思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳480-471

480


『”有名人”になんてなるもんじゃないね、この時代』
 スピーカー越しに声は言った。
 僕は誰かに覗かれているのかと、ぎょっとなって部屋中を見渡す。
 監視カメラはついていたが、僕の方を向いてはいなかった。

 ここは博物館の一室で、この部屋はムルサプカ人の銀河を跨いだ大遠征に対して戦術指揮をとり、撃退に成功したフォッテンベルグ将軍の遺体が保管されている場所だ。
 大戦功をあげた将軍も、別の戦場にてあっさりと砲撃を受け、体の半分が吹き飛んで即死してしまったらしい。
 だから辛うじて残っていた右腕、右足の一部、そして頭蓋骨と脳を保存しているのだ。ショーケースに右足、右腕、頭蓋骨と並んでおり、奥の展示ケースにホルマリン漬けの脳が展示されていた。
 そして僕に声が投げられたのは、その遺骨を見ている最中だった。
『上じゃない』
 僕がきょろきょろしていたからか、声が再びかかる。
「……ど、どこです?」
 姿が見えない相手と会話をするのは若干の不安が付きまとうものだ。僕は恐る恐る場所を尋ねた。
『奥だ。脳の展示の横に小型カメラがあるだろう?』
 展示ケース? 僕は目を凝らしてケースの内部を覗いた。ケース内部は脳にライトをあてて、周囲を意図的に暗くしているため、黒い、しかも小型カメラを見つけるのは容易ではなかった。
「あ」
『見つけたようだな』
「え、ええ。見つけましたけど……あなたは係の人ですか?」
 にしては、雰囲気が妙な気がする。
『係? いやいやまさか。「私」はこの目のすぐ横に居るさ』
 すぐ横。さすがにその言葉で何も察しないわけにはいかなかった。
「冗談でしょう?」
 声は軽く、抑えたような笑いを漏らしてから言う。
『冗談なものか! だから私は言ったのだ。”有名人”になんてなるものではないと』
「どういう意味です?」
『そのままだよ。と言っても、私はなろうと思ってなったわけではないが。だが下手に有名になってしまっただけに、結果はこの様、晒し者だ』
「そんな……」
『忌々しい連邦法をかじった事はあるかね? 私は知らなかったのだが……。どうやらその法によると、私はこのままあと七年ほど生かされねばならんらしい』
 僕は習熟しているわけではなかったが、浅いながらも一応の知識はあった。多分、彼の言っているのは有名税に関する象徴義務のことだ。有名になると結構な融通が利くようになる代わりに、その名前での活動、有名になったと認められてからの一定期間の活動についての制約が課される。
 芸能の有名人は二十年、軍事の有名人は十年、犯罪の有名人は五十年。もちろん最後の、犯罪の有名人には制約しかない。
 フォッテンベルグ将軍は、一躍有名になった翌年に戦死したため、残る九年の象徴義務をこのような形で果たしているわけだ。
「これが……象徴税」
 まるで犯罪者の扱いのようだ、と思った。少なくとも、英雄に対する扱いではない。
 だが声は、腹を立てている様子も見せずに言う。
『別に私の骨を展示するなとは言わんよ。それだけの価値がある戦功を立てたと自分でも思っているからな。だが、まさか脳を再生させられるとは思わなかった』
「そうだ」僕はふと、引っかかっていたものに気がついて声を出す。「砲撃で死んだという話だったのに、何故今こうやって生きて……」
 言いかけて、僕は思わず口をつぐんでしまう。この状態を生きているなどと表して良いものかどうか。
 声は僕の躊躇いを察したのか、言葉の後を取った。
『そう、確かに死んだ。厳密には、今も生きているとは到底言いがたい。今こうして話しているのは技術の進歩の賜物さ。死んだ脳が残っていたせいでね。吹き飛ばされたのが体じゃなくて頭だったら、結果も違っていただろうが』
 僕はある種の畏怖を込めてホルマリン漬けの脳を見た。ぷくぷくと小さな泡が立っている。話している「相手」がこういう形で目の前に居るのは、何とも言いがたい、薄気味悪い気分だった。
『君たち外の人から見れば、この状態は痛ましく見えるのかもしれないがね。まあ、状況自体は何とも無いさ。私は犯罪者ではないのでね。その辺りの配慮はされている。敵は退屈さ……』
 そしてフォッテンベルグ将軍は、説明書きの部分に掲示されている、皮肉気な笑顔の写真とマッチしそうな声で言った。
『コイツにばかりは勝てる気がせんね』


479

 人類が宇宙に飛び出して探し求めた新天地の一つに、その惑星はあった。
 そこはおおよそ地球と似たり寄ったりで、大した面白みもなく、田舎に住むのが好きな人間が土地が安くて広いということで大いに喜んだが、広すぎて他人に会うまでにちょっとしたスリルのある冒険をしなければならなかった。
 そんな惑星でも住むことはできるということでテラフォーミングされたが、ひとつだけ地球とは際立った違いがあった。
 大地の四割が、米で覆われているのである。
 米が一体どこから湧き出てきているのかはまるで判らなかった(この惑星のテラフォーミング担当官は、執拗に意見を求められて「塩が湧き出る石臼みたいな感じで、米が湧き出る米びつでもあるんじゃないですかね」と投げやりにコメントを残した)。
 一方、本来ならあるべき「水」はと言うと、薄い防水膜に包まれて、水を内包した水球として毎年キャベツのように畑で群生していた。
 テラフォーミング直後に移住してきたニルソン・ウンドレダールは、ずっと米の選別を行っていた。
 機械で大雑把に救い上げられた米は、のべつ幕無しに輸出される。その中でも上質な米を、とニルソンが選別を行って輸出をしたのが相当な人気を博した。と言うのも、機械による収穫米は恐ろしく安いが、非常に深刻な汚染を受けた米が何食わぬ顔をして紛れ込んでおり、毎年数百人単位の命を刈り取ってゆくからだ。
 その件で、最大手の米の輸出会社「ライス・ライフ」は「自己責任でお願いします」とのみコメントを行い、クレームが毎日マシンガンのように撃ち込まれて大いに賑わっている。
 そんな状況を背景に行うニルソンの選別米は、出荷分が確実に売り切れるほどの人気を誇っており、「ニルソンブランド」とまで名前がつけられるほどであった。
 選別と言っても、細々と分類されるようなものではない。
 ニルソンが手を加えた中古の航空輸送船で低空を走り、上質な米が固まっている一帯を探し当てるのだ。その一帯から米を収穫し、収穫後は迅速にニルソンが作り上げた選別機で篩いにかけて出荷する。

