思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳270-251 自分の読みたいものは、ひとに期待せず、自分で書けばいいのだ。by「ライオンと魔女」あとがき

270

 西日が差し込む室内で、ピアノの音が流れている。
 部屋の中央に、主のごとき存在感でそこに在るグランドピアノ。それを白いドレスをきた少女が弾いている。少し後ろで、老いた執事が西日を浴びながら静かに見守っている。
 少女は置かれている楽譜を見ようとはせず、ただ自分の指先にのみ意識を集中させていた。少女は先人の描いた形無き世界の言葉無き物語を辿っている。鍵盤上の十本指がうねる様を、スタインウェイの文字が刻まれた光沢ある屋根が映し出していた。
 老執事には全く違和感が感じられなかったが、少女は途中舌打ちをした。間違えたらしい。そのすぐ後、再び舌打ち。
 やがて三度目の舌打ちと共に少女は勢いよく鍵盤を叩いた。十個の強い音が余韻を残して消えてゆく。
「お嬢様?」
 老執事が問うものの、少女は返事ひとつしない。やがて椅子を蹴倒して立ち上がり、
「部屋に帰るわ」
 それだけを告げて足早にその部屋をあとにする。
 少女を見送る老執事だけが取り残された。老執事はそっと倒れた椅子を元に戻し、鍵盤の蓋を閉めようとして、閉める寸前でふと思い立ち鍵盤を一つ叩いてみる。
 丸みのある重い音が弱弱しく響いて消えた。
 もう一度、今度は強めに叩いた。同じ音が強く余韻を残して室内を駆け回る。綺麗な音だと老執事は思う。一番重い音でさえも滑らかな丸みをもって響く。軽い音は跳ねるように。
 老執事はもう一度だけ鍵盤を叩き、その音が消えた後、少しだけ余韻に浸るとそっと屋根を閉じた。


269

「君」
 個人タクシーの運転手、桐生征次が自分の車に戻ると声をかけてきた者が居た。征次はそのお客を見る。スーツ姿に口ひげとあごひげを生やし、ステッキにトランクを持っている。上客だ。そう思った。
「ご利用ですか?」
 その外見からはイギリス的ともとれる紳士然とした男はうむ、と頷いて言う。「スウェーデンに行ってくれ」
「…え。あの、すいません、もう一度言ってもらえますか?」
「スウェーデンだ。ヨーロッパの」
 征次はお客を見る。ブルジョアというのはいまいち常識というものを弁えていない場合が多いものだ。
「えー…船か、飛行機をご利用になってください」
 紳士は憮然として鼻を鳴らした。
「ああ。だからまずは船着場だ」
 征次は安堵する。
「つまり、スウェーデン行きの船着場へ行けばいいんですね?」
 紳士は頷き、
「そう。そしてその船へ乗ってくれ」
 眩暈がした。
「ちょっ、ちょっと待ってくださいよ! 何で俺までスウェーデンに行かないといけないんですか!」
「君はタクシーの運転手だろう。金は払う」
「そういう問題じゃないですってば! それなら船着場まで乗せますから一人で乗って、それから向こうで改めてタクシーを拾うなりしてくださいよ!」
「大した違いはないだろう。さ、早く行ってくれ」
 勝手に座席に乗り込む紳士を見て、征次は頭を抱えたくなった。何故こうも上流階級というものは同じ人間であるのにこうも考えかたに差があるのだろうか。
 とりあえず、スウェーデン行きの船着場まで送って適当に言いくるめてさっさとトンズラしちまおう、と征次は考え、自分も運転席に乗り込む。
「大体スウェーデンに何しに行くんです。旅行ですか」
 征次は発車させながら問う。ある程度目的を聞けば言い包め易くなるだろう。
 しかし紳士の答えは征次の想像の範疇から次元単位で逸れていた。
「いや。そこから更に船で北極圏へ入り、水のトンネルに入る」
「み、水のトンネル…? 何があるんですかそこ…?」
「巨人の国があるらしい」
 キチガイか、と征次はバックミラーで紳士の顔を確認するが、その顔は平然としていて何の異常も見て取れない。征次は怖くなってきた。
「何しに行くんです…?」
「巨人に興味がある」
 征次は車を捨ててでも逃げたくなった。
「そ、そうですか…」
「同行してもらうのだから、少しそれについて話をしよう」
 そう言って、紳士は話し始める。
 水のトンネル、地球内の赤い太陽、高度な文明を持つ巨人の国、人の頭ほどもあるリンゴ…。まるで見てきたかのように話すその口ぶりに、征次は不本意にも少しだけ興味を持つのだった。


