思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳417-401

417

「二名様でよろしかったでしょうか?」
「おいちょっと待て」
「は、はい?」
「よろしかったとは何だ。日本語がおかしいだろう。正しく言い直せ」
「は、はい失礼致しました。お客様は現在二名様でご来店なさいましたが、後ほどお連れ様が来ることもありうるかもしれません。あるいはお客様にしか見えない小人さんがそこの胸ポケットからちょこんと顔を覗かせて自分も頭数に入れてくれという顔をしておられるのかもしれません。しかしこの場合現時点でお見えになっているお客様は二名様ということで、そのようにご案内させていただきたく存じます。よろしかったでしょうか?」
「よろしくない」


416

 女性の死体があった。頭を撃ち抜かれている。
 服は布切れとなって散乱していた。何か呪い的な模様が刻まれた褐色の肌に痣らしきものが多くある。ぼくは思わず暴行の内容まで想像してしまいかけて慌てて目を逸らす。
 ぼくは暫く目を逸らして辺りの惨状を眺めていたが、その間に誰かがどこかから持ち出してきた布を彼女に被せたらしい。幾人かが彼女の周りに屈んで黙祷をしている。ぼくも少しの間彼女に黙祷を捧げ、離れた。
 何気なく近くにあった家屋に入ってみるとやはり中も酷く荒らされた跡があった。まるで台風が通り過ぎたかのようにめちゃくちゃで、まともなものは何一つとして残っていないように思える。酷い場所に至っては柱まで折れているという有様だ。どういう恨みを持てばこうも無益に暴れまわることが出来るのだろう。
 しかしこれも始めてではないのだ。でも最後かもしれない。不幸の中に希望を求めてぼくたちは歩いている。
「あー」
 小さく聞こえた声に、ぼくは振り返る。荒らされたものに埋もれるようにして赤ちゃんがいた。何かを求めるかのように手を伸ばしている。その手の先を目で追ってみると、折れた柱に引っかかっているタオルだった。ぼくはそれを取って赤ちゃんに渡す。
 よく見ると、この赤ちゃんも褐色の肌でここが薄暗いせいで見えにくいが先ほど見た呪い的な模様がある。……やはり、先ほどの女性の子供なのだろうか。どうにも暗い気持ちになる。
「おい、そろそろ……」
 と、仲間の一人がぼくを呼びに来るとタオルを手にして落ち着いていた態であった赤ちゃんが喚くように泣き始めた。
 その泣き声を聞いて次々と人が集まり始める。赤ちゃんの肌と模様、でもそれ以前にここに居たと言う事から生き残りと言うことが知れ、俄かに騒ぎになっていく。
 しかし赤ちゃんが一向に泣き止まないために一端皆は席を外し、長と二人で向かいあってぼくは事情を説明した。赤ちゃんは泣きつかれて眠り始めたものの、ぼくの服をしわになるくらい強く掴んでいる。どうも、赤ちゃんは何故かぼくに懐いたらしい。となると連れて行くなら成り行き的にぼくが面倒を見ることになる。
 赤子をどうするのか。長との話はそれだったが、見殺しにするわけにもいかないために、やはりぼくが面倒を見ることになった。


 彼女はそんな経緯だったためか、表面上は判りにくいがそこそこ大きくなってもぼく以外には結構な距離を置いているようだった。根底にあるのは敵意ともとれるが、多分、怯えだろう。ぼくが彼女にその心の壁の例外とされているのは最初に彼女とあったが故に刷り込みがなされてしまったためだろうか。仮にそうだったとしても赤子だった彼女が生き延びるための知恵であろうから、どうこう言うつもりはない。
 彼女はその呪い的な模様から察せられるとおり、生まれついてのシャーマンだったらしい。誰に教えられるわけでもなく、天気や災害などを予知する。朝だろうと昼だろうと夜だろうとすることがなければ外で何時間でも何をするでもなくその身を大地の風に浸している。人を嫌う以上、辿り着く答えがそこなのかもしれなかった。
「白人は嫌いだ」
 ある日彼女は言った。おぼろげながらも、赤ちゃんだった時の記憶があるのかもしれない。だが実際目の当たりにせずとも彼女は大多数の白人にとって厄災の根源とされてしまっていたのだからそれは当然なことだった。でも遠まわしにぼくに言っている様でもあり、なんとも反応に困ってしまう。
「そう」
「……お前は好きだよ」
 答えたぼくの声が惨めにでも思えたのか、彼女は微笑むようにして言う。
「そうかい」
 彼女はそれの証明だとばかりにぼくに身を預けてくる。他の人に対してはまず見ることはない行為だ。
 この不器用な生き方をする彼女には、幸せになって欲しいとぼくはその日心から願った。


415

「こしいたい」
「え、どうしたの急に。大丈夫?」
「うん。別に大したことないから。それよりもこれってつい似たような言葉と間違えたりしない?」
「え……つい間違えるほど言わないし……。でも似たような言葉って?」
「こいしたい」
「どうしたのさ急に。大丈夫?」
「何で反応が一緒なのかな」


414

 失恋を前提とする恋は胸が痛くなる。
 でも、判っていたところで止められる……というものでもないのだ、こればかりは。
 僕は言うなら天使見習い、とでも言うところだ。ヒトが恋人になる兆候を調べて報告する。故に僕もヒトの中に身をおく必要があり、ユミコという人間の身体の中に間借りして兆候を調べている。
 その兆候というものはユミコがヒトを好きになる事。しかしそのヒトはユミコの恋人になることは決してない。たとえどんなにユミコが告白や積極的なアプローチをしたとしても。ユミコは自分の好きだったヒトに恋人が出来ても表面上変わらぬように振舞うが、その失望感や凄く心が重くなる感じは僕にもよく伝わる。多分、僕もそんな気持ちなのだ。
 ユミコほど多くのヒトを好きになり、挫折した人間を他に知らない。誰かを好きになり、そのヒトの良い所をたくさん知っても、他の誰かに連れられてゆく。ヒトを好きになる事で、気持ちは弾む。だけど、同時にああまたかと失望する気持ちも先立って沸き起こるのだ。
 それでも、ユミコはまた誰かに恋をする。ただひたすらに真っ直ぐな、叶わぬ恋。
 僕はそんなユミコをずっと見守っている。ユミコは自分の身体に自分の心以外の何かが潜んでいるなどとは考えもしていないだろう。だから密やかな僕の恋も、実らない。


