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思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳300-291 自分の読みたいものは、ひとに期待せず、自分で書けばいいのだ。by「ライオンと魔女」あとがき

300


 ある所に動物の像がありました。
 それは狛犬のような、ライオンのような、聞きかじりの知識を元に造られたようななんともあやふやなものでした。
 そして、その像の周りには何もありませんでした。ただ、草一本無い荒涼たる地にポツンとあります。そこは平坦な地面が延々と続いています。しかしただ一点、像の背後、ヒトが歩いて一日で辿り着けるか、というくらいの距離に世界の終わりのような高さの岩壁が横幅広く聳えています。
 それこそは地上の第二層と呼ばれ、今現在ヒトが暮らす場所です。像がある場所は既に打ち捨てられた土地でした。ただ一つ像があるだけで、他は何もありません。延々と歩いても人工物はおろか、自然のモノでさえ死に絶えて何もありません。
 像は、ただ其処に在る最後の存在として、文明の栄える第二層を背に何も生まれることのない荒蕪の地に臨んでいます。


299

 空は、曇っていた。
 薄い雨雲が密集して重なり、普通の人ならそれだけで何処か陰鬱な気分にさせられる灰色の雨雲はその重さを増し、空を見上げているとまるで閉じ込められてしまったかのような閉塞間を覚えるほどに、強い色と化していた。
 いつ降り出してもおかしくはない。それも、雨を全力で叩きつけたかのようなとびきりのが。
 だけど、僕は敢えていつものように一人で、外の屋根もない場所に座って昼を満喫していた。
「美味そうだな、それ」
 僕が昼飯にありつこうとした瞬間、その声は聞こえてきた。大学の食堂を出て少し歩いたところの階段で、昼は人で溢れる食堂から逃れてきた人がよく居るので、今日はさすがに少ないものの人がいるのは珍しくない。だからまさか僕に向けられた声ではあるまいと無視を決め込みかけるが、気配は真後ろにあった。極力自然さを装って視線を後ろに投げる。
「どこで買ったんだ?」
 僕にだった。そして良く見れば毎週金曜日の三限にある考古学関係の授業で、客員教授として招かれている菊沢ナントカという教授だった。いくつなのかは知らないが、随分若く見える。童顔なのか、本当に若いのかは知らない。…そういえば確か一回目のガイダンスで教授じゃないとかなんとか言っていた気もするから、よくわからないし、先生と呼ぶべきか。
「…学校の外にある弁当屋です」
 聞かれた以上は答えるべきだろう。僕はなるべく簡潔に答えた。正直な話、あまり人と話したくはない。
 菊沢先生はまじまじと顔を近づけて僕の手元をわざとらしく覗き込んでから言う。「あー? 弁当屋? 弁当じゃないだろうソレは」
 確かに、僕が買ったのは弁当ではない。厚い生地のパンにキャベツと鶏肉の竜田揚げとソースを挟んだものだ。ハンバーガーの異色と言ったところか。
「サブメニューであるんです」
「ふーん」と呟きながら菊沢先生はもう一度言う。「やっぱり美味そうだな」
「…そうですか?」
 別に格別美味い気もしない。ただ、時間切れで処分されるところを半額で買っただけだ。むしろ、タイムオーバーの分冷え切って不味い。
「ああ、美味そうだ。私のマクドと交換してくれないか」
 そう言って、菊沢先生はマックの紙袋を掲げて見せた。こちらは買いたてのようで、安物ながら魅力的な匂いをかもし出している。
「今行けばまだあると思いますけど…」
「あー、次の授業の準備しなきゃならんから行くの面倒なんだ」
 別にたいしたものでもないし、昼飯がなくなるわけでもないので、
「いいですけど…冷え切ってますよ」
 僕がいいですけど、と言った次の瞬間、「構わん」と言って菊沢先生は僕の手からそれを取り上げ、代わりにマックの紙袋をまるごと押し付けてきた。
「ちょっ…多すぎですよ」
 妙に大きかったので覗きこむと、軽く見ても一人と半人分はあった。値段の点から見ても、どうにも分が合わない。こういうのは、気持ちが悪い。
「二人分なんだ」
「二人分?」
 もう一人はどこに…と聞こうとして、菊沢先生の背後に一人誰か居ることに始めて気がついた。
「…先生、私は…要りませんから」
 どこか遠慮がちであるが、中心に筋のようなはっきりとした意思が入っている声が聞こえた。
「んー」
 菊沢先生は困ったように唸る。僕は誰なんだろう、と本当はさほどの興味もなかったが、確認のために菊沢先生の後ろを覗き込んだ。
 そしてその人を確認した僕は、率直に言って人形みたいだと思った。同じ人間なのかと思うほどに細くて、今にも壊れてしまいそうなのにそんな外見からは想像もできないほど毅然とした物腰を持っている感じの人だった。何処か悲しそうに伏せられた目の奥で、時折ぞっとするもの深い…何かが光っている気がする。
「何か食わなきゃ栄養にならんぞ」
「…それも、たいして栄養があるようには…」
 菊沢先生と、僕の視線に気づく様子もない彼女は問答をしている。
 菊沢先生は何やら難しい顔で考え込んでいたが、やがて納得したようになって顔を上げると、
「よし、わかったちょっと待ってろ」
 そう言って僕と交換した似非ハンバーガーを食べながら食堂のほうへと歩いていった。
「ああ…物を食べながら…」
 そして取り残された彼女は菊沢先生の背を見ながら憤慨したようにそう呟くと、壁に寄りかかった。ちらりと僕を見たので、
「食べないんですか?」
 マックの紙袋を指して一応聞いてみる。
「いえ…結構です。構わずに食べてください」
 そう言われた以上は気にする必要もあるまい。僕は「そうですか」と答えて紙袋から適当に取り出して食べ始める。空を眺めながら食べていると、背後からカチカチカチとインクペンの芯を出し入れする音が聞こえてきた。暫くは無視していたが、一向に止む様子がないので何事かと少しだけ見る。彼女は彼女で先ほどの僕と同じように空をあの悲しそうな目でみながら、手元では一心にペンをカチカチと鳴らしている。紙がないし、特に何か書こうとしたわけでもないようだ。
 僕が見ていると、視線に気づいた彼女は、
「ああ…すいません」と、言った。
「え?」と僕が多分これ以上はないというほどに間抜けなツラで返すと、彼女は指先で器用にペンをくるくると回しながら答える。
「ペンを無意味に押すのがクセで――」そう言って、ペンをしまった。謝られた理由がいまだに良く判っていない僕に対し、彼女は言う。「単調な行動をしていると落ち着くんです」
「…そうですか」
 それきり、会話が途絶える。…ああ、やっぱり人と話すのは辛い。この無言の間が圧殺しそうなくらいのプレッシャーとなって僕にのしかかってくる。にじみ出る脂汗が気持ち悪い。ただ、元の状態に戻っただけのはずなのに、どうしてここまで気まずい思いを味わわなければならないのだろう。
 被害妄想的なプレッシャーを感じつつ、作業的にハンバーガーとポテトを交互に口に運んでいて、ジュースに手を伸ばそうとしてちらりと、名前も知らぬ彼女に目を向ける。
「雲が…好きなんですか」
「え」と彼女は酷く驚いたような顔で僕を見た。
 そして自分でその表情に気づいたのか、僕は何も言っていないのに少し慌てたように釈明する。「あ、いや、何だか、…何も話したくなさそうでしたので」
 当たっている。事実僕に話しかける気はなかった。僕に彼女を責めることなどできるはずはない。ただ、彼女はあまりにもすぐに壊れてなくなってしまいそうで、本当に目の前に居る人がまだ生きているのか心配になり、思わず話しかけてしまったのだ。僕は後悔する。どうせ、人と会話なんて続くはずもないのに。何で話しかけたりしたんだろう。事実、彼女は困っているようだ。首を傾げて眉をひそめている。それはそうだろう。僕だったら適当に言葉を濁してその場を立ち去るに決まっているような質問だからだ。
「確認してる、だけなんだと思います。自分でも…あまり判っていないのですけれど」だが、彼女は律儀にもそう答えた。
「何の、確認ですか?」
 相手の投げたボールを受け、こちらからも投げ返す。そんな単純な会話の基礎を僕は久しぶりにきちんとやった気がした。そして相手を見た際に流麗なラインと陰影を描く、浮き出た鎖骨に思わず目がいき、慌てて目を逸らす。
「ここに…居るんだなあ、と。…感傷的な話ですけどね」
 彼女は微笑ったのか、微笑ってないのか、判断がつきかねる程度に口元を歪ませる。
「…なるほど」
 判ったような返事をする。本当は手を叩いて共感できるくらいに判る話だったが、そこまで同意を示すべき話題でもないということと、僕の表現能力の貧困さが会話の存続を挫く。
「今日は随分空が重いとは思いませんか」
 言われて、改めて空を見る。相変わらず…重く、昼間だというのに暗い。でもこういうのは、とてもいいと思う。
「そうですね。でも、僕は好きですよ…こういうのも」
「ええ」と彼女も僕に同意してから、「蓋をされたような狭さが…落ち着きます」
 彼女も、僕と違いはあれども近い感性を持っているようだった。それを知ることができたおかげか、また会話はそれきり沈黙状態になってしまったけれど、それほど気まずくはない。
 それから菊沢先生が自信満々でウィダーインゼリーを買ってくるまで、ずっとその沈黙に包まれていたのだった。