268

「―蜘蛛。お主、狂うたのか―?」
 長年妖怪を討滅してきた老僧は、云った。
「いいえ、正気でございまする」
 この世のものとは思われぬほどの美しさを持った女は、妖艶に笑って答える。
 そしてその背後には女が主と崇める少年が、蜘蛛の糸で隙間なく巻き取られ、瀕死の体で洞窟の真ん中にぶら下がっていた。
「こうするのが、一番安全にございまするゆえ」
 女の正体を知った主はみな狂相を示して女を殺すか、己が逃げ出すかを試みた。そしてそれが叶わぬことであると知るやいなや―自決した。
 蜘蛛は悲しかった。自分は何もしておらぬというのに。ただ主を慕っているだけなのだ。主を害する気は微塵もない。だから。だから願った。どうか私を殺そうなどとするのはお止めくださいませ。私を置いて行こうなどというのはお止めくださいませ。
 そして、その願いが叶わぬのを知ったとき、蜘蛛は主を拘束した。
「主封じてうぬの力が最大限に発揮されることはあるまい…我が先祖の呪い故に…」
 蜘蛛は嗤った。
「憎きや陰陽師…。我らが盟主を殺し、同胞を殺し…」
「うぬらの盟主…あの土蜘蛛を調伏したるは我が先祖ではない。源一族の…」
「どうでもよいこと」
 未だ人の形を保つ蜘蛛は腰の剣を抜いた。
 老僧は知っている。
 その人ならざる美貌は、人を喰らうための餌であることを。
 その整然とした物腰は、人を油断させるための罠であることを。
 その鮮烈な太刀筋は、人を欺くための蓑であることを。
 人を欺き、油断させ、喰らってしまう女は平安の頃に生まれ、幾百もの時を生き抜いた老獪な妖怪蜘蛛である。
 幼き主でさえも、それは知らない。いや、知ったからこそ拘束されたのか。ならば同じ人の身として、解放してやらねばならない。
 老僧は杖の、刀身にびっしりと呪符の貼られた仕込み刀を抜いて、正眼に構えた。


267

 見慣れたいつもの輝く星は其処に亡く、見守るべき月は永劫の彼方に。

 探査監視型第六宇宙ステーション勤務のイソザキは、ステーション自体が"跳んだ"のか月が"跳んだ"、或いは消滅したのか暫く判らなかった。何せ起きていたらその状態だったのである。慌てて通信機に走るが、通信機は起動しているものの、巧く母艦である都市艦に繋がらない。
 イソザキはイライラと何度も通信を試みるが、全部失敗だった。
 三十八回目の失敗の後、まさかと思い航法プレートに走り、普段まずすることはない座標確認をしてみると、そこは見たこともない位置だった。ある程度宇宙の知識がある自分でさえも見知らぬ座標。狂ったような座標値から弾き出されるのは銀河系から弾かれたという絶望的な結論であった。見慣れぬ星が第六ステーションの周りで煌々と輝いている。
 食料は交替までの二か月分と、非常用のものが少し。水はそれよりも少し多めにある。くそっ、とイソザキは内心で毒づくと、今後の計画を即座に立て始める。銀河系外である以上航行ロボットも役には立たない。せめて銀河系内に戻れれば手立てはあるのだが。
 随分飛ばされたな、とイソザキは航法プレートを見て思う。場所の拡大をしても一向に惑星一つプレートに入らない。ステーションは機動が主ではないので、その能力はさほど高くない。既に何十光年単位でジャンプしなければまず永劫に見知らぬ空間で彷徨うことになる状況にある。しかしステーションの能力を考慮してもそれほどの回数、距離は望めない。方向は慎重に決めなければならない。イソザキは探査範囲をどんどんと広げてゆく。
 こうしてイソザキの宇宙漂流一日目は始まった。


266

 その少年は神代の言葉を使う。この世の始まりの言葉、生きた、力のある言霊が宿る、滅びた言語。
 現存する言葉ではルーン文字に近い。しかし、ルーン文字から辿ってその言葉に行き着くことは不可能だ。近いといっても、ルーン文字は百世代近く離れた孫なのである。むしろ百世代程度離れたところに近い言葉が存在することの方が驚くべきことなのだ。
 少年は己の神性を理解しては居ない。私としては、その方がいいのかもしれない。
 私は題にクリファと記された書を閉じる。
「ニキさまー」
 書に長々と観察結果を書かれているクリファは、ニコニコと笑いながら私の元へ駆け寄ってくる。
 私は、いつもの微笑でもって迎える。クリファは私の膝の上に乗ると、そのまま私の顔を見上げてえへへと笑う。
「機嫌がよさそうですね」
「はいー。実は街に下りる許可が出たんですよー」
「ほう…。何ヶ月ぶりでしょう。ならば、十分に楽しんでおいでなさい」
 私が言うと、クリファは一瞬意外そうな表情をした後、満面の笑みを浮かべる。
「ありがとうございますー。でも、ニキさまがお付なんですよー」
「私が? しかしそんな話は…」
 と言いかけたところで、入り口近くに小間使いが控えているのを見つけた。手に何かを持っている。
「街ですか」
 私が声をかけると、小間使いは助かったという顔をして何度も頷きながら「そうです」と答えた。
 伝令を受け取り、小間使いを帰すと、
「ねー?」
 クリファは笑顔で言う。
「ええ。そのようですね。では、私は準備をしてきますので、貴方も準備をしてきてください」
「はーい」
 と答えるとクリファはそのままたたた、と部屋を出て行く。
 何事も、なければよいが。私はそう思いながら護衛のための剣を取る。
 普通なら街へ行くことが禁止されることは滅多にない。だが四ヶ月前に「敵」に襲われて護衛が殺され、クリファも危うく殺されるところであった。しかしクリファが何らかの神代言葉を紡ぎ、次の瞬間「敵」は身を翻して山へ去り、その頂上で己の首を落としたらしい。
 そのようなことがあり、街の監視が強化され、不審者の一掃をしていたのだが無事に済んだらしい。だがそれでいて私が護衛に回されるということは、不安要素も幾ばくか残っているのだろう。
 私は神殿の印が入った外套を着て、クリファに何か買ってやらねばならないな、と思った。