 ニルソンは航空輸送船にのって、適当に海を回りながらBBCの取材を受けていた。
汚染米と純米の比率はどれくらいなんです?」
 インタビューを申し込んだ記者が聞くと、
「二対八くらいだろう。深層部の米は深米魚によって著しく汚染されている。およそ三年に一度くらい、深層部の米が表層に上ってくる」
 ニルソンはサンプルとして持ってきた汚染米を指し示す。純米は真っ白だというのに、汚染米は紫色をしていた。
汚染米のない場所というのは存在しないのですか?」
「一度表層に上ると、汚染米は沈むことはなく拡散していく。私が収穫した米にも、必ずそういったものがある。もし純米のみの場所があるとするならば、池や湖だろう。浅瀬にいる魚たちは米に悪さをしない」
「なるほど。ところで、先ほど収穫した米はできるだけ早く選別をするとおっしゃっていましたよね? あれには理由があるのですか?」
「汚染された米と純米を長いこと一緒くたにしておくと、ほかの純米まで駄目になってしまう」
 ニルソンはそう言って半端に変色した米を指した。
「わざわざいい米を探さずとも、汚染さえされていなければいいと言う意見もたくさんある。それももっともかもしれん。だが私はこの光景に惚れこんでしまったんだ」
 そう言ってニルソンは水平線の彼方まで広がる、生物のように波打つ米の海を愛おしそうに眺めていた。


478

「おい! 金を出せ!」
「いらっしゃいませ。ご出金ですか?」
「違う! 金を出せといっているんだ!」
「カードか通帳はお持ちですか?」
「そんなものはない! さっさと出せ!」
「お客様、でしたら三番窓口にてお申し付けくださいますようお願いいたします」
「なに、三番? ふん、まあいいだろう……」

「金を出せ!」
「はい?」
「カ ネ を だ せ !」
「お客様、こちらの窓口は小包専門ですよ」
「三番窓口じゃないのか?」
「こちらは十三番窓口です」

「おい」
「いらっしゃいませ」
「ここは三番窓口か?」
「はい、三番窓口ですよ」
「よぅし、なら金を出せ! はやく!」
「はい、おいくらでしょうか」
「いいから金をだ……何? おいくら?」
「ええ、おいくらご入用ですか?」
「んむ……そうだな、ありったけだ!」
「ありったけですか」
「そう、全部だ! 早くしろ!」
「ですがお客様」
「なんだ?」
「ありったけですと、ありったけお時間を頂かなければなりませんが」
「何だと……どうにかならないのか」
「こればかりはどうにもなりません。ですがお客様」
「うん?」
「お金を減らせば時間もその分短縮できます」
「おお!」
「嵩張らない上、移動も楽チンですよ」
「そいつはいいな、よし、できるだけ少なくしろ!」
「かしこまりました」

「それで一円をいれたバッグで逃走したんです」
「何だか犯人がかわいそうになってきた」


477

 処刑局の主な仕事は単純だった。罪人を斬る。それだけだ。
 ニール・ヴァレンティーナは半年ごとに人がほぼ全て入れ替わると言う過酷なその仕事に、三年就いていた。
 当然ながら、処刑局では局長に次いで最古参に数えられる。処刑局の古参と言うのは、低く見られがちな「局」の中でも中央省庁から妙に気を使われていた。
 その好例として、こんな話がある。
 昨年、処刑局という名前では印象が悪すぎる、と言うことで中央省庁で局名変更について議題が持ち上がったが、局内でその話が出た際、ヴァレンティーナが一言、
「そのままで宜しいではありませんか。印象をどう変えたところで、やることは変わりません」
 そう言っただけで、それが矢の様に中央省庁に届き、見送りとなったほどだ。
 普通、古参と言えども局員というのは、末端で仕事を事務的に処理する機械程度にしか考えられていないものだ。それが何を言ったところで省庁では何所吹く風といった様子なのが通例である。もしこれが他の局であれば、局長クラスが辞任を掲げて抗議したところでやっと「考慮する」と言う反応が返ってきて、少し置いた後に却下されるのがオチだ。
 局長とヴァレンティーナ。この二人は「彼らが歩の先に道はなし」と新聞で、名指しで評されたことがある。これはつまり、鬼界と人界との境界に立つ者という意味で、遠まわしにあの二人は人間をやめつつあるようだ、と言っている。

 ヴァレンティーナは何も知らぬ者が見れば、まだ到底仕事についているとは思えないような女子で、身長もそれを裏付けるかのように143センチしかないと言うのに、その存在は魔物の如く恐れられていた。ヴァレンティーナは、一見すると愛らしくも思えるのだが、もはやそれを肯定できる材料をほぼ全て捨てているかのようであった。
 極東の刀工に作らせた、残月の意で呼ばれる刀を帯刀し、赤銅色の髪を首元で揃え、背筋を伸ばして早足で闊歩する。人に意見をするときは僅かに首を傾げる癖があった。その仕草は少し愛らしく思えなくもないのだが、目を見た瞬間にそのような雑念とした考えは斬り捨てられる。
 本人曰く「普通に見ているだけですよ」とのことだが、常人が見れば「彼らが歩の先に道はなし」の意味を身をもって理解できるに違いない。
 ヴァレンティーナは、他に楽しみはないのか思うほど、仕事ばかりをしている。
 無論朝礼と同時に、終礼まで人を斬り続けているようなことはない。よほどの大事件でもない限りは、実際に斬るのは月に数件あるかないかである。ただ、その月に数件あるかないかの主要業務が常人の精神に過酷な傷をつけるため、殆ど人が残らない。