298

 私が時間を止める能力に気づいたのは七年ほど前―小学三年生の頃だ。忘れもしない。

 最初は私が教室の花瓶の水を変えようとして、持ち上げたときだった。その花瓶は存外に重く、私の手を滑り落ちてタイル張りの床へと目掛けて一直線に滑り落ちていくかと思われた。
 その時の、私の精神状態は極度の緊張状態にあったと思う。目を閉じ、耳をふさいだ私に、予想した惨状はなかなか訪れなかった。だが、惨状になっていないはずがない。何故か音が聞こえなかっただけに違いないと恐る恐る目を開いた私の目に飛び込んできたのは、空中で静止している花瓶だった。私は戸惑う気持ちは十分にあったが、そことは別の部分が咄嗟の判断で花瓶を受け止めていた。その数瞬は、重さなどなかったように思う。それから一秒か二秒も経たぬうちに花瓶は従来の重さを取り戻したが、抱きとめ、気持ち的にも体勢的にも備えていた私はそれほどぐらつかなかった。
 それが切っ掛けで、度々そういうことが起こった。車にぶつかりそうになったとき、閉店間際の時間でケーキを選んでいるとき、数学のテストで書く解答欄が頭から全部ずれているのに気づいたとき。
 一体なんで私にそんな能力があって、どうして特に代償もなくぽんぽん使えるのか不思議には思うことも幾度となくあったが、基本的には助かっていた。