265

 ふぅ、と瓦張りの民家の屋根の上に座り込んだ一番年長と思われる女が溜息をついた。他にも二人居て、一人は暇そうに髪の毛を指先とくるくると巻いては放す、ということを繰り返し、一人は涙目で必死に地図とにらめっこをしている。
 そしてその三人の普通と違う点は頭の上に丸い輪が乗っていることだった。色は透き通るような赤色で、太陽の光を通すと黄色に見える。
 一番年長の女は地図とにらめっこをしている一番年少の少女に声をかける。
「まだ?」
「え! え〜っと…こ、この辺りが地図で言うこの辺だと思うんですけど…でもそうするとこの辺が間違いってことになるんで…う〜!?」
「姉さん」
 ずっと髪の毛をいじっていた女がふと顔を上げて、年長の女へ声をかける。年長の女は文庫本を取り出しながら、それを読むためにメガネをかけていた手を止めた。
「ん?」
「おなか減ってきた」
「目的地への到着が最優先だから、駄目。まだ我慢して」
「…そう。わかった」
 そのやり取りを聞いて、年少の少女はますます焦ったのか、到底まともな判断が導き出されることはなさそうな表情で地図を凝視している。
「ユノ」
 今度は年長の女が、再び髪をいじりはじめた女、ユノに声をかける。
「なぁに?」
「お前が代わった方がよくないか」
「あのね、姉さんは戦闘が専門だからいいけどね、あたしとキリは探査専門。そしてあたしは試験は通ってる。手伝っちゃ駄目なの」
「そうか。了解した」
 答えると、年長の女は文庫本を読み始める。
 そしてキリと呼ばれた少女は涙目でユノを見つめるが、ユノは退屈そうに顔を左右に振った。


264

 願いが一つ叶う。
 その理想的な状況を目の前にして、俺は不意に湧いた感情に戸惑っていた。
 己以外誰も得をしないような、そういう願いを叶えさせるつもりで居た。
 他の競争者十三人は、皆、死んだ。その結果自分がここに立っている。
 正直者だった奴も、性格が良かった奴も、面倒見がいい奴も、気に食わない奴も、死んだ。
 俺がここに立っているのは一番卑怯で、狡賢かったからだ。
 最初は皆いがみ合っていたはずだった。途中、性格がいい奴らは馴れ合い始めて互いを助け始めた。くだらないと思った。
 性格がよくない奴らは互いを潰しあった。俺にはこちらの方があっていた。
 だがだんだん進むに連れて性格がいい奴らはどんどん死に、最初潰しあっていた奴らもいつの間にか悪態をつきながらも助け合っていた。
 考えるだけで、胸糞悪い。
 奴らは口先だけで、結局ここまで辿り着いたのは俺なんだ。
 奴らは愚かだった。馬鹿だった。
 ここまでの俺の道のりを振り返れば奴らの死骸がごろごろ横たわっているのだ。俺が立つために奴らの死体を土台にしたんだ。自分が無理だと悟ると、俺に託して死んでいった奴も居た。
 俺の念願のために奴らは自分の人生を犠牲にした。他人のためになんて俺はそんなのは真っ平だ。でも、何故か口からは違う言葉が出かけている。
 よせ。そんなのは望んじゃいない。どうせ、またいがみ合って潰しあうに決まっているんだ。俺に居場所はないんだ。
 さぁ、俺よ。不老不死だろうと世界制服だろうとなんでも構わないんだぜ。何であろうと、願いが一つ叶う。よく考えろ。くだらないことを言うんじゃない。