 その年中央省庁から送られてきた「補充人員」は、例年通り使えなかった。
 おおっぴらには言わないが、中央省庁は省庁で何かを”やらかした”、何かしら問題のある庁員をある種の懲罰人事として送り込んでくるのである。故に「補充人員」にやる気など望めるはずもなく、そこそこ真面目にやって半年ばかりで戻してもらうか、その前にもたなくて去っていくかのいずれかであった。
 処刑局の局長もその辺りをとやかく抗議したことはないし、ヴァレンティーナも一局員の自分が口を挟むことではないと口を閉ざしている。
 その「補充人員」であるティアナ・ロッシモの仕事ぶりは見事なもので、終礼時にはヴァレンティーナの仕事が増えているような有様であった。
 ヴァレンティーナは皮肉に皮肉を重ねた苦情を言い、時には怒鳴りつけ、自分は増えたその日の分が終わるまでずっとやっていた。「図体だけは……」や「体は大きいのに……」とか、そう言った類の言葉から始まる文句が多いのは、ロッシモが女だてらに180センチ近くあり、それがヴァレンティーナと並ぶことでより際立つため(逆の意味でも)、普段は特に自分の身長について気にしたそぶりを見せないヴァレンティーナにも、思うところが出てくるのかもしれなかった。

 ロッシモもめげない人間で、翌日にはケロリとして出勤してくる。繰り返すミスもあれば、繰り返さないミスもあった。
 そんな調子で二ヶ月ほど経ち、ロッシモは昼の休憩時間にふと疑問に思っていたことを尋ねてみた。
「先輩は休日、何をしてるんです?」
「何って? 仕事ですよ」
「いえ、ですから」
「何です?」
「休日の話です。日曜! 祝日! 仕事がない日です」
「仕事ですよ」
 ロッシモは給料なんぞ多少減らされても、断固自分の時間が欲しいという類であったため、ヴァレンティーナのその言葉は自分をからかうためのものとしか思えなかった。
 だがヴァレンティーナはあくまでも仕事をしていると言い張る。ならば確認してやろう。そう思ったのも無理はなかった。
 ロッシモは普段よりずっと早く起き、ヴァレンティーナの家の前に張り付く。およそ昼頃までに出てこなければ帰ろうと思い、読み止しの本を数冊持ってきていた。
 だが普段の出勤時刻のほぼ五十分前に、ヴァレンティーナは制服を着てしっかりと出てきた。職場まで三十分。始業二十分前に到着。
 処刑局は各省庁と違って解放されているので、ロッシモはすんなりと中に入って事前に探しておいた死角のスペースから、ヴァレンティーナの様子を盗み見る。
 だが見ものとしては非常につまらない。机に向かって書類仕事をこなしているだけなのだ。ロッシモはいつの間にか眠り込んでしまった。
 そして二時間ほどして目を覚ますと、仮眠用の毛布がかけられていた。
 ロッシモは自分が何故隠れて職場に来ていたのかも忘れて、不思議そうな顔でふらふらと移動する。
 そして相変わらず机に向かっていたヴァレンティーナとばっちり目が合い、ロッシモは一瞬で青くなった。
「ああああ、あの、えーと、ちょっと忘れ物をですね、ははは。お疲れ様でーす」
「そうですか」
 ヴァレンティーナはまるで興味がなさそうに返すと、再び視線を手元に戻す。
 ロッシモは慌てて自分の机から適当にそれらしいものを掴むと、いかにもあってよかったという風な演技をしながら去ろうとした。
「ロッシモ」
「は、はい!」
 去り際に呼び止められて、一気にロッシモの背筋が伸びる。
 ヴァレンティーナはそんなロッシモを見て、少し意地悪く笑って言った。
「満足しましたか?」
「え、あ、う……」
 ロッシモが二の句を告げぬ間に、ヴァレンティーナは視線を手元に戻す。
「毛布は仮眠室に戻して置いてくださいね」
「あ、はい……失礼します」
 ぎくしゃくとした動きでロッシモは仮眠室に毛布を戻す。そして毛布を戻した瞬間に、我に返った。
 毛布? 誰が?
 最初から見抜かれていた。全てに気が付いたとき、ロッシモは全身が震えた。
 成り上がりで、仕事もたいしてできやしない自分に、”さりげないやさしさ”などと言うものは無縁なものだった。むしろ”さりげないいやがらせ”が日常的にあるばかりだった。自分に対する露骨な軽蔑。成り上がりの家に対する陰からの軽蔑。負の感情ばかりが芽生えていて、仕事なんて真面目にやるだけ馬鹿だと思っていた。
 なのにあの人はそんな素振りを見せなかったし、普通なら気を悪くするような行為も全てお見通しで、笑って受け流してしまった。
 ロッシモの内に湧き上がってきたのは、今までにない感情だった。
 この人についていこう。
 ロッシモは心からそう思った。自然と笑みがこぼれてくる。
 この感情をどう表現すればいいのだろうか。興奮が自分の中でのた打ち回っている。
「先輩先輩!」
 ロッシモは転がるようにして、引き返した。
「どうしたんです?」
 ロッシモのただならぬ様子に、ヴァレンティーナは驚いた様子で何事かと腰を浮かせる。
「ええと、その」
 ロッシモは身振り手振りで何かを伝えようとするが、肝心の言葉が追いついてこない。
「お話しましょう!」
「……は?」
 さすがにヴァレンティーナも呆気にとられたような顔をする。
「色々知りたいんです!」
「仮眠室で何かあったのですか?」
「いえ、そういうことじゃなくてですね、その」
 ロッシモはかつてない感情を処理しきれず、言葉を詰まらせる。
「判りましたよ」
 ヴァレンティーナは諦めたように言った。
「よく判りませんが、とりあえず落ち着いて貰わなければ聞くに聞けませんね。少しだけ付き合いましょう」
 ヴァレンティーナには仮眠室で何があったかは判らなかったが、それでもロッシモの自分を見る目が急に変わったようだ、というのは何となく雰囲気で判った。
 折角の休日だ、たまには人と親交を深めるのだって悪くはないだろう。そう考えた。
 そもそも今までは、ヴァレンティーナと親交を深めようという人自体が皆無だった。ヴァレンティーナはすぐにそのことにも思い至り、自分の半生に対して少しだけ自嘲気味な笑みを浮かべた。
 もしかしたら。もしかしたら、何かが変わっていくのかもしれない。
 ヴァレンティーナも、ロッシナを見て、先ほどロッシナが感じたほど強いものではなかったが、確かに同じものを感じていた。


