思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳250-234 欲しがるものは、費やすものの半分の価値も無い。

250


 障子が開かれて部屋に朝日が射すのを肌で感じ、眠っていた秀次郎は傍らの刀を掴んで横に転がって飛び起き、そのまま抜刀した。
 逆光で顔がわからなかった。やがて目が慣れ、自分の居室に居る人物を視認すると刀を鞘に収めるのも忘れ、慌てて平伏した。
「も、申し訳ございません柚木様!」
「いいのよ、秀次郎。気にしないで」
「はっ」
 秀次郎は微動だにせず、平伏の姿勢を保っている。
 だから、柚木が酷く悲しそうな顔をしているのにも気づかなかった。
「今はこの部屋には私と、お前しかいないのよ?」
「…?…はい」
 柚木の言わんとするところがわからず、ただ秀次郎は同意する。
「こんな時くらいは、弟として振舞ってくれないのかしら?」
「それは……」
「お前にとっても、私にとっても、もうただ一人の肉親なのに」
「柚木様…」
 柚木は複雑な表情で自分に完全服従の意を見せる弟を見つめた。
「私が何か悩んだところで、誰にも相談できはしないのよ」
「…私は、お力になれるかは判りませんが、誰にも他言は致しません」
「…そうなのでしょうね」
 秀次郎はさすがにそういうことではない、と気づいた。
「………」沈黙が続く室内で、顔は上げずに秀次郎は口を開く。「…姉さん」
「秀次郎。人と話すときは目を見なさいといったでしょう」
 秀次郎は渋々といった調子で顔を上げ、自分の姉を真っ向から見つめる。強い目だ、と柚木は見るたびに思う。
「言い加減に…慣れてくれないと困るな。俺の努力も無駄になる」
「…お前は私の立場になったことがないから判らないのよ。どんなに偉いといったって…」
 秀次郎は姉の言わんとすることは判っていた。柚木はこの国で一番偉い立場に居る。しかしその側近はまるでその仕事をこなすために生まれたような、感情を見て取ることが難しい、あまりにも人間味のない者たちばかりなのだ。以前、外国の瓦版がからくり人形の国だと報じたほどに。
「本を読んだわ」
 唐突に、柚木は話を変えた。
「…そう」
「遠い、外国の童話」
「……」
「兄と姉と弟がいて、その三人はとても貧しくて、でも皆協力し合って生きているの」
「…うん」
「とても、幸せそうだった」
「……」
「途中悪い魔女に姉が騙されて攫われてしまうんだけど、兄と弟が全力で取り戻しに行くのよ」
「うん」
「そして取り戻した後にお城から王様の使いが来て、姉に后になってくれないかと話を持ちかけるの」
「……」
「姉はその話を断ってしまうの」
「……」
「でも、やがて生活がいよいよ苦しくなってきた頃、再び王の使いが来て、兄と弟のために姉はその話を受けるの」
「うん」
「姉は兄と弟に会いたかったけれど、決して来て欲しいとは言わず、ただ毎年二人が生活できる分だけの物資を送るの。それから…」
「……?」柚木は急に黙ってしまった。「姉さん?」
「…悲しい、話なのよ。その姉が嫁いだ王は悪い王で、姉が后になると兄と弟を兵に命じて殺させてしまっていたの」
「っ…な、何で?」
「王は魔女の話を聞いていて、もしかしたら姉を取り返しにくるかもしれないと思ったのね。姉は王が亡くなるまでその事を知ることが出来なかったのよ」
「……」
 秀次郎は何も言い返すことが出来なかった。姉は、その話を自分に語り、何を伝えようとしているのだろうか。考えても、全く予想がつかぬ。…否。一つだけ、予想はついた、が。そんな突飛な事を言い出すほど姉は馬鹿では無い筈だ。
「後悔をするような選択をしてはいけないわ。取り返しがつかぬこともあるのだから」
「…そうだね」
 秀次郎は自分の予想が外れていたことに安堵する。もし、姉が、「自分を連れて逃げろ」と言い出したのなら自分はどうすれば良かったのか。そんな不吉なことをこれ以上考えずに済んだ。
 そしてその王は悪い王だ、と言い切った姉の言葉にも少し違和感を覚える。ただ、王は怖かっただけなのかもしれない。嫉妬深かっただけなのかもしれない。それは人間としては別段間違ったことではない。しかし、王としてはどうなのだろうか。だが秀次郎はそれを姉と話し合おうとまでは思わなかった。
「秀次郎、ちょっとこっちに来てくれる?」
 今でも充分話すには困らぬ距離なのに、柚木は秀次郎に向かって手招きをした。
「何?」
「いいから」
 再び嫌な予感が鎌首をもたげてきたが、それでも断るわけにはいかない。秀次郎は渋々近寄った。
 近寄ると、何も言う暇を与えず、柚木は弟を優しく抱き締めた。
「っ!?姉さん…!?」
 秀次郎は離れようとしたが、主であり自分の姉でもある柚木を手荒に扱うわけにもいかず、途方に暮れたように、ただされるがままとなっていた。
 柚木もそれ以上は動かない。鉄と血の匂いばかりを嗅いでいた鼻に香る淑やかな匂いが、秀次郎を戸惑わせる。
「無理に私の傍に居なくてもいいのよ?」
 柚木はか細い声で呟いた。
「え…?」
「お前は、ここを出て、何かやりたいことをやっても、いいの」
 秀次郎は抱き締められているために姉の顔を見ることは出来ぬ。しかし辛い表情をしているのではないか、と思った。
「……」
 そして秀次郎は唐突に姉の発言の意図を理解した。
 この会話できる距離にいながら、姉と弟の距離を保つことの出来ぬこの状況が姉にとっては辛いのだ。いっそ、どこか遠くに居て弟を想う方が記憶の中で理想を留めていられるから。
 そして姉は全く理解しておらぬのだと思う。幼い頃に父と母の前で強く誓った「ねえちゃんをたすける!」という言葉が今の秀次郎を作っている事を。
 姉の内面が脆いのは昔から承知している。それを放って一体何に打ち込めよう。その想いを込め、秀次郎はにぃ、と笑みを浮かべて口を開く。
「相談役が要るんだろ?」
 柚木は驚いたように秀次郎の顔を間近から見た。その柚木の頬に涙が伝っており、秀次郎は動揺するがあくまでも表情は平静を保たせる。
「生意気言うようになったじゃないの」
 だがそう言う柚木の顔はもう満面の笑みで、照れ隠しのようにコツンと秀次郎の額と自分の額をくっつけた。


