思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳440-431

440

 天井のない工場跡に四人の男女が居た。一組は少年少女。少年はキリヒトと呼ばれており、理知的に見える顔立ちとは逆に頭の悪そうなシャツに短パンで、少女の方は伊都と呼ばれ、鼻が高く赤の強い黒髪を縛るでもなく自由にしており、どこかの制服らしきものに身をつつんでいる。もう一方は青年と少女。青年は永岸という名であり痩せぎすで、結構苦労してるんだろうなと思わせる顔立ちで、砂埃で汚れきったスーツを着崩している。そしてこの四人の中で一番異質であり、中心であるのは青年と一緒にいる少女だった。
「あの子は……」
 伊都が呟いた。伊都が見つめる少女は黒い衣装に身をつつみ、やせ細った手足は鉄の首輪から伸びる鎖でつながれ、呪が記された包帯で目元をぐるぐる巻きにされている。敵対する能力者である永岸が連れていたのはそんな少女だった。
「さすがに知ってるか? お前はどうだ? 想像くらいはつくだろう?」
 永岸は楽しそうに言う。キリヒトは緊張した面持ちで頷いた。
「逆流の眼か」
 超人的な力に少しでも触れた人間にとって、これほどの脅威はそう居ない。逆流の眼の話は結構な数があるが、それの意味するところは皆同じでたった一つ、
『見られたら死ぬ』
 それだけだった。気の流れを内に向けて活性化させる能力。
 キリヒトの服の裾が小さく引っ張られた。
(逃げましょう)
 伊都の目はそう言っていた。いくらなんでもこの状況は分が悪すぎる。まだ死ぬつもりはないのだ。
「あー、ねえ、ちょっと!」
 キリヒトは突然大声を出して永岸に話しかけた。伊都が驚いてキリヒトを見る。
「何だ?」
「タンマ。作戦タイム」
 一方的に告げると、キリヒトは返事を待たずに隅に伊都を引っ張って、声を潜めて話し始める。
「言いたい事は判ってる。ちょっとぼくの話を聞いてくれ」
 伊都が真っ先に文句を言おうと口を開いたのを制して、キリヒトは言った。
「どうすれば勝てると思う?」
「全然判ってないじゃないですか!」
 伊都は小声で抗議をした。
「別に仮定でもいい。実際できるかは脇においておこう。出し尽くして、どれも可能性がなかったら逃げることを考えよう」
 伊都は口を尖らせて無言の抗議をしていたが、キリヒトも本気だったので口を尖らせて伊都の抗議に抗議をした。
「判りましたよ……」
 間もなくして伊都が折れた。
「どうすれば勝てるか、ですか。まずあの逆流の眼をどうにかするしかないでしょう。見られる前に息の根を止める。それだけです」
 伊都の意見に、キリヒトは唸るようにして少し考えた。
「他には?」
「ありませんよ。あったとしてもまずは逆流の眼はどうにかしないと……」
 キリヒトは意思のない人形のように立ち尽くす少女に視線をやった。隣では永岸が暇そうに携帯をいじりながらタバコを吸っている。伊都も少女を見た。逆流の眼は忌まわしい。だがあの少女は気の毒だと思う。望んで得たわけでもないだろうに。こんな状況でなければ助けてあげたかった。
「一瞬ならできる」
「え?」
「一か八かの賭けだけど、一瞬だけなら目を逸らせるかもしれない」
 伊都が無言で息を呑んだ。
「その一瞬で永岸を殺れるかだ」
「……永岸? 逆流の眼じゃないんですか?」
「いや、永岸だ。あいつを殺せば全てが片付く。……ホントだって」
「判りましたよ」
 伊都は大きくため息をついて言った。どうやら逃げるわけにはいかなくなった。それが判ると、死ぬにしても生き延びるにしても勝負には勝っておこうと伊都も思ったのだ。
 キリヒトは立ち上がる。そして永岸に対峙する前に一言だけ言った。
「逆流の眼の子はな、ルマって言うんだ」