413

(ああ、腹減ったなあ)
 そうは思えど、何も食べることは出来ない。彼は椅子に揺られながら夜空を眺める。
 下からは賑やかな団欒の声が聞こえてくる。
(まあ仕方ないかな)
 彼はある特殊な鉱石でしか腹を満たすことが出来ない体質だがその鉱石の需要が世間で減ったらしく近隣では手に入らなくなり、咄嗟の判断で買いだめをしたはいいがそれが止めとなったか最早国内では見ることもなくなってしまった。
 彼が最後に食事をしたのが三ヶ月前。以来水だけで細々と生き続けている。
 彼は人の形をしているがやはり作りが違うらしく、水だけだというのに空腹は変わらないものの死ぬ様子はない。
 彼には肉だの野菜だのを食べてもまるっきり美味しいとは思えなかった。彼の感じるまずさを率直に伝えることは味覚が違う以上不可能だろう。そこらの石や鉱石も同じで、多分これは普通の人が石や鉱石をかじるのと同じに違いない。兎に角彼にとってはその鉱石こそが唯一の食料なのだ。
「兄さん、大丈夫?」
 彼の部屋のドアを妹が叩く。
「一応、持ってきたけど……」
 彼がドアを開けると、妹が今日の食事だろう、いくつかの料理を盆の上に乗せていた。二つづつあるところからも彼女はここで食べるつもりらしかった。彼には兄弟が七人ほどいたが、彼をここまで気にかけるのは親とこの三女の妹だけだ。彼女が赤子の頃からずっと面倒を見ていたから、彼女にとっても彼は捨て置けない存在なのだろう。
「うーん、悪いけどいらないなあ」
 彼は困った笑顔を浮かべて言う。
「そう」彼女はただ頷くと、「テーブル、借りるわね」
 と言って盆を置く。
 彼女はそうして時折その日の話などを挟みながらも黙々と食べる。おそらく、彼女が食べるのを見て彼がちょっと食べようなどと気が変わるのを期待しているのだろうが、その目論見は巧くいっていない。彼女は自分たちが普段食べるものでさえ、彼には非常にまずそうに見えるということまでは知らなかったからである。
 彼女は時折無言で彼をのぞき見る。彼は微笑みを浮かべて食事をする妹の方を見ていたり、無感情に外を眺めていたりと様々だったが、彼女が彼を見る目には口に出すのも馬鹿馬鹿しいくらい心配そうな想いが込められている。
「あの、兄さん」
 妹が言いづらそうに口を開く。
「うん?」
「あの話、本当なの? 兄さんが一人で外国に引っ越すって話……」
「ああ……」そういえば、そうだった。まだ形として出来ていないが、そういう話は出ているのだったと彼は思い出す。
 実際、国内に無いというのなら外国の鉱山近くに住めば食には困るまいという話だ。鉱山近隣ではその鉱石が殆ど使い道もないためにわざわざ金を出さなくても手に入るというくらいなので、それならば国内で探すよりも実際そちらに行ったほうが早いのではないかという話になったのだ。
 まだそんなに形になっている話ではなかったが、彼は悪い話ではないと思っているし、無駄に家族に心配をかけるのも悪いと思っている。
「そうだな、いずれ……近いうちにはそうしようかなと思っている」
「……一人で?」
「ああ。別に付き合ってもらうだけの理由もないしね。大丈夫、うまくやれるさ」
「そう……なんだ」
 彼女は手元を見つめながらしみじみと呟いた。
「余裕が出来たら何か送ってあげるよ」
「うん……」
 しかし彼の言葉に彼女は心ここにあらずといった調子で頷く。そしてふといい事を思いついたようで表情を輝かせながら言った。
「私も……私も一緒に行こうか? 一人じゃ寂しいだろうし」
「いや、さすがにどんなところかも判らないからそういうわけにはいかないよ。それにお前はまだ学生だろう?」
「そうだよね……うん」
 そう呟いて再び彼女は心ここにあらずと言った調子に戻る。
 彼はそんな様子をみて、苦笑しつつもこんな自分を心配してくれる妹の気配りを嬉しく思うのだった。


412

「どうか、時々でよいのです、思い出してください」
 彼女は言った。
 私は一言「ええ」とだけ。
 彼女の存在が許されぬものであることは判っている。彼女自身も判っているからこそ、彼女は己を表面だけでも作り変えたに違いない。彼女は人が記憶している限り存在していられるが、誰もに忘却されればその存在は否定される。だが異端を許さぬ、かの宗教が幅を利かせるこの時代では彼女にとって己の存在すら危ういものだった。相手を間違えば異端として弾劾されるからである。
 自然を読み、動物と対話する。古代において神秘の象徴であり、豊穣のための助言者ともなったはずの存在は、かの宗教のために悪魔と見なされ、彼女の助言を受けていたものたちを悪魔崇拝者として「処刑」してしまった。
 以来、彼女の元を訪れるものは異端狩りを称した武装した者どもであり、その者たちはしばしば山に狼藉を働いた。人々に禁忌として扱われ、異端と見なされた彼女はその力を失ってしまい、その者たちを追い出すこともできなかった。
 そのような無力さ故に山を蹂躙されることを黙認するしかなかった彼女の元に、私という旅人が迷い込んだのだ。