249

「どうぞお食べなさい」
 少女は涎をたらして自分を見つめる人狼を見て、さほど迷わずに言った。
「言ワれズトモ、ソうスル」
 目の前の貧相な人間はおそらくこの山で遭難したのだろう。体はガリガリで、死ぬ一歩手前だった。銃を持っていないし、自分を狩りに来たわけでもないようだ。
「この通り私も肉付きがよくありませんので、貴方の助けにはならないかもしれません」
 少女は冷静な、だが弱々しい口調でそう言った。人狼は急に命が惜しくなったのか、と思って眉を顰める。さりげなく自分を食べることの無意味さを知らせて諦めさせようとしているのか。土壇場で意見を翻す人間なんてそこらじゅうにいる。一秒を前後して意見が真逆になる人間も、死を前にすれば出てくるのだ。
「…あの」
 人狼が考え込んでいると、少女から苦しげな声がかかる。人狼が目を向けると、
「食べるなら早くしてくれませんか。…この状態は苦しいので」
 やはり、生きることを諦めているだけか。
 人狼は無言で太ももに牙をゆっくり食い込ませて、そのまま食いちぎった。確かに喰い応えもないし、あまり美味くない。しかし人間は苦痛に顔を歪め、玉のような汗が額に浮く。さすがに死ぬ寸前とはいえど、痛いらしい。生意気な台詞も出てこないようだ。人狼は少し気分が良かった。しかし本当に美味くない。前食べた人間はもう少し美味しかった気がする。ここまで貧相なのがいけないのか。それならば少し生かしてみてもいいかなという気になる。片足を喰ったし、そうそう身軽に逃げたりはできないだろうし、何よりも喰っていいと言っているのだ。遠慮なく食べれる獲物ならばもう少し美味しく料理してからでも悪くないだろう。
「オい」
 返事は無い。苦悶に顔を歪ませたまま気を失っているようだった。
 まぁいい。勝手に持って帰るとしよう。暫くは退屈も紛れるかもしれないな、と思う。大体敵意も殺意も持たずにさぁ食べてくださいなんて、面白みが全く無い。折角覚えた人間の言葉を沢山使う良い機会かも知れぬ。
 己自身でも気づかぬ期待を少女と共に抱え、人狼は我が家に帰ってゆく。


248

 自分以外使うことが許されていない神泉で、一人の神子が傷だらけで横たわる男の顔にそっと水をかけた。傍らに、壊れた鎧が置いてある。
「目を、どうか目を開けてください…ヴァンさん…」
 神子は祈るように目を瞑る。
「……」
 何か囁くような声が聞こえた気がして、はっと目を開ける。ヴァン…神子を守るための一時的な騎士である男は、目を開けていた。
「ヴァンさん、気がつい…て…?」
 しかしその目は虚ろで、何も映してはいないようだった。意識が朦朧としているのか。だがその朦朧とした意識の中でヴァンは呟くように口を動かしている。神子は耳を寄せた。
「…だろう。結局、神なぞまやかしなのだ」
 誰か意識の中の敵対者に向けて、この国では死罪になる程の呪詛を吐いているようだった。
 神子は何を言うでもなく、ただ蕩蕩とその言葉に耳を傾けていた。
 やがてヴァンの言葉が途切れた隙に言葉を挟む。
「ヴァンさん。…貴方は強い人です。だから、」神子は強い意思を持って吐かねばならぬ言葉を口にするときのように、眉根を少し寄せた。「…貴方にとっては、そうなのかもしれません」
 神子はここまで来て始めてヴァンの数々の不信心な発言に対して譲歩を見せる。
「しかし私が、そして貴方が見てきた民は皆それほど強くありません。何かに縋ることによって、縋る支柱を持つことによって生きる強さを得るのです。そしてその支柱は共有されることでより強固なものとなるのです」
「それは盲信…だ。皆で作り上げた、現実味の無い…物語を…有難がっているに過ぎぬ…」
 ヴァンは即答した。神子はまさか意識が戻ったのか、とヴァンの顔を見るが相変わらず朦朧としている様子だった。
「かもしれません」
 神子は自分の存在意義を否定するその言葉すらをも受け入れた。
「でも、有難がっている民には現実なのです。それが全てだという人もいるのですよ」
「私は、」ヴァンは一度言葉を止めて何度が呼吸を繰り返す。神子は続く言葉を待つ。「虚構の役者で居るつもりはない…」
 神子は自分を人間のように扱い、他の人ほど敬意を払ってこないために一番身近に感じていた人間が、一気に自分から離れていくような気がして、気づかぬうちに泣いていた。
「それでも…いいです。いいですから。でも貴方は」神子は鼻をすすり上げながら、そっと神泉の水を傷口にかけながら呟くように言う。「神様ではなく、私のために露払いをしてくださると、そうおっしゃったではないですか」
 ヴァンは再び目を閉じた。
 息は安定している。どうやら、助かりそうだ。神子は一息つく。そして悲しい眼差しでヴァンは見つめながら思う。
 嗚呼。この人もこの世界を変えることは出来ぬ、と。
 神を否定し、現在の世界の在り方を変えるにはこの人は深く神に囚われすぎている。本当に世界に革命をもたらす事の出来る人は神を歯牙にもかけぬような人なのだ。敵として神を「認識」しているこの人には、世界を変えることは出来ぬ。そういう人間の末路は…、
「貴方は…私の敵になるのでしょうか。いつか、私をその傷だらけの体で殺しに来るのでしょうか」
 おそらく、そうなるのだろう。
 しかし神子は悲しげな表情でただ、ヴァンの体に神泉の水を優しくかけてやるのだった。