 勝負は一瞬だった。一か八かの賭けは成功した。逆流の眼があったせいで長期戦などはありえないことだったし、永岸は逆流の眼を過信しすぎていた。逆流の眼を持つ少女が、銃のように引き金を引けば作動する道具ではなく、意思のある人間である事を念頭に入れていないことが敗因となった。
 キリヒトと伊都が駆け、永岸が余裕綽々で逆流の眼を開放した瞬間、キリヒトが叫んだ。
「ルマ、空だ!」
 ルマはのろのろとした仕草で空を見上げた。魅入る。
 その一瞬で、伊都が風の刃で永岸の心臓を突いた。永岸が倒れ、ルマが倒れた物音に惹かれた様に永岸を見て、再び顔をあげる。伊都は死を覚悟した。風の力が逆流して、骨に至るまで自分の体が風の刃によってサイコロステーキになることを想像する。
「やあ」
 ルマはこの場には相応しくないほど気さくな調子で言った。
「久しぶり」
 伊都の目が面白いほど丸くなって、少女と少年を見比べる。ルマの眼はしっかりとキリヒトを捉えているのに、キリヒトはどうにもなっていない。
「また助けられたようだ……いや、助けられたのかな?」
 ルマの言葉にキリヒトは肩をすくめる。
「ぼくが君を使うと思ったのか? まさか。好きなところにいきなよ」
 キリヒトの言葉にルマは笑顔を浮かべた。そしてそのまま視線が伊都を捉える。伊都は自分の意思とは関係なく体が緊張したのを感じていた。
「やあ」
 ルマはキリヒトに対するものとまったく変わらぬ調子で言う。
「初めまして」
 伊都は自分の体が今にも引き裂かれるのではないかと、ルマの透き通った紫の瞳を見返して考えていたが、体に異常は感じられない。
「……あ……」
 伊都は何か言葉を返そうとしたが、声がかすれて言葉にならない。目の前に居るのは逆流の眼。最強と謳われた能力者を、能力者たちで作られた軍隊を、たった一人、見つめるだけで殺したという悪夢の体現者なのだ。
「この眼が怖いかい?」
 ルマは言った。伊都は無言で頷く。
 ルマは意地悪い笑みを浮かべると、その笑みのまま左目を抉り出した。
「ひ……!?」
「ガラス玉だよ。綺麗だろ?」
 ルマは左目を空に翳す。
「え……あ……」
 伊都は確認を取るかのようにキリヒトを見た。
「そう言うこと」
「し……知ってたんですか!?」
 キリヒトは微笑を浮かべた。それだけで自分は無駄に心配していたと言う事を伊都は知る。怒りやら安堵やらと様々な感情が同時に浮かんできて、伊都はひとまず大きなため息をついた。
「もう……びっくりしましたよ。本当に殺されるんじゃないかと思いました」
 伊都は少し怒った様にキリヒトに言うと、ルマに向き直った。
「ルマさんも人が悪いです。でももう大丈夫ですよ~。これからはお姉ちゃんが守ってあげますからね」
 伊都はルマを強めに抱きしめる。ルマは伊都の突然の態度の変化に目を白黒させて、説明と助けを求めてキリヒトを見るが、キリヒトはわざとらしく他所を見ていた。
「こんな鎖なんてつけられて重かったでしょう」
 伊都はルマから少し離れると、首輪と手足の戒めを切って投げ捨てた。
「あ……ありがとう」
 ルマが手首を摩りながら言うと、伊都はその手をとって優しく摩りながら言う。
「痛かったでしょう。もうこんな事は絶対にさせません」
「お、おい、キリ、この娘はこれが素なのか?」
 声をかけられたキリヒトは、少し考えた上で答えを出した。
「どうやら気に入られたみたいだね」
「そ、そうか……」
 ルマは戸惑いがちに納得する。
「ねえ、伊都」
 キリヒトがルマに擦り寄っている伊都に声をかける。
「一応言っておくけど、ルマの右目」
 言われて、伊都はルマの右目を見る。ガラス玉である左目と同じくらい綺麗で、透き通った紫。
「それは本物の逆流の眼だよ?」
 キリヒトの言葉は真実で、ルマの右目は能力者も能力者の軍隊も殺したし、またこれからも殺せる眼だった。
 だが伊都は信じない。
「またまたー。さすがにもう騙されませんよ。だってそれなら私だって死んでるはずじゃないですか。ねー?」
 伊都の言葉と満面の笑顔に釣られて、ルマは引きつった笑いを返した。
「あのね、逆流の眼って言うのは……」
 キリヒトは説明を続けようとしたが、ルマが無言で制して首を振った。
 いずれ知る事になる。だから今はそれでいい。ルマはそう思っていた。好きなところへ行けとキリヒトは言った。ならば、とルマは思う。行くところはもう決まったようなものだと。


439

 先日、若き天才哲学者が完璧に、一分の隙もなく神の不在を証明した。
 不在を証明された神は存在するわけにはいかず、消滅した。
「神は居ない」
 それが真実になってしまった今、人は拠り所を失ってちょっと落ち込んだが、やがて一人で生きていく術を探り始めた。
 それでもたまに、寂しくなったり挫けそうになったりするとちょっとタウンページを手にとって、神に電話をかけてみる。
「現在、この番号は使われておりません」
 そんな定番のアナウンスを聞いて、ああ本当に神は居なくなったんだと改めて実感するのだ。