 迷い込み、力が尽きかけていた私は助けとなる声を聞いた。おそらく、私がこの辺りの人間ではなく、遠い異国の特徴をもった風貌をしていたのが大きかったのだろう。
 声は言った。
『私に名前をくれるのなら、私はあなたを助けましょう』
 名前。私は朦朧とした頭でその言葉を反復した。名前……?
 何故名前なのだろう、と思いつつもそれくらいで助けてくれるというのならば、と私は微かに頷いた。
 気がつくと妙に身体が軽くなって眠ってしまっていたが、無事に生きて起き上がることが出来た。場所は倒れた山道ではなく、小屋の中だったが。
「ここは……」
 起きて見回したが、答えるものは居ない。眠る前のやり取りもしっかり覚えている。
 ふと、足元に小さな野鼠がいることに気がついた。こちらをじっと見つめて、逃げ出す様子もない。
 名前が欲しいと頼んだ「私」とは誰だったのだろう。……この野鼠か? いや、誰であろうと助けてくれたことには変わりなく、今目の前に居るのは野鼠一匹。それならば私は相手が人間であろうがなかろうが名前をつけてやらねばならない。約束なのだから。違ったら、そうだな、その時はその時だ。こっけいな自分を笑うとしよう。

 名は、力だ。人の記憶に居ることが重要な彼女にとって、生きるという点においては忘却された古い名前などさほどの価値を持たなかった。もっとも彼女の歴史を綴る上では掛け替えなく、とても重要な名前であることには変わりない。それよりも、今、誰かが強く己の名を記憶に刻んでいてくれるならばそれがいい。
 だからこそ、彼女は名前をつけてくれる人を待っていた。その名を知るのはたった一人でも、今生きる人間が刻む生きた名前が大切なのだ。
 生きたいと思うことに何の罪があろう。それもただ人の記憶に在りさえすれば生きられるというほんのささやかな事。
 私は彼女に名前をつけた。特異な古い神の名ではなく、ありきたりな人の名を。
 私という人間に名を貰った彼女は、野鼠の姿を捨てて女性の姿へと変わった。
 戸惑う私の前で、彼女は新しい名を口の中で呟くと、華の様に微笑む。

 私が回復するまで幾日か世話になり、彼女の元を辞すまでに私と彼女は随分と色んな話をした。というよりも、彼女が私や世界の話を聞きたがった。
 彼女は時々でいいいから思い出してほしいと告げた後、近くに来たら立ち寄ってくださいと、本当はそちらが本心だろうについでのように小さく付け加える。私は頷いた。正直なところ、彼女が知る古い時代の思い出話は本当に面白かったし、興味をそそられた。私が何一つ用事のない身ならもっと留まって居たかったのだ。
「ところで」と私は別れ際に一つだけ質問をする。
「まだ山に残るのかい?」
「ええ」彼女は一度同意してから、
「行く宛ても、ありませんから」
「……そうか、うん、また来るよ」
「お待ちしています」
 叶うなら、次は彼女を迎えに来よう。そう思った。


411

 人にこっぴどく傷つけられたり、裏切られたりするとついその飲み屋に足を運ぶ。
 その飲み屋の店主は猫だった。喋る猫だ。猫又である。
 人妖共存法によって市民権は得ているものの、衛生面の問題の不安、そして妖怪に対する先入観や偏見からか、僕は他に客が居るのを見たことがない。
 それでも店を閉じる様子もなく営業しているということは妖怪の集まりでもあるのか、そもそも副業であるかのどちらかであろう。
 時折店主の娘という人が酌をしてくれたりするが、中学だか高校だかの制服を着て上に割烹着を羽織っている人間姿の娘を猫又の娘と言うのはどうにも――いや、これ自体偏見なのかもしれない。だけど正直な話、人の顔は見たくない、という時にその娘を相手にするのは少々辛いところもあった。
 僕は平時は酒を飲む習慣がないので殆ど顔を出すことはないのだが、それでも店主はぶっきらぼうながらもちゃんと僕の顔を覚えてくれている。正直に言うと、僕はこのぶっきらぼうな猫又の店主が好きだった。
「ん」
 無愛想に店主が酒を出す。頭の上に盆を乗せて、その上に酒があるわけだがそれがまた一芸になりそうなほどに均衡が取れている。
 この酒は日本酒だろう。だけど他では飲んだことがないし、店主に聞いても「名前は知らん」の一点張りだ。もしかしたら仲間から回してもらっている自家製なのかもしれない。メニューにも「酒」としかなく、この店で頼むなら一種類だということをおもむろに語っている。
「うどん食うか」
 酒をちびちび飲んでいると店主が言った。
「……いただきます」
 僕は答える。どうも、この店にはうどんといっても二種類ある気がする。一つが普通注文してでてくるうどん、そしてもう一つが店主が自主的に出してくれるうどんだ。どう違うかと聞かれれば答えるのは少し難しい……もしかすると僕の頭が酒でバカになっているだけなのかもしれない。ツユが違うのかメンが違うのか、とにかく後者の方は妙に旨いのだった。ふらりと立ち寄った時に食ううどんだって決してまずいものではないのだが、ひたすらにへこんでいる時に出されるうどんは格別だ。
 僕は暗い顔でずるずるとうどんを食べる。特に会話もなく、店内は僕がうどんをすする音と、上から聴こえるテレビの音、あとは微かに聞こえる外の音が混ざり合ってひたすらセンチメンタルな気分になる。たまに気づいたら泣きながら食べている時もあるが、それでもただ黙々と食べる。
 食べ終わって金を払うと、
「また、こい」
 店主が言う。ほとんど会話らしい会話もないが、この店は僕にとってとても掛け替えのないところなのだ。例え店主が妖怪でも、いや人ではないからこそ、そうなのだろう。自己満足なのは判っているが、なんだかその事を思うと妙に自分が好きに思えるのだった。