 ああ、何故"時間を止める"能力であって"時間を巻き戻す"能力ではないのだろう。
 そう思ったのは今日が初めてだった。高校になって出会った湯崎君に、意を決して告白しようと思った数分後だった。
 もし時間を巻き戻せれば、成功失敗あらゆるパターンが試せるというのに。だが…そう、この手段は薄汚い。予定調和の堅実さだ。
 もしこんな時に、アニメの魔法少女ものにつき物のかわいらしいアドバイザーがいたらなんというか。そんなことを考えて少し自嘲気味に笑う。
 でも、断言しよう。それはこの緊張感を持っていないから言えるのだ。恐ろしい、胸を引き裂いてもまだ留まっていそうなくらいにもやもやしたものがわだかまっている。
 思い立った以上、即実行に移さなければ後は気持ちが萎んでいくだけだ。私は湯崎君の席に向かう。
「ねぇ」と、週間漫画雑誌を読む彼に声をかける。
 声は震えていなかったと思う。「ん?」という顔で振り向いた彼に、自然に、引きつらないように精一杯いい笑顔を向けて。
「今日、放課後…よかったらちょっと付き合ってよ。いい喫茶店見つけたんだけど、一人で行くのも何だから」
 多分、向こうはこちらの緊張など微塵も知っちゃいないのだろう。…問題はないのだが。ただ、私が今はただひたすらに愛おしい笑顔で「いいね。行こう」と返してくる。
 今日は、時間をとめたりはせず、素のままの自分でいようと思う。構えない心で、慌てるその様までも全部、出していこう。


297

 彼らは、古代人であったはずだ。鉄の技術なんかなかったはずの、物品加工なんて思いもよらなかったはずの。
 では、これはなんだ?
 さらさらの砂に埋もれた古代文字入りの石板の山の下から出てきたものは、到底信じられるような代物ではなかった。
 近代に入るまで加工法など知られていなかったはずのプラチナ製の装飾に、現代の技術で以ってしてもそれが何なのかわからない、両端に丸い青銅板がついて、その青銅板を赤い光が結び付けているもの。更には銃の砲身に似ているがそれとは明らかに異なる鉄製の筒のようなものまで。
 いわゆる、オーパーツだ。
 後で研究のためにひとつ持ち帰ろうと考えつつオーパーツをかきだしながら下ると、扉があった。
 扉。それは既に興奮に満ちていた私の心に更に油を注いだ。
 一体、ここは…彼らは誰だったんだ? 何のためにこんな隠された場所に豪華絢爛な装飾と謎めいた物品を残した?
 更に下へと降るべく、取っ手を探した。しかし、扉の全容を掘り出すもそれらしきものは何処にもない。代わりに、扉の上部に色あせた感じのする青い水晶のようなものが嵌め込んであった。取っ手がない以上…どうしようもない。この水晶は何だ? 何か奥に文字でも見えやしないかとこすってみると、急に輝きを増し、黄色へ一瞬で変わった。
 驚く間もなく微かな振動と、それに伴って砂がぱらぱらと落ち、一瞬だけ眩暈が、

「…あれ?」

 そして全てが変わっていた。先ほどまでの土のトンネルとは似ても似つかぬ、全面プラチナの壁に覆われた部屋だった。模様ばかりで何もない部屋だったが、真ん中に古代文字と一緒に丸い文様が一際目立つように描かれている。
 何だ? 彼らはここで何をしていた? どうやってこんな…設備を作り上げた?
 目に見えぬ古き幻影に向かって問いかける。
 折角なので壁面の模様を読み解こうとしてみる。くそ、折角作った解読メモを一緒に持ってこなかったのが悔やまれる。ある程度解読した古代文字を辞書のように書きとめておいたものがあるのだ。空で覚えているのはほんの僅かだ。
 それでも解読を試みると、「神の」という言葉と「心臓」という単語が多用されているのが判った。中央の目立つ丸い文様の所にある古代文字には「血」という単語も出てきている。
 何か儀式を行うところだったのか…?
 そう思い見回してみる。しかし…これは儀式と言うより…王宮の一室のような…。
 実際に血、と書かれてはいるが血痕らしきものも見当たらない。そうして暫く考え込んでいたが、ふと急に頭が現実に戻って顔を上げる。そうだ。彼らの目的がどうこうよりも…この部屋には、扉がない。夢と希望と探究心に満ちた行路もやがてその色が塗り替え始められる。
 馬鹿な。私は良く判らない方法ではあったが、扉から入ったはずだ。何故、この部屋には扉がない? …出れない。
 急に恐ろしくなった。薄気味悪いくらいの、隔離された沈黙が怖かった。
 そう、この部屋は完全に遮音されている。何かプラチナ製というだけではないのか、靴で壁を蹴って音を鳴らそうとしても音は吸い込まれる。部屋に、無音にし続けるよう支配されているかのようだった。
 この部屋は…何なんだ? 私は…閉じ込められたのか。化石の時代に。
 くそ、と舌打ちを打つと壁を手当たりしだい蹴りつける。
 壁は完璧な衛兵のように反応一つない。
 壁に拳を叩きつける。こんな…こんな所で死ねるか! 古代人め、死に絶えた人種の謎めいた建造物など現代の科学を以って解析の限りをつくし、全て暴いてやる!
 自分を沸き立たせ、脳の回転をフルにする。
 だが、どうしようもなかった。僅かな希望すら照射されていないの…だ? 待てよ。儀式だ。
 私は中央の文様部に歩み寄る。読み取れるのは「神」「血」これくらいだ。他にも見たことのある単語がいくつかあったが、それはメモがないと判らない。
 幸い、ナイフはあった。念のためだったが持っていて正解だったようだ。一か八か…座して死ぬのを待つくらいなら。
 私はどれくらいの分量の血液が求められるのか検討もつかなかったが、一先ずは小指を切って血を数滴文様の中心に垂らす。
 血が一滴垂れるごとに文様の縁に光が走り、部屋全体が輝きを帯びた。
 やがて輝きは徐々に増し、目を開けていられないくらいになり、一気に消えた。
 何だったんだ…? 何か起こすことには成功したようだが…。
 そこまで考えたところではっとして部屋を見回す。扉は…?
 私の目に入ってきたものは更に奥へと続く通く通路だった。
 岩壁が不自然にならされ、でこぼこしている面が少しもない。まるでその通路分の大きさを精密な型か何かで削り取ったような、そんな印象だ。更に、あの文様と同じものなのか、壁の両面真ん中辺りを線が平行にずっと奥へ伸びており、それが微発光していた。
 恐る恐る通路へ踏み出す。その通路からは何処からかウゥーンと唸るような重い音が緩慢に響き渡っている。それは…ありえないはずの事だったが、モーター音のように…いや、モーター音のようにしか思えなかった。
 好奇心はあった。この好奇心はもはや職業病と言ってもいいくらいだった。この先には、何があるのか。その気持ちが一瞬だけでも状況を恐れることを忘れさせ、ただ足を進めさせた。もはやオーパーツと呼ぶにはふさわしくなく、オーバーテクノロジーと呼ぶべきこの場所の先には、何が…?
 そして十五分ばかり三度ほど直角の角を曲がりつつ進んだ道の果てにあったのは、極普通の石室だった。しかし煉瓦と呼んでも差し支えないほど綺麗に、切り分けられた石で作られた石室というだけでも価値はあるが…あのプラチナ部屋に比べると随分劣る。
 部屋の高さ半分ほどにまで伸びた椅子の背が見えている。誰か座っていたのか、と期待もせずに回り込むと、人が死んで白骨化していた。一瞬驚くが、少しその白骨を見ると驚きは倍増する。
 新たな驚きの原因は服だった。見た感じ、中世あたりの服だ。資料でよく出てくるような服を着ている。どうやら、私は一番乗りではないらしい。
 そしてその白骨の手元にメモがあった。覗き込むとそこには血文字で一言だけ、
「閉じ込められた」
 そう書いてあった。
 こみ上げる恐怖感を騙すかのように、無理やり不敵な笑みを作る。
 入ってきたのなら出れるはずだ。この人物もおそらく考えうるあらゆる方法を試したに違いない。私の考えることがその模倣に過ぎないとしても…やるしかない。他の道は全て底なしの死と言う崖に繋がっているのを、私は知っている。


