思いつきで文章の草稿や断片を書くための場所。

草稿帳350-341

1 幸せ 2 怒り 3 寂しい 4 元気 5 冷酷 6 痛み 7 恐怖 8 意地 9 号泣 10 強がり

11 虚無 12 絶望 13 悩む 14 悦 15 驚き 16 複雑 17 期待 18 がっかり 19 企み 20 軽蔑
21 嘲笑 22 感動 23 どうして 24 意地悪 25 我慢 26 照れ 27 憎しみ 28 微笑み 29 まいったな 30 嫌悪
31 危険 32 知らなかった 33 眠い 34 疲労 35 焦燥 36 勇気 37 違う 38 ショック 39 苦しい 40 拗ねる
41 不安 42 自信 43 睨む 44 不満 45 きょとん 46 告白 47 照れ隠し 48 呆れ 49 見つかった! 50 チャンス


350 ―50 チャンス

 俺が精神に問題を抱えていると言うことから話が転がって、ぶち込まれたのは愛の病院とかいうふざけた名前の病院だった。
 看護婦だか看護士だか知らねぇが、医者の白衣はともかくもしても、他の奴はピンクが指定色のようだった。全く、頭が痛くなる。全員が全員ニコニコしていやがって、思わずぶん殴りたくなるような奴らばかりだった。ここに俺は"入院"させられるらしい。
(やなこった)
(馴れ合いなんてゴメンだ)
 俺は入院が決まったその日、この胸糞悪い病院に移され、医者の有難いクズみたいな話を聞いて、部屋に入れられた。壁に虫唾が走るような、ガキが作ったに違いない大きなハート型のカレンダーが掛かっている。
 そしてその日の夜、俺はトイレに行くフリをして病室を抜け出した。あんなニコニコ顔の連中なんぞ適当に言いくるめておけば何とかなるだろう。いざとなれば少しばかり眠ってもらえばいい。
 さすがに、正面から出て行くほど馬鹿ではないので、一階の窓から抜けようと思い階段を下りる。俺の病室は四階だった。
「ぅう…」
 二階に差し掛かった辺りで、人のうめき声が聞こえて思わず立ち止まる。声からジジイかと思ったが、何だか場所が近い気がした。俺は気になったので多少の危険を覚悟して廊下を覗いてみる。
 廊下の途中、明らかに部屋のドアではない細いドアが半開きになっている。そこにジジイは居るようだった。
(…放って置くか?)
 放っておけ。俺の心はそう言った。だが、何かが引っかかった。あの部屋は…何の部屋だ? ジジイは何をしている?
 看護士の見回りの気配もない。俺は小走りにそのドアへと駆け寄る。
(……!)
 そのドアは掃除用具入れのドアだった。ジジイはそこへ誰かに押し込まれたようで、尻からバケツに落ちてビクビクとあまりにも不自然な痙攣をしながら空ろな目で呻いている。
「お、おい…」
 俺は声をかけたが、その瞬間ジジイはぴたりと動きを止めた。
「おや、どうかしましたかね」
 喋ったのは、他でもないジジイ当人だった。目もしっかり俺を見ていて、先ほどまでの異常さを微塵も感じさせない。
「あんた、そんなところで何してるんだ…?」
 俺は少し怖くなって、距離を置きながら問う。ジジイは極普通に、ちょっとした雑談でもするかのように答えた。
「なぁに。ションベンですよションベン。お若いの、アンタも下手にこんな時間に院内をうろろろろつかないほほほうがががががガっ!?」
 ジジイは再び目がぐるんとあらぬ方向を向いて、声が途切れ、またもや痙攣状態になる。
 俺はもうジジイを気にかけたりはせず、駆け出していた。
(狂ってやがる…狂ってる狂ってる狂ってる!!)
 ここは危ない。何かおかしい!
「っぐぅ!?」
 階段の踊り場まで差し掛かると、急に後ろから重圧が掛かって背中から押し倒され、腕を取られた。
「…おや、貴方は確か今日入院なさった方では?」
 そいつはニコニコ顔の、胸糞悪い看護士の一人だった。
「は…離せっ!」
「ええ、離しますとも。しかし夜といえども院内を駆け回るのは感心致しませんね。いい大人なんですから…」
「…おい、さっきのジジイはなんだ?」その看護士の穏やかに脅すような力ある声を聞いて、俺は逆に冷静になった。
「さっきの…? ああ、山本さんですか。どうにも夢遊病のようで、我々も困っているんですよ。まさか愛の病院で病人を拘束なんて出来るはずもありませんし」
「…………」
 見え透いた嘘を看護師は嘘くさい笑顔で言う。
「貴方は寂しいのですね」
「…は?」
 看護士は俺が黙っていたのを好機と見てか、勝手なことを抜かし始めた。
「こんな夜に一人で歩き回って人を求めるほどに…」
「何を勝手な…」
「心配は要りません。我々の愛ある看病で貴方も決して一人ではないことに気がつくでしょう。自己変革のいい機会ですよ」
 背筋がぞっとした。
「勝手なことを言うんじゃねぇっ! 離せ! 離せくそっ!」
 俺は精一杯もがいたが、看護士は細身のくせに異様な力で俺を抑え込んでいる。
「…貴方は随分と症状が重かったのですね」
「あぁ!? 離せっつってんだよ!」
「今日はいい夢が見られますよ」
 その言葉と同時に俺を押さえ込む力がいっそう強まり、骨が折れるんじゃないかというくらいになった。そして次の瞬間には腕にチクリとした感触が走る。その感触が注射針のものだと気がつくころには視界は酷く揺れ始め、意識が虹色の砂嵐に覆い尽くされ、あのニヤつく顔の看護師が手を差し出して「さぁ、部屋に戻りましょうね」と子供をあやすかのように言うのを最後ににににににににににに