438

 公序風俗に反するという理由で、アニメに血液表現における規制が生まれた。
 最初は明文化されておらず、名目上は子供向きのアニメでそれはよろしくないだろうというなあなあだったために、苦情と疑問とそれらに便乗した声が殺到するようになってきたので、規則を原材料に盾を作る必要にかられたのだ。
 だが苦情と疑問とそれらに便乗した声を発する人たちは血液表現の規制が気に食わなかったのではなく、ただ苦情と疑問とそれらに便乗した声を発する事が好きなだけだったなのであまり効果はなかった。
「公序風俗に反しないアニメには血液表現を認めろ」
 それが主張になっていて、問題は誰が公序風俗に反しているか否かを判断するかという事だった。あまりに偏っているとどちらかが納得できない。納得できる人物が必要だった。製作者側に近すぎず、視聴者寄りでもない、そんな人物が。
 そこで選ばれたのが東田という男だった。
 この男は世界でも五指に入るほどの頭脳を持っていて、しかも洒落ていて、問題は性格だけだというほとんど完全無欠の男だった。
 東田は実に公正な判断で公序風俗に反するか否かを判断していった。時々明らかにおかしいものもあったが、東田がそう言うのならと文句は出なかった。例えば明らかに公序風俗に反していそうな「電子風俗斡旋所」では血液表現の規制はかからなかったのに対し、前衛的かつ斬新的、しかも壊滅的につまらない「洗濯機の塔」は作中に血液のけの字も出てこないにもかかわらず、厳重に規制をかけられた。
 「電子風俗斡旋所」は血液の色など何色でも何の問題もないくらいトチ狂ったアニメだったし、「洗濯機の塔」は放映局や放映時刻を知らなくてもなんとも思わないほどのアニメだったので問題はなかったが、何人かの生真面目な視聴者が東田の元を訪れて実に真摯な態度でその意図を尋ねた。生真面目な視聴者は、この処置は計り知れぬ叡智に基づいた適切な処置であることは疑いようもないが、是非ともその叡智の断片だけでも明かしてはいただけないだろうかと聞いた。
「理由……理由ね」
 ジェンガを一人で崩す作業をしていた東田は、手を止めて思わせぶりに視線を落とした。さっきコーヒーを股の辺りにこぼしたので、漏らしたように見えないか心配になったのだ。
「簡単さ。斡旋所は俺のキャンタマに響かなかったけど、洗濯機はキャンタマにガンガン響いちまったもんでね。キャンタマがつるぴかに洗浄されるかと思ったぜ」
 東田はこれで満足したろとばかりにジェンガを一人で崩す作業を再開したが、生真面目な視聴者は恐る恐るキャンタマとは何かと尋ねた。
「いいね」
 東田は即座に言ったが、それは自分の見事なジェンガの崩しっぷりになのか生真面目な視聴者の質問に対してかは判らなかった。
「キャンタマはほら、あれだ。夢とか……ロマンとか……それらをまとめて包み込んだような感じさ。二つセットで袋に入ってんだ」
 生真面目な視聴者はなるほどと答えた。なるほどの意味は「なるほど、これはとてもじゃないが理解できそうにないなあ」という事である。生真面目な視聴者は東田の思慮深い回答に感極まって帰っていった。
 少なくとも、東田がアニメの存在そのものが罪だと言う主張の超党派の人間に刺殺されるまでは平和的に続いていたのである。


437

 当時の第七アースの記述は例によって酷いもので、「寒いだけ」としか書かれなかった。理由は寒くて、寒くて……とにかく寒くて……こんな感じに寒い以降の言葉が出てこないからである。
 とはいえ実際寒かっただけではない。大陸を作り間違えて地球っぽさがなくなり、その大陸はいかにも投げやりな感じでアトランティスと名づけられた。寒いだけではなく寂れ果て、ありとあらゆる意味の寒いという概念を寄せ集めたような惑星になりかけていた。
 そこで打開策を作ったのがロベリア・ウィルソン社の一社員だった。主要スポンサーであったロベリア・ウィルソン社は第七アースのおかげで社評まで冷え込んできていたため、早急に打開策を練る必要に駆られ、大規模な人事改革をちらつかせてとにかく意見を集めた。その一社員を大躍進させたのは、仕事帰りに第八アースで酒を飲んでいた際、一緒に飲んでいた見知らぬ男の言葉だった。
 宝探し。
 使い古され、掘り起こされて手垢を付け直した挙句ロケットに積んでどっかへ飛ばしてしまったような言葉を男は引っ張り出してきた。
 アトランティス。宝探し。
 アースマンの一部にはこの二語がとんでもなく探究心を駆り立てるという輩が居るらしい。
 社員は何もださないよりは、という感覚でその二言を元に作り上げた企画書を提出した。
「へえ」課長が言った。
「なるほど」部長が言った。
「そうなのか」専務が言った。
「じゃあそれやってみようか」社長が言った。
 企画はすんなり通った。
 結果だけ話すと、この企画はそれなりに成功して今はどんな旅行誌も第七アースを少しだけ良く書いてくれるようになった。
 曰く、「寒くてビールが飲める」。
 一番人気で数が多い宝が氷に埋もれたビールだったからである。
 無論金塊などの定番ものもごろごろと転がっているため、ちょっとした小遣い稼ぎにも最適です。
 たまの息抜きで手軽に宝探し。おいでの際は防寒装備でどうぞ。レンタルサービスもございます。


436

 緑の野山に座る白い服を着た少女が死を歌い、雪山で黒い動物が凶作を祈る。
 空を泳ぐ雲魚のオスは雲を吐き、メスは雲を食む。
 コケのついた大樹は緑人を生み、緑人は白い花に魅入っている。
 夜の光草は時を止め、月明かりは時を動かす。
 金色の大地で青年は豊穣を唱え、金色の海でイルカが生を謳う。