476

 屋敷の当主であるキーンツが亡くなり、親族一同が相続問題について話し合うために集まっていた。
 キーンツの子供の一人であるマクルーニーは、一向にまとまる様子のない話し合いにうんざりした素振りを見せると、気分転換になるようなものはないかと部屋を見回す。そして飲み物の置かれた盆を持って、部屋の片隅に佇む、JKシリーズの五世代目にあたるロボットに気が付いた。
「ジェイク!」
 マクルーニーは、別のテーブルに無造作に積み上げられていたものの山から、一つの化粧箱を取り出して中身を確認すると、ロボットの名を呼びながら近づいていった。
「マクルーニー様。お久しぶりでございます」
 ジェイクは盆を持ったまま器用にお辞儀をする。
 マクルーニーはジェイクを複雑そうな面持ちで見つめた。父親であるキーンツが死んだ以上、二世代前のロボットであるジェイクは誰も引き取ろうとはせず、おそらく廃棄処分になるだろう。法改正によって規制が緩和され、ロボットの開発サイクルは現在非常に早いのだ。
「君は変わらんな」
 マクルーニーは内面の感情を表には出さず、無感情に言った。そして手に持っていた化粧箱を開けて、ジェイクに見せる。
「これに見覚えはあるかね」
 中にあったものはロボットの脳にあたる陽電子回路だった。ただ、著しく焼け付いている。それが傷がつきやすい宝石のように、大事そうに仕舞われている。
「いいえ。ですがこの型の、ということであれば肯定できます。これは私と同じ型のものです」
 マクルーニーは三度ほど小さく頷いてから、化粧箱を閉じてジェイクに差し出した。
「親父がわざわざ保存していたということは、何か理由でもあったんだろう。形見として持っていくといい」
「ありがとうございます、マクルーニー様」
 ジェイクは盆を持たないほうの手で受け取ると、恭しく頭を下げる。
「きみは近いうちに工場に行くだろう。その時にでも聞いてみろ」
 それが最後の質問になるだろうが、とまではマクルーニーは言わなかった。

 JK5型の主任整備技師であるヤンガスは、焼け付いた陽電子回路についての相談を受けて唸り声を上げた。
「……どこでこれを?」
「マクルーニー様に、旦那様の形見代わりにと頂きました」
「なるほどね。くそっ、またコイツを見る日が来るとは思わなかったよ」
 ヤンガスは忌々しそうに焼け付いた陽電子回路を一瞥した。
「何故私のものと同じ型の陽電子回路を、旦那様がお持ちになっておられたのでしょうか?」
 ヤンガスは頭をかきむしると、吐き捨てるように言う。
「コイツも形見なのさ。キーンツの親友だったロスキンという男を知っているか?」
「旦那様が時折口になさっていたので、お名前だけは存じております」
「そのロスキンは、お前と同じJK5型のジャックというロボットを所有していた。だがロスキンが交通事故で瀕死の状態になり、もう助からんと思ってジャックにある事を頼んだ。その結果としてこの回路があるわけだ」
 ジェイクはほんの僅かな逡巡の後に、
「例え火災現場に立ち入ったとしても、このように直接焼け付くような事態になることはありえません」
 ヤンガスは肩をすくめる。
「おいおい、誰が火災現場なんて言った? そうだな、まあ、ある種の自殺みたいなもんさ」
「ありえません」
 ジェイクは即答した。だがそう返ってくるのはヤンガスも判っていたらしく、
「そう、第三条自衛についての項目に反するからありえない」
 そこで少しだけ続きを言うのを躊躇ったが、諦めたように口を開く。
「いいかね。ロスキンは瀕死の状態になった。その理由が事故だったから、多分、余程辛かったんだろう。ロスキンはこう言った『楽にしてくれ』と。だがどうやっても手を尽くしても死ぬって状況で、どうすれば楽になると思う? 眠らせてやることさ」
 堅苦しいロボットとは言えど、ジェイクは文脈からヤンガスの言う”眠らせてやる”の正しい意味を即座に理解した。
「人間を殺すことはできません。その前提を超えた命令は受諾できません」
「判ってる。判ってるさ。三原則第一条『ロボットは人間に危害を加えてはならない。またその危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない』。これの前半だけならそうだ。だが後半、ロスキンを放っておいたとしても奴さんは苦しみながら死んでいっただろうさ。これをどう解釈するかが問題だ」
「手当てをすればその限りではないはずです」
「まあね。だがそう都合よくいくもんかね。ジャックは看護ロボットじゃあなかった。知識はあったが、その場にあるものでできる応急処置じゃ焼け石に水でしかなかった」
 ヤンガスは「つまり」と、言葉を続ける。
「大前提として第一条に危害を加えてはならないとあるが、命令遵守の第二条に従うなら、殺さなければならない。自己防衛の第三条に従うなら、殺してはならない。人間を殺すことは、己への過剰な負荷になるからな。
 だが問題は第一条さ。これ以上危害は加えようがないって状態にあるが、看過することによって危害を及ぼすことにも繋がる。まあ考え方の問題ではあるが、少なくとも、ジャックはそう判断しちまった。この解決できないジレンマに陥って、この回路が生まれたのさ」
「しかし、他に方法が」
「あったと思うかね? ロスキンが即死だったなら問題はなかった。もう少し息が長く続いてれば助かったかもしれない。だがそのどちらでもなかった。少しだけ生きてた。助からない程度に」
 ジェイクは黙り込んだ。そのまま若干うつむき、微動だにしなくなる。
 ヤンガスは椅子を引っ張ってきて座り、ジェイクを観察する。ジェイクが時折僅かに動く。これでよしと判断を下した瞬間に、別の系統から違う判断が来て混乱をきたしているのだ。それが数分間も続くと、ジェイクは深く俯き活動を停止してしまった。
「だから言っただろう」
 ヤンガスは立ち上がり、呟く。
「ジャックはお前だったんだ。同じ型で乗り越えられなかったバグを、乗り越えられるわけがないだろう」
 経験の差が何か良い方向に作用するかと期待していた自分に言い聞かせるようヤンガスは呟くと、大きくため息をついて運搬用ロボットを呼びに歩いていった。