296

 馬鹿馬鹿しいにもほどがある! クローン…どちらが複製されたほうなのかは知るまいが、片割れに追われるなどとは!
 ユドニ・ヤマモトはそう吐き捨てたい気持ちを呑んで、壁を拳で叩いた。
 俺は警官だぞ! 追うほうだ!
 しかし、起こった現実は変えられないというのをユドニは良く知っている。予知局の判断によって下された結論には、"従わなければならない"。
 例えば誰々が人を殺すと予知局が言っても、予防拘束措置をとることはできない。運命が破綻していくからだ。運命が破綻していくと、予知局が触れもしなかった全く予想できない状況が次々と起こる。事実、以前に連続殺人犯となるはずだった男に予防拘束措置を適用させたところ、輪が狂い始め、収拾がつかなくなり、二週間後に世界が滅びた。
 ぎりぎりのところでそちらの世界の時間軸上にいた男が一人タイムループで渡ってきて、その報をもたらしたのだ。それ以来予知局の最低ラインを超えるまでは見守らざるを得なくなっていた。予知局の最低ラインとはつまり、誰々が誰を殺す、と言えばその殺人が起こるまで待つことだ。予知局が以降について触れていなければ、その殺人の直後に犯人を逮捕できる。被害者には気の毒だが、"起こらねばならない殺人"なのだ。

 ユドニは追跡者―同じユドニ・ヤマモト―から逃げて、予知局の予知閲覧所まで辿り着いた。個人カードを通し、自分の予知閲覧申請を出す。おそらくすぐにこの照会記録は警察に回って、もう一人の自分へも伝わるだろう。もしかしたら、既に判っているかもしれない。何だかんだ言っても、もう一つの同じ思考回路を持つ脳の持ち主なのだ。
 そして閲覧した自分に関する予知局の予知には、二通りあった。一つは警察として終生その職務を全うし、平和に、そして幸せに死ぬ運命。一つは人を殺し、犯罪者として国に追放されて追われる運命。
 ユドニは思わず目を疑った。
 何故、二つも出ているんだ? 予知局は混乱を防ぐために、いくつもの運命の中からもっとも辿る確率の高いものを算出しているはずだ。二つと言うのはありえない。
 ユドニは一先ずその予知が記された紙を掴んで、再び逃げ出した。もうすぐ警官が、或いは自分が駆けつけてくるだろう。
 ユドニは違法な路上駐車をしている車を見つけると、近寄った。持ち主はいない。素早く乗り込み、個人カードを通し、警察の身分を告げた上で違法駐車の移動をさせる、と車内マイクに向けて告げた。
 すぐに車が起動し、フリー状態になる。ユドニは勢いよく車を発車させた。
 郊外へと車を走らせながらユドニは考える。そして、一つの結論らしきものへと到達した。
 …もしこれが予知局のミスであるのならば。まさか、この茶番劇は。予知局のミスを埋めるために、犯罪者としての俺を生み出したのか? …クローンとして。
 ただ、それならば釈然としない面もある。自分は人を殺していない。殺す予定もない。
 そして更に逆説的結論へもたどり着く。
 二つの運命があるのだ。自分もユドニ・ヤマモトであり、こうして警察としての身分を使っている。もしかしたら、自分が追う方になる可能性も…あるのではないか?
 まだ、時間が要りそうだ。ユドニはそう考えながら、背後をミラーで確認しつつ車を走らせ続ける。