「このクズみたいなゲームの参加者を…生きた状態でこの場に集めろ」

 ああ、言っちまった。何だよ、結局…俺も奴らと同じなんじゃないか。くそっ、どうせ後で後悔するに決まってる。馬鹿馬鹿しいことをしたもんだ。


263

 一人ぼっちの怪物は森の中を一人で歩く人間を遠くに見つけて、すぐに移動を始めた。
 目の前に降りて、脅かしてやろう。剣や銃を出してきたらいつものようにすぐに首を刎ねればいい。今回はどんな反応をするのだろうか。
 草木の間を恐るべき速度で移動し、その人間が歩く山道に降りた。
 その人間、少女は突然目の前で響いた音に止まる。
 怪物は口を開こうとして、少女の様子が妙だったので少し様子を見ることにする。
 少女は戸惑ったように杖で恐る恐る地面を探る。目は開いていたが焦点は一致していない。盲目のようであった。
「…あの、誰か、居るんですか?」
 少女が精一杯身を竦めて周りを伺うように声を出す。
 怪物は答えなかったが、首を傾げている。そうしているうちに少女の杖が地面につくほどに長い怪物の腕に触れた。
「え……?」
 少女が驚いて杖を引っ込める。
「あ、あの…? え…木…?」
 少女が恐る恐る声をあげるが、怪物は答えない。少女は首を傾げる。もしや本当に木か何かなのかと思い、確認のために怪物に近寄る。
 怪物は少女の手が触れる寸前で避けた。少女は再び首を傾げて、杖で探る。そこには何もない。
 少女はそのままゆっくりと歩き、山道脇の坂になっている部分に踏み込んだ。
「っ!!」
 少女はあっという間にバランスを崩して落ちかけるが、すんでの所で怪物がその長い腕で抱きかかえ、少女を山道に戻した。
「あ、ありがとうございます…」
 少女は暫く恐怖から荒く息をついていたが、やがて顔を上げると弱々しい笑顔で礼を言う。
 しかし怪物は答えない。
「誰か、いらっしゃるんですよね?」
 少女は困ったような、戸惑ったような顔でどこに居るかもわからぬ恩人に言う。
 怪物はやはり何も言わず、ただ少女の頭をその手で撫でた。


262

 侍の格好をした女の従者は、今日も手をつけられた様子のない食膳にため息をつき、口をきゅっと結んでから、覚悟したような表情で襖越しに恐る恐る声をかける。
「殿、どうかお召し上がり下さいませ。もう三日になります」
 従者は暫く待ってみても一向に返事がないので少しだけ目線をあげる。襖の向こうの人影は微かな明かりの中で相変わらず何か書き物を続けている。水程度なら何度か飲んでいる様子だったが、全く固形物は口にしていない。人間、水だけでも一週間は暮らせるというが、好んで実践しようという人間はまずいないであろう。
「殿、どうか…」
 従者は言葉を続けかけたところで、主が立ち上がったので言葉を止める。
 障子がゆっくりと開く。
「殿…」
 従者が嬉しそうに声を出しかける。ある種の期待をもって。今までの、わだかまりが消えることを願って。
「去ね」
 だが殿と呼ばれる男の見下ろすその目には、温情など微塵も見て取ることは出来ない。
 従者は黙って俯く。自分は主を裏切ったのだ。国のためと言いながら主を激戦地になる城から山奥の小さな屋敷へと移動させ、兵を一時的に借りると言って幕府を倒すための勢力に組み込み、それはそのまま新政府の勢力となった。それらの引け目が、新政府では英雄扱いの自分が官職を辞して主の世話をしている理由だった。
「うぬの作ったものなど、食うつもりはない」
 いかに英雄であろうとも、この場所では主を裏切った逆臣であり、主に憎まれていることには変わりない。
 そして全て打ち壊された。
 身は痩せ細り、その上飯を三日抜いているにもかかわらず、その相貌にギラギラとした凄まじい眼光を灯している男は、食膳を上の魚や、白飯、味噌汁ごと蹴り上げた。従者はその身で全てを受けることとなった。
「…!」
 従者は目をぎゅっと瞑って耐える。
「とっととうぬの牙城に帰るが良い」
 従者は辛かった。主筋から逆臣と言われることは生きる気力を腐食させるほどのショックなのである。  主は障子を閉じ、静かに書き物を再開する。
 従者はその身に己の作った食事を被りながらもその場に平伏した。その状態のまま、体は僅かに震えている。怒りではない。一人、主の限りない怒りの大きさに泣いていた。


261

「さぁ、行きなさいっ!」
 勇者然とした青年に対峙した少女は、青年を指して声を張り上げた。
 声に応えるように、少女の背後が蠕動し、影から浮き上がるようにその姿が露になる。
「そいつは…」
 青年は戸惑いの声を上げる。
 少女に従うは醜き容貌の巨大な化物。黎明期の怪物の、最後の生き残りだ。
 青年には何故この少女がこんなのを連れているのかも、こんな怪物が高飛車なだけの少女に従っているのかがわからない。
 しかし、敵は敵だ。
 青年は剣を構える。


260

「…ん」
「何だ?」
「何かこの便器おかしくないか」
「はぁ? 同じだろ。早く済ませろよ。次の授業に間に合わないだろ」
「いやでもこれ…」
「おい! いい加減にしろよ! 先に行くぞ!?」
「…! 隙間だ! …もしかして」
 ガタン
「お、おい、何だそりゃ!?」
「わ、わからん…。便器が上にあがるなんて…。奥に階段があるぞ?」
「何で学校にそんなものが…。七不思議にトイレの裏から秘密の入り口へ、なんてあったか?」
「ハリーポッターみたいに変なのが出てくるんじゃないか」
「止せよ…。それよりどうする…?」
「うーん。もう授業始まるしいいや」
「あっ! そうだ! 忘れてた! 早く行くぞ!」
「あっ、待っ、待ってくれよ! まだ用を足してないんだから。まず元に戻さないと」
 ガタン
「さっさとしろよ!」
「ハハハごめんごめん」