349 ―49 見つかった!

 彼が墜落した惑星は、無人の、荒廃した星でした。
 そこに生物の影はなく、不毛の大地が見渡す限り続いていました。何もありません。誰も居ません。
 彼は絶望しました。誰もおらず、何もないのでは宇宙船は直せません。
 彼は歩きました。どうせこのまま行き倒れるなら。そう思い、ありったけの携帯食料を持ち、ずっと歩き続けます。
 山もない、平坦な荒野がずっと続きます。
 やがて、何か妙なものが見えてきました。荒野に白い円錐のような何かが見えたのです。
 彼は走りました。
 その白い円錐は彼の膝ほどの高さで、何も刻まれておらず、周りに何かを示すようなものもありません。
 彼は悩みました。もし希望があるとしたらこれかもしれない。そう考えます。
 触れてみても動きません。軽装服の感知センサーも害はないと伝え、素手で触れても何も起こりません。感触は、硬質のゴムに近いように思えました。
 彼は暫くそこに座り込んで考え続けました。突いても、強めに叩いてもびくともせず、"ただそこに在る"以上の何かはない様に思えました。しかし周りは荒野で、唯一明らかに自然物でないものはこれだけで、今のところ希望もこれだけしかありません。
 彼はここに腰を据えることにしました。荷を降ろし、円錐のものから目を逸らして遠くを見渡します。やはり地平線まで一望でき、そして目立つものなど何一つありません。
 彼は再び円錐に視線を落とします。ふと、円錐に近い砂が僅かに盛り上がった気がしました。
 彼は何気なく、その辺りの砂を払います。
 今度は円錐ではない、何か丸いものが出てきました。直径十センチあるかないかというそれを、彼はそっと掌に乗せて持ち上げます。彼はよく見ようとしましたが、この惑星に満ちる光で目を少々やられていたので、遮光グラスをかけてから改めて見つめました。
 それは人でした。丸いカプセルのようなものの中に、人がいたのです。怯えたように頭を抱えた小さな人は、横目で、表情を強張らせて彼を見つめています。小さな人は彼と目が合うと、ぎゅっと強く目を閉じてしまいました。
 彼は誠心誠意を込めて自分は悪さをする人間ではないと説きます。
 小さな人はそれに応えて警戒を解きました。彼から事情を聞いているうちに、同情するような表情も見せるようになりました。
 何とか助からないだろうか。彼の切実な問いに、小さな人は申し訳なさそうな表情で答えます。実は自分は地底にある都市に入り損ねた身で、入り口が封鎖された今、当分は入れない。そしてもし入れたとしても、貴方の宇宙船を直すだけの材料は用意できないでしょう。
 彼は助かる見込みを断たれ、肩を落としました。
 小さな人も同調するように肩を落とした後、大事なことを思い出した、と呟きました。この地底への入り口のちょうど反対側に位置するところに、昔貴方と同じ大きな人が訪れて、滞在した際に造られた中継基地の残骸が残っています。それは使えないでしょうか。
 小さな人の提案に、彼は喜びました。すぐに向かう旨を小さな人に伝え、小さな人に君はどうするのかと尋ねます。
 小さな人は答えます。ここに居ても餓死するだけなので、もし良かったら同行させていただけませんか、と。
 彼は笑顔でその申し出を歓迎しました。
 長くて短い旅の始まりでした。