 これは遠い昔の国に伝わっていた創世神話の出だしなのだが、奇妙な話でこれ以降暫く進んでも意味深なようで無意味な感じの詩が続く。創世神話であるくせに神様も大地も中々出てこない。三章からなる神話で、大地ができるのは二章の終わり、神様が出てくるのは三章からだ。三章はいかにも神話っぽい流れなのだが、一章が全く意味が判らない。もしかしたら本当は二章と三章が神話で、一章は全く違う別のものなのではないかという説も出てきたほどである。だが一章で出て来たものが三章でも頻繁に出てくるため、それは間違いなく創世神話の一章であるはずなのだ。
 その国の文学では必ずと言っていいほど創世神話に描かれていた何かがでてきたり言及されたりしていた。作家がよほど創世神話の事を好きだったのか、計り知れない何かがあったのかはよく判らない。何しろその国の事で判っている事が非常に少ないのである。創世神話は数少ない資料の一つで、他の資料といえば材質不明の日常品や文学作品、まるで用途のわからない奇妙な道具などである。それらから国の歴史を類推しようとしてみてもあまりにも壁が多く、しかもその一つ一つが大きすぎた。
 文学作品は大きなヒントになりそうなものだが、本を作って破いた話だの人が殺されて犯人は手足の生えた魚が海からやってきて食い殺しただの理解に苦しむものが多かった。いや多かっただけならまだよかっただろうが、少なくとも残っているのはそんな類のものだけだった。
 ……いや、一つだけ毛色の違うものがある。蜘蛛の話だ。それも人になった妖怪蜘蛛の話だ。
 話の概要はこうだ。蜘蛛は最初人を喰らい、恐ろしき魔物として崇められ恐れられてきた。神様が人を食うのはいけないよと言ったが七度に渡って無視し続けたため、蜘蛛は別の姿に変えられてしまった。それは今まで喰らってきた人間の姿だった。蜘蛛は美しき女となった。
 蜘蛛は人を食べぬようになり、人としての生活を徐々に営み始めた。ここで蜘蛛は神様が残した恐るべき罰を知る。蜘蛛と愛し合った者に力を与え、蜘蛛を殺すよう差し向けたのだ。力を与えたとはいえど人の身であることを抜け出せず、また蜘蛛を愛した男が蜘蛛を殺す事ができないこともあった。つまり良い見方をするならば蜘蛛が死ぬ心配はほぼなかったと言う事である。蜘蛛はその度に相手を殺し、生き延びてきた。
 蜘蛛は苦しんだ。心をずたずたに裂かれ、誰も愛しはすまいと誓い、その誓いを打ち崩す愛に酔い、それが敵意に変わる経験を何度も繰り返した。
 そして舞台が作品の書かれた現代に至り、話は唐突で理解不能な終わり方をする。蜘蛛が十分に生きた、もう愛する人を殺したくはない。そんな想いを胸に抱いていよいよここからがクライマックスだというところでただ一言、
「そして汝が物語よ、汝の糸を手繰れ。」
 この一言のみが記されており、その後数百ページにも渡って白紙の状態で製本されている。
 そしてこの本にも創世神話の痕跡は存在しており、この蜘蛛というのは創世神話の二章の終わりで大海老と戦った蜘蛛と同じ名前である。作中の蜘蛛は大海老と戦ってはいないが、創世神話でも恐ろしき魔物であるという記述はある。
 だが一見まともそうなこの本が何らかの資料になるかと思えば全くならない。作者が外国好きだったのか、それともその国の出身者が書いたものではなかったのか、舞台は全然違う国の田舎なのである。専門家に打診して聞いてみても、舞台の国の田舎の描写は風習なども踏まえていて結構よくできているらしい。舞台は徐々に都会へと移るのだがあくまでもその国の都会であって、創世神話の蜘蛛が出てきているくせに自分の国のことは名前すら出てこない。学者はこれを知ってこぞって肩を落とした。それでもなおその国の作品であると言えるのは蜘蛛の名前だけではなく、文字がその国の言葉だからである。

 ちなみに創世神話の終わりは始まりの言葉が全て逆転して終わる。金色の海が枯れ、青年は荒野に倒れ、月明かりが時間を逆転させて朝のクラヤミ草が生命を封じ込め、大樹が切り倒されて雲魚はいずことも知れぬどこかへと姿を晦ます。そして黒い動物が死んで白い服を着た少女が餓死をする。
 それから神が去り、生命の卵が残されるのである。


435

 偶然性偶発因子を内包した今までにない画期的なアイデアが実現し、それを搭載した宇宙船が第8アースに着陸した。
 偶然性偶発因子とは読んで字のごとくであるが、簡単な例をあげると何光年か離れた故郷の惑星にある愛用のスプーンを宇宙船に持ち込んでいない事に気づいたときでも偶然性偶発因子のおかげでその状態から持ち込むことが可能になる。もちろん、ズルではない。あらかじめスプーンの複製を作っておいて大仰に取り出すのとはわけが違う。違うのだが、スプーンをスプーンとして使う分にはそうしておいたほうがずっといいことには違いない。
 食器棚にきちんと仕舞われていたスプーンが何光年も離れた宇宙船に届くには様々な偶然が重なる。その経緯を見ることができるものが居たら、一見めちゃくちゃな異なる法則のものが特定の方向に向けて歯車のようにうまい事動いているのがわかるだろう。まず、スプーンがある食器棚を収めた家が偶然突如として起きた時空の歪みに巻き込まれて消える。次に宇宙のどこかでばらばらになった、家を構成していたものがさ迷い、大型テレビとかソファーとかのいいものから順に拾われてなくなっていく。やがて回収された食器棚はバザーで叩き売られ、新しい持ち主が転送装置で家に送った際に中に入っていた食器がいくつか行方不明になる。その中にはスプーンもあり、そのスプーンは本来の持ち主が遅めの朝食を取ろうとグラマティクス社の感思念自動朝食生成機を起動した際に紛れて出てくるのである。ただし転送装置で本来の流れから外れてしまったために色んな箇所が捻じ曲がり、使うにはちょっと不便そうな感じだった。
 このような事態を避ける方法は二つある。偶然性偶発因子をどこかに放り出すか(とても難しい事である)、変化を求めないか(恐ろしく難しい事である)である。間違っても朝起きて珈琲が飲みたいなあと思ってしまえば確実に珈琲を飲むことはできるが、代わりに宇宙のどこかで惑星が消滅している。