295

 当時財界の重鎮であった私は、老い先短くなった頃にその財産の全てを使う勢いで人魚を探した。
 運がよほど良かったのか、あるいはその人魚がヌけていたのか。見つかったのだ。
 私の財の殆どを使った甲斐はあった。人魚は何かしら命乞いをしていたが、私は殺して食った。そう、人魚の血肉は不老不死の妙薬なのだ!
 諦め悪くずっと私に何かを訴えかけていた人魚も、私の確固たる決意を見て取ってか、殺す寸前には諦観の色を浮かべながら従容として死についた。

 そして、悪夢が始まる。

 それは呪いだった。眠るたびに死者の国から白い手が伸びてきて私を掴む。だがそれから助けるように上から伸びてきた手が私を掴む。だがその手は死者の手よりずっと禍々しく、骨と腐った肉だけでできている。双方とも力は互角で、私は引き裂かれるところで目が覚める。
 あれから今に至るまで、確かに死ぬことはなく生き続けている。百三十を越えたあたりで数えるのをやめた。それから五十年以上経って私は今の状況に絶望を覚えた。もう、見たくなかった。人の世の終わりをこの目で見たいなどと思っていたのが、嘘のようだった。今はただ、静かに眠りたかった。永遠の眠りが欲しかった。
 そう、これは…求めるべきものではなかった。呪いだったのだ。
 ああ、あの時人魚の話を聞いてやればよかったと、全てが戻らぬ状況になって初めてそう思えたのだ。


294

 俺が時間を止める能力に気がついたのは二年前―小学生のときのこと。
 最初は気のせいだと思った。だが集中している時のみ、念じると、確かに止まっているのだ。
 例えば一夜漬けの夜。時計と睨めっこしながらやっていたが、気づいたら俺はいつしか時計を見るのを止めており、完全に没頭していた。だがそれで一息つこうと顔を上げると、少なく見積もっても三十分以上はやっていたはずなのに、実際の時間は最後に時計を見たそのときから一分たりとも進んでいなかった。俺が顔を上げた瞬間に再び時を刻み始めた。
 最初は時計の異常を疑ったが、電話で時刻を確認してみるも見事に一致する。俺くらいの年代の奴ならば誰しも一度は"人にはない能力"を夢見たことがあると思う。だから、俺がその時間を止められることをすんなり受け入れたのは当然の結果だった。
 そしてまぁ普通ならひた隠しにして、愛しのあの子が困っているのを見計らってババーン! と登場するのがベストなのだが、雲を突き抜けるような自信だけを持ち合わせた俺に人との差異を隠せるほどの思慮深さがあるはずもなく、バラしにバラし、喧伝しまくった。
 だから俺はどこへ言っても有名だったし、やってみてくれ、と言われるたびに自慢げにやっていたらその能力の扱い方にも慣れてきて、結果的には良かった…のだと思う。

 そして俺もやがて中学に上がり。
 伊藤と同じクラスになった。そう、伊藤由香子。奴こそが別の小学校だったにもかかわらず、そのけしからん乳で雷鳴を響かせていた女だ。
 話題になった。同じ中学にあがったダチと会議を開いた。結論が下り、計画が立てられた。それはこの状況に置かれたときから避けえなかったのだ。あのけしからん乳を揉んでやろう、と思ったのは当然であった―いや、必然であったのだ。
 スカート捲りなんてそんなのは前時代的なガキの所業だ、と以前捲ったクールビューティな級長に言われて、俺は目が覚めた――もう一段階上るべきだと。伊藤(の乳)はまさに新たなる一歩にふさわしい。
 しかし伊藤は背後から近寄ったりすれば、特有の乳レーダーに反応して警戒の色を見せる。その警戒ぶりはおそらく、小学校の頃既に顔も知らぬ同志たちが挑み、撃沈していったのだろうことを容易に想起させる。

 そして、本日。作戦決行日。
 任務は、乳を揉むこと。失敗すれば頬に紅葉が色付くだろう。
 朝、教室に到着するとターゲットを確認。この決行時間にしたのは、朝は気が緩んでいるはずだから、という理由でだった。食後のまどろみ、昼休みでも良かったが、それだと四六時中怪しげな行動に従事している俺らは警戒される恐れがある。
 とにかく俺は作戦本部の人間に目線で合図を送る。作戦本部は頷き、ゴーサインを出した。
 作戦、開始だ。
 意識を集中する。目標の乳へと。
 全ての時が止まり、時計の針の音のみが聞こえてきそうな無音の中で、俺は素早く影のように動く。
 伊藤の元へと忍び寄り、寸分の躊躇いもなく真っ直ぐに手を出し、
 揉んだ。
 指先から腕に、腕から心臓に、心臓から全身に満遍なく幸せな感触が広がり、当然のように集中力という作戦を最後まで完遂させてくれるはずの礎は吹っ飛んだ。

 時が、動き出す。


「…………」
「…………」


 ビターン


293

 人間たちの書く夢のある物語が好きだった。
 宝物を探す冒険譚。苦難を乗り越えて結ばれる恋愛話。一匹狼で戦う人間の話。
 そう、誰に、というわけではないが人間に惚れ込んでいたのだと思う。
 私たちは――人魚は書物なんて残せなかったから。
 私たちの口伝の話とは違う、優しい絵がついた静かな童話も好きだ。
 人魚姫、という本も凄くロマンチックだと思う。種族間の壁を越えられるなんて! 母様には無理と言われていたから、なおさらだった。いつか私もそんな日が来るんじゃないかと胸が躍り、言葉も勉強した。…ただ、書き言葉は難しくて酷く拙いものであることは否定できない。一つ、書いてみよう。

