思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳543

 前山佑樹の家から自転車で四十分ほど漕いで若干の田舎から田舎分が頭ひとつ抜きん出たようなところに行くと、廃れてしまった建物がゴロゴロある地区にたどり着く。
 その日前山が行った場所は建物がゴロゴロあったとでも言うべき場所で、撤退時期を見誤って取り壊され損ねた建物がいくつか残っているだけだった。
 雨風がべたべた触っていって往年の面影がまるでない法律事務所の看板は、窓ガラスがすべて外から割られているし、中ももうめぼしいものは物色され尽くしたんだなと言う程度のものしか残っていない。
 そこから徒歩五分程度の距離にある神辺ビルも同様で、外壁を植物に蹂躙されつくされながら取り壊しの日を待ち続けている。
 前山が用があるのはその神辺ビルだった。そこの三階にあるダンボールの中。
 話が正しければ、そこに目一杯のエロ本が詰まっているはずだ。
 ネット全盛期のこの時代にわざわざ探しに来なくてもエロには困らないが、とにかく娯楽が少ない。そして誰も来ないようなビルにエロ本がある、というのが何より重要だった。
 中はガランとしていて、ほとんど何もない。再利用をしようとも思われなかった、もしくは大きすぎて持っていきたくなかったのか、事務机がいくつか隅の方に寄せられているだけだ。
 昼間でも中は薄暗く、前山は懐中電灯でも持ってくればよかったと若干後悔する。
 何が出てもおかしくない。
 夜が来る前には絶対に帰ろう。
 何もないだけという不気味な静謐さに、少し不安になる。エロ本に対する好奇心より不安がちょっと勝ってしまったせいでいらないことまで思い出してしまう。
『――でもさ、神辺ビルって出るらしいからな』
 エロ本の存在を教えてくれた中村はそう言ってエロ本情報に更なる情報を付け加える。
『出るって、何がさ……?』
『撤退前に首を吊ったっていうオーナーの幽霊。自分だけ死ぬのが納得いかないらしくて、道連れを探してるらしいぜ』
 噂の神辺ビルの元オーナー神辺雅治67歳は今は引っ越しして中国地方の郊外で嫁と悠々自適な生活をしているのだが、そんなことを知る由もない前山祐樹14歳は、いもしないオーナーの幽霊に怯えながら階段で三階に向かう。
 三階。
 ビルであるからにはいくつかの部屋があるのだが、さすがにどの部屋かまでは聞いてこなかったし、たとえ聞いていたとしても判るまいと思う。
 何もない所にダンボールがあればそれだ。
 その情報だけで十分だと思う。
 足早に部屋を覗き込み、ダンボールのあるなしを確認して回る。
 そしてそろそろ出てきてもいいんじゃないかという四部屋目を除いた時だった。

 女の子がいた。
 幽霊かと思った。

 恐怖のあまり息を飲み込んだが、その飲み込む音が存外に響いて静寂を乱した。
 前山は意識を手放すか否かという瀬戸際にいたのだが、音に反応して振り返った女の子が下手したら自分以上に恐怖で塗りたくられているのを見て、ちょっとだけ正気を取り戻す。
 そして女の子の足元に、一抱えはあるダンボールが置いてあるのをみて、奇妙な安堵が広がってきた。
 よかった、もしかしたら君もお仲間?
 確か、そんなようなことを言ったように思う。
 記憶が曖昧なのはその言葉を発した直後、女の子の体が若干透けているのを見て、気が付いた時にはもう一目散にビルの外を目指していたからだ。
 怖かったなんてもんじゃなかった。仲間なはずがなかった。仲間になっていたらもうこの世にはいなかったはずだ。
 でも。
 冷静になったらなんだか笑いがこみあげてきた。幽霊? 馬鹿馬鹿しい。中村なら一緒に一目散に逃げた後、偉そうに幽霊でも女の子なら仲良くなっとけよとでも言ったかもしれない。首を吊ったようには見えなかったし、撤退前と言うような疲れ切った雰囲気もなければ、死ぬ道連れを探している様子でもなかった。
 普通の女の子だった。
 その子は自分と恐怖メーターが振り切れるチキンレースができるくらいに怖がっていた。
 後悔の滴が水面に落ちて、時間をかけてゆっくりと波紋のように広がってきた。
 一言くらい話してもよかったんじゃないか。自分は言葉を発したのだ、その返答くらい待ってもよかったんじゃないか。本当に興味本位でエロ本を見に来たのかもしれないし、もしかしたら肝試しとかそんな名目で来ることになったのかもしれない。
 相手だって怖かったはずだ。自分なら漏らしていたかもしれない。
 あんな得体のしれない空間で、人の気配なんてしちゃいけないような場所で、深奥にある謎のダンボールまでたどり着いて、さあ今からだ何が入っているんだ御開帳だ――そんなところで第三者が現れたら、そんなもの鬼を見るより怖いに決まっている。
 透けて見えたのだって埃とか光とか、その辺りのせいで目が錯覚を起こしたのかもしれない。きちんと見た訳では無かった。きちんと見たのは目的のダンボールだけだ。
 そうだ。ダンボール。
 自分が何をしに来たのか、ということを考えたらこのまま帰るわけにはいかないという気持ちが段々重みを増してきた。
 もう一度行こう。前山がそう決心を固めるのにそこまで時間はかからなかった。
 恐怖を突き放すことに成功した今では、ひたすら流れ落ちる汗が鬱陶しく思える。既に汗を吸いすぎてぐっしょりと重みを増したシャツの裾に顔の汗を塗り付けると、前山は再び踵を返して歩き出した。