 そんな偶然性偶発因子を内包したものが搭載されている宇宙船が着陸した第8アースはたくさんあるアースでも酷いところの一つだった。まるで生成過程において惑星醸造炉にタバスコを一瓶落としてしまったかのように年中真夏日である。更に胡乱な知識で少しでも涼しくなるようにと水気を多く設定したのか、じめじめとした日が凄く多い。
 この惑星で生き延びる方法はクーラーをガンガンに効かせた酒場で酒を呷って現実を忘れる事であるが、全ての場所でクーラーをガンガンに効かせているせいで気温もガンガン上がっている。

 いつも通りじめじめとして蒸し暑い日に、冷房が効いた騒々しい酒場で酒をバカになるほど呑んで来たある一人の男が酔っ払って自分の家と間違って宇宙船に乗り込んだ。男が乗り込んできた際、偶然にも宇宙船には誰一人居らず、警備システムは自動メンテナンスのために機能を落とされていた。男は千鳥足で船の動力室まで行き、その隅っこにガラスケースに入れられている林檎を見つけた。その林檎は赤々として瑞々しく、見てるだけで涎が出てきそうな代物だった。
 男はガラスケースを放りすてて中の林檎を取り出し食べ、「うまい」と呟いたあとそのままぶっ倒れてしまった。
 やがて戻ってきた乗員によって男が発見され、しかも今まで誰も触る事のできなかった偶然性偶発因子を持った林檎を男が食べたらしいということを知ると、乗員は大喜びで男を脱出ポットに詰めてそのまま船外に射出した。乗員が大喜びした理由は偶然性偶発因子と相容れない感情にあった。それは罪悪感である。自分の考えた事が実現する代償に失われるものを考えるとおちおち妄想もできない。このままでは何も考えられないバカになるか、何も考えられないバカになる機械を偶然性偶発因子によって出させるかの二択になりそうなところだったのだ。
 ところで船外に射出された男だが、この男は毎日浴びるように酒を飲んでいたので既に酒のこと以外あまり深く考えないバカになっていた。男は眠りながら酒を飲むことを考えていたため、体内の偶然性偶発因子がなんだか酒が呑めそうだぞ、という方向に男の眠る脱出ポッドを導いていった。


434

「え……復習?」
 自分にかけられた言葉があまりにも予想外でケッフェルは思わず聞き返した。
「違う! 復讐だ!」
「ああ、なるほど、復讐ね」ケッフェルは納得したように頷いた。「復讐!?」
 男はケッフェルをじっと睨んでいる。
「あぁ、ええと、その」ケッフェルは極力申し訳なさそうな顔を作った。「忘れ」
「忘れたとは言わさんぞ!」
 ケッフェルは男が内容を話し出すと思って少し待ったが何も言わないので仕方なく口を開く。
「いやでも」
「お前が!」
 ケッフェルは男が続きを話すと思って少し待ったが何も言わないので嫌々口を開く。
「多分人違」
「俺の姉さんを!」
「……なんて名前?」
「セイジアだ!」
 ケッフェルは首を傾げる。やはり聞いたことがない。
 そして十分に考えて知らないと言おうとしたところで男が待っていたかのように口を開く。
「姉の名はサイルシアだ」
「なるほど」
 さっきのは男の名前だったらしい。だがケッフェルはどっちでもよかった。サイルシアも聞いたことがない。
「思い出しただろう」
 聞いたこともない、とケッフェルは答えかけたが素直に答えたところでそうですかと引き下がりはしないだろうと話をあわせ始める。
「えーと、ああ、何て言ったっけ、そうだ、サイルシア。その人を俺が……えーと」
「夕方のセールで!」
「そうそう、夕方のセールで……何のセールだったかな」
「パン屋の」
「そう、パン屋の夕方のセールだったかな。それから……」
 セイジアは怪訝な顔をして言う。
「プロレスをしながら」
「うん、そうだそうだ確かパン屋の夕方のセールでプロレスを」ケッフェルは急に言葉を切って自分の言葉を反芻する。「……本当にそんなことしたのか?」
「お前覚えてないな?」
「うん」
「そんなことだろうと思ったよ」
 セイジアは激昂もせず、さほど失望した様子もない。
「何でだ?」
「どうもアンタじゃない気がしてきたんだ」
「おいおい、一体どう言う風の吹き回しだ!? 俺じゃなけりゃ誰がやったんだ!」
 ケッフェルはセイジアが人違いだったと気づき始めたと知ると、自分が犯人だと主張し始めた。よくあることだが、手段と目的が逆転している。
「それもそうか。よし、それならお前に……」
「判った。落ち着けよ」ケッフェルは両手を挙げて抵抗しないという意思を見せた。「よく考えたら俺じゃない」
「じゃあ誰だ」
「それを探すんだろ、アンタが。俺も協力してやりたいが、申し訳ないが力になれないと思う」
「何故だ?」
「事態をかき回すのは好きだし得意なんだが、解決するのは嫌いってわけじゃないが全然駄目なんだ」
「あんた最低だ」
 ケッフェルはそんなことを言われる筋合いはないぞ、とちらりと考えたがそんなことはおくびにも出さない。
「別にいいけどさ、もう行っていいか?」
「何処に行くんだ?」
「パーティだよ。招待されてるんだ」
「俺も行っていいか」
「いや、だめ……」と言いかけて、ケッフェルはこいつは使えるかもしれないぞと考え直した。自分は酒を飲みたいだけなのだが、パーティというものには酒を飲みたいだけじゃなくて話をしたいだけの者も来る。そんな人にあった場合にこの男を代わりにおけば自分は酒が飲めるんじゃないか?
「いや、いいぞ。こいよ」
 ケッフェルは実にいい事を考え付いたと満足の面持ちでセイジアを一緒に連れて行くことにした。