247

「うはははははは、貴様が待っているヒーローなど…この我が結社の秘密兵器の前には形無しよ!」
「な…それは…こ、来ないでヒーロー!来ちゃ駄目ぇっ!」
「はははははは!遅い、遅いわ小娘!もはや…」
 シュタッ
「ヒーロー参上!」
「おい、ちょっと台詞の途中だから待ってろ」
「あ、はい」
「遅いわ小娘!もはやヒーローなど一般人以下の力しか出せなくなるだろう!」
「そんな…そんな極悪なものを…!なんて悪党なの…!」
「うはははははははっ!」
「…………」
「…………」
「…おい、いいぞ」
「あ、そうですか。…そこまでだっ!貴様らの企み、今日で根絶やしにしてくれる!」
「ふんっ!今更来て何を言うかと思えば!これでも食らえ!」
 ビビビビビ
「ふっ!ほっ!」
 ビビビ…
「おい」
「え、あ、はい?」
「当たれよ」
「え…でも…それ何か紫色のビームとか出してますし…」
「大丈夫だよ。これは俺らの結社が作り上げた秘密兵器で、リラックスして、その後で滋養強壮の効果が出る。浴びる栄養剤として売り出そうかと思ってるんだ。ちょっと後で利用者の声やってくんないか」
「はい。是非」
「じゃあいくぞ」
 ビビビビビ
「ぐあああああっ!」
「ああっヒーロー!…そんな…」
「ふふふ貴様の命運もここま…おい、へたるなよ」
「す、すいません…腰の力が抜けちゃって」
「うーんちょっとリラックス効果高すぎるかな。開発に言っとこう」
「あー。ちょっと力抜けすぎちゃって立てません」
「困ったな…仕方ない。ちょっと休憩だ。今のうちに開発に電話入れてくるか。嬢ちゃん、ジュース奢ってやるから来な」
「わーい。有難うございまーす」
「ふー。何だか気持ちよくなってきた」


246

2375/09/16 本日の見出し SWW日報

 SWWネットワーク超大手サイト「星間未来管理局」閉鎖決定。

 管理人の志摩寺氏がこの度百歳を迎え、何十万、何百万通の存続願いを振り切って尊厳死を選ぶと宣言。以下、志摩寺氏からのコメント:

 皆様、こんにちは。志摩寺です。沢山のサイト存続、そして私の延命を願ってくださった方々、有難うございました。しかしこの度は皆様知っての通りの結果となりました。これは当サイトで幾度も触れました私の信念による決断ですので、皆様におきましてはまことに勝手ながら是非ともご了承頂きたく思います。
 今から二百年ほど前に、癌細胞の研究に成果により、人間の寿命を決めるテロメアを無限に延ばすことが可能となりました。それ以降は皆様も知っての通り、事実上の不老不死となりましてかつてそれまでの世界を覆っていた少子化から一転、人口の増加、そして宇宙に一部の人を追いやるような、そのような結果になりました。死ぬことへの不安というものは激減しました。そして代わりに台頭してきた生き続けることへの不安というものが『死を求め、風が嘆く。』の書き出しで一世を風靡いたしました北極氏の名作「孤高の死神」を生み出したことは今でも記憶に新しいでしょう。
 しかし永遠が生み出すのは無限の退屈であります。新紀元後の歴史を顧みましても、世界平和に亀裂を入れるかのように無駄で無意味な革命の乱発、悪用されたクローン技術により(異論ある方が多数いらっしゃるのは承知の上ですが、私の論では「悪」です)生まれた人権無き人間による闘神伝などの番組が生まれたのは、かつて真っ当に自らの人生を送っていた時代の人々には到底見せられぬ悪行であります。汚点であります。
 きっと今、我々は行き詰っているのです。目標というものは到達し難く、或は出来ないから目標足り得るのであり、念願叶ってしまった目標など今の我々の時間と同じくらいに意味のないものなのです。
 皆様方はこの先何百年も生き続けて成し遂げたいことがおありでしょうか。おありになるのならば結構です。しかし何もないという方々におきましては今一度第三者の視点からこの世界を見つめていただきたく思うのです。そうすれば、今は理解できない方々も私がこの度尊厳死を選んだ理由が少しでもご理解いただけると信じております。