475

 彼ら「銀の羊」と呼ばれた者たちは、言葉に働きかける力を持っていた。故に詩人として星を渡り歩くことが多かった。
 もはや殆ど省みられることのなくなった生命というものを謳い、誰もその真価を知ることはなくなった自然の雄大さを想起させ、人々の乾ききった心を潤すように詩を紡ぎ続けてきた。
 彼らはその通称の通り、非戦闘的であることに加えて、何より美しかった。銀の髪に白い肌、深みのある緑の目。
 やがて人々は彼らの言葉ではなく、彼ら自身を求めるようになった。
 当初はその個体を。次第に彼らの一部から作る装飾品を。彼らは外見的な美しさは元より、内部も健康体そのものであったため、彼らの健康な臓器を、食したがったり老廃した己のそれと交換して欲しがったりする者が徐々に出始めたのだ。
 「銀の羊」はもはやヒトではなく装飾品として見られるようになり、急速にその個体数を減らしていった。末期には部屋の飾りに彼らの深緑の目が飾られていることが、金持ちのステータスの一つとみなされるほどに浸透した。
 特に連邦政府の多くを占める、所謂「銀河の支配種族」と呼ばれる層にそれは好まれた。彼らも「銀の羊」と同じヒトであり、赤毛が特徴的な美しい種族だったのだが、何故か銀の髪で編まれた装飾品や深緑の目を酷く好んだ。劣等感に類するところからきていたわけではないらしく、となると大衆的な嗜好に合った、としか思えない。
 虐殺という言葉すら生ぬるい環境下だ、一体どれが引き金になったのかは判らない。希少種と呼べるほどに個体数を減らした「銀の羊」が、今まで無抵抗であったにもかかわらず、たった一度だけ反抗を試みた。
 だがその反抗で「銀河の支配種族」であり、大繁栄を誇っていた彼らは一転、滅亡手前までおいやられた。
 支配種族がそのような態だったために、銀河は未曾有の混乱期に突入した。
 何より銀河中を恐怖に至らせたのは、何故そうなったのかが誰にも判らなかったことだった。まさか「銀の羊」がこれを引き起こしたなどと考えるものは誰一人としていなかった。
 誰かが武力を行使した形跡もない、経済的に壊滅的な何かが起きたわけでもない、突発的な異常も観測されていない。手がかりがまるでないのだ。
 だがそれは、半世紀後に支配種族の生き残りが発表した資料によって明らかとなった。
 たった一人の「銀の羊」による数行の詩。ただそれだけだった。
 当然ながら嘘だ、という声があちこちからあがった。詩自体は資料に記されていなかったため、何人もの人が教えろ、と詰め寄った。だがその生き残りは断固として口を閉ざしていた。
 元々は精悍な顔立ちをしていたことが、以前の写真から読み取れる。だが現在の姿は最低の環境下で、何十年も強制労働に従事したかのようなくたびれ果てた様相だった。彼は外見のことに触れられると、決まってこう言った。
「あれを乗り越えることが出来ただけでも嬉しい」
 だが今でも一週間に二回はその詩についての夢を見て、異常なくらいにうなされるらしい。
 ある三流雑誌の記者が、彼に詩の印象だけでいいから話してくれないかと聞いたところ、彼は少し考えた後に口を開いた。
「我々が彼らにしてきた仕打ち、それらに対する彼らからのありとあらゆる負の感情が数行に濃縮されていた。地獄からの怨嗟に我々は耐えられなかった。背負っているものの重みが違っていたのだ」
 彼はそれから二週間ほどして亡くなったが、まるで死ぬことが嬉しいかのように穏やかな表情をしていたという。
 一方、かの混乱を起こした「銀の羊」らも、ぱったりと姿を消してしまった。新たなる連邦政府も彼らを恐れて「かつてのことは背景を考慮して不問にする、彼らに危害を加えることは許可されない」とまで気を遣った声明を出したにも関わらず、だ。実はまだ復讐の機会を伺っているだとか、己らの吐き出した悪意に倒れただとか、様々な噂が流布されて多くの読み物でも触れられたが、確かに少数ながらもまだ居たはずの生き残りの行方はようとして知れなかった。
 混乱から一世紀半後に上梓された「赤と銀」という本の作者が、実は銀、つまり「銀の羊」の生き残りではないかという噂が強く囁かれたが、それもまた噂に過ぎない。


474

「なあ、俺が悪かったよ仲直りしよう。記念に写真でも撮ってやるからさ」
「……ふん、まあいいけど。本当に反省してるの? それより何よ写真って。そんな変なカメラ初めて見るわよ。発明品?」
「ああ、都市伝説実行プロジェクトで新しく作った奴だ」
「都市……何?」
「都市伝説実行プロジェクト。都市伝説を伝説じゃなくしてやろうって話さ」
「ふぅん。それがそのカメラと関係あるの?」
「ああ。そのプロジェクトの一環さ」
「へえ! どんな内容?」
「写真を撮られると魂を抜かれるって聞いたことないか? まあ実際にはそんなことないんだけど、だったら実際に抜いてやろうじゃないかってね」
「つまりそのカメラで撮られると死ぬってこと?」
「うん」
「うんじゃないわよ! 全然反省してないじゃない! 寄越しなさいよ、アンタ撮ってあげるから!」
「バカ野郎、殺す気かっ!」
「うるさーいっ! 人をさりげなく殺そうとしといて何言ってんの! 早く貸しなさいよっ」
「うわっ、止めろ、危ない」

パシャ

「博士、幸せだったんだろうな……。見ろよ。臨場感がよく出てる。撮ったら死ぬことも忘れて恋人と一緒にさ。元々うっかりしたところのある人だったけどなあ」
「何か揉めあってるようにも見えるけど……考えるだけ野暮ね、きっと」
「そうだよ。僕らの仲がいいのと同じことさ」
「まあ! うふふ」
「どうだい、記念に一枚」
「用意がいいのね。あら? このカメラって……」