 実はそのパーティにこそセイジアが復讐したい相手がおり、セイジアはそのパーティに潜入するもっとも簡単な方法の一つとしてケッフェルに絡んだのであるが、その復讐はケッフェルが酒を呑めるだけ呑んで酒瓶を抱えて眠っている間に起き、終わったので結局ケッフェルが知ることはなかった。


433

 本家だの分家だのと言った果てしなく続く泥沼の諍いに、本家の一人娘であり次期当主である彼女は疲れきっていた。毅然と振舞わなければならない。それだけを教えられ、そう言う教育を受けてきた。
 疲弊しきっている彼女を見かねてか、彼女の父親は使用人からの意見を容れ、彼女に専属の使用人を着ける事にした。プロではなく、さほどの心得を持たぬ者を。下手をすれば余計な負担が増えるというリスクもあったが、彼女が世話を焼く事によって少なくとも普段の雑事からは気を逸らせると言う、要は仕事疲れを仕事で癒すかのような酷い荒業であった。
 その結果選ばれたのは彼女の家の争いに巻き込まれ、多額の借金を抱え込んだ分家の一つで、失踪した両親に代わり身柄を拘束した子供だった。本家がその子供を借金のカタに引き取り、彼女に呉れてやった。
 彼女は戸惑いつつも喜んだ。自分にも「友達」ができたのだと思った。彼女は彼をできるだけ長く傍に置くために身の回りの世話をさせようとした。理由もなく置いておくには不自然すぎたからである。もっとも、それこそが両親の狙いであったのだが。
 だが誤算があってそれは彼には厳しすぎたのだ。周囲からは彼女には言えないことをぶつけるかのように冷たい目で見られ、蔑まれ、彼女からは我侭と厳しい水準での仕事の達成を求められた。

 彼の精神は磨り減っていった。自分の家を潰した本家でいいようにこき使われるという屈辱も彼には少なからずあった。プライドと言う唯一自分に残された無形の塊を少しづつ削り取って己を保っていたが、やがてそれもなくなり、彼は分岐に直面した。
 彼には選択肢が二つあったのだが、彼は本家にも主にも良い感情を持てなかった為により悪い選択肢を採択した。彼はこう思ったのだ。
 俺は彼女が我侭を言うための受け皿なのか、と。受け止めなければならない。受け止めきらなくてはならない。それこそ己を殺してでも。
 彼の心はそれに気づいたときひび割れ、仮面の笑顔を貼り付けて、己を異常なくらいに律して己を持たなくなった。
 彼女がそんな彼の変化に気づいた時には手遅れだった。彼は表面上は何も変わらない。だがその実は空っぽなのだ。彼女が何を言ったとしても受け入れて優しい微笑みを浮かべるが、彼自身には届かない。彼の心の何をも揺さぶらない。
 ただ彼女の真意に気づいていれば、或いは頼ってくれていると捉えていれば違っていたかもしれないというのに。


432

 バンハイム・ビルギン・ソーンダイクの朝は遅い。だがここで注意せねばならないのはバンハイムが住まうプラ星系第七惑星は一日が51時間あるということだ。地球人の感覚で午後二時に起きても、この惑星の基準からすれば十四時間睡眠というのは特に目を引くような事でもない。昼寝時間を抜いても活動時間は三十時間以上あるからだ。
 ちなみにバンハイム・ビルギン・ソーンダイク以外の朝はどうなのかというと、その疑問は全く無駄である事を記しておく必要がある。何故ならプラ星系第七惑星にはソーンダイク姓以外の人が居ない。全員がナントカ・地名・ソーンダイクである。そしてソーンダイク姓の者は大体そんな生活だった。

 それはそうとバンハイム・ビルギン・ソーンダイクは顔芸の達人であった。できる顔芸は一種類で、それもうさんくさそうな顔のみである。だがバンハイムのうさんくさそうな顔は全てが本当にうさんくさく思えるので様々な場所からバンハイムの凄くうさんくさそうな顔として恐れられていた。
 例を挙げるならばこんなものがある。バンハイムがとある辺境のちっぽけな惑星を訪れた際、そこにあった美術館に行って目玉商品の絵画の前で顔芸を披露したところ、その絵画には様々な鑑定家からの証明書がずらずらあったにも関わらず再鑑定を余儀なくされた。更にその辺境のちっぽけな惑星の住人はバンハイムのうさんくさそうな顔を初めて見たので、再鑑定で本物と認定されたにも関わらず疑惑が晴れずなんのかんので贋物ということになって美術館に置かれなくなった。
 そこで一番驚いたのは画家だった。まだ存命していて、自分が描いたと言っているのに贋物扱いされて作品が美術館に置いてもらえなくなったのだ。ただこの画家は賢かったので、後でバンハイムに会って親交を深めた後、酒をしこたま飲ませてうさんくさそうな顔を作らせそれを絵に描いて大儲けした。
 ちなみにバンハイムのうさんくさそうな顔が大いにウケて、画家の孫娘と結婚までしてしまったがそれはどうでもいいことである。