348 ―48 呆れ

「そんなこと言ってないでしょ」優菜は苦笑する。
「どうしたの? いつもの君らしくないじゃない」
 そう言って、優菜は優しく目の前の少年の頭を撫でる。優菜がビルの事務所に帰ってきたときには既にこの少年、孝紀は階段のところに座っていた。
 どうかしたの、と優菜が問いかけてみても返って来る言葉は要領を得ず、自虐的で拗ねた発言ばかりをする。普段も行動や発言に問題がないわけではなかったが、根はしっかりしている。ちょっとやそっとでこうまで自分を捨てたように落ち込むことはないはずだ。
 優菜は奥の事務所で何かをやらかしたのだろう、と見当をつけてはいたが、優しく、根気強く孝紀を説得してその腰を上げさせた。

「まぁ」
 室内は破壊しつくされていた。壁紙が破れ、などと言うレベルではなく、壁自体にひびが入り、中にあった椅子や机を始めとする調度品は引き裂かれ、壁に叩きつけられ、叩き壊されるなりして無事なものはただの一つとしてなかった。もはやここまでやられるといっそ見事と言うほかはなく、優菜も怒ったり呆れたりするより先に感心している様子だった。
「…俺じゃない」
 ボソリと孝紀が言う。
 しかし、おかしな話であるのだ。優菜が出かける際に孝紀には"留守番"を頼んでいたはずなのに、この破壊の原因を自分ではないと主張し、では誰かと問えば判らぬと答える。
「…判ったわ」
 優菜はポンと手を打つ。何が判ったのか、と驚いたように孝紀は優菜を見る。優菜は全てに救いを与えてくれるような柔らかな微笑を浮かべ、
「孝紀君。留守番、サボったね?」
「お、おう」
 孝紀は何を今更、という顔で反応する。そんなものはこの慈悲無き破壊神が自分の与り知らぬところで降臨した、という時点で理解して然るべきではないのか。
「駄目じゃないの。留守番頼んだのに事務所開けちゃ」
「ご、ごめん」
「じゃあ事務所片付けたら、探してきてね」
 優菜はさらりと言った。
「…何を」
「犯人」
 孝紀の口が抗議のための言葉を紡ぐために開かれ、優菜の有無を言わせぬ笑みに負けて閉ざされる。
 何処の誰だか知らないが、面倒ごと持ち込んできやがって。でも待てよ、と孝紀ニヤリと笑う。よくよく考えれば、相手はいきなりここまでしていきやがった無法者だ。優菜の口がふさがらないくらい懲らしめるくらいなら、問題ないだろう。
 しょうがねぇなぁ、とぶつくさ言いながら孝紀は大きく伸びをする。
 なるほど、狩人の真似も面白いかもしれないな、と自分を元気付けるかのように考えた。