259

 勉強に疲れて顔を上げると、レースのカーテン越しに、向かいの屋根に幼馴染の男の子が座っているのが見えた。たまに休日になるとああして屋根に何をするわけでもなく座っているから、特に驚くことではない。
 幼馴染といえど、小学校以外同じだったためしがなく、それほど仲が良いわけでは無かった。思い出といえば、一度その小学校の頃に公園で遊んだことくらいだろうか。対してお母さんは彼の家のおばさんと仲がいいらしく、よく彼やその姉の話を聞かせてくれるが、彼も同じように聞いているのだろうか。それを想像すると何だか恥ずかしくもある。どうやって知ったのか、彼の精通の日の話を仕入れてきて聞かせてくれたことがあり、思わず赤面したものだったが、まさかこちらの初潮の日の話も伝わっているんじゃないかと思うと、恥ずかしすぎていてもたっても居られない。不公平だとはわかっているのだが。
 そんなとりとめも無いことに思考を費やしていると、彼の家の玄関が開く音がしたので覗き込む。彼のお姉さんだった。お姉さんは家の傍の自動販売機まで行くとジュースを買い、戻りかける。そこで止まり、自分の家の屋根に弟が居るのを見て少し驚いたような顔をした。その後お姉さんは男の子に手を振ったけど、男の子は空を見ていて気づいた様子は無い。お姉さんは少し口を尖らせ、携帯を取り出すも開いてすぐに閉じ、再び何故か自動販売機のほうへと引き返す。そしてジュースをもう一本買うと今度こそ家に戻った。更に少しすると彼の部屋のベランダが開いて、お姉さんが先ほど買ったジュースを手に顔を出す。彼が慌てた表情で屋根の縁まで這い、お姉さんからジュースを受け取る。そのままお姉さんも屋根に上がり、二人で何か話しながら空を見、ジュースを飲んでいた。
 私には弟が居るが、とてもあんな雅な行動をとることは到底考えられない。屋根に上って、姉弟揃って空を見上げるなんて。私は一人でそんなことをする気にはなれなかったものの、いいなあと思うのだった。


258

 冥府の果てより伸びてきた禍々しい手に、心の臓を掴まれたような感覚になる。
 これが心が締め付けられる、という感覚なのであると私は知っていた。感情を渦が出来るくらいに掻き混ぜられるのに、自分では何一つ出来やしない。
 喉元まで自分でもよく判らない「何か」がきている。これを吐き出したらどうなるのだろうか。心は未だに禍々しい手に潰されそうなほど強く握られている。
 気づいた。その手が伸びる深く暗い闇の底。深遠の彼方で陰鬱に光るその眼光は、紛れも無く私のものだった。それは私であれど、この心の臓を掴む手は弛められそうにない。ただ締め付けられる感覚に耐え、波打つ感情を沈めようと必死になる。それ以外の選択肢はないのだ。
 だけどきっと私は待っていた。ただ、それが「この暗黒を」なのか「この暗黒から助け出してくれる人を」なのかはついにわからなかった。


257

 まるで台風のような演奏をする者たちで、それは騒々しいことには事欠かなかったが、余りの騒々しさゆえに演奏中でさえも、一抹の祭りの後のような寂しさが付随するのであった。


256

 心の私はこの身体を選んだ。それは紛うことなき真実である。
 精神が先にありきで、成熟された心が肉体を選ぶことになってからは、皆美男美女を選ぶのは当然であった。肉体が朽ちれば暫く眠り、百年から千年程度の休暇後に再び肉体を選んで現世に舞い戻る。
 全員がナルシストか、と錯覚しかねないような端正な造形だらけの、否、端正な造形のみの世界で私は一人醜悪な顔で、背がひん曲がった醜い身体を敢えて選んだ。誰も選ばず、何千年と眠っていた身体だ。しかし何千年と経った所で行き着くところまで行き着いた我々の美醜観は変わっていなかった。いや、些細な変化はあったのかもしれないが、醜悪なものに対する目は変わっていなかった。故に私は嫌悪された。蔑まれた。嘲笑された。
 どんなに歳を積んだ人間でさえも、中まで見るのは自分だけのようだった。二回ほど前の人生では賢者と謳われた私も、今ではすっかり無駄に人生を繰り返す愚者のような目で見られている。
 鏡にその己の顔を映せばなるほど、鏡を壊してしまいたいくらい醜いではないか。
「お前は」
 私はその醜い男に向かって、選んだときから疑問に思っていたことを問う。
「何ゆえ造られた? 誰も選ばぬのは判りきっていただろうに」
 しかし、問うまでもなく実はもう判り始めている。
 悪が、必要だったのだ。
 偽善者たちがその本性を現すための、悪。
『物好きめ』
 鏡の中の私が、そう言った気がした。
 私はその醜い顔で、鏡の向こうの醜い顔へ向け、にぃと笑ってみせた。