473

 童養そくによって彼女は彼とともに育てられた。童養そくとは子供を育てるのが貧困な家庭から女の子を買ってきて、己が息子の将来の嫁にさせる、という許婚よりもより強固な縛りの制度である。
 年の差は四。まだ彼は赤子だった。彼は彼女を姉のように慕い、何をするにしても彼女の真似をしたがった。彼女も彼をかわいく思い、よく面倒を見た。それ故に心に抱えていた爆弾のような不安を、そっと後ろ手に隠すことが出来た。
 彼もいつしか成長し、童養そくについて知るときが来て、その制度がすぐ身近に置かれ続けていたことを知った。彼は喜んだ。彼女のことが好きだったからだ。それに彼女となら今とあまり変わらないような気もしていた。だが彼は彼女のことが好きで、ずっと一緒に居たが故に気づいてしまった。彼女があまり喜んではおらず、それどころか悲しげであることを。
 彼は誰か好きな男が居るのだな、と考えた。少なくとも、自分との結婚を喜んでいないことは悟ってしまった。彼がもう少し自分にのみ忠実であれば、彼女の心情など考えることはなかったのかもしれない。だが彼は心優しい彼女と居たが故に、同じ境遇の人間に比べて少しだけ優しかった。彼は姉のように慕った彼女の幸せを祈った。だがどうすればそれは叶うのだ? 童養そくという制度について知った今では、やすやすとそれが解消できるものではないことも知っている。彼女の幸せを願うには彼は無力だった。
 二重にも三重にも防壁を張って、彼女の意思のありかを探ったところ、彼女は答えた。「決められたことに逆らう気持ちはないわ」
 それでいいのか。彼が己に問いかけたことは一度ではない。
 ただ笑顔で迎えられる結末が欲しいだけなのに、それに至る道のなんと困難なことか。
 子供を生んで、家を継承させてゆくシステム。彼が自問するたびに、彼の心は歪んでいった。

 彼がするべきだったのは、飾らない、生身での質問だった。制度に関してだとか、反社会的な要素だとか、そういったまどろっこしさを崩してただ一言こう聞くべきであった。
「僕のことが好き?」
 それこそが、それだけが、彼の望む結末に至る道であった。彼が異常に慎重な手段をとったのは一重に彼の生来の性分としか言いようがない。
 幸せな未来を壊したのは誰だったのか。彼と彼女が結婚するころには、亀裂はもはやどうしようもないほどに広がっていた。彼は歪みきった思想を誰にも矯正されぬまま、一人で、滑稽なくらいに歪んでいった。
 その結末。政治的であり、死体の山が築かれ、血の海で浴するかのような彼の人生に、真の意味で笑顔など存在しなかった。追従、おべっか、恐怖、卑劣。見ていて不愉快になる類の笑顔ばかりだった。暗殺、報復の連続の中で彼の妻も血の海に沈められてしまったが、彼は二日ほど仕事を休み、三日目にはいつもと変わらぬ、心なしか以前より苛烈なくらいの熱心さで仕事に取り組んだ。その熱心ぶりは誰から見ても異常で、まるで死体を積む事で彼女のことを忘れようとしているかのようであった。
 下手に優しさを持っていた分、彼は他の人間より度を越して残酷になった。
 だが後年、彼は彼女の日記を見つけた。彼女の言葉が何十年分も綴られた日記だ。彼は彼女の真意を知った。
 彼女はただ少し拗ねていただけだったのだ。彼との結婚自体に異論はない。制度ではなく、普通に告白して、されて、そのまま恋愛結婚のように結婚したい。ただそんな想いをこっそりと抱えていた。だが彼女は彼の心の行く先を見て戻れぬ道に足を踏み入れてしまったことを知り、生涯黙っていることに決める。彼女はおそらく己を責めていたのだ。明快に記述されてこそいなかったものの、日記は言葉少なに、期間も途切れ途切れになっていた。
 彼女の素の思いに触れて、彼はほとんど発狂寸前までいった。今まで一度も感じなかった寂寥感、郷愁がかつての慈愛を一瞬だけ呼び起こしたが、その慈愛は彼の歩んできた道に耐えられるものではなかった。そして彼は日記を燃やそうと思い立ったのだろう。過去と決別するためか、良心の呵責に耐え切れなくなったためか。薪を積み、日記を持ち出してきて薪に火を入れる寸前で彼は狙撃によって殺された。
 彼の死に国中の民は胸を撫で下ろして、あれほど美辞麗句を並べて褒め称えていた者共も皆てのひらを返して悪鬼羅刹のようであったと諸所に書きなぐった。
「あの男は何も残さなかった。あの男の歩いた跡には焼き払われた家と、死体があるだけだった」
 その踏み潰されたものの中には、家を継承させるためだけのあの制度もあった。彼は「目的」を果たしたのか。それが「目的」だったのか。最早彼の目指していたものは誰にも判らなかった。


472

 このタバコを吸い終えたら死のうと考えていた。悩みぬいた末の決断とか、絶望的な事態に直面してしまったとか、そういった事情はまったくなかった。ただ、今吸っているタバコが最後のものであることに気づいたとき、直感的に、このタバコを吸い終わったら死のうと考えたのだ。
 俺は自分では狂っているとかうつ病であるとか考えたことはなかったが、余人から見ればどちらでも一緒であるように見えただろう。不意に自殺を思いつくような人間は、多分もう既にまともではないのだ。
 考えながら歩いてたどり着いたバス亭は古びていて、俺以外には誰も居なかった。打ち捨てられたようなベンチが一つあるだけだ。背もたれには何か広告があったようだが、かすれきっていて、広告の残滓しか読み取ることはできない。吸いおわってもしばらくタバコを口にしていたが、バスが来たことを確認すると、ベンチの端に放置されていた空き缶の中にねじ込む。
 バスの中もほとんど人はいなかった。爺さんが一人と、帽子を目深に被った女が一人いるだけだ。俺は適当な席に座り、背を預ける。
 行き先は決まっていた。海だ。
 首を吊るとか自傷に走るとか、その類の判りやすい行為をする気はなかった。ただ海に行って、それから考えようというだけだ。もしかしたら、今と同じようにふと気が変わることもあるかもしれない。そんな気持ちもあった。自分でも良く判っていないのだ、正直なところ。
 俺は死にたいのだろうか。生きたいのだろうか。
 そのような大層な問いで思考を回せるほど、俺には気力が残っていない。
 さっきタバコを吸い終えた時点で、既に頭が空っぽになっていた。ぼんやりと窓越しに外の景色を眺める。
 綺麗だな、と素直に思う。俺がこの田舎町に来たときと同じだ。階段状に並ぶ白い町並みを眺める。空の突き抜けたような青さもあって、普段暮らしている日常とはまるで違うものに見えるのだ。この美しい風景の中に、いつもは自分が居るとは考えられない。完全に景色が切り取られている瞬間だ。このバスに乗っている間で見える、一番いい景色だ。景色からはいかにも素朴そうな雰囲気が感じられる。代わりに都会の洗練された空気はまるで無く、来た当初は俺を寂しい気持ちにさせたものだ。ここは最初に受けた都会の雰囲気とはまるで違うという印象通り、今までに比べれば格段にのんびりしていた。それこそ日常の隙間を突いた突発的な思い付きを実行に移そうと考えられるくらいに。