347 ―47 照れ隠し

「また…今代も駄目なのですね…」
 そういった目の前の少女の指先が光る。
「お、おい、じっとして…」
 コウがそう言う間にも少女の生命力は失われつつある。そして少女が指先に光を灯したせいで、その消費が加速したのは見れば明らかだ。
 コウが大人しくしていろと言うのも聞かず、少女はゆっくりとコウの額へと光る指先を持ってゆく。
「……?」
 その意味ありげな動作に、コウも思わず動きを止めた。
 少女はゆっくりと、光をコウの額に当てる。
 瞬間、少女の記憶、想いが一気に流れ込んでくる。
 コウは酷い頭痛に顔を歪めた。連なっている、などという生ぬるいレベルをとうに超えた記憶が、言葉として、または映像として弾丸のようにコウの意識に打ち込まれる。処理が追いつかないと脳が悲鳴を上げても途切れることなく、次々と、打ち込まれた記憶の表面もなぞらぬ内に新たな記憶層が叩き込まれる。それはとうていただ一世代の記憶量ではなく、今代、と少女が言ったとおり各時代を生きた少女と古い自分の姿が脳裏でコマ送りのようにちらつく。

「……かっ!? ……ぅ、うぅ…?」
 いつの間にか意識を失っていたことにコウが気づいたのは、唐突に意識が戻ったからであった。慌てて周りを見渡す。最後の記憶にある景色から空模様に至るまで特に変わってはおらず、ほんの少し、数秒か数分か、その程度だったらしい。コウは一先ず安心する。
「…気が付かれたのですね」
 そして少女は待ちわびた、と言わんばかりに生気が失われる手前の顔に満面の笑みを浮かべて言う。
 コウは状況に気がつくと勢いよく身を起こし、少女に詰め寄る。
「こ、殺す気か…っ!?」
「いいえ。貴方ならば耐えられますから、あえてこの手を取りました」
「あえて…?」
「私が過去の記憶を持っているのと同じく、貴方もそれだけの容量はあります。…普通の人なら死ぬと思いますけど」
「おまっ…!」
 コウは怒鳴りつけようとしたが、少女が不意に俯いたために言葉を失った。
「何で…駄目なのでしょうか。私が、いけないのでしょうか」
 コウはその台詞に、何のことだろうかと怒涛の勢いで流入した記憶を呼び起こす。同時に一瞬痛みが走ったために、先ほどの酷い頭痛もぶり返したかと思い顔をしかめるが、すぐにそれは去った。
「転生…体…」
 コウは呆然と呟く。今、改めてろくになぞる事も叶わなかった記憶を洗いなおして繋げると、その答えに辿り着いた。
 少女は静かに頷く。
「いつかまた貴方が死んで、生まれ変わる頃、私もこの記憶を持って生まれます…」少女は苦しそうな呼吸を挟む。「そして私はまた貴方を探すでしょう…」
「でも、なんだって、そんな…」
「貴方が誰か別の方と人生を歩まれた時もありました。私は悲しかったけれど…貴方が幸せそうだったから…」
 私は、待ったのです。と少女は口にした。少女はそれから冗談ぽく、今なら犯罪ですよね、と言ったがコウは笑うどころじゃなかった。
「じゃあ、なんで…お前は俺が思い出すのを毎回待っているんだ!? 今みたいに光で記憶を呼び覚まさせれば…」
 少女は静かに首を振る。
「いいえ」少女は細く、しかし断固たる口調でその方法を否定した。
「何か…理由があるんだな? できない理由が」
 そこで少女は困ったように微笑い、
「そんなことしたら…ズルいし、」少女は一瞬言いよどんでから、「恥ずかしいじゃ…ないですか」
「そんな…そんなこと…」
 どうでもいいだろ、とは言えなかった。
「最期にお話できて幸せでした…。次は…きっと」
 そして次の言葉を紡ぐために少女は一旦口を閉じたかと思えば、それきり開くことはなかった。


346 ―46 告白

 大好きだった貴方の首を腐らないよう骨だけにして、それをアタッシュケースに詰め込んで、私は長い旅に出る。きっと、もうこの家には帰らない。口に出したことは少なかったけれど、大好きだったから。