255

 竜琴という、絃に竜のヒゲを使っただとか言う冗談みたいな楽器を持った男があたしの街に来た。
 その男は路上に河岸を広げることを決めると粗末な茣蓙を敷き、自分はどこどこの何某で、流浪の楽器引きをやっている。今から弾くのは竜琴という世にも珍しい楽器であるから、通りかかったのも縁だと思って是非どうぞ。そんな口上を述べると男は木か何かで出来た三十センチほどの円筒形のケースからその竜琴なる楽器を取り出した。
 それは、妙な形をしていた。まず、二つの茶色い…木で出来たような円が上下にある。そして中心にやや太めの柱が一本。よく見れば、その柱には精巧な竜の細工が施されている。そして絃がその竜を守るように周りにあった。絃は十本前後あるようだ。男は上の円を僅かに捻り、絃に張りを持たせる。その準備の間に、興味を持った暇な人たちが何人か集まって特に野次を飛ばすでもなく待っていた。
 そして男は弾き始めた。
 それは既存の弦楽器のどれとも違う、不思議な音だった。そして当然のことながらその音で紡がれる旋律は初めて聴くものであり、この楽器以外からは聴くことが出来ない類のものであると、すぐにわかった。あたしは堪能するために目を瞑って聴く。
 演奏は目まぐるしく、猫の目のように変わる。時に体に巨岩がのしかかってきたように重苦しく、時に馬に乗って草原を思いっきり駆け抜けているように軽快に。音楽が一つの物語を紡いでいた。言葉は一言もなかったけれど、あたしは、多分他の人も、その情景が容易に脳裏に描けた。これは古い、ありきたりな冒険譚だ。だけど行商の芝居屋だってここまで鮮烈に描けやしない。
 やがて演奏は佳境に入った。主人公が活火山の唸る岩肌を一歩一歩踏みしめて上ってゆく。静かに、慎重に、重い旋律。頂上に、目指すものに近づくにつれて主人公の動悸が激しくなり、足取りは重くなるのが判る。頂上につくと爆発するような旋律が流れるかと思ったが、逆に今までで一番静かになった。それは荒れ狂うような空気の中で、神聖さすら感じる音であった。寂しくもあり、まだ何も起きていないのにその場所の荒涼さ、そして頂上に待つ者の孤独が重圧となって押し寄せて、気づいたら涙がすぐそこまでこみ上げてきていた。
 活火山の頂上に住まう者、巨大な竜を前に主人公が剣を構える。音の旋律は静けさを携えながらも徐々に激しさを増す。竜が嗤う。静かにその翼を広げ、主人公を威嚇する。弦の一本が作る重い音がそのまま竜の吼え声となる。体に震えが走った。
 そこからは壮大な音の中で紡がれる戦の場面だった。主人公が走り出すと竜は始め面倒くさそうに尾であしらおうとする。しかし主人公がそれを掻い潜り、ろくに主人公を見もしない竜のヒゲを切り落とすと、竜は酷く驚き、そして怒り、立ち上がって本気になる。竜が吐く炎を主人公は身のこなしと己の装備で耐え続け、尾に打たれ、翼の生み出す風の猛攻に耐え、鋭い爪の攻撃を最小限で受け流しながらも竜に斬撃を斬りいれてゆく。やがて純粋に怯えたのか、主人公に敬意を表してか、竜は飛び去り、主人公が取り残される。主人公が呆然とその場に立ち尽くす。竜の音楽が徐々に小さくなり、消えると主人公は安堵したのか、落ち着いていた動悸が急に激しくなる。抑えていた緊張やらが噴き出してきたのだ。そして主人公は竜を退けた興奮に頂上を歩き回る。その際に一本、自分が切りおとした長い長い竜のヒゲを一本見つけた。主人公はそれを拾い、大事そうにしまいこむ。それからゆっくりと、日暮れを眺めながら山を下るところで音が小さくなり、その物語は終わった。

 集まった人たちは余韻に浸るように数分ほど黙っていた。奏者の男も慣れているのか、竜琴の手入れを始める。やがて意識がこっちに戻ってきた人の拍手で、堰を切ったように爆発するような拍手が男を包んだ。あまりの数の多さにあたしが慌てて見渡すと、いつのまにか街中から集まったんじゃないかと思うほど相当な人数がいた。男はもう一つ持っていた竜琴のと同じ円筒形のケースを茣蓙の前に置いて、おひねりをお願いいたします、と言った。その声は完成と拍手の前にあっさりとかき消されたが、その円筒形のケースと、その周りにはあっという間にお金がうずたかく積もっていた。
 それは絃が竜のヒゲ、というのが事実であろうがなかろうが、素晴らしい演奏だった。