 私のまだ見ぬ世界に大樹の芽があると信じて。
 2375/09/14 星間未来管理局 志摩寺拝


245

「…俺な」
「はぁ」
「絶対になりたくない職業があったんだよ」
「ふぅん」
「でも自分で何で嫌いなのかよく判らなかったから、その仕事についてがむしゃらに知識を叩き込んだ」
「はぁ」
「それでもよく判らなかったから、そのまま試験まで受けたりしてな」
「凄い腰の入れようじゃないですか。ホントはやりたかったんでしょう?」
「いいや。未だに考えるだけで嫌だね」
「じゃあ何がやりたかったんですか?」
「そうだな…。やりたいことは一杯あったよ。プロレスラー、漫画家、ニュースキャスター、野球選手…」
「へぇ…。見境ない感じですけど、夢沢山じゃないですか」
「そう。だからどれを選んでも良かった…というよりも、地に足がついた仕事がしたかったのかな」
「でも漫画家なんて結構危ないじゃないですか」
「だから売れっ子だよ。ある程度の刺激も欲しかったんだ。だから公務員なんてのはあまり惹かれなかったね。いくら地に足が着いてても…」
「ちょっと、それはいくらなんでも失礼なんじゃないですか」
「個人の所感なんだからいいだろ。とにかく、そんな感じだから冒険家とか科学者とかは全く惹かれなかったね」
「冒険家はわかりますけど…科学者じゃそれほど不安定でもないでしょう?」
「そうなのか?だってあいつらどうやって食ってるのか得体が知れないからな。いいんだ、別に。とにかく地に足が着いてるのが良くて、足元も覚束ないようなのは、絶対にごめんだった」
「へぇ…」
「そんな俺が絶対にやりたくない、って言ったら想像つくだろ?」
「えぇ…。まぁ判りますけど…いちいち僕にそんなこと言わなくていいですよ。それよりそろそろ時間ですから機長、しっかりお願いしますよ」
「はぁ…わかったよ」


244

 隻眼の僧が木陰の岩に腰掛けて休んでいる。すぐ近くには茶屋があったが、僧にはそこを利用できるだけの手持ちがなかった。
「お坊さん、ンな所で休んでないでこっちに来たらどうだい?」
 目を向けると、単色の紅い着物を着た女が茶屋の赤布の引かれた四角い木椅子に腰掛け、足をぶらぶらと遊ばせていた。
「いえ…私はここで結構です」
 僧は正直に銭が無いので、と言おうとしたがみっともないので口を濁して答えた。
 女は首を傾げ、
「ふぅん」
 と、詰まらなさそうに答える。
 そこで話は終わったかに見えたが、
「お坊さん、喉渇かないのかい?茶もあるよ」
 僧は無言で水筒代わりの竹筒を掲げてみせた。
 女は強情な坊さんだ、と言わんばかりに肩をすくめる。
 僧は特に街道周りの景色を見渡すでもなく、開いた片目で足元の草がそよ風に揺られるのを眺めていた。
 そして少しの沈黙の後、
「お坊さん、片目潰れてんのかい?」
 僧は再び顔を上げる。遠慮ない物言いをする娘さんだ、と思いながら僧は律儀に答えた。
「ええ。昔つけられた刀傷です」
 僧の答えに女はそれをよく見ようとしたが、顔のほんの小さな一点を見るには少し距離があるようだった。
「お坊さん、どうせ休むならこっちにしなよ。銭が無いなら団子の一本や二本ご馳走してやるからさ」
「いえ、見ず知らずの方にそこまで世話になるわけには」
「いいから来なって。どうせ銭なら余ってるんだからいいんだよ気を使わなくて」
「あまりそう言った事をこのような場で放言しない方が良いですよ。誰が聞いているかわかりませんから」
 そう答えながら僧は立ち上がった。この手の人間は最終的には力ずくでもなんとかしようとするだろう、と僧は昔の経験から学んでいたので女の気が荒れないうちに茶屋に向かった。
 茶屋で女の近くに腰を降ろすと、女は「団子追加ー。あと茶ももう一人分」と奥に向かって言ってから、
「へぇ…本当に刀傷だね」
 眉の上から左目の少し下まで走る刀傷をじっと見つめた。
 僧が何か答えかけるが、その前に女はさっと僧の竹筒を取って、
「大体こんな竹筒に入れた水なんて…って、あれ?空じゃないのさ」
 女は竹筒を振りながら言う。竹筒からは水の一滴も出てこない。それもそのはずだ、と僧は思う。中身なら街道の途中でとうに飲み干していた。
「忘れていました」
 僧は悪びれた様子もなく飄々と答える。
「…食えない坊さんだね。ま、いいけどさ。どうせあんな木陰で休んでたのも銭がないから、とかそんな理由なんだろ?」
 見事に言い当てられて、僧は少しだけ困ったように微笑った。