345 ―45 きょとん

 僕はテレビを見ていた。
 ブラウン管の向こうで、地上を警察やマスコミに完全に囲まれていながら、なおも優雅な態度を崩さず、ビルの屋上で挑発的に微笑む。仮面をつけたその顔からは性別などわかりはしないが、露出した柔らかな口元、CMに出演できそうなほど綺麗な髪、それなりに自己主張をしている胸が代わりに教えてくれる。
 彼女はいわば怪盗である。世界最高水準から更に数歩足を進めたような技術と、とうの昔に見捨てられたような小細工を駆使して、目的を遂行し、追い詰める警察から逃れてきた。
 彼女は盗んだものを何故か返す割合が多く、盗んだ宝石を首相官邸前に放置したり、絵画を盗んだ場所にこっそり戻したりと、盗むことより相手の防犯技術を嘲笑うだけのような行動が多いため、世間では面白がられていて人気があり、現代のルパンなどと報道され、彼女は世界でも話題になりつつあった。
 ヘリを頭上が覆い、警察が徐々に地上からビル内部へと、その包囲網を縮めている。
 彼女は頃合だと思ったのか、身を翻して小走りで屋上のドアに駆け寄るのをマスコミのヘリが映している。
 彼女は警察のひしめくビルの内部へと消え、―それきり見つからなかった。

 翌朝学校へくると、その話題でもちきりだった。ちょうど昨日は面白い番組もなく、ドラマも明らかに大ゴケ確定した奴が放送されているだけだったので、下手な番組を見るよりはずっと面白い。新聞にもでかでかと載るので、詳しく語れると情報通気取りができて何となく気分がいい。
 僕は昼まで授業の合間合間に友達とだらだらその話題を喋りながらすごした。脱出の手口や進入経路が謎だらけなので、推理しているだけでも割と飽きない。
 昼になると僕は部室へと向かう。
「こんちわ」
 と扉に手をかけて引くと、案の定鍵に邪魔されることなくスムーズに開いた。
「お。いらっしゃい」
 そこに居るのは元部活の先輩だ。昼間は互いにこの二人だけの場所で過ごすことが日常になっている。他のメンバーは、というよりも部活自体が今年度の始めに廃部になり、そのまま使用されることのなかった部室をそのままこっそり借り続けている。
 僕は適当な場所に座ると、早速弁当を広げて先輩に怪盗話をし始める。先輩はこの怪盗について僕から話を聞くのを楽しみにしていた。僕もこの先輩が楽しそうに聞いてくれるからこそ情報を集めている、といってもいい。
「ところで先輩」
 ふと、昼を食べ終わり、一息入れている何気ないときを狙って僕は声をかける。
「ん、なぁに?」
 先輩は本から顔を上げて笑顔で反応する。
「前から思ってたんですけど、髪、綺麗ですよね」
 すると先輩は少し照れた顔で髪を少しいじり、ありがと、と答える。
「次は何処に行くんでしょう」
 僕の言葉に先輩は一瞬首を傾げ、
「ああ、怪盗の話…」一旦言葉を切って、宙を見つめる。「どこだろうね」
 僕はその時先輩の口元に浮かんだ挑発的な笑みを見て、昨日は格好良かったですよ。と思わず言いそうになった。
 こんなにも近くに居る。手を伸ばせば触ることだってできる。でも、これは情報通な僕だけの秘密なのだ。


344 ―44 不満

 都市の中心部にある何十もの電磁障壁と物理障壁に覆われた強大な柱。
 それは情報化された生命を管理する生命の要であった。
 機械はもちろん、人間もそうだ。人間にいたっては生後間もない頃に一度瀕死状態にして、管理柱に同期させる。
 結果犯罪を起こすものは居なくなったし、事故で"一刻を争う状態"というのも激減した。