431

「腹黒系魔法少女リリト参上ー! ……ってぎゃー!?」
 真っ昼間から侘しい腹を満たすために俺が茶漬けをかっ込んでいるところに、貞子よろしくテレビからおもむろに生えてきたそいつは俺の前で仁王立ちになると噴飯ものの台詞を吐いた。
「いきなり何するんですかっ! 折角のかわいい顔が台無しじゃないですか! ほらタオルタオル!」
 どうやら俺は本当に噴飯していたらしい。悪いのは俺ばかりではないと思うのだが、俺は急かされる様にして偉そうな小娘にタオルを渡し、事態を傍観した。外を歩いているのを見つけたら思わず目を逸らしてしまいかねないファンシーな衣装を着ているが、こいつには羞恥心とかそういった類のものは存在しないのだろうか。青とピンクのひらひら衣装はテレビを通さないと見ていて恥ずかしい。
「信じられないですよヒトが自己紹介してるのにいきなり人の顔に全くもう……」
「そうか、悪いな……でも特に何もいらないから帰ってくれ。ホントに」
 俺は心からの本音を吐いた。
「え?」
 リリトは本当にそうだったのかは定かでないが聞こえなかったようで、耳だけをこちらに傾ける。
「帰ってくれ」
「そ、そんな……。いくらこんな不思議系美少女がいきなり訪れたからって取り乱して帰れだなんて……。あとで嗚呼何でボクはあの時あんなことを言ってしまったのだろうもし引き止めていればいずれあんなことやこぉーんなことが待ち構えていたかもしれないのにヨヨヨ、だなんて自分を責めるのは目に見えてます! そんなに自分を責めるのは止めてください! まだ間に合いますよ!」
「帰れ」
「ああっ!? 風当たりが一層強く!? まぁいいや……それよりアナタは今好きな人が居ますね!」
 このままでは埒が明かないと思っていよいよ何か商談に入ったのか、と俺は露骨に顔をしかめる。だがリリトは全く気にした様子はない。
「何の話だよ……いない。いないから帰れ」
「またまたご冗談を。いないなら作ってください! 設定ですととりあえず誰かとくっつけなきゃならんみてーで。全くあたしは天使じゃないっつーの! って話ですよね」
 リリトはそう言いながら古臭いノートに目を通していた。
「なんだその設定とか言うのは」
 俺が問うと、リリトは意外そうな顔で俺を見た。
「これですよこれ」
「んー?」
 そう言ってリリトが向けてきたノートにはエラい汚い字がのたくっていた。俺は目を細めてそこに記された情報を読み取ろうとする。
 えーと……、魔法少女リリト、魔法の国から……読めないな、魔法の国からついほう? されて人間界に。魔法の国へ戻るためカップル成立を目指す……と。何じゃこりゃ。
 そう思いながら下のほうへ読み進めるにつれて、今後の展開的なものが記されており、それを読んでいる内に俺は物凄い悪寒に襲われた。ノートに記されていた今後の展開。それは思い返すもおぞましく、思い描くのもまたありえない。
「貸せっ」
「ああ! ちょっと!」
 俺はリリトからノートを奪って他のページをめくってみる。あ、あ、あ、これは……これも……、
 ってこれ俺の黒歴史ノートじゃねぇか!
「てめぇこんなものどっから持ち出しやがった! 捨てたはずだぞ一昨年の大掃除の時に!」
「持ち出したって失礼な……。ちゃんと上司から渡されて任務としてきてるんですからねこれでも」
 貴様の上司は俺の母親か、と突っ込みそうになる。万一肯定でもされたらコトなので聞かなかった。
「結果捏造していいから帰ってくれ。このノートを置いて」
「そんなことしたら怒られるじゃないですか。怒られるのはともかく給料差っぴかれるのはこっちも痛いんですからね!」
 リリトは存在の割に妙に現実的だった。俺はどうにか何事も無かった事にする手立てはないかと思案をめぐらせる。
「魔法」
「え?」
「魔法少女、とか言ったな。じゃあ魔法を一つ使ってみろ」
 魔法少女なんぞ言葉にしただけで恥ずかしいものがあるが、ここは証明のために耐えて言ってみせた。
「いいですよ」と、リリトはあっさり承諾する。
 あれ、とこの時点で予想と違っていたのだが、リリトは「では魔法で中に入るのでドアの鍵を閉めてください」と言って自ら外に出た。俺は遠慮なく鍵とチェーンをかける。
 さてお茶漬けの残りでも食うか……。そう思ってすっかりふやけた米を無表情でかきこんでいると、
「ア・ナ・タ」
 耳元で囁かれ再び噴き出した。
「うわわわわわっ!?」
「え、なんですかその驚きよう」
「な……どうやって入った!?」
「ですから魔法ですよ。マジカルピッキングです」
 リリトはそういって両手に何かを摘んで手先の何かをいじる仕草をした。……チェーンはどうしたんだろう。
「マジカル言えばいいってもんじゃねぇんだぞ。じゃあとりあえず警察に……」
「な! やれって言われたから仕方なくやったのに……。別に私だって勝手に他人の家に侵入したりはしませんよ多分」
 リリトは白々しくもオーバーリアクションで驚くような仕草をしてみせる。
「お前ここ誰の家だと思ってるんだ。てめぇと俺は赤の他人だろうが」