410

 岬にある小屋に住んでいる爺さんの家には、凄く不思議な代物がある。
 それは虹色の砂時計である。砂の粒一つ一つが違う色をしており、非常に近い色はあれども同じ色はただのひとつとしてないように感じられる。
 そしてその砂時計の最大に不思議なところは逆さになっているのに、下には殆ど砂が落ちていないということだ。詰まっているわけではないらしい。
「この砂時計にある砂が一粒落ちる時は、どこかでその惑星にあった文化や文明などといったものが、多分星ごと滅んだ時だ」
「じゃあ宇宙にはこの砂時計の分だけの惑星があるの? この星の砂も入ってるの?」
 と、僕は聞いた。
「そもそも砂がない惑星もあるから、そうでもないさ。誰かが入植している惑星はもっとあるだろう。この星の砂は、当然入っている」
「じゃあその砂時計からこの星の砂が落ちるとこの星は死ぬの?」
「さぁなぁ……。砂が落ちてから星が死ぬのか、星が死んでから砂が落ちるのか判らないな」
「でもこの星が死んだらその砂時計も壊れちゃうんじゃないの」
 爺さんは僕が質問ばかりすることに気を悪くした様子もなく、嬉しそうに答える。
「なぁに、他の星にもコイツと同じもんがあるからな」
「そうなんだ」
 僕は改めて虹色の砂時計を眺める。綺麗だった。縁も木彫りで何かの動物を模したものが彫られていて、どことなく神秘さがある。
「あ」
 僕が見ている前で緑色をした一粒の砂が下に落ちた。
 嗚呼、今この瞬間にたくさんの人が、一つの星がなくなってしまったのか。そう思うとただ砂が一粒落ちただけだというのに、何だか非常に物悲しく思えるのだった。


409

 人気お笑い芸人だった彼は、デビュー当時からまるで子供が夢を語るかのようにこう言っていた。
「死ぬときは、豆腐の角に頭をぶつけて死にたいんだ」
 それがきっかけとなったかは定かではないが、ファンやマスコミから天然で変わった人という性格付けがなされ、堅実なネタ作りもあってバラエティに引っ張りだこの一躍時の人となった。
 お笑い芸人としてスタートして二十数年が経ち、彼はライブ中突如引退を宣言をする。
 色々な声が上がる中、彼が唯一の理由としてあげたのが「豆腐を作るから」というものだった。
 そしてその発言は瞬く間に広がり、引退までの最後の一年は「やっぱり天然で変わった人だ」と全盛期に劣らぬほどの人気を集めた。
 その間に彼の元に色々な豆腐が送られてきた。しかしどれも市販のものだったので「死ぬにふさわしいものではない」と普通に食した。中には鉄製で、外見だけ豆腐に似せてあったものなどもあったが、「大豆から作られる豆腐でなくてはならない」と彼はそれを持ち帰って飾り物にした。
 彼が引退してからも、数年に一度くらいテレビ局が彼の元へ取材をしにきたが、彼は「まだまだです」と言って笑いながら自分で作った豆腐を振舞った。
 彼は本当にずっと豆腐を作り続けていた。彼の豆腐は評判になり、もともと「死ぬための豆腐を作る人」という先入観もあって奇妙な人気が起こり、彼は時折売るための豆腐作りをすることもあったが、いずれにせよ豆腐から離れることはなかった。
 豆腐作り暦が芸暦を超えた頃になって、彼はある日自宅で倒れているのを発見される。その頭の下には何故か豆腐が飛び散っており、死因は肉体的なものであったとはっきりしているにも関わらず、彼を知るものは彼は豆腐の角に頭をぶつけて死んだのだ、とまるで生涯の目標を達成した男を語るように話すのだった。


408

「っつう……」
 たっぷり数分はうずくまり、少女はぶつけた後頭部をさすりながら起き上がる。そこは見知らぬ森だった。
 学校の屋上で寝ていただけだというのに、どういうことなのだろうと少女は思う。
 寝ていて、寝返りをうったら急に浮遊感に襲われ、なんだと焦る間もなく何かに思いっきり頭をぶつけて、痛がる間もなく地面に体を打ち付けて今に至るのである。
「なに……ここ」
 ここはどうもよくない気がする。あまり長居をしてはいけない。直感がそう告げる。
 だが長居をしたいとは微塵も思わなくとも、逃れる場所がない。
「くっ」
 まだ眠りから覚めていないのか。少女は自分で自分を叱咤し、頭にかかったもやを振り払うかのように頭を左右に振る。
 そして立ち上がろうとしたところで、
「…………」
 背後から首筋に剣が突きつけられた。冷やりとした感触に体が硬直する。
「何者か」と、背後から剣を突きつけている誰かが少女に誰何する。
 声は低く、底冷えするような音だった。
「あー、えーと……ですね」
 頭が真っ白になる。身じろぎ一つしただけで剣に力が入り、今にも首を斬り飛ばさんとする。
「その、まずは剣をどけて貰いたいのですが……。ほ、ほら、私この通り丸腰無抵抗ですし」
 真っ白な頭でそれだけをやっとのことで告げた。さらにはゆっくり、恐る恐ると両手をあげてみせる。
 すると少しして、少女の背後に居る誰かは少女の言に納得したのか剣を退ける。
「何者か」変わらぬ調子の声が投げられる。
「所属と階級を答えよ」
「…………へ?」
「所属と階級だ。そのような格好をした者を私は知らぬ。さらに丸腰とはいかなる用件か」
「その、私は……」と言いながら少女は必死で考える。
「斥候か」
「へ? あ、いや、違うんです、えーとですね……」
 斥候とか所属だとか階級だとか何がどうなっているんだ、と喚きたい気持ちになりながら考える。どうやら初っ端からここまで警戒されてしまっていては自分が右も左も判らない一介の学生であるとは信じてもらえないだろう。
 少女もそんな状況でありながら頭はフルで回転している。視覚情報からできる限りの判断をしたいところなのだが、不気味なまでな薄暗さを作る木々が、草が生い茂り人が踏み入れた後もないような大地が、少女の常識を軽く吹き飛ばしてしまう。
「……そのようななりで私を殺そうなどとは甘く見すぎだな」
 ぼそりと背後に居る誰かが呟く。
 ……ちょっと待て。少女は心の中で呟く。殺す? ひょっとして何かとんでもない誤解が起きているのではないか。
「あ、あの、殺すというのは一体……」
「…………」
 少女の問いに帰ってきたのは無言だった。
 よし、それならひとつ自分で考えてみよう。考えられることは一つしかない。一体自分は何にぶつかったのか。何に頭をぶつけたのか。
「ごっ、誤解です誤解です私はそんな意図は微塵もなくてこれはとんだ事故というか突発的で偶発的……な……?」
 動くな、という言葉も忘れて振り返り弁解を始めた少女だったが、言葉は尻すぼみになって消えた。
 理由は、背後に居た誰かを見たからである。そこに居たのは細身ながらも筋肉のついた男が……と、顔から下へと視線が向かっていき、嫌でも目に入る。腹の辺りから下はヒトのそれではなかった。毛深く、しなやかで先に蹄のついた細い足。そしてその後ろにもう二足が見えている。
 馬に乗っているわけではない。体の半ばからそうなっているのだ。
「あ……え……?」
 少女は男の顔と下半身を交互に見る。少女の視線に男の表情は険しいものへなっていたが、少女は気づかない。
「よほど死にたいらしいな」
 少女が我に返ったのは目前に剣を突きつけられてからだった。
 少女は無言で首を横に振る。必死だった。
「…………」男はそんな様子の少女を白い目で見つめた後、
「立て」
 少女は男の言葉に黙って何度も頷き、すぐさま立ち上がろうとするが腰が抜けているのかちっとも立てない。
 だが男には従う意思がないものと見えたらしい。少女には意味が判らなかったが何か短い一言で怒声を上げて少女の胸辺り、つまり心臓部に向けて剣の切っ先を僅かに食い込ませる。
 少女の顔は蒼白となり、もはや口を開いてはいるものの言葉も出ない。
 その状態で、数秒。
 すると次に男は何故か眉をひそめ、剣を鞘に収めた。そして少女の眼前で手を振って見せるが無反応。少女は放心してしまっていた。
 男は渋い表情で何か考え込んだ後、嫌々といった調子で少女を脇に抱えて森の中を何処かへと歩き始めた。