「…どうだった?」
「うむ。階層は物理障壁五十二、電磁障壁三百七十三、全障壁が最高クラスで全部パターンも違えてある。当然と言えば当然だろうが、さすがと言う他はないな」
 蜂の巣を連想させる雑多な集団住居の一室で、丸テーブルを挟んで二人の男が対話していた。
 ベッドに座っている男は無精ヒゲが生えている、ということ以外はなんら特徴のない男で、テーブルとセットになっている簡素な椅子に座った男は細いメガネをかけ、髪を全て乱暴に後ろに撫で付けている。いかにも技術者然とした男である。
 そしてその技術者然とした男の手には、長方形の精密カメラが握られている。
「くそ。やはり厳しいな」
「…どうする。慎重に行かねばいかん。一度でも捕まれば監視付きになってうかつに会話もできなくなる」
 無精ヒゲの男は肩をすくめて答える。
「知ってるさ。四日前も同じ区画の奴が監視下で懲りずに散々な悪口を言ってな。処断されたよ」
「そうか。…よくやった、と褒めるべきなのかな」
「無論さ。この区画の奴ら、その日の夜は平日真っ最中だってのに揃って酒呑んでやがったぜ。次の日ふらふらになりながらもニヤついてやがった」
「なるほど。小さな英雄だったか。…ならこっちもその先人に恥じぬようやらねば、な」
 技術者然とした男がカメラを操作して、ホログラフ板で図面のようなものを出した。それは何層もの壁が複合的で一見わからないほど細密に絡み合い、その絶望的なまでに強力で信頼にたる壁を映している。この壁の奥に都市でもっとも大事な、人の命なんかよりずっとずっと大切なそれがそびえ立っている。
 生身で道具を使わずに空を飛ぶかのような難題を前にしているというのに、結果もほぼ判っているというのに、二人の男は嬉々として蝋の翼を作る。


343 ―43 睨む

 今日も白い背中を見送って眠りにつく。
 毎日毎日変わらぬ光景。目にする顔も一向に変化はなく、やることにすら変化はない。
 しかしその晩、私の居る部屋に忍び込んできたのはかつて一度も見たことのない男の人だった。
 男の人は何かを探しに来たのか、部屋中を見渡す。私からはよく見えているけど、明かりがないせいでいまいちよく見えていないみたいだった。男の人は入り口のあたりまで戻って明かりをつけようとする。
 もどかしい数秒の後、柔らかな明かりが室内を満たすと男の人はまず当然のように私に気がつき、目を見開いた。
 こんにちは。
 声は出ないけれど、口をゆっくり動かして意思を伝えようとする。もしもいつもの人が私のこんな行動を見たら腰を抜かすほどに驚くだろう。でも私は事実これだけ考えることができるし、既に自分と言うものを持っている。
「…生きているのか…?」
 男の人は私の前まで来て、言った。
 生きています。
 非常に儚い生命ではあるけれど、私は確かにここに生きている。ここに在る。
「俺はある研究資料を探している。何処にあるか知らないか?」男の人は言った。
「もちろん、タダとは言わない。そちらの望みもできる限りでなら叶えよう」
 望みは、あった。だけど私は首を振る。多分、男の人は私が出たい、とか言い出すと思っていたのだろう。そして、残念だけどそれは無理だ、と答える。そんなやり取りは容易に想像できた。…別にでたいというのが一番の望みではないのだけれど。
「…………」
 男の人は困ったように黙り込む。望みを強要してこない辺り、いい人なのかもしれない。私はそう判断した。
 でも、研究資料の場所はお教えしましょう。
 私は伝わるか判らなかったけれどそう伝える。…伝わったようだ。長い台詞になるとその分難しいのだけれど、と私は気合を入れて動ける限界の小さな身振り交じりに伝える。
 私から見て右の壁が一部扉になっていて、そこは金庫です。資料は、そこにあります。
 何度か繰り返した末、男の人は小走りに右の壁に駆け寄り、数分後に壁の扉を見つけ出す。扉と言っても両腕が通るくらいの小さなもので、それは単に金庫を隠すためだけに作られたものだ。
 さすがの私といえども、開け方までは知らない。でも男の人はその辺り問題にしていないようで、鼻歌まじりに金庫の前で暫く手を動かしていたかと思うと、嘘みたいに短時間で開いた。
 男の人は目的のものを抱えると、扉を元通りにしてから部屋を出ようとして、ふと思い直して私の方に歩いてくる。
「…ありがとう。助かったよ」
 お役に立てて、光栄です。
 私は答える。
「本当に、何も望みは無いのか? 一応言うだけでも…」
 私はしばし考え、口を開く。
 ならば、いつか私に雰囲気が似た子がいたら、優しくしてあげてください。
 男の人は奇妙な顔をしたが、神妙に「判った」と頷く。そしてそのまま部屋を出て行った。
 私自身の命は、そう長くない。
 でも私の姉妹がいつか地面に足を置いて、自由に歩きまわれるようになったとき、一人は白衣の、いつもの人をきっと殺すだろう。次の一人は逃げ出すだろう。次の一人は人間社会に馴染もうとするだろう。その時に、助けになってくれる人が居ればいいな、と思う。いつも絵空事のように思うだけだったけれど、今日一歩だけ近づいた。
 私は、自分で言うのも変な話だけれど、割と穏やかな性格をしていると思う。それでも、白衣の人のことを考えるときだけはどうしようもなく心をかき乱されるのだ。
 元は父親だったと聞いている。六代目のクローンである私も、外に出れば自力で息を吸うことすらできないだろう。私の中で一番強く残っているのは、一代目のクローンが生み出されたときの、不完全からなる苦しみ。それは悪魔の所業にしか思えず、私は傍目にも居た堪れないほど苦しみもがいた。でも、こうしてクローン研究は六代目にいたるまで続けられ、七代目の研究も決定している。
 だから私は待っている。娘想いの父親が、娘を想い過ぎるが故に受ける報復を、私の手で与えられる日が来ることを。