243

 壁の部分を少し指に力を込めて押してみる。
 すると私の指を中心に緑色の毒々しい色が広がって、壁がグズグズになってゆく。壁を崩してしまうとまた怒られるので、壁が崩壊を起こす前に指を離す。
 私はいつもこの体のせいで人と同じ生活を送ることを断念せざるを得なかった。取り入れた酸素を毒素として強制転換してしまう体のせいで、体中がうっすらと毒々しい緑に染まっている。体内を流れる血液がそういう色をしているせいだ。母は私の血を見て倒れ、その際に打ち所が悪くて他界し、父は私を殺そうとして私の毒に当たった。嗚呼なんと呪われた体であるのだろうか。生身で触れた場所に少し力を込めるだけでそこはたちまちに腐敗が始まる。ただの毒ではないらしい。それを知る頃には、もうここに居た。
 顔を上げて部屋の反対側のガラス越しの部屋を見れば、何人もの白衣を着込んだ人間が忙しなく歩いている。ここに私の世界は作れない。いや、この世界に私が居られる場所などというものはないのかも知れない。
 一度ここに来たばかりの頃、私は自分の体質を利用して自殺を図った。しかし、よくよく考えれば当然のことながら、私の体内には免疫があったため失敗に終わった。自殺の意図さえ誰にも気づかれることなく終わったのだ。
 不意にガチャリと扉が開く音がして私はそちらを振り向く。検査は暫くなかったはずだ、と思いながら見ると、
「よぉ」
 火事場にでも行くかのように皮膚を露出しない服装をした人間が居た。だがこれは普通のことだ。私が居る部屋に生身で入れば十秒と経たずに肺から崩壊を起こして一分以内に死に至るだろう。
 一応、私との面会…この言い方ははなはだ不本意ではあるけれども、面会は研究所が開いている時間内なら自由ということになっている。そして今来たこの男はそんな私に頻繁に会いに来る変わった男だった。
「また貴方なの」
 私は呆れかえった表情で言う。できれば、あまり来ないで欲しい。思うに、研究所の人間が予想する以上に私の体質の害は大きい。皮膚が露出しないところで、同じ室内などという緊密した場所に居れば少しずつではあれども相手を侵食するだろう。この男にはまだ何の体調異常も現れていないのだろうかと私は疑問に思う。
「へへへ、そう手土産がないからって邪険にするなよ」
 男は何も考えていないような気楽さで言う。
 そう、この男はこの前来るときまでは何らかの手土産を持ってきていたのだ。ヌイグルミ、美味しいと評判のお菓子、安っぽい風景画、静かなクラシックの入ったCD…。しかしどれも私の前では一日と原形を保つことさえ出来なかった。唯一CDのみは私の部屋に再生機器がないので、研究員の方でスピーカー越しにCDを掛けてくれるので助かったが。
「そういう問題じゃないわ」
「ほら、あんなにたくさんの人らがアンタを治すために研究してるんだから、もっと気をドンと持てよ。今から社交性を鍛えておかないと」
「…………」
 相変わらず何を言っても堪えない。私は溜息と共に軽く頭を押さえる。
 大体、この研究者たちは一概に私の体質改善のためだけに居るわけではないのだ。私の体を元に戻す研究をする一方、何か兵器に類するものを造り出しているらしい。私の細胞から造り出した細菌兵器はさぞ人を簡単に殺すだろう。体調が異常を訴える頃には感覚器官など崩壊しているだろうから。
 だからこの男にはそんなことを知る前に来ないようになっていて欲しい。
「そういえばな、この前面白い話聞いたんだよ」
「そう…」
「おいおい、今日のはホント面白いぜ?」
 私の心境など欠片も察する様子はなく、男は楽しげに外の世界の話を始めた。


242

 天使の歌が俺の胸を焦がす。凍てつく様な荒涼とした大地の上俺は倒れ、ただどこからか聴こえる天使の歌声に耳を傾けていた。
 その歌は今まで聴いたどんな歌や音楽よりも素晴らしく、そして寂しいものだった。オーケストラのような壮大さは微塵もなく、ポップのような軽快さも勿論ない。ただ俺には理解できない言語で紡ぐ歌を風に乗せて流している。意味こそわからなかったものの、その歌の調子は張り裂けんばかりの寂寞を持っていた。何故ここまで悲しい歌を歌っているのだろうか。できれば今すぐこの身を起こしてその歌い主の所へ駆け寄って、ただ抱きしめたいようなそんな感覚にとらわれる。しかし生憎とこの身は衰弱しきっていて、ついさっき歩くことすらもできなくなったのだ。ただ死を待つのみのこの身で何が出来るというのだろう。
 それにしても寂しい歌だ。だが、とても綺麗だ。ふと、最後にこれが俺の追悼の歌だったらこの誰も居ないような場所で死ぬ身も、少しは救われるなと思った。


241

 むかしむかし。
 まだ最後の幕府が存在していた時の頃。
 とある地方の山に、其処に住む民草を纏める長が居ました。
 その長は鬼姫と呼ばれていました。
 鬼眼という、敵対者の絶対無力化を可能にする最強の非殺眼を持っていたためです。
 鬼姫は、その異能の眼を決して悪いことには使わなかったので、とても人望がありました。
 当時の幕府の未来に不安だった者たちが、続々と鬼姫の元を訪れました。
 悪い人たちもたくさんやってきましたが、鬼姫と、その側近の前では歯が立たず、みんな撃退されました。
 しかし鬼姫は何か病気でも抱えていたのか、晩年は引きこもりがちになり、あまり外に出なくなりました。柔らかに微笑うその様もどこか無理があり、側近や民はとても心配して、各々が鬼姫を元気付けようと色々な催し物をしたり、お薬を探し出してきたりしました。
 ですがその甲斐なく、鬼姫は維新を迎える頃には亡くなってしまったのです。
 民は悲しみました。
 その中でも、一番近くで仕えてきた側近たちの悲しみは並大抵のものではなく、鬼姫の葬儀が終わると皆姿をくらませてしまいました。