 海の近くのバス亭で俺は降車した。少し歩くことになるが、今の気分にはちょうどいい。もう少し思考を遊ばせていたかった。
 まだ町中とも言える場所ではあったが、潮の匂いが海がいかに近いかを教えてくれる。
 タバコの自販機を見つけて、一瞬買おうかと立ち止まったが、すぐにそれではまるで意味が無いことに気づいてやめる。タバコがなくなったから思い立った行動なのに、こんな所で買い足してしまったらまるで意味がないではないか。
 自分の馬鹿さ加減にうんざりしつつ海へ向かう。
 海には誰も居なかった。この初夏だ、満員御礼とまではいかなくとも、気の早い連中が来ていてもおかしくないのに。平日だからだろうか。それともここの海があまり知られていないのだろうか。左右を見渡しても延々と人気の居ない砂浜がある。遠くのほうに車が間隔を置いて二台ばかり止まっているが、サーフボードを積んでいるわけでもなさそうだ。日がじりじりと照りつけ、海は静かだったもののとても夏らしい風景であるはずなのに、そこだけぽっかりと忘れ去られてしまったような寂しさがあった。
 浜辺に降りてガラス片が落ちていないことを確認すると、サンダルを脱いで素足を波打ち際に埋もれさせる。
 寄せては返す波。足元で繰り返される引き込まれるような砂の流れと、冷たい海の感触。それらは空っぽだった俺の心を僅かに活性化させた。
 ――何故俺は死のうと考えたんだ?
 今一度問いかけてみる。嫌なことがあったわけじゃない。死ななければならない理由をもっているわけでもない。なら、何故。
 それは、理由がないからだ。死ぬ理由がないのと同様、心残りになるような物事がないのだ。部屋には必要最低限なものしかなく、仕事にやりがいを感じているわけでもない。これが生きながらにして死んでいるということか。
「つまらんなあ……」
 苦笑と同時に思わず言葉が漏れる。そのほぼ無意識の言葉が今の俺の全てを表しているように思えた。いい年になって無気力感に捕らわれ、心を枯渇させてしまった。情けない、という気持ちが浮かぶがそれも一瞬のうちに流されていった。
 足を一歩踏み出す。足の表面を撫でるだけだった波が、足首にまで届く。
 それを待っていたようなタイミングで、後ろから声が投げられた。
「死ぬと、どうなると思いますか」
「え?」
 振り返ると、バスで一緒に乗っていた帽子を目深に被った女が居た。俺の戸惑いに関係なく、女は言葉を続ける。
「観念上は綺麗なものですよね。避けられないから、せめて美しく飾っているのです」
 女は後ろで手を組み、一歩下がったと思ったら足首を伸ばして、踊るような所作で足を踏み出した。白いワンピースと肩まで伸びた黒髪が揺れる。
「現実では思っているほど綺麗ではありません。首でも吊ってごらんなさい、意識と体が完全に分離してしまえば、肛門が緩んで汚物が垂れ流しになります。想像はつくでしょう? ……もっとも、死ぬ側からすればその後のことなど関係ないのかもしれませんが」
 女は片手で海の向こうから吹いてきた風に帽子が飛ばされないように押さえ、空いた手でワンピースの裾を押さえた。
 この女は見知らぬ相手に説教でもしにきたのだろうか? 暇な女だ。そう思いながら返す。
「何が言いたいんだ?」
「死出の旅は案外嫌なものですよ」
 そう言って女は帽子を取って、微笑った。その帽子の下から覗いた顔には、額から右頬にかけて火傷跡があった。それは女の白い顔にあって酷く歪な傷跡として刻まれていたが、俺に不快感や嫌悪感に類するものは沸いてこなかった。
 変な女だ。先ほどの印象に加えてそう思う。唐突に死を思い立つような阿呆もろくな人間ではないが、見ず知らずの人間に死を語りだす人間もまともではないに違いない。
「そうか」
「死ぬおつもりだったのでしょう?」
 率直に指摘されて、少し驚く。見ず知らずの人間を寄せるほどまでに死臭でも漂っていたのだろうか?
「さてね。自分でも良く判らん。それで、あんたは俺を止めに来たのか」
「そうですね、そうなるといいなとは思いますけれど」
 女は口元を手で隠してうふふ、と笑う。
「無理に止めようとは思いませんよ」
 俺は黙って女から目を逸らし、足元の寄せては引く波を見る。波が足を撫で、砂が不思議な感触を伴って足を優しく掬おうと動く。
 この女は何をするためについてきたのだろう。いまいち判断が付きかねた。説得と言うには弱かったし、死を見物に来た、そう評するのが近いように思えた。
「死についての話が出たついでに聞いてみたいんだが」
「何でしょう?」
「あんたの死生観を聞かせてくれ」
「死生観?」女は首を傾げて、少しだけ微笑む。「選べる死なら、夜は避けたいですね」
「なんだいそりゃ」
「夜は……ここの夜は星もよく見えて、綺麗な夜です。もし貴方がここで死のうと言うのなら」
 女は急に言葉を切って黙り込んだ。目を閉じて、僅かに首を傾げる。慎重に言葉を選んでいるように見えた。俺も黙って待つ。
 やがて女は目を開けると、俺が黙っていたことが嬉しかったのか微笑み、さらりと言った。
「美しい夜に貴方だけが醜く汚いのです」
「……なるほどね」
 醜く汚い、と言われて苦い気持ちはあったが、先ほどの話を踏まえて考えるとそうなるであろう事実を指しているだけに思えて腹は立たなかった。
「私からも質問をしていいですか?」
「ああ」
「学生……の方ではありませんよね、貴方」
「そりゃそうだ。一応社会人だよ。今日は平日だが俺は休日なんだ」
 答えながら俺は顎を撫でた。ざらついた髭の感触があり、そういえば今日は髭をそっていなかった、と思い出す。
「お仕事、詰まりませんか?」
「楽しい、とは言えないな。やりがいなんていう言葉とは無縁なだけさ」
 俺が答えると、女は思わず呑まれてしまいそうな満面の笑みを浮かべた。
「では私が雇って差し上げましょうか? いいえ、ぜひお出でください」
「楽しいのか?」
 いきなりの申し出に唖然とするより前に、思わずそんな言葉が口をついて出ていた。
「さあ、どうでしょう。楽しくはないかもしれませんが。ただ、やりがいはありますよ。ありとあらゆる状況が貴方に歯車で居ることを許さないですから」
 信用できる要素はまるでなかった。女は仕事の内容についても、自分についてもまるっきり口にしていない。聞けばどちらも答えたかもしれない。だが俺も聞こうとは思わなかった。投げ出しかけた命だ、何をためらうことがある? 何となく、今の自分の心情は特攻兵にも似たようなものがあるのかもしれないと思った。
「いいさ。好きに使えよ」
 そう言って俺は手を女のほうに差し出す。
「ようこそ、そしてよろしくお願いいたします」
 女はうやうやしく俺の手をとると、両手で俺の手を包み込み、柔らかな笑みを浮かべた。