254

 屋根の上で胡坐をかいて空を見ていた。
 休日、暇なときは昼過ぎくらいから夕暮れまでよくそうしている。
 今日もそうして何時間か経ったであろうか。携帯に着信が入る。メールだ。姉からだった。
「アンタ今ドコよ? いつの間にでかけたの?」
 母などは、僕が出かける用事の無い休日に見当たらなければ屋根にいるということは判っているが、姉は休日になるとたいてい家を空けているので僕の行動パターンが全く判っていない。
「何か用?」
 多分、一緒にゲームしようとかそういうことだったのであろうが、僕はあえてそう返す。
 それに対する返事は無い。どうでもよくなったのだろう。
 そうして再びぼけっと流れる雲を見ていた。
 すると家のドアが開く音がして、姉が出てきた。どこかにお出かけか…と思うも、格好がラフすぎる。とするとその辺りまでか。そのままなんとなく見ていると、家から五十メートルも無い位置にある自動販売機の前で止まった。何かジュースを買うとそのまま足をこちらに向ける。
 なんだ、と思って再び空を見る。さっきまで見ていた雲は大分あっちの方へ行ってしまった。それから少しすると、今度は僕の部屋のベランダの窓が開く音がした。母か、と思って視線を屋根の縁まで下げると、意外なことに姉がひょいと顔を覗かせた。
「何やってんの?」
「いや、何もしてないけど…」
 少し拍子抜けて答える。
 すると姉は上がってこようとしているようだった。
「危ないよ」
「アンタも上がってんでしょうが。…そうだ、ならちょっとこれ持ってよ」
 そう言って姉は冷えた缶ジュースを二本僕に手渡してきた。
「うん」
 缶ジュースを受け取って、姉が上がるのを手助けしようと思ったが、見ると既に上がってきていた。
「何でこんな所に居んの?」
 姉は缶ジュースを一本僕の手から抜き取ると、言った。
「何でって」少し考えるが、浮かばない。「暇だから、かな」
 姉は興味がなさそうにふーん、と呟くとそのまま屋根にごろんと寝転がった。結構汚れるのだが、言った方がいいかなと思いつつももう手遅れなので黙っていることにする。
「あー、気持ちいいね、ここ」
「うん」
 ジュースを口にしながら、僕も空を見上げた。
 さっきの雲は、もう見えない。


253

「来なよエクソシスト
 そう目の前の人物に言う彼女はネクロマンサーのみが被る特異な帽子と、まるで姿を筒のように見せる特徴の無いローブを着込んでいる。
 肩に十字のエクソシストの徽章をつけた黒装束の男が嗤う。
「腐った汚物に囲まれてお前は何が楽しかったんだ? それを蘇らせて? 使役して?」
「アンタには判らないわよ」
 エクソシストは腰のサーベルを抜き放ち、ネクロマンサーは杖を地面に突き立てる。
「…もし」エクソシストがふと表情を翳らせて言う。「互いに、いや、片方が違う道を歩んでいたのならば…」
「言うなよ」
 ネクロマンサーは苦笑して言う。
 二人はかつて幼馴染で、明言したわけではないが、おそらく恋人同士であった。
「この職業でさえなければ、そうだな、詩人になりたかったよ」
 エクソシストは僅かに切っ先を傾けて言う。
「…そうかい」
 ネクロマンサーは思う。いくら振り返っても、コイツに詩などは書けまい。…なるほど、だから夢なのか。血塗れで生きる者たちにそんな無益なものは不要なのだ。偽りのラブソングなど、害しかない。
 エクソシストはサーベルを構えなおした。ネクロマンサーは小さく呪術の詠唱を始める。
 悪魔を眠らす者にも。死者を起こす者にも。
 天壌無窮は要らない。


252

 あの日から妹が気になって仕方がない。夢を見たのである。高台に備わった階段を転げ落ちてきた妹が、僕の目の前まで転がってきて、有り得ないほどに捩れた首、死んだ虚ろな目で僕を見上げる不吉な夢を。
 僕は自問自答した。お前は妹が嫌いなのか? 否、そんなことはないはず。喧嘩をすることもあったが、家族である。さすがに殺してやりたいほど憎いと思ったことは無い。ならば何故。

