草稿帳544
そして、私は記憶を失くしました。
私はぽかんと地べたに座り込み、目の前に立っている男の人を見上げています。
着古したスーツによれたネクタイ、メガネをかけた気弱そうなサラリーマン風の男。額にへんなできものと言われたら納得してしまいそうな小さいツノが生えています。
「目の前の男は願いを聞く対価に魂を買う男である」「私は目の前の男に頼んで記憶を消してもらった」
それは覚えています。ただ、何故そうしたかはもう覚えていません。
私の茫然としている様子を見て、目の前の男は自分の仕事完了を悟ったようですが、ちっとも嬉しそうではありません。
むしろ憂鬱そうで、それはそう…例えば、自分の仕事の成果よりも胃痛に悩まされててそれどころではないというような顔つきでした。
これから私は魂を奪われてしまうのでしょうか。
「ええと……」
男が口を開き、私は思わず身をすくめます。
その反応を見て男は困ったように、
「大丈夫です、あなたは今から死ぬわけではありません。新しい人生をやり直すんです」
私の考えはお見通しと言わんばかりの回答でした。
「やり…直す、ですか」
「今からあなたは人生をやり直して、その人生が終わった時に私は魂を頂きます」
「はあ」
はあ、じゃない。答えてから思わず私は自分に突っ込みを入れてしまいました。
「私はなぜ…いえ、何をやり直せばいいのでしょう」
「その質問については回答しないでくれとあなたから言われています。何故やり直すかについても」
さすが私だけあって、私の反応を熟知しているようです。
困って言葉に詰まっている私に、男は言葉を続けます。
「やりたいと思っていることを見つけて、それに従えばよいのです」
記憶を失くしてるのにやりたいことなんてあるわけがありません。強いて言えば、この状況になった理由を知りたいとは思いますが、さすがに埋めたものを掘り起こすようなそれをするよりは有益なことがいくらでもあるような気はします。
「あなたはどうするのですか?」
「私ですか?」
男は全く想定外の質問だったようで、目を瞬かせた。その表情が素朴でなんだかかわいらしい。
そう、この男。
上から無茶ぶりのようにこれをやれと言われたら、まったくもってわけのわからない言い訳をもごもごいってるうちに尻を叩かれて追い立てられそうな雰囲気のある男です。
「どうやら私はこれからまた歩き出そうと思ったら、それに困らない程度の記憶は持っているようです。そしてこれが短期記憶、長期記憶、エピソード記憶、手続き記憶、意味記憶と五つに分類されるもので、その中の長期記憶とエピソード記憶を忘れているようだ…とこういう話が出来る程度に記憶は持っています。ただ、ここから何かするために踏み出せと言われてもそれは空っぽなんです」
ですから、と私は前置きをして、男を強めに見つめた。男は相変わらず目を瞬かせている。困っているようだ。
ああ、と私は気が付きました。一つだけやりたいことをみつけられたようです。
「あなたの話をしてください」
きっともしかしたら、私はとびきりいやらしい笑みを浮かべていたのだろうと思う。
「私があなたの願いを叶えてあげましょう」