407

【明日は適正検査の日だ。気合入れていかないと。】

 彼女の最後の日記にはその一文が記されていた。適性検査、とは何であろう。少なくとも彼女の通う学校を初めとした彼女の生活圏を当たってみたが、適正検査などという言葉が出てくることはなかった。月の決まった日、週ごとの曜日、その辺りを総ざらいあたっても適性検査という言葉が出てきそうな状況が浮かび上がらない。
 彼女は何処へ向かったのか? 何の適正だったのか?
 彼女がいなくなった理由としては、その適性検査とやらに通ってしまったという可能性である。何かに適正であると判断され、そのまま連れ去られた。その可能性が濃い。
 彼女はその適性検査の翌日から行方をくらまし、家にも帰っていなければ学校にも行っていない。当然、彼女の姿を見たものさえ居ない。まるで草薙綾乃という存在が消えてしまったかのようだった。


406

「先輩は、ガラスの国には行かれませんか」
「ガラスの国?」
「はい。誰も居ない、そんな国です」
 僕の後輩の草薙綾乃は、何人もの人を堕としたという微笑みを浮かべていった。以前彼女に告白した後輩に聞くと、彼女の笑顔はコンクリートに咲いた一輪の花のようだとかこっちが赤面してしまうような言葉を散々言っていた。
 その彼女があまり交流もない僕のところに持ってきた話は、なんとも奇妙で、御伽噺のようだった。
「うふふ、興味ありげな顔ですね? 先輩、普段から馴れ合うのはキラいだって顔してらっしゃいますから」
 彼女は僕がまだ何も言葉を返さぬうちからそう言った。
「そうだな、あるかないかで言えば興味はあるね。君の僕に対する印象は別としても」
「まぁまぁ。悪気はないんですよ?」
「……ま、いいけどね。ガラスの国だっけ? それで、行くとはどういう意味だい。話が見えないんだけど」
「はい! 実はですね……」
 草薙が話すにはガラスの国はまだ「完成」していないらしい。どういう意味かと問うと、まだできて日にちが浅いということだった。故に、人もいない。そこで僕に行ってみないかと話を持ちかけてきたのだ。怪しいことこの上ない。本当に御伽噺のようだ。僕が主人公だとするならば、草薙は悪い誘惑者といったところか。僕がそこまでのお人よしに見えたのだろうか? 僕は当然のように断るつもりでいた。ほいほいと乗るには問題が多すぎるからだ。
「大体、学校はどうしろって言うんだ? 長期休みがあるわけでもないのに」
「その辺りは大丈夫です。引き受けていただかない限りあまり細かいこともお話できないのですが、心配は要りません。損はさせませんよ?」
 それから草薙はいい忘れたことがないか思い出すかのようにふむと考え込み、
「夜が疼くのでしたら一晩くらいお相手しましょうか?」
 草薙はクシシ、とからかいの笑みを浮かべて言う。
「遠慮しておく……やっぱり申し訳ないけど、その話はお断りさせてもらうよ」
 何の脈絡もないその申し出に戸惑いつつも、僕がきっぱりと多少は後ろ髪引かれる提案と怪しすぎる話に対して拒絶の言葉を口にする。草薙は残念そうな顔をした。念のため付け加えておくと、残念だったのはおそらく後者に対してだと思う。
 そして次の瞬間に浮かべたぞっとするような笑みを僕は忘れないだろう。挑発するような、誘い込もうとするような魅惑的な笑みを。
「そうですか。……先輩は夢をかなえようと思いませんか?」
「……ゆ、ゆめ?」
 その一言を繰り返すだけでも、僕は息を飲み込まなければいけなかった。草薙の底冷えする笑顔で上目遣いに見られ、少なくともその瞬間だけは何よりも恐ろしいと思った。
「そう……」と言って草薙は指先を紅い唇に当てた。「誰もいない所にいってみたい……6年前に、ある小学校の6年2組に居た誰かは書きました」
 僕だ。今の今まで忘れていたというのに、指摘された瞬間にその記憶がはっきりと蘇る。確かに、そんなことを卒業アルバムか何かに書いた。だがなぜ彼女がそんなことを知っているというのだろう?
 僕の唾を飲み込む音が、緊張が張り詰めた空間に響く。誰もいないところ……。本当にそんなところが存在するのか。確かに、その時書いた夢はまさしく「夢」であった。しかしそれは小学生ゆえの他愛無さからくるもので、例えば「宇宙大統領になりたい」「世界征服をしたい」そのような荒唐無稽と言ってもいいくらいの、そんな調子で書いたものだったのだ。それは確か小学校の先生が「現代では人が完全に居ない場所というのはあまりない」と言っていたのが発端だったと思う。廃屋とか、田舎とか、人が居なさそうな場所ならいくらでもあるが、廃屋だってもとは人が居た何らかの建築物であり、田舎だって人が住まう地だ。人が居ないというには抵抗がある。廃屋にだって好奇心あふれる廃屋好きや肝試しの輩がくるかもしれない。僕が考えたこれも立派な可能性であり、人が完全に居ないということは否定している。もちろん無人島とかそう言った場所ではない、人の手が加わっている場所での話だ。ならばそういった場所は存在しないのか? 長くなったがそれ故に記された回答であったはずだ。
 大分好奇心が刺激されて行きたくなってきたが、それでもまだ怪しさを捨てきれない。僕は少し考える時間を稼ぐために質問を投げかける。
「ところで何で君がそのような話を?」
 すると草薙はいつもの表情に戻ってにこやかに答えた。
「私、勧誘に大抜擢されまして……なぁーんて、ね。先輩、そんな嫌そうな顔しないでください。冗談ですよ」
「別に何でもいいけどね……大体、人を誘っているけど君は行ったのか?」
「もちろんですよー。本当、見事なものですよ。もう海外に行くなんかより貴重な体験かもしれないです」
 草薙のその答えは、僕にとって少しばかり意外だった。
「行ったのか?」
「え? 行きましたよ?」
 ふむ、と僕は考え込む。草薙も実際に行ってきたと言うのならこの話は信じてもいいのかもしれない。うそ臭いのではあるが。実際に行った上で大丈夫だ、と言われると信じられる気がする。
「じゃあ行ってみようかな……」
 ぼそりと僕が呟くと、草薙はにんまりと笑って素早く僕の手にチケットを一枚握らせる。草薙の手は不思議な温かさを持っている気がした。何故か握られた部分がじんわりとして、包み込まれるような感覚がある。
「このチケットをですね、枕の下に置いて寝るんです。妖精さんが迎えにきてくれますよ」
 そう言って握らされたチケットは長方形で、『ガラスの国へご招待!』という文字とガラスでできているらしい車、道路、木が油絵ちっくに描かれていた。まるで……本当に何かのアトラクションチケットのように見える。
「…………」
 馬鹿にされているのだろうか。僕は思わず草薙の顔を見た。いつからこんなファンタジーの住人になったんだ?
「なんですか?」
 草薙は何が嬉しいのか、妙にニコニコしてこちらを見つめている。
「あ、いや……。で、ガラスの国というのはどこにあるんだい?」
「はい、ですから」そう言って草薙は笑顔で先ほどと同じくチケットを枕の下において眠るのだ、ということを繰り返す。
(うーむ)
 こんなこと考えたくはないが、草薙は精神でも病んだのか? いたずらにしては手が込んでいる。
(まぁ、もしそういうネタだというのなら適当に話でも合わせておけばいいか)
 そう結論づけて、「わかったよ。そうする」と答えて草薙と別れを告げた。