 ―判らない。

 精神科医にでも話を持っていけば何か明快な答えをくれるのかもしれないが、生憎と僕は偉そうにふんぞり返って夢講釈を垂れたりするあの精神科医というものがどうにも好きになれない。勿論それは一面にしか過ぎないのだから多分偏見なのだろうが、以前見ていたドラマでそんな医者が出てきて嫌いになった。元々、医者にかかるのが好きではないのでそう目くじらを立てることの程でもなかったが。
 兎に角、不吉な夢を見てから妹が気になって仕方がない。まさか予知夢になるなんてことは無いだろうが、それでも気になる。どうもそれが最近は態度にまで出始めたようで、
「兄貴、最近優しいね?」
 と、妹がしたり顔で笑みまで浮かべて言ってきたりする。何か僕が妹に対して疚しいことでもあるのではないか、と勘繰っているらしい。
 確かに、疚しいといえば疚しい。「夢の中でお前が死んだから」などと誰が言えようか。いくら家族で仲が険悪でないと言えど、そんなことを言えば奇異か嫌悪の目で見られるだろう。無論杞憂で、笑い話にしかならないとしても、少なくとも僕が言われることを想像する分にはさほどいい気分はしない。
 まるで呪いの様だ、と思う。最近では特に。この方妹が部屋から出てくると思わず僕も慌ててさりげなさを装い、ドアから顔を覗かせる。妹の部屋も僕の部屋も階段を挟んで真向かいにあるのだが、この階段が意外に急なのだ。だがもう十何年と慣れ親しんだこの階段が、一夜の夢のために悪夢の十三階段に見えると言っても一笑に付すであろう。
「何、そんなに私のことが気になるの?」
 妹は気さくに笑って言う。
 だがこれが続けばやがて気味悪がられるかもしれない。その前に正直に懸念の元を言えば良いのか。それとも嫌われても一方的にせめて間違いが起こらぬよう見守るべきなのか。
 でも確かに最近過保護っぽくなってきていると思う。それは自分でも情けないことに否定できない。それまで妹は僕を冷たい兄だとでも思っていたのか、その変わりぶりに戸惑っている部分がある。今までは妹が甘えてきても適当にあしらってきていたのが、逆になったようだ。
 そしてある日ついに事は起こった。
 僕が階段を上がっている時、反対に降りようとした妹が足を踏み外したのである。
 何故だったのかは判らない。大体、ウチの階段は横が一人半分くらいのスペースしかないので、誰かが移動中ならば待つのが常識になっている。それなのに、何故降りてこようとしていたのか。
 とにかく、足を滑らせた妹は僕を巻き込んで階下まで落下した。僕はもう無意識に妹を抱きかかえており、落下しきっても荒く息をついていた。怪我があったなかったよりも夢が現実になった、という衝撃の方が大きかったのである。しかし心のどこかでは懸念は去った、と安堵の気持ちもあった。
「兄貴! 兄貴!」
 妹の狼狽したような声で我に返った。
「な、何?」
「ゴメン! 大丈夫!? 怪我はない!?」
「あ、う、うん…。そ、それよりお前は?」
「え、ないけど…」
「そう…。そうか、それなら良かった…」
「……」
「……」
「……ね、ねぇ」
「ん?」
「そろそろ…放して欲しいんだけど…」
 妹が困ったように言うのを見て、僕は慌てて手を離す。
「ご、ごめん」
 謝りながら離れるも、動悸は治まらず、僕は荒く息をついていた。
「喘息…?」
 妹がその様子に気づいて心配そうな顔で問う。心配そう、というよりもその顔は泣き出しそうであった。ふとその顔を見て親から聞いた話を思い出す。僕がまだ小学生の頃に発作が起きて酷く咳き込み、息が出来なくなって病院に運ばれるということがあった。そして、僕はよく知らないのだが、その際に妹は僕が死ぬんじゃないかと思い、怯えきって大泣きしていたらしい。事実僕は死にかけたのだが、とにかく妹は「僕の喘息」というのはトラウマになっているらしかった。
「いや、違うよ。大丈夫」
 僕は無理に笑って優しく言い聞かせる。
「ねぇ」と妹は小さく呟く。
「ん?」
「死んだり、しないよね…?」
 妹のその問いに僕はぎょっとした。思わず視線を上げて妹を見ると、返される視線に冗談の色は微塵も無く、ただ真面目に純粋な不安と心配が在った。
 妹は、言葉を続ける。
「最近妙に優しいし…。何か隠してない?」
 思わず僕は息を呑み、
「い…や、何も」
「嘘」
 妹は僕の苦し紛れの否定をあっさりと看破する。
「そんなに、隠さなきゃいけないこと?」妹は諭すように言う。「家族なんだから、出来ることはするよ?」
「うん…。でも、」
 と僕が言うと、妹の顔が僅かとはいえ悲しそうに歪むのを見て、僕は言葉を呑んだ。
 妹のその純粋な感情に対し、僕はたかが一夜の夢に苦しめられる自分の無さを不甲斐無く思うのだった。


251

 草もまばらな岩壁を横に備える荒野にて、三十人ばかりで一人の男を取り囲んでいた。輪の後方にある松明がジリジリと燃ゆる音と、兵らの荒い息遣い、そして風が哭く音のみが場を包んでいる。
 状況は当方に圧倒的有利、と輪を作る兵は思ったに違いない。
 全員が槍をその男に向ける。自分らは軽装であるのに加えて、我が主の怨敵であるこの男は鎧を着込んでいるために身重である。動きの面でも多少鈍重なはずだ、とも思ったろう。
 その中心の男は三十余の槍を向けられているにもかかわらず、無表情。己の刀を引っさげて、ゆらりと天を、星を、月を見上げた。
 取り囲む兵はその男の纏う空気に圧倒されているのか、だらだらと汗を流している。
 しかし。
 死を天秤にかけたとしても、この男の首が取れる可能性があるのなら大半の人間が死を賭してこの賭けに乗るだろう。名も無き百姓から一時的に兵になった人間からすれば、この目の前の男を討つ事は天下を取るに等しい。主に取り立てられ、将来は安泰どころか左団扇であろうことが容易に想像できる。それだけの価値がある首だ。
 一触即発の空気の中、遠くから和太鼓の音が聴こえてくる。どこかで田楽でもおっぱじめたらしい。注意して聴けば鉦や笛の音も一緒になって聴こえてくる。中心の男は、絶体絶命の状況だというのにそちらに興味を示したようだった。相変わらず天を見上げたまま、顔が音のほうを向いた。
 兵はしかしその挑発とも取れる行動に激昂することもなく、ただ荒い息遣いで場が動くのを待っているように思えた。
 否。
 待たざるを得ないのか。
 だがやがてそれさえも否定するかのように、一人の兵が叫んだ。

 その…魔王に向かって。

「信長…覚悟ぉっ!」
 場が動いた。一斉に三十余りの兵が「うおおおおおお!」と雄叫びをあげる。
 それに対して信長は兵を睥睨し、
「たわけめ」
 魔王の威厳を以って呟く。
 そのまま間髪をいれずに一番身近な所に居た兵の首を斬り飛ばし、跳躍した。