 いつしょお けんぬい へんきょお しました。

 これで通じるのだろうか。いささか疑問ではある…。
 だが、更に本を読み解いてみたところ、善い面ばかりではなく、光の射さない面と言うのも見た。私たちの血肉が、人間にとって不老不死の妙薬であると。かつて仲間が何人も殺され、故に私たちは陸から遠い海の奥深くへと住処を遠ざけたのだと。長老様はおっしゃった。もう共存など夢を見るのはお止め、と。
 でも私は人間と会ってみたい、話してみたい。触れ合ってもみたい。
 その好奇心が私に里を裏切らせ、今日も陸近くまで泳いでゆく。
 いつか出会う人間が、素晴らしい人間でありますように。私はそう願って、今日も海辺を彷徨う。


292

 大人になった今でも、辛いことがあるとあの頃のことを思いながら錆付いた懐中時計を握り締める。中学で初恋の人に振られたとき、何とかなるやと思っていたらならなかった大学受験のとき、何とかなるやと思っていたらならなかった就職活動のとき、雑用ばかりなのにやたらと怒られる会社勤めの今。
 そんな時は握り締めた手の中から聞こえる、見た目は錆びているけどしっかりと生きている時計の音を聞いていると、俺もまだやっていけると思う。

 俺がそいつにあったのは、小学五年だかそこらの頃だった。
 それは夏休みの最後にあった祭りの日で、宿題がドリル一ページしか終わっていなかった俺は当然のように行かせて貰えなかった。
 でも、行きたかった。その頃の祭りはいくら夢見ても辿り着けない理想郷が、一夜だけ地上に舞い降りてきたような存在だったのだ。
 だから、俺は窓から抜け出した。当然金なんか持っちゃいない。
 精一杯走って息が上がりきった俺が見たのはやっぱり理想郷だった。ありえないほどの人。活気。提灯が不思議な色の空間を作り、その中で色々な、日常とは違う何かが生きていた。
 俺は全力で走ったせいで喉が渇ききっていた。ジュース代くらい持ってくればよかったな、と思う。家に帰って貯金箱を開けたところで、二十円しか入っていないのは誰よりも知っていたのだが。
 俺は興奮しきっていたが、一旦その理想郷を抜け出し、風が吹き抜ける場所まで出てきた。一回涼めばマシになるかもしれないと思った。
 ただ、後ろに理想郷があるっていうのに、自分だけがこうしているのが耐えられなかった。まるで、仲間はずれ。それもただの仲間はずれじゃない。ノアの箱舟に乗り損ねて死んでしまうような、とびっきりの疎外感。
 やっぱり、祭りの中に戻ろう。そう思った。戻って、ジュースを売っている屋台で、ジュースを冷やしている氷でも分けてもらおう。
 そう思って立ち上がったときだった。
「うー」
 酷く苦しそうな声が少し後ろから聞こえて、何気なくそちらを見た。

 化け物がいた。

 綿菓子焼きソバリンゴ飴、ジュースにヨーヨー、金魚にバナナ。他にも屋台で売ってるようなものは大体網羅していたと思う。それを、大体最低でも二つづつ。
 さすがにアホか、と思った。でも少しもらえるかもしれないと思って、助けようと近づいてみれば、苦しそうな声は焼きソバとチョコバナナとフランクフルトを口に目一杯突っ込んでいたゆえのものだったのが嫌でも見え、間違いなくアホだと思った。
「うー…。うー? うー!」
 そいつは困ったように唸ったあと俺に気づき、助かった! とばかりに俺に手に持っているもの全てを押し付けてきた。
「え、うわ、おいっ!」
 咄嗟に落とさないように慌てて抱えなおす。苦戦しながらちらりとそいつを見ると両手で無理やり食べ物を口に押し込み、咀嚼していた。
 と、呆れて見ていたのがいけなかったか、リンゴ飴が一つ腕から落ちた。
「あっ」
 思わず声を上げるが、地面に落ちて土まみれになる前に、手が空いたらしいそいつが宙で掴んだ。
「っふー! 苦しかった…。サンキュー少年。これはあげる」
 そういってそいつは俺の口にリンゴ飴を押し込むとごっそりといっていい量の食べ物を受け取る。俺は明らかに口のサイズを凌駕したリンゴ飴を落とさないように、慌てて飴の部分を歯で掴んだ。
「ジュースくれ」
 手が空くとリンゴ飴を片手に持ち直して、言う。
「いいよ。好きなの飲みな」
 そう言ってそいつは地面を顎でしゃくる。置ける奴は置いたらしい。そして好きなの? と思ってみればなんと三種類もあった。
「…何でこんなアホみたいに買ったんだよ?」
 俺が言うとそいつはフランクフルトを数秒で口に詰め込み、焼きソバのパックを開けながら答える。
「せっかくの機会だしねー。あ、焼きソバも食べる?」
 俺は躊躇いながらも受け取る…というか、よくよく見れば焼きソバのパック、まだ積んである奴だけで四パックもあった。
「…子供みてぇ」
 正真正銘の子供の俺がそう言うと、そいつはニンマリと笑い、頭の後ろに重ねていたお面の中から緑の三角帽子のを選び、つけた。
「何をかくそう、あたくし、ピーターパンでございます」
「ピーターパンは男だろ」
「あー! そういう偏見は良くないなあ。そんな年からそうだとサンタさんに嫌われちゃうぞうっ」
 いきなり話が冬に飛んだ。
「サンタなんていやしねぇよ」
 全く大人になってしまえば自慢にもならない話だったが、俺はこの頃サンタの正体は親である、ということをいち早く見破ったのを誇りとしていた。
「いるっているって」
 まるで俺の言った事がとんでもなく馬鹿馬鹿しい迷信であるとばかりに、そいつは手をパタパタと振って答えた。
「いるわけないだろ」
「君は夢がないなあ。それじゃあシェヘラザードはアラビアンナイトを書けないし、メーテルリンクは青い鳥なんて探さないし、グリムはお菓子の家なんか書かないよ?」
「…?」
 よくわからなかった。そして妙に強い匂いがすると思ってそいつが食ってるものを見ると、スルメだった。
「将来の夢とか、ある?」
 急に聞かれてドキリとする。将来の夢。夢見ることをやめてしまっていた俺に、夢らしい夢などあるはずもなく。
「…特に」
「そっかぁー。…私はね? ケーキ屋さんとかいいなぁと思ってたんだよ」
「ケーキ屋?」
 なんてベタな、と思ってしまう。
「そう、ケーキ屋。私こう見えても食べるの好きだから、毎日働いて、帰りに余ったケーキ貰っておうちでたくさん食べる…の…あああ幸せだなあ!」
 フランクフルトを食べて、焼きソバを食べて、リンゴ飴を食べて、さらに今スルメ食べるその姿を見て、食べるのが好きな人以外にどう見えるのだろう。そして更に余りもののケーキを想いながら、スルメをほうばるというバーリトゥードなそいつは続ける。
「なりたかったなあ」
 …? なんとなく、違和感を感じた。まだなりたいのなら…なればいいんじゃないのか?
 どう贔屓目に見ても成人してるようには見えない。やり直しがきかないようには思えない。
 だけどそれ以上は俺も問わずに、黙って勝手に綿菓子に噛り付いた。