(ガラスの国、ねぇ……)
 夜、自室で机に肘をついて草薙から貰ったチケットを眺める。何か特殊加工されてるわけでもない。本当にただ印字された紙切れだ。枕の下、と言っていたから忘れないうちに枕の下に挟んで、眠くなるまで静かに本を読む。
 そうして数時間ほど本を読んだ後、僕はあまり信じていなかったというのもあるだろうが、そのガラスの国云々を忘れて眠りについた。

 僕は習慣から、いつも目覚ましがなる少し前に目が覚める。その日も同じく目が覚め、まず目覚ましのスイッチを切ったところで何か妙な違和感を感じた。
 居間に出て、パンを焼き、食べる。いつも通りに。母さんはまだ帰ってこないようだ。母さんは一昨日から家に帰ってきていない。しかしこのように家を空けることはそう珍しいことでもなかった。だが伝言ひとつ残さず、というのは妙だ。かと言えど考えても始まらない。母さんが帰るかどこかから電話が来るのを待つだけだ。一月近く家を空けた挙句にどこかで散々迷惑をかけて家に電話が入ったこともある。場所はいつもばらばらなので、ただ待つしかない。
 朝食を終え、準備をし、外に出て、初めて違和感の正体に気づいた。
(音が……ない)
 一切の音がなかった。自分の足音が世界の果てまで響き渡るような、恐ろしいほどの静寂。見渡す限り動くものが存在しない。人も動物も車も見えない。視界が捕らえるもの全てが死んでいるかのようだ。風さえも途絶えており、木の葉一枚揺れる様子がない。あらゆるものが世界に拒絶されたかのような感覚になる。動くものが日常から取り除かれて消え去ってしまった。
 でも本当はわかっている。おそらく、世界に拒絶されたのは……。
(ガラスの国、ね……)
 なんだろうこれは、と思ったところでふと思い出した。これが単なる偶然の連鎖が生み出した景色ではないというのならば、おそらくはこれこそがガラスの国というものなのだろう。
 バカらしいと思う気持ちがある反面、恐ろしさがこみ上げてくる。
(学校へ……学校へ行ってみよう)
 通学の途中も、シンと静まり返っていた。信号はその機能を停止して道路脇のオブジェと化しており、またそれによって困る人や車の往来もない。活気という活気が完全に消えてしまっている。正月に一度外出したときはこれに近かった。だが、まだそれでも人は居たし車の往来はあったしで街は生きていたと思う。これは完全に死んでいる。
 考えているうちに学校へ向かっていたはずの足は街中へと向いていた。そして案の定、街をいくら行っても状況が変わることはないという現実を知る。
 ふぅ、と思わず息をつく。
 嵌められたな。そう思わざるを得ない。
 僕はよろめく様にデパートのショウウインドウに寄りかかる。瞬間、ショウウインドウの側から何か動くものが見えた気がして、慌てて振り向く。
 最初は気のせいかと思った。ショウウインドウには自分の後ろ側、つまり道路と横断歩道がうっすらと映っている。後ろを見ても相変わらず誰も居ない。だが、そのショウウインドウの中の道路と横断歩道にはうんざりするほどの人が往来しているのだ。
 僕は暫く唖然としてその景色を眺めて、薄々感づいていた正体を確信する。
(ガラスの国、か……。何のつもりだか知らないけど、趣味が悪いぞ草薙……)
 つまるところ、「向こう側」に僕一人だけ飛ばされた挙句閉じ込められたのだ。もしかしたら、まだ帰る方法は残っているのかもしれない。
 でも、どうやったらガラスの向こう側なんてところに渡ることができるんだ?
 さてさてどうしたもんかな、と困って空を見上げる。こんなところでも、空だけはいつもと同じように在った。


405

姉さんが最近僕に優しい。
でもそれに比例するかのようにボーイズラブ関連の冊子が増えており、わざとらしく僕の部屋にも置いていくので何か意図があるような気がしてならない。


404

Not Found...


