりとは別に、それが光源であるように爛々と輝いていた。私は思わず一瞬見とれてしまったが、すぐにそれ以上に異形のモノを見つけてしまった。
 影だ。
 その異様に強い月明かりを横から受けた少女の影はヒトの形をしておらず、絶え間なく動く鬼人の如き恐ろしいものであった。
 私は少女を見た。
 少女も私を見ていた。
 じっと、宝石のように赤い目で私を見ていた。


152

 足を一歩踏み出せば、霜柱を踏みつける音が聞こえる。
 まだ薄霧が漂う朝は、吐く息が白く、霧の一部へと同化してゆくかに見える。
 だから私は冬の早朝が好きだ。
 この肌をナイフで撫でるようなピリピリした空気と、私が身を置く日常よりは遥かに洗練されたこの空気が。
 慎重に、慎重に。一歩一歩踏みつける霜柱の音を聞き漏らすまいと。
 今日は工場から吐き出された煙が広がったような曇り空。
 公園までは後もう少し。
 あの人は今日も来てるかな。


151

 こつ、こつ、こつ。と。
 自分の手足となって動いた部下を失ってなお顕在する悪夢のような存在が一人黒衣をはためかして近づいてくる。
 否、黒衣ではないのかもしれない・・・が、此処からでは黒衣に見える。衣装だけではない。その全てが闇に包まれている。
 闇色が人形をとったモノのように思えた。事実、其れに近いのかもしれない。
 そいつは、僕の数メートル手前で足を止めた。
「さぁ・・・茶番劇も終わりだ。貴様は助けてくれる仲間も居ない。我輩は手助けをさせてきた部下も居ない」
 僕は必死で、目はそいつから逸らさずに手で傍に落ちているはずの短剣を探った。
「邪魔は、居なくなった」
 「お互いにな」と云いながらそいつはニヤリと嗤った。闇のシルエットの中に、口だけが赤く浮かび上がって見えた。