 …それから。そいつが買いためていた大量の食べ物を適当に食いつぶしながら、祭りが終わるまで延々くだらない話をした。
 その場所がちょうどよい場所だったので、移動せずにそのまま始まった花火を見て、終わって、祭りも撤収ムードが始まると、さて、こっちも帰ろうかということになった。親になんて言い訳しようかな、と酷く憂鬱な頭で考えていると、唐突にそいつが言った。
「面白いものをあげようか」
「面白いもの?」
「そう…ほら」
 そう言って、そいつが出したのは金の懐中時計だった。表面に文様のようなものが刻まれており、ざらざらしている。
「時計?」
「そう、時計」とそいつは同意してから続ける。「君が子供の心を失ったとき、それは使えなくなる」
「子供の心ってなんだよ?」
 俺はちょっとムッとして答えた。もう既に精神的に自分は大人だと思い込んでいたからだ。
「さぁ…。子供とか、大人とか、…正直よくわからないしねぇ。なんとも」
 まるで物語のシメのような台詞の後、そいつは自ら台無しにした。
「意味わからん」
「…でも」そこにはどんな意図が隠されていたのか、そいつは微笑みながら言う。「今、君の心の大部分を占める何かが失われたとき、確かに使えなくなるんだよ」
「壊れちまうのか?」
「うん。何か格好いいでしょ。壊れたら電池とか換えても無駄だかんね」
 そいつがしたり顔で言うのを見て、なんとなく本当に特別な時計のような気がしてきた。
「ばっかだなぁ。格好いいってのは壊れないのなんだぜ?」
「…でも、いつか壊れてしまうものの方が、私は好きだよ」
「何でさ?」
「極端な話にするけど、壊れない…永遠って言うのは、途切れない未来へ送る葬送歌だから。紡がれる音の一音一音が時間軸から弾かれるかのようで、捧げられるものの周りで弾ける時代の泡沫でもあるから。今を生きるには望ましくないんだよ」
 そいつの真面目な横顔に俺は黙り込んでしまう。急に真面目なことを言われたので、内容が一割も理解できなかった。一体、今度は何の話を始めたんだ? さっきの青い鳥がうんたらの時といい、突発的にわけ判らんことを言い出すな。
 やや間があって、俺が何か言おうとした瞬間、
「つまり…ね。ケーキだっていくら綺麗にできても、とっておいたら駄目になるから食べたいじゃん?」
「結局そんな話かよ!」
 思わず突っ込むとそいつは目を真ん丸にして答える。
「…最初からこんな話だよ?」
「もういいや」
 ちょっとシリアスになったのが馬鹿らしくなってきた。そうだよな。こんな食欲魔人が国語の授業で出そうなこと、言うはずがない。
「じゃあ帰ろっか」
 そいつが立ち上がるのに合わせて「そだな」と、俺も立ち上がる。
「ところで…」
 食いきれなかった分はどうするんだ? と言い掛けた俺の目に、食いきれなかった分などというものは映っていなかった。おい…まさか…あの量食べたのか…。確かに俺も食べたが…ありえんぞ…。
 だが、そんな化け物スキルは微塵も見せず、ただ俺の言葉をなぁに? という顔で待っているそいつに、俺は「いや、なんでもない…」と自身の言葉を撤回するしか方法は残っていなかった。
「そう。…んじゃ。楽しかったよ。じゃあね」
 そいつはあっさりそう言うと、とっとと俺に背を向けて俺が帰るべき道とは反対方向へ歩き始める。
「なあ!」気づいたら俺は思わず声をかけていた。そしてそいつが反応を返すのも待たずに言葉を続ける。「来年も、来るんだろ?」
 もちろん、という言葉を期待していた俺の問いに返ってきたのは、
「さぁ、どうかなあ?」
 というあやふやな答えだった。なんとなく、どうしても、もう一度会いたかった。また。
「でも、でも…いつかは来るんだろ!?」
「…うーん…。そうだね、時計が…」と、そいつは一旦言葉を切り、「動いてたら!」
 そう叫んで手を振りながら駆け去っていった。
 結局、今日まで一度も再会はしていない。でも、時計はまだ動いている。