403

 街中の、普通なら見過ごしてしまうような細い路地を少し行った所に南京錠のかかった扉がある。
 多分、日常的に行き来する人でさえもそれには気づいていないだろう。
 私は直感的にその扉の向こうには何か未知の世界があると感じていた。何せ以前扉の下の隙間から向こう側を覗き込んだところ、延々と一本道が続いていたのだ。
 無論、その扉の反対側と思われるところには普通に家があり、そんなに長い道など存在するはずもない。家の側から辿ってみると細い路地に出ることはできるが、そこは扉ではなく塀になっている。
 私はいつも暇になると錠が外れてやしないかとよく見に行ったものだった。しかしいつ行っても、まるで誰かがこまめに付け替えているかのようなピカピカの南京錠は決して外れる様子はなく、私はその度に妙な安心を感じつつ残念な気持ちになった。
 だがある日ふらと見に行くと、永久に外れまいと心のどこかで思っていた南京錠は完全に錆付いた状態で外れていた。南京錠は辛うじて扉の片側に引っかかっているだけで、扉は僅かに開いている。
 私は驚きからしばらく立ちすくんだ後、恐る恐る少しだけ扉に触れてみる。扉はさらに少しだけ開いた。私は慌てて手を引っ込めるが確かに扉は開いており、中を伺うことができた。もちろん扉の向こうへ行こうと思えば軽く行けるだろう。
 扉の向こうはやはり地平線の向こうまで道が続いていた。横には家やら店やらがずらずらと隙間なく並んでおり、それでいて目の前から伸びる道だけが曲がることも建物に遮られる事もなく延々続いているのだった。そこはどこかの通りのようでもあったのだが、人の気配がない。家もよく見たら長年無人のまま放置されたようにも見え、店も看板は掲げてあるものの引き戸をあけるような形で、どうも相当古いものであるように思えた。
 私はその道に足を踏み出せることを長年密かに心待ちにしていたはずなのに、いざ前にすると足を踏み出すことはできなかった。

 結局その日はそのままに、翌日改めて行ってみると扉は跡形もなくなっていた。ただ塀があるだけだった。隅っこのほうに錆付いた南京錠が落ちている。
 ああ、きっと誰かがあの道に足を踏み入れたのだ。一体、あれは何だったのだろうか。
 昨日は臆したくせに、無くなったと知ると途端に後悔に襲われる。
 きっと、きっとあの道には忘れられた何かがあったに違いないのだ。
 自分でも愚かしいとは思いつつも、どうしようもない後悔に心を染められる。私は目の前の、昨日まで扉だった場所にある塀を指先で引っかいた。


402

 崩壊した世界で生き残った少女は放射能障害で失明していた。全てが一変した世界で視界を掴めぬというのは死に直結する。言わば少女は「まだ死んでいないだけ」にすぎない。
 食物の摂取も適わず、ろくに動くこともできない。地面はガタガタで、倒壊した建物や上がった水位で非常に不安定であり、たとえ目が見えていたとしても移動は困難を極める。
 少女は幼かったが、それなりに状況を理解しているようであった。その様は理解している、というより諦めていると表した方が相応しいかもしれない。周りの空気、時折建物が倒壊する音ややけに近い水音、そして話し声がもう何日も聞こえない。きっと、生きているのは自分だけなのだ。みんな死んでしまったのだ。否定したくても理解せざるを得ない現実がそこにあった。
 少女は飢えていた。もう何日かろくにものを口にしていない気がする。
 崩壊直後は半壊した家の中に残っていた冷蔵庫まで手探りで辿り着き、そこに詰められていた水と非常食でしばらく持った。
 崩壊前、既に近いうちに大地に何らかの大きな変動が起こることが予想されていたので、何処の家庭でも冷蔵庫を非常食やそれに類するもので満杯にしていたのだ。電気は止まっていたが、先の理由の為に幸い腐るようなものは入っていなかった。だが仮に腐るようなものがあったとしても少女は口にしていただろう。
 少女は寝転がって息をしている。それしか、することはなかった。
(私…このまま死んじゃうのかな…)
 死にたくないという気持ちがある一方で、みんなのところへ行けるならという消極的な受け入れの気持ちもある。
 どこか遠くで建物が崩れ落ちる音に混ざって、意外なほど近くでも何か聞きなれない音がした。だが反応するほど少女には体力も希望も残っていない
 しかしその音は繰り返された。同じ音。自分の方へと向かってくる。
(……!)
 救助の人間に違いなかった。
 少女はここで何もしなければ見過ごされてしまうと思い、とっさの判断でありったけの体力を使って腕を空に伸ばした。
 腕を伸ばすという行為はこんなにも辛いものであったのか。ただそれだけの動作に、残る生命力を根こそぎ持っていかれそうな辛さがある。これで気づかれなければもう終わりだ。
 少女の手が上げられていたのはほんの数秒ほどであろう。その手が力尽きて再び地に落ちるその時、少女の手を、誰かの手がそっと包んだ。それはお世辞にも温かいなどとは言えない手だったが、他人という存在がこれほどまでに力強かったことはかつてない。
「たすけて」
 少女が擦れた、消え入りそうな声で呟いたのが唯一その言葉だった。自分はまだ生きたいのか。そう己に問いかけても少女は答えることができない。だが、死にたくないという気持ちが強く渦巻いているのも確かなのだ。
 少女の手を掴んだ人には、その声は聞こえなかったはずだ。少女は声に出したつもりであったが、それは起伏のある呼吸音程度としてしか発音されていなかったからだ。だがそれに応えるように、閉ざされた視界の向こうに居る相手は少女の手を心なしか強く握った。
 少女が死ぬまでの七年間、その人はずっと少女と共に居た。