 それから、百年余りが経ちました。
 物語は、ここから初まります。


240

「閣下」
 私がお呼びしても、もはや魔王様は往年の気力は残っておいでにならないようだった。
 かつての威厳が懐かしく思う。当時はただ怖く、その逆鱗に触れずに一日を過ごすことこそが望みだったというのに。
 魔王様に逆らおうという者は最早いない。全てが魔王様の統治下で進んでいる。
 かつては反逆者が目を走らせれば溢れるほど居たというのに。あの頃の魔王様は本当に勇ましく、恐ろしかった。
 何百年にもわたる平和が魔王様を弱体化させてしまったのだ。
 たまに歯向かう者が出たと思えば二日と経たずに軍に潰される。魔王様はガッカリしておられた。
 軍にも潰されず、魔王様が力を出して戦える相手。今必要なのはきっとそれだ。私のような軍師など、必要なかった。往年の頃でさえも。
「閣下、…私に、お暇をいただきとうございます」
 言えた。もう、魔王様がこの言葉をお聞きになるのは何度目なのだろうか。平和に腐ったものたちが皆そう言って城を去っていった。
「行くがよい。達者でな」
 ああ、これはもう魔王様ではない。往年ならば私の言葉をお聞きになった瞬間に激怒して首を刎ねただろうに。あの頃私を買ってくださっていたのは嘘だったのだろうか?そんな疑心さえも出てしまう。
 私は静かに下がり、城を後にする。
 やることは決まっている。私の軍師としての才を今ひとたび起こして、魔王さ…魔王討伐の軍をあげること。誰よりも誰よりも強くならねばならない。
 魔王様、私は貴方が好きなのです。嗤いながら敵対者を潰してきた貴方の雄姿が。民が絶望を覚えるほどに強い、そのお姿が。
 勝手ながら、私は本日より配下として最後の任を務めさせていただく事にしました。
 叶うならば、打倒魔王の旗を掲げる私に今一度そのご雄姿を。


239

「ねぇパパ」
「どうした、雄太?」
「この前ママが言ってたんだけど、…その…」
「うん?」
「…や、やっぱりいいや!」
「おいおい何だ?はっきり言わないと伝わるものも伝わらないぞ?怒らないから言ってごらんなさい。ママがなんだって?」
「…じゃ、じゃあ言うけど…。パパ、会社でせいせきがちょっと低くてあぶないんでしょ?」
「……」
「パパ?」
「実は…そうなんだ…。パパは営業って言うのをやっているんだけど、どうもパパ、押しが弱くてね…」
「パパ…」
「いつも先方には低く見られっぱなしで…」
「…そんな弱音を吐くなよ」
「雄太?」
「押しが弱くても言うべき時にははっきり言うんだ。そうすれば相手は舐めた態度を改める。それでも態度を改めない相手なら張り倒す。それくらいの意気込みじゃないとこの社会では生きていけないぞ」
「…そっか。そうだよね」
「ああ、お前なら出来る。しっかりやるんだぞ」
「うん、パパ、一所懸命頑張る。雄太も応援してね!」
「ははは、その調子だぞ」


238

 バツン!

 今日も日が変わるころ、ゲームセンター村尾の全電源が落ちた。外から「おつかれー」という声が聞こえて店内は完全な無人となる。
「いてて…」
「ちょっと、大丈夫?」
「おい、どうしたんだ」
「大丈夫か?」
「いや、今日さ、やたら弱い奴が居たじゃん。負けっぱなしの癖に何度も俺で戦うもんだからもう痛くて痛くて…」
「幸せな愚痴か、コノヤロ。俺なんか攻撃力はあるけど図体でかくてコンボ繋ぎ難いからって今日出番ゼロだったんだぞ?」
「私もよ。出番はあったけど、小回りだけで攻撃力低すぎ、って殆ど出なかったんだから。出てもすぐに負けて終わっちゃったし」
「よう、おつかれ!」
「あ、出ずっぱりの主役がきやがったよ」
「ほんと、いい笑顔しちゃって」
「な、なんだよ。怒るなよ。いいだろ、一応主人公なんだから」
「たまには見せ場の一つや二つ譲れよな。こっちなんてもうボロボロでプライドまでズタズタさ」
「ハハハ、明日もボコボコにしてやるからな!覚悟しとけよ!」
「ちぇっ、毎日負けてると思うなよ」
「あはははは」
「うふふふふ」


237

「博士!新しいものが出来たと聞きましたが、本当ですか」
「ああ。きっとビックリするぞ。…それっ、ジャーン!」
「…ボードゲームですか?」
「何がボードゲームだ馬鹿!スゴロクだよ!なんとこのスゴロクは止まったコマに書かれていることが全て現実になると言うものだ」
「博士、漫画に描かれていることを発明するのは止めましょうよ」
「煩いな、夢って言うのはそういうところから出るものだろ。いいからやるぞ」
「はいはい…」
「じゃ、俺からな。…4か。いち、に、さん、しっと…ちぇっ、何も書いてない」
「次、僕やりますよ。…5ですね。いち、に、さん、し、ご…何か書いてありますね。えぇと…?ちょっと反対側で読みにくいんですけど」
「俺が読んでやるよ。勇者となって世界を救う、だってよ」
「…は?ちょっ、博士、何でそんなもの書いて…!?うわっ!なんか頭がぐるぐるして…き…」