「仕事先です。だから早いトコラブラブになって私が冷やかせるようになってください」
「だから」
 そんなものは居ないし、そんな予定もないから帰ってくれと言いかけたところでリリトが吐いた言葉に硬直する。
「大体、片思いだった幼馴染の子はどうしたんですか」
「……待て、何で貴様そんなことを知っている」
 俺が答え次第ではただでは返さんと言う態で詰め寄ると、リリトははっとしたように慌てた様子で答える。
「い、いえ! その、情報の一つとして上司から聞かせてもらいまして!」
 本当にこいつの上司って俺の母親だったりしないだろうな。そんな疑惑を抱きつつため息をつく。
「別に社とは何ともなってねえよ。最近は会ってもない」
 と、俺が言い捨てるとリリトは逆に笑顔になった。
「おやおやまだ未練がありそうなご様子で」
「ねえって」
 俺はわざと無愛想に言い捨てる。社のことはどちらかと言えば苦い思い出として残っている。
 社とは確かに幼馴染だ。一つ上で、いっつも俺の姉貴のように振舞っていた。俺は多分、好きだったのだと思う。少なくとも俺が中学生の時までは好きだった。好きだったが、中学にあがっても相変わらず姉貴風を吹かせて俺を子供扱いするのが気恥ずかしくて、俺が敬遠するようになり段々疎遠になっていった。それは高校の時も変わらない。高校の時も一度か二度一緒に帰ったくらいで、その時すら殆ど会話することはなかった。ただその時は社も俺に興味がなくなっていたのか、姉貴ぶることはなかった。そしてそれ以来俺と社の関係(と言うほどのものでもないが)は完全に過去のものとなり、今では昔親しかったご近所さんくらいの感覚ではないかと思う。大学にあがった現在、大学は社と奇遇にも同じところらしかったが俺は社がどこの学部かも、そしてどこに住んでいるのかも知らなかった。案外実家からということもありうるが。
「まだ取り戻せます!」
 俺が回想に耽っていると、急にリリトが立ち上がって言った。
「…………は?」
 と、しか俺は答えようがない。一体何がどういう展開を経た上で「まだ取り戻せる」などと言うのか。俺の回想でも見たのか。
「なぁにその社さんもきっと貴方の事が好きなはずです。ほら気になるアイツって言う奴ですよ!」
「いやだから」
 会ってもいないのだというのにこいつは全く聞いていないらしい。
「とりあえず会いに行きましょうよ」
「……無駄だ」
 学部も所在も知らぬと言うのに、どうやって、またどんな顔で会えと言うのか。今更会ったところで、気まずいだけだ。
「無駄ではない事は私が保証しますよ!」
「あのなぁ、人の事にあんまり首を突っ込むもんじゃねぇよ。俺だって忘れたいくらいの過去なんだから、社にしたっていい迷惑だ。第三者がクビを突っ込んでいい問題を悪い問題ってもんが……」
 このままでは埒があかんと俺が少し真顔で説教をし始めると、突如リリトは真面目な顔になり、俺の目をじっと覗きこんで一言こう言った。
「本当に、そう思ってますか?」
「ああ」
 嘘だった。自分でもそんな事判っている。俺は、本当は、少しだけ期待した。「今」の社とまた話してみたいと、そう思った。そしてそれに気付いた直後に、社の方は迷惑がるかもしれないと自分の浅ましさを恥じたのだ。考えすぎかもしれないということは判っている。古い知り合いにあって懐かしい気持ちに浸るくらい大した事では無いだろう。だが、俺は美化された記憶に現実の上塗りがなされることを心のどこかで恐れているのだと思う。
 リリトは俺を無言で見つめている。若干、口を尖らせて。コイツは俺の本心に気付いたのだろうか?
「もし、社さんが再びあなたに会うことを密かに期待していると聞いても、同じですか?」
「……!」
 リリトは憎らしくもこの時は口調も目も真剣そのものだった。
 だが、今更ほいほいと意見を変えられるほど、俺も人間できていないのだ。
「変わらねえよ」
 リリトはその言葉を受けて一瞬だけ泣きそうな顔になった。俺がその表情をみていて浮かんだ質問を口にしようとするより先に、リリトが再び口を開く。
「二度と会えなくなるかもしれませんよ」
 その口調はまたしてもふざけてると言った調子ではなく、冷酷なくらい真剣だった。だが、いくら本心からの言葉であろうとも、俺には聞きすごせないものがあった。
「どういうことだ」
 リリトはじっと俺の目を見返して口を開くがすぐに閉じ、大きく息を吸うと最初のテンションに戻って言う。
「ですから! 一度会ってみましょうって! 過去との決別、過去の清算……名目はなんだっていいんです。地獄の沙汰も金次第って言うでしょう? やらずに腐るなんてもったいなさすぎますよ!」
 突如出てきた、文脈に何の関係もない慣用句はなんなのかとも思ったが、どうやら先の穏やかではない言葉の説明はないらしい。ハッタリかもしれなかったが、それにしては洒落にならない。だがそれが俺と社が今再び会う事によって潰せる選択であるのなら、別に会ったっていいじゃないか。俺は己の頑なな心を懐柔する。
「仕方ねえな。判ったよ」
 結局、俺は安心したような笑顔を浮かべるリリトに期待半分、不安半分で付き合うことにした。