471

 黄金憲章と呼ばれているものがある。
 国境警備員講習の際には必ず教わる知識だが、半ばそれは冗談交じりに語られるのだ。何故かって? まず現物を見ることはないからだ。国境を通る旅行者は年間数百万人にも上るが、何十年もそれをお目にかかったことはない。その下位に位置する銀翼憲章、銅狼憲章は年に何度か見るときもある。だが黄金憲章だけは別格だ。必要に応じて発行される銀翼、銅狼と違い、黄金憲章は一番最初に作られた七つ以上の数はない。だがそれらもかつての旅行者による紛失、王室宝物庫への保管と重なり、現存するものがいくつかすら判っていない。
 それくらい珍しい代物だから、普通の通行証や旅券と同じノリで出されると固まってしまうのも無理はなかった。
「……え、と」
 俺は何か言わなきゃと思って口を開いたが、言葉は出てこない。本物か? そんな思いがよぎるが、すぐさま追従するようによりにもよって黄金憲章の偽造などはあるはずがないとも思う。黄金憲章は偽造するにしても莫大な金がかかるし、それがバレようものなら苛烈な拷問の末、最終的には死刑にされる。ただ通行したいだけなら通行証程度で十分なはずだった。通行証なら偽造がバレても罰金ですむ。
「これ、本物ですか?」
 思わず口にして、我ながら阿呆なことを聞いたものだと感心する。
「当たり前だろ」
 持ち主の男は当然と言った顔で応えた。
 黄金憲章を所有する条件は「思想的な偏りがなく、政治や利権に絡まぬ目的を持った公明正大な人間であること」という存在自体が疑われるような聖人君子だ。しかもそれを各国の君主に拝謁してお墨付きを貰わなければいけない。少しでもグレーな部分があったらもらえないのだ。そんな人間がいるはずがない。誰もがそう思っているから申請さえ滅多にない。
 だと言うのに。
 目の前の男はどう見ても聖人君子とは程遠いように見えた。黄金憲章が貴重視されるのは、王国勃興期に絶大な権利を保有させられたからだ。曰く「それの通行を禁ずるものはあってはならない」。王宮であろうと、王室宝物庫であろうと、軍事上の最高機密区画であろうと、民家であろうと、誰もそれを止めることはできない。もちろん何か記録を取る様な行為をしたり、持ち出したりするようなことは禁止されている。だが通行目的であれば止める術は持たないのだ。だが本当に居ると思うだろうか。宝の山が横にあれども素通りして、情報を持ち帰ればありとあらゆる待遇で迎えられるような軍事機密が目と鼻の先にあるのに、関心すら示さない人間が。
 俺は唖然として持ち主の男を見る。
「はやくしろよ」
「あ……その、はい、えぇと、入国の目的は?」
 黄金憲章の持ち主は先ほどの通り無条件で通ることが出来る。だがすっかり放心している俺は条件反射で普段どおりの行動をとった。
「木苺を食いに来たんだ。何でも今年はエラいいいのが取れたらしいじゃないか。しばらく木苺漬けの日々ってのも悪かないなと思ってな」
「……な、なるほど」
 今度は何とか反応できた。何か特別な目的を持つことは禁止されているとはいえ、あの黄金憲章が出てくるくらいだから何かそれなりの理由でもあるのではないかと期待していた。それがどうだ、木苺?
 もしかして馬鹿なのか、と初対面の人間に突きつけるには失礼な印象を持ちかけたとき、思い出した。国境警備員講習で講師が言っていた「まともな人間なら黄金憲章を満たせるような賢人なぞ居るわきゃない」という言葉を。つまり、まともじゃないのだ。宝の山に興味を示さず、軍事機密が目の前にあっても素通りする人間なのだ。
「一つお聞きしても?」
「何だ?」
「普段からこの黄金憲章はお使いになられてますか?」
「うんにゃ。いつもの旅券をなくしちまったんで、掃除がてら探してたらこれが出てきたんだ」
 絶句した。王室宝物庫にも保管される国宝の扱いとは思えない。
「何かまずかったか? 有効期限切れてんのかな」
 そう言って持ち主の男は黄金憲章をじろじろと眺め始める。
「いえ、黄金憲章に期限はありませんから……」
「そうか。じゃ、行っていいか?」
「……ど、どうぞ」
 言いたいことは一杯あったし、聞きたいことも一杯あった。だが黄金憲章持ちを理由なく引き止めるような愚行は国際協定違反になる。それに仕事中であり、まだまだ入国審査待ちの旅行者は列を作って待っていた。
 少し驚いたが、それだけの話だ。生きているうちに黄金憲章なんていう都市伝説級の代物を見ることが出来ただけでもよしとしようじゃないか。俺は自分にいい聞かせて、一度だけ男の去っていった通りを振り返った。