「うわぁっ!?」
「ど、どうしたの?大丈夫!?」
「あ、ああ…。何か変な夢を見て、さ」
「変な夢?こんな大事な時に縁起でもない…どんな夢?」
「あぁ、なんか俺が別の世界で発明家の助手でさ。新しい発明の、書かれた事が現実になるっていうスゴロクをやってて、なんか勇者になって世界を救う、とか書かれたコマに止まっちゃうんだ」
「うふふ、発想力豊かなのね。全く、本当に全部がそんな夢だったらよかったのに…。正直、明日のことを考えると私、怖くて眠れないのよ」
「レナ…。俺たちと過ごしてきたこの日々までもを、夢にするつもりかい?」
「あぁ、ごめんなさい。貴方が勇者としてこれまで頑張ってきた日々も私はよく知ってるわ。仲間との、楽しくて辛い日々も…」
「ふふ、わかってるよ。誰だって、こんな日の前には不安を覚えるさ」
「もう少し、傍にいってもいい?」
「ああ。今日はゆっくり休まなきゃな」

 そうだ。忘れちゃいけない。明日はついに魔王との決戦だ。今日まで長い長い道のりを経て来たんじゃないか。王様から一本の剣を賜ったあの日から…。
 変な夢なんかに惑わされている暇はない。俺は魔王の猛威がこれ以上広がる前にそれを止めなきゃいけないんだ。俺は長年共にしてきた愛用の装備と、長い付き合いの仲間を見つめて、一人心の中で気合を入れなおした。


236

 よぅ、また来たのか。この暑いのにわざわざ俺ン家に来るなんて大変だろう。高校生だろ?お前ももういい歳なんだから友達と遊ぶなり彼女を作るなりすりゃあいいだろうに。夏休み?孫だからって気を使うこたぁねぇよ。ここ来たって何にもすることねぇだろうに。…そうだ。暇ならちょいと昔話でもしてやろうか。最近見る夢の話なんだが…。聞くか。へへ、なんだか照れっちまうな。まぁいいや。
 俺はもう還暦を過ぎて久しいけどな、最近、よく子供の頃の夢を見んだ。昔々の話だ。まだ自然が今よりずっと多かった。その夢ではまだ俺は生まれの村に居たよ。
 よく、近所に居た娘と遊んだ。俺と同じ歳でな、おさげで、紅の着物が似合う奴だった。過疎が酷くてなあ。俺と遊ぶような年代の奴はそいつくらいしかおらんかったんだ。
 そいつはそんな運動神経いいってわけじゃなかったけど、いつも俺に付き合ってくれたよ。正味、あいつも暇だったんだろうな。夢が見せやがるのは決まって夏だ。大体虫捕りしてる。朝っぱらからよ、麦藁帽被って虫捕り網とカゴ持って元気よくでかけんだ。で、夕方まで山ン中駆け回って虫捕るんだ。なんかよく笑ってたなあ。楽しかったんだろうなあ。俺もあいつも。夕方になると適当な話しながら帰んだよ。
 そんなかで一番覚えてんのはあれかなぁ。クリスマスの話。そいつもよくは知らなかったんだと思うよ。ただ、
「あのね、十二月になって、雪が降ると天使の鐘が響くんだって」
 って嬉しそうに話してた事だけ覚えてる。多分クリスマスの事…だと思うんだがよ。
 でもいつだったか、一家で親戚の家に行くことになってな、それをそいつに言ったら無言で俺の手を掴んで、虫捕り網だけ持って山ン中駆け込んだ。あの日だけは黙々と虫捕ったなあ。でもカゴねぇから捕ったらすぐ逃がしてさ。それを夕方まで繰り返してた。
 その日の帰り道もさ。そいつは汗とか泥とかで汚れた俺の手を…っても向こうも汚れてたけどな、掴んで帰った。無言で。いつもは並んで歩くか俺が先歩くかしてたけど、その日だけはそいつが先を歩いてた。それでそいつの家の前に来ると、手を放して家の前まで走ってから急に振り返って「元気でね」って泣きながら手を振ってた。俺もなんだか無性に悲しくなって泣きながら手を振り返したよ。
 きっと惚れてたんだろうな、俺は。初恋だったんじゃねぇか。婆さんと結婚してからこっち、思い出すこともなかったんだけどな。婆さんが死んで気弱になっちまったんかな。でも、ま、たまにはこういうのもいいさ。
 もう二度とは戻れない夢の記憶だ。



 一年前、懐かしむようにそんな話を聞かせてくれた爺さんが先日死んだ。
 俺は孫だったからか、爺さんは家にも入れてくれたし、ちゃんと話もしてくれた。
 だが爺さんの子供にあたる母さんと孫の俺以外、つまり娘婿の親父やその他街の人間とはろくに口もきかなくて、偏屈で頑固な爺さんと嫌われていたね。
 爺さんは人形師だったよ。注文を受けて人形を作るってやつな。爺さんはこの街じゃ相当嫌われていたけど、腕は結構よかったみたいで、常に、と言っていいくらいに他から注文はきてたみたいだ。俺が行くといっつも作りかけの人形が二、三ほど仕事部屋にあった。
 爺さんの死後、爺さんの家は処分されることになった。街の人の例に漏れず、爺さんのことを嫌っていた親父が率先してそういう風に話を進めたらしい。母さんもそのことは判っていたから口を挟まなかった。でも一度だけ二人で爺さんの家に行った時、母さんが言ったんだ。
「何か、欲しいものがあれば持って帰りなさい。これで、お爺ちゃんの家ともお別れになるから」
 母さんは悲しかったんだろうと思う。声が震えていた。だから俺はそっと母さんから離れて一人で爺さんの仕事部屋に入った。爺さんが残した生きた証、何か人形を家に置いておこうかと思ったんだ。
 そして探してみたが、あるのは作りかけかパーツばかりで完成した人形は一体もなかった。仕事で作っていたのだから仕方ないのかもしれない。そう思って諦めて部屋を出かけた瞬間、入り口に近い棚の一番上に一体だけ完成した人形が乗っていたんだ。
 俺は慌ててそれを手に取った。
 その人形はおさげで、紅い和服を着ていたよ。
 爺さんは多分、夢を見て記憶に忠実にコイツを作ったんだと思う。もう葬式はとっくに終わっていたから、コイツを棺に入れることは出来なかった。墓の前に置こうかとも思ったが、コイツが野ざらしになるのは爺さんも望んじゃいないだろうと思う。
 ホントはコイツも爺さんと一緒に行きたかったろうに。爺さんと向こうで一緒に遊びたかったろうに。
 俺はそれを大事に家に持って帰った。母さんは俺の持ってる人形を見たけど、何も言わなかった。今も部屋にあるよ。大事にしてる。巧いだろ?だから爺さんは腕のいい人形師だったんだよ。