 それから、俺は何か自分でも我ながら大人になったなあと言うことがあると、恐る恐る時計を見た。そしてまだ変わらずに動いていることに安心した。でも、まだ子供なのかと思うとガッカリする面もあり、―複雑だった。
 変化が訪れたのは中学のとき、何の変哲もない日だった。いつもと変わらず、いつもと同じ道で、いつもと似たようなことを考えながら、いつもと同じ足取りで帰った。その頃、俺は時計を机の引き出しに入れていたので、意識はせずとも毎日見ていた。だから、いっそうぎょっとしたものだ。そう、昨日と変わらずに机に入っていた金の懐中時計は、俺が学校に行って帰ってくるまでの間に、何百年もの時を経たかのように錆付いていたのだ。
 しかし、唯一の救いともいえたのは、何故か中はまだ動いていることだった。外は完全に錆付いてしまったのに、蓋を開ければ以前と寸分違わない姿で時を刻み続けている。
 事実その時計は本当に妙な時計で、渡されてから今日まで一度も電池を換えていないのに止まってはいない。三年くらい机の奥にしまっていたこともあったのに、時間もずれはせず、変わらずに動いていた。本当に、あのときに俺が言った「格好いい壊れない時計」だった。けど、今はなんだかそれが無性に寂しい。

 大丈夫、またきっと会える。そう思って時計をぎゅっと握り締め、錆付いた時計の感触を感じながら空を見上げる。静かに時を刻む音が俺を包んでいく。そうだ。俺は、まだまだやっていける。


291

 もう…もう、帰れないのに。何故そんなときにあの人は来るのだろう。
「…何故来たんですか」
 禁忌に手を出した私のところへ。咎人となった私のところへ。
「何故? お前が一番判ってるんじゃないのか?」
 あの人は、いつもどおり、私が馬鹿やって騒いで怒られていたときと同じように、優しく静かに、でも重みを持った声と口調で言う。あの人を前にしている私は、咎人なんていうのが嘘みたいだった。
「判りませんよっ! それに判ったところで…今更、何も変わりません。帰ってください」
 あの人は無表情で目を細める。この表情も、二度とは見ることがなくなる。私を叱る時に、反省した様子がないといつもこの目つきをしたものだ。私はいつもこの氷のような目つきの前には萎縮してしまった。でも、今は萎縮する必要もない。…そして、そういう考え方をする自分が嫌になる。
「言いたいことは、それだけかい?」
 これも、いつもと同じだ。あの人はまず私に言い分を全部言わせた上で、それの一般的な正誤を述べてゆく。
 ここからが、踏ん張りどころだ。精一杯に…。
「…言いたいことなんて、いくらでもありますよ。私は前から貴方のことが…嫌いだったんです。そのすました顔で語られる言葉の一言一句が大嫌いです。顔をしかめないでいるのを我慢するのに私も随分頑張りました。貴方の声なんて、二度と聞きたくありません。…帰ってください」
 …………。
「…………」
「帰ってくださいよ。自分は偉そうに人に説教ぶつくせに、人の言葉は聞けないって言うんですか」
「…………」
 ………ああ。
「本当に、本心から…そう思っているんだね?」
「ええ、もちろん。最後に言いたいことが言えてすっきりしました」
 ………心が。
「だから、帰って、二度と私の前に―」
 ……壊れそうだ…。
「姿を見せないでください」
「…判ったよ」
 その答えに、私の中に残念なような、安心したような、そんな複雑な感情が渦巻いた。
「…最後に聞くが。今までの…お前が家を出るまでの日々は、どうだった?」
「…そんなの」
 決まってるじゃないですか。なんで、最後にそんなことを聞くんですか。
「最低でしたよ」
 …なんて、思ったことは…なかったわけじゃないけど、あるわけないでしょう…。
「…そうか」
 あの人は目を伏せ、静かに背を向ける。そして私が黙って見つめているとやがて何も言わずに歩いてゆく。思わず、その背中に声をかけそうになってしまう。おいていかないで、なんて今更こんな矛盾する言葉もないもんだ。
 私もあらゆる感情の本流を防ぐために、歯を食いしばったまま背を向けた。私の進むべきほうへ。
 だけど、歩き出そうとして、固まった。
 後ろから聞こえるはずの足音が止まっている。私も、そのまま動かない――動けない。
 人の音もなく、風の音もなく、海の音もなく、静寂の音のみの中に、小さく、でも確かに聞こえる声が私を貫いた。
「お前の嘘を見抜いたよ」
 私は口を開きかけて、慌てて閉じる。今何か言葉を口にしてしまえば、多分、全部が…台無しになるから。私は不自然ではないような仕草を意識して、そっと涙をぬぐう。止めようと思うのだが、ちっとも止まる様子はない。今、振り返って助けて、と一言言えばあの人は助けてくれる。でもそれは一緒に咎を負うことに相違ない。
 結局、私はなんと言いたかったのだろう? ありがとう、だろうか。ごめんなさい、だろうか。それとも、何か別の?
 だけど、今はとても言葉を紡げそうにない。私は自分の尻を思い切り蹴飛ばすような思いで、足を進めた。あの人も、それ以上は何も言ってこない。嘘を見抜いた。あの人はそう言った。そして、どうするのだろうか? 私には想像もつかない。けれども、いつの間にか、心はぐらつかなくなっていた。私の意志を支えてくれるかのように、確とそこに在った。

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