 ロボットは崩壊した世界を理解していた。人はみな死んだのだと。自分の使えるべき人間を含めて、みな死んだのだと。生物という生物が死に、原初に限りなく近い状態に戻ったのだ。
 ならば自分はどうかと問いかける。幾度も繰り返される問い。繰り返される要領の得ない回答。それもそのはずで、「人間が死に絶えた中で取るべき行動」などというものは想定自体されていないために、どんな材料を使っても回答に辿り着くことは不可能に近かった。
 そのロボットはたまたま全壊を免れていた。腕は潰れ、足も瓦礫の下敷きになったが、他の機能停止したロボットから代用することができた。その結果酷く不恰好なものになったが、それを気にするほどの心は持っていない。
 ロボットは誰か生存者を探すことにした。己一人でそこに留まっていたところで、無為な日々を繰り返すだけだということが判りきっていたからだ。
 捜索を開始してからはロボットは精力的に動き回った。しかし相当広範囲、細かい捜索だったにもかかわらず、生存者はただの一人として見つからない。ロボットは絶望的な捜索を続けた。音から探すには周囲が五月蝿すぎ、視界で探すには限度があった。そんな中で生命反応を見つけたときのロボットはどう思っただろうか。多分、嬉しいと表すべきだったのだろう。
 ロボットは危険な場所すらも突っ切って生命反応の方へ向かった。既に世界が崩壊してから長く、例え生きていても衰弱しきっている可能性が高かったからだ。
 はたして生存者は衰弱していた。すぐにでも栄養を摂取せねば死んでしまうだろうということは傍目からでも判った。
 それほど弱っているというのに、生存者はロボットの存在に気がついたのか、生きていることを示すかのように腕を上げた。だがすぐに体力が尽きたのか、手が下ろされかける。ロボットは己の判断で少女の手を掴んだ。おそらく、ここはそのような行動をとったほうが生存者を安心させられると思ったからだ。
 そしてロボットの考えたとおり、生存者の顔に弱々しい安堵が浮かぶ。
「たすけて」
 ロボットの聴覚はその声にならなかった呼吸音を捕らえた。「ご命令のままに」ロボットはそう答えようとしたが、ギ、と小さく軋む様な音がなったのみで音声化ができない。ロボットは首を傾げる。ロボットは声を失っていた。だが彼自身にはそれに気づいても異常が出ている部分がわからず、故に自己修理もできない。ロボットは相手の感情を考慮してなんらかの反応を返すべきだと思い、ただ手を少しだけ強く握り返すという言葉なくとも雄弁な仕草で返した。
 少女が死ぬまでの七年間、彼はずっと少女と共に居た。
 彼は少女の為に住居を修理し、少女の為に飯をこしらえ、少女の為に全ての世話をした。
 ただ、そこには言葉がない。
 少女は自分の世話をしてくれる彼の為に何かしら話しかけた。考えたこと、感じたこと、少女は己の全てを世話をしてくれる彼の為に言葉にした。返事がなくても構わなかった。話している間、彼は決して去ることはなかったし、少女が不安に陥れば手を握ってくれたりもした。
 ただ、そこには姿がない。
 少女はある日を境に海に触れたいと思うようになった。理由は、海にぷかぷかと浮かぶことができたら、という些細な考えが発端だったのだが、それが段々に強くなっていったのである。その度に彼は少女を押し留めたが、少女は納得せず、彼が居ない間にこっそりと海に出ようとした。だが家をでれば当然のようにそこは闇に閉ざされた未開の地であった。長年かけて彼が少女のために作りかえたその家は、目の見えぬ少女には戸惑うばかりだったのだ。少女はそう長く歩かぬうちに急に地面がなくなって落下し、海に落ちた。だがその海は少女が夢見たものとは程遠い気がした。それは少女が落下の際、漂っていたコンクリート片に額をぶつけたのも一因だったろう。少女は浮かぶどころではなく、溺れない様に必死にもがいた。
 少女の力が尽きるより早く彼が戻ってきたお陰で、少女は事なきを得た。少女は彼に抱きついて「ごめんね」と泣きじゃくる。彼は言葉を失ったおかげで文句を言うこともできず、人間味の薄い単調な要素でできた顔で困っていた。
 以来少女は大人しくなっていたが、その日を境に生命力を減らしていった。その海のことが原因とは彼には到底思えなかったのだが、実際のところは海への夢を挫かれ、気力を失ってしまったのかもしれない。少女の狭い世界では致命的なことだったのだろう。

「今まで助けてくれてありがとう。…あと先に死ぬことになって、ごめんなさい」
 少女の視界を奪った障害は年月を経て全身に回り、ついには少女の生命を奪うに至る。少女は死ぬ数週間前にぽつりと呟いた。その頃には、少女は口を開くことも少なくなっていた。口を開くことすらも少女の生命力を削るだろう、と思わずにいられないほど、少女は衰弱していたのだ。

 少女が死に、ロボットは丁寧に丁寧に一年近くかけて少女の為に墓をつくった。ロボットはその墓前にて人がかつてそうしたように祈るような格好をして、そのまま二度と動くことはなかった。


401

 彼に守護霊が居るのだということは誰もが知っている。写真を撮ると、なぜかいつも写るのだ。
 彼自身も特にどうとも思うことなく受け入れているようであった。侍風の男と、和服を着た妙齢の女性。二人一組なのか、必ず片方しかいない、という事態になることがない。
 写真を撮ると守護霊の二人もカメラに向かってピースしたりウインクしたりと中々茶目っ気を見せるが、時々不意打ちで彼を撮ると大概いちゃついてる場面だった。女性の方が頬に手をあてて照れていたり、男の方がそっぽを向いて照れていたりと、そんな様子を見ながら、彼女も出来た事がなく地団太を踏む彼を横目にいいなあと思うのだった。