 紅い和服の人形のおさげが、外から吹き込む夏の風に、僅かに揺れる。


235

「いつか、躓きそうになったら後ろを振り返ってごらん」
 小学生のときに死んだ、私が大好きだったお婆ちゃんが、私の顔を見るたびに言ってきた言葉はそれだった。そう言って、私が本当に振り返って「影が見える!」と言ったらお婆ちゃんは優しい笑顔で頷いていた。
 私はそうやってわかった振りをしていたけれど、それの本当に意図するところはよくわかっていなかったと思う。だけど中学生になり、高校生になり、大学生になり、社会人になる過程で、ふと思い出してはどこかお婆ちゃんがすぐ傍に居る気がして温かい気持ちになったりしていた。
 そして今、上司に散々に怒られて何もかもが嫌になってしまっているこの時に、ふとその言葉を思い出した。お婆ちゃんの言うとおり、ちょっとだけ目を瞑って今までの半生を思い起こしては見たけど、別にどうと言うこともなかった。
 でも、私のお婆ちゃん神話は私の根幹を支えるものだったので、何かあると思いたかった。
 それでお婆ちゃんのその言葉を反芻し、何気なく、幼い頃そうしたように本当に後ろを振り返ってみた。
 道に浮かび上がる私の影。
 その影の中に小学生だった頃の私が込めた、大人への羨望と憧憬があった。
 ああ、私は私のお手本とならなきゃいけないのだ。幼い私の夢を壊さぬために。


234

 どこかで見た覚えのある缶が半分ばかり地面に埋もれるように転がっていた。なんだったか。いまいち思い出せない。中をのぞいてみると何か錠剤のようなものが三つばかり残っていた。やはり知っているような気はするのだが、思い出せない。
 ちょっと口に含んで齧ってみようと思った。
 錠剤を歯で挟んだところで、
「なにをやっているのっ!」
 いきなり横合いから頬を引っぱたかれた。錠剤は地面に転がる。
「っつ…」
 頬を押さえてその対面の人物を睨みつける。近くの民家の女性のようであった。
「あ…ご、ごめんなさい」
 私が睨んだからか、その二十台くらいと思しき若い女性は身をすくめて謝るが、
「い…いえ!謝る必要はないわ!」
 すぐに撤回した。
「何なんだ君は」
 私が問うと、女性は怪訝な顔で、
「貴方はそれが何かわかって口にしたの?」
「い、いや…見覚えはあったんだが…」
 女性は肩をすくめた後に私を咎めるように、
「貴方が口にしたものはチクロンB、れっきとした毒薬よ」
 言われて、私は気づいた。これは。先日ポーランドに行く際に寄ったアウシュヴィッツで見たものだ。そう、この缶に一杯の錠剤で千人余りもの人が殺せてしまう。私は自ら死神を口に運んでいたことに寒気を覚え、地面に何度か唾を吐いた。
「な、何でこんなところにあるんだ?」
 女性は困ったような顔で答える。
「多分…地面に埋められていたんだと思うの。雨が降るたびに少しづつ出てきていたんでしょうね。貴方が見つけたとき、土に埋もれていなかった?」
「あ…あぁ、埋もれて…いたな」
「こんな危険物が近所にあるなんて迷惑な話よね…」
 女性は軍手をして、慎重に缶と、私が吐き出したチクロンBを回収して袋に入れた。
「君は回収業務を請け負っているのか?」
「まさか!放っておくと子供たちが拾っちゃうかもしれないでしょ」
 だからといって、毒薬を進んで拾い集めるのか。私は感心と驚嘆を覚えた。
「よかったわ」
「ん?」
「自殺志願者とかじゃなくて」
「ははは…」
「笑い事じゃないのよ?考えなしにやってきては缶を探り出して中のチクロンBを飲んで勝手に死んじゃうんだから。住民のことも少しは考えて欲しいものね」
 言われて、私は辺りをぐるりと見渡した。この平野にまだいくつも缶が埋まっているのか。こんな何気ない平野にさえナチスの遺物が牙を潜めて沈んでいることを考えると、少し憂鬱になった。
「…叩いちゃったこともあるし、よかったらウチに寄っていかない?親戚から美味しい紅茶を貰ったのよ」
 女性は若干申し訳なさそうな顔で言う。やっぱり、叩いたことを申し訳ないと思っているようだった。こっちは命を助けてもらった身だから、多少偉そうでも文句を言える身ではなかったので、少し胸が痛んだ。
「そうだな。折角だし、ご馳走になろう」
 憂鬱な気分から逃げるように見上げた真昼の空に、うっすらと紅い月が霞んで見えた。