342 ―42 自信

「私には…ヒーローなんて…無理だったのよ」
 ヒーローの証を投げ捨て、真奈は頭を抱えてうずくまる。
 俺には信じられなかった。コイツの口からこんな言葉が出るだなんて。ガキの頃から女の中でただ一人ヒーローに心酔し、崇拝していたコイツが。わき目も振らずに一本道を歩いてきて、その果てに至ったヒーローなのではなかったのか?
 コイツがヒーローになってうまくやっていけるかというのは、真顔で「私、ヒーローになるから」と言ってきた時に既に疑ったことだ。今までにいくつかの障害とも呼べる出来事もあったが、全て苦悩しながらも、その心を拠り所に乗り越えてきた。だから大丈夫だと思ったのだ。
「お前の仕事は人助けじゃないのか?」
 ヒーローを生業として今更、何を言い出すのだろうか。初めて聞いた真奈の「ヒーロー」に対する弱音に俺は戸惑いを隠せない。
「気づいてきてはいたの」と真奈は言った。「憧れたヒーローはテレビの中だから存在して、職業としてのヒーローは…」
 それきり黙り込む。
 言いたいことはそれで判った。テレビの中のヒーローは勧善懲悪の英雄であるのに、職業としてのヒーローは時として道義に背く事もせねばならない。汚れを除す存在として見つめてきたのならば、辛いだろう。だが、そんなものはとっくに乗り越えたと思っていた。
「私は誰かを助ける…。なら、私のことは誰が助けてくれるの?」
 弱音に怒りがこみ上げてくる。
「己を顧みず、正当なる御旗となるべき存在に何故助けが必要なんだ?」
 真奈の呈した疑問は、職業としてのヒーローを選択した時点で知っていなければならないはずだった。ヒーローは基本的に殆ど外部からの干渉を受けない代わりに、助力も得られない。市民の善意以外はないのだ。ヒーローは存在自体が道徳であり、国の正義である。だから下手に外部からの助力を得ればその基盤は砂塵のごとく崩れ去り、たちまち傀儡となるだろう。
 真奈はその壮絶な孤立性に気づいていなかったのか。確かに、"ヒーロー"という像に対する盲目的な面はあった。しかしここまで酷かったのか。
「…………」
 真奈はしゃがみこんだまま鼻をすすっている。泣いているのだろう。
「そんなに、誰かの助けが欲しいのか? 何から? 何故?」
「もう…わかんないのよっ! 助けなんてもういらない! アンタもどっか行ってよっ!」
 滅茶苦茶だった。…いつからか現実と、己の理想が乖離し始め、今現実に耐え切れなくなって己の理想に押しつぶされかけているのだろう。
 だが、何がトドメとなったかは知らないが、もうコイツがヒーローを捨てるにしても、俺には最後に怒る権利くらいはあると思う。小さい頃からコイツを見つめ、相談を受け、色々助けになってやった。そして何より俺にとってのヒーローはコイツであり、コイツもそれを知っていた。そしてそれを知りながら、今俺の目の前でそのマスクを取ったのだ。
「そうか」
 俺はそう答えながら、真奈が投げ捨てたヒーローの証を気づかれぬよう拾い上げる。
 コイツの一時的な弱音だったにしろ、真奈はヒーローを捨てたことに変わりはない。ならば俺はその後始末をしてやる。コイツが愛し、守り続けた世界を掃討する。
 俺は正直、何に対してこんなに腹が立っているのか自分でもいまいち良く判っていない。無論真奈に対して、というのはそうなのだが、多分、真奈を追い詰めたこの街にも腹が立っているのだろう。何故一人の少女が憧れてきた夢をぶち壊したんだ?
 誰が壊した、とかそんな下らないことは問わない。
 ただ俺は、真奈をこの街が追い詰めたように、この街を壊して、壊して、壊して、真奈とこの街に対するウサ晴らしをしたいだけなのかもしれない。それが正義でないことくらいは俺にだってわかっている。だが、そんな意図を知ってか知らずか、ヒーローの証は変わらずに輝き続けている。


341 ―41 不安

 寂しくなんかない。
 別にあたしは一人じゃない。学校には友達だって居るし、トラブルだって抱えていない。
 むしろ、あたしが構ってあげてたんだから、寂しがるのは向こうだろう。
 犬好きで、少しだけあたしに優しかった、二十後半の割と無愛想なおっさん。
 あたしが帰り道に通る公園にいつも居た。大抵はベンチで本を読んでいるか、読みつかれて眠っていた。最近は物騒だからあたしや、あたしの友達も最初は当然のように薄気味悪がって避けた。  その内に誰かが先生に言ったらしい。警戒した先生が様子を見に来て、なんとそのままおっさんと意気投合していた。
 理由も何も、大学の同窓だったらしい。ちょうど居合わせたあたしたちに今はグラフィックデザイナーというものをやっていると楽しそうに教えてくれた。
 危険がないと判ってからは、たまに暇なとき話したりするようになった。大体、毎日狙ったかのように居るのである。その姿はもはや風景の一部と化し、警戒心も薄れてきていた。もしそれが狙いだったなら恐ろしいことだったろうが、幸いにもそういうタイプではなかったようだ。
 どうもおっさんは在宅の仕事だから、日中は公園で過ごすのを日課にしているらしかった。あたしは光合成かよ、と突っ込んだけれど、おっさんはおしいなあと笑って返した。
 時々、そのおっさんとは比べ物にならないくらい怪しいおっさんが帰り道に居た。これは後でわかったことだが、近くの知的障害の人たちの施設で生活している人らしかった。急に握手を求めてきたり、奇声をあげながら自転車で走ったり、奇妙な行動が目立った。何も知らなかったあたしはさすがに得体の知れない恐怖を覚え、そういう時は公園まで引き返しておっさんに家まで送ってもらったりしたこともある。

 あたしが卒業しても、進学しても、おっさんは当然のようにそこにいるのだと思っていた。
 でもおっさんはある日急に別れを告げた。そして今まで話に付き合ってくれてありがとう、とも。理由は、おっさんの名前が売れて、もっと人の居る都会に引っ越すことになったかららしい。
 あたしはしおらしく行くなよ! とでも言えばよかったのだろうか。しかし、それは性にあっていなかった。あたしは悲しかったが必死なくらいにそれを隠し、おめでとう、だの見たことねぇけど、やるじゃん! などと精一杯の激励をしてやった。おっさんは申し訳なくも嬉しそうだったから、これでよかったのだと思う。
 おっさんは最後に、向こうに知り合いはあまり居ないから少し寂しいな、と言った。
 まぁ、あたしみたいにおっさんみたいな怪しい人でも分け隔てなく接するいい子を探すんだね、と返してやった。
 それから、二人で少し笑う。
 ここを出て行ってしまうのはおっさんであって、寂しがって名残惜しそうにしているのもおっさんだった。だから、そう。あたしの周りは何も変わるわけでもなく、寂しくなんかないのだ。
 あたしは帰り道、何か表現しきれない感情がこみ上げてきて、少